2007/4/30

スクロヴァチェフスキ 読売日響 芸劇名曲シリーズ 4/29  演奏会

午前中はお台場の特設会場で展示中の、ノマディック美術館 ”Ashes and snow”をみてきましたが、素晴らしい出しものですね。映像(映画)、写真、文学、建築、音楽、そして自然が、高度に綜合された空間で、時間を忘れます。12時前に入り3時ぐらいまでいて、なおも名残惜しい感じでした。その話は、また機会があれば・・・。

さて、ソワレは先週に引き続き、スクロヴァチェフスキの読売日響です。私はノマディック美術館の展示で、かなり精神力を使っていたこともあり、今回の内容では、ちょっと辛かったことも確かですね。前半のメシアンがおわって、これでスクロヴァ・ミサもおわったことだし、そろそろ失礼しても・・・という感じの気分でした。

それぐらい、濃密な演奏だったということが言いたいのです。まずは、オネゲルの交響曲第2番。スクロヴァチェフスキは、作曲家としてはオネゲルの直弟子であるそうなので、これはバルシャイのショスタコと同じくらい価値のある演奏かも。終楽章のしまいに少しだけ登場する独奏トランペットを除けば、弦楽合奏のみで演奏されるこの曲は、最近の読売日響の弦セクの充実をみるには、まったくもって見事な選曲でした。

スクロヴァチェフスキのオネゲルは、晦渋で重みのあるアンサンブルを基調としながらも、それだけではない豊富なメッセージを含んでいます。楽曲を象徴する冒頭のヴィオラ・ソロ(生沼さんか?)も印象的なのですが、要所要所に織り込まれた室内楽的なアンサンブルがしっかり効いていて、この曲の隠れた生命線が響きの美しさにあることを、スクロヴァチェフスキの演奏は語っています。

また終楽章では、彼の親友とされるミヨーを思わせるユーモアさえ感じさせる演奏で、最後のトランペットを抜きにしても、独特の息吹きが感じられるアンサンブルは、スクロヴァチェフスキならではと思いました。トランペットは、弦の響きが明るいベースを作るのを補強しているだけで、それがすべてをひっくり返すわけではないのですね。

メシアンの「われら死者の復活を待ち望む」も、独特の演奏ではないでしょうか。アンドレ・マルローの依頼により、第2次大戦の死者を弔うために書かれたといいますが、メシアンは、その悲劇を再度ほじくり返すのではなく、むしろ、天上で神に守られて暮らす死者たちの安らかなときを、想像して書いたのかもしれません(聖書の内容はよく知りません)。

敬虔な信仰心に満ちた前半も良いのですが、第3曲以降が特に傑作で、トンテンカンと鍛冶屋の鎚をうつ音を思わせる第3曲(ホルストの組曲を思わせる)や、立ち騒ぐアンサンブルを銅鑼の音が激しく打ち消す動きが、一度ならともかく、繰り返されると、どこか滑稽になる第4曲。そして、終曲も打楽器が騒々しく使われて、宗教的な雰囲気の中にも、どこか浮き立つような感じがあります。

とはいえ、最後はやはり、祈りの静寂さが訪れて、聴く者を神妙な気分に誘い込むのですが、それもこれも、中間の温かいユーモアあればこそではないでしょうか。ここまでの2曲は、ともに重い内容をもつ曲ながら、独特のユーモア・センスを駆使して、楽曲の本質を照らし出したスクロヴァチェフスキでした。なお、メシアンは管セクとパーカスによるアンサンブルですが、弦に比べるとパフォーマンスが安定しない読売日響の管セクながら、この曲に関しては大健闘していました。

後半のブラームス(交響曲第2番)にも、唸らされます。ブラームスのシンフォニーは室内楽なんだと言わんばかりの、丁寧なアンサンブルの構築が全体を貫いていましたが、特に印象的なのは、両端楽章でしょう。

第1楽章は、とにかく長閑です。スクロヴァチェフスキというと、古典派でも相当に元気のいい、フレッシュな演奏をするイメージがあるのですが、この曲では、テンポやダイナミズムの動きを抑制し、粘りづよく楽曲を織り上げていくのです。そして、これは先週の演奏でも感じたことですが、彼は最強奏をほとんど使いません。例えばハイティンクならば、ここで一気にガツンとやるんだろうというところでも、スクロヴァは流すことが多いのです。

その代わり、すごく素直な演奏ですね。響きの出し入れが率直でわかりやすく、下手な溜めや過剰な表情づけがないために、かえって、楽器の響きそのものと、それらの結びつきを丁寧に提示していって、リラックスした響きを練り上げて、楽しませてくれるのです。正直、この要求に応えるのは、簡単ではないと思います。良い演奏なのですが、第1楽章などは、もうすこし表現に余裕があってもいいのではないかと思います。

第2楽章もそれとセットになって、丁寧に磨きこまれた演奏です。第3楽章は短いですが、この日の白眉といえるのではないでしょうか。冒頭のチェロのピッチカートがなんともいえず魅力的で、それに乗ったオーボエ・ソロも柔らかい。その後のアンサンブルにも隙がなく、弦管のバランスも絶妙です。ここはスクロヴァチェフスキらしい新鮮みのある演奏で、イン・テンポで、おわりまで弛緩のないアンサンブルを聴かせます。

速すぎず遅すぎない終楽章は、粗くならないように細心の注意が払われています。先週のコンサートでも感じた弱奏の表出力の堅固さが、要所でうまく用いられています。部分部分の燃焼度よりも、全体の流れにおけるエネルギーのコントロールが見事でしたね。ヴァイオリンとヴィオラによる第2主題のあと、アンサンブルの燃焼度を抑えて8割ぐらいに止めておき、コーダに余力を残しておくのがポイントでしょう。

そのコーダに入る直前で、やや我慢しきれない部分もみられたものの、指揮者の統制が崩れるほどではなく、むしろ、その熱さがコーダを盛り上げることになります。正しく、この日の工夫された構成は、この部分のためにあったと思わせるほど、弦管の均整のとれたアンサンブルで、ただでさえ魅力的なコーダがさらに輝きます。テンポは中庸ですが、響きの尖鋭さはこの上もなく、思わず胸が熱くなります。終止の部分は、最後まで伸びていく音に突き刺され、最後の音が切れても、私はなかなか拍手できませんでしたね。

というわけで、これは、なかなかの演奏でした。全体的に盛り上がったコンサートで、ブラームスのあとは、オケの退場まで拍手が鳴り止む気配がないほどだったのは、珍しくないかもしれませんが、前半も3回ずつ指揮者が呼び出され、声も多かったです。私はといえば、このコンビには、もっともっと豊かな可能性を感じるコンサートでもありましたが、この日の演奏自体、もちろん満足度の高いものです。

今度の来日は、9月になります。先週から曲を重ねる度に、ショスタコーヴィチはさぞかし良いだろうと思っていたところなので、得意のドイツものは別としても、タコ10がなんといっても楽しみです。


【プログラム】 2007年4月29日

1、オネゲル 交響曲第2番
2、メシアン われら死者の復活を待ち望む
3、ブラームス 交響曲第2番

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

 於:東京芸術劇場
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2007/4/28

木嶋真優のこと 巨匠、ロストロポーヴィチの逝去に寄せて  クラシック・トピックス

クラシック音楽にとって、その秘儀をいかにして、正しく伝承していくかは、永遠の課題である。多くの作曲家から作品を献呈され、名チェリストとして、その伝播にも功績のあった歴史の証人が、また一人、世を去った。ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ。わが国でも特に尊敬される音楽家のひとりで、圧倒的な実力をもったチェリストとして、また近年は、指揮者としても人気があった。

この巨匠が、晩年にひとりの日本人ヴァイオリニストを可愛がっていたことは、どれぐらい知られているのだろうか。木嶋真優。江藤俊哉、ドロシー・ディレイ、川崎雅夫などに師事し、現在はケルン音大に在籍して、ザハール・ブロンについている。未だ有名なコンクールでの実績はないものの、それに先立ってロストローヴィチが異常なほどの執心をみせ、世界中を連れまわした。もちろん日本でも、「フレンド・オブ・セイジ」のポストをもつ新日本フィルで、共演した。そのコンサートは聴けなかったが、演奏は素晴らしかったと評判である。

彼からみれば、孫のような年齢の木嶋のことを、何故、この巨匠が愛したのかは、私のような者の知るところではないが、彼女はともかく、ロストロポーヴィチ翁をして、「世界で最も優れた若手ヴァイオリニスト」とまで言わしめたという。

私は、新日本フィルにロストロポーヴィチと来演する1年ほど前、フィリアホールで、木嶋の演奏に接している。シューベルトのロンドに、フランクのソナタ。プロコフィエフのソナタに、チャイコフスキーのワルツ・スケルッツォという内容だった。私の印象としては、老翁のいうほどではないが、確かに、長くつきあってみたいヴァイオリニストだという感じは残ったものだ。10代ながら、どっしり落ち着いた演奏は風格があった。まだまだ粗削りな部分も残っていたが、後半のロシアものなどは、途中で弦が切れるアクシデントも乗り越え、楽曲のもつポテンシャルを十全に発揮した、立派な演奏だった。

だが、木嶋真優という名前を、私につよく印象づけたのは、そのフォーム(構え)の美しさゆえであったかもしれない。私は楽器をやらないので、基本がどのように教えられているかわからないが、多くのヴァイオリニストは、真っすぐ自然に立って、左右にやや足を開き、なるべく力を抜きながら楽器を持ち上げて構え、弓を引く。

ところが、木嶋はそうではなく、前後に開いたスタンスをつくり、やや腰を落として楽器を構える。重心は、概ね全体の中心に置かれる。顔を少しだけ突き出し、客席側に挑みかかるような感じである。そのときの姿が、まるで名匠に削り込まれた彫像のように美しかった。彼女のHPに幼少の時の演奏風景があるが、これがそのときの姿を思い起こさせるが、基本的には変わっておらず、より磨きがかっかった程度だろう。

2年前の出来事だから記憶に自信はないが、私の記憶のなかの彼女は、そうして楽器を構えた。ディテールはちがっているかもしれないが、少なくとも直立で左右に少し足を開くだけのフォームでなかったことは、確かだった。

はじめは「なんだ?」と思ったが、なるほど、このフォームならば、何時間でも無理なく立っていられる。直立のフォームは、一見して、無駄なく合理的だが、実際、からだと弓のアクションを支えるには、必ずしも理想的とはいえないのかもしれない。

あるいは、ロストロポーヴィチも、その点を高く評価していたのではないだろうか。彼女の構えは、期せずして、我々が忘れかけていた何かを思い出させる。彼女自身が意識しているかどうかは別にして、木嶋のフォームの美しさは、色々な哲学を喚起してくれる。例えば、身の丈にあった表現をすることの大切さや、演奏する楽曲を自分のものにしようとするときの、精確なスタンスの重要さについて。

からだは華奢だが、木嶋の演奏は驚くほど力強い。ディレイ−ブロンの門下なら、それは珍しくもないが、彼女ほど、体重の乗った演奏をする人はとなると、ほかにグルーズマンのことが思い起こされるぐらいだ。それは多分、このフォームのおかげも、かなり手伝っていることと思う。しかも、木嶋はグルーズマンよりも、はるかに繊細な表現のセンスの持ち主だ。

ロストロポーヴィチより技術的に優れた人は、今日、さほど珍しいともいえないかもしれない。例えば、ブルネロのような派手さは、ロストロポーヴィチにはなかったと思う。だが、この上もなく端正なフォルムということにかけては、余人の追随を許さないものがあった。私はその点で、アシュケナージを思い出す。彼もまた木嶋を気に入ったのか、N響の音楽監督に就任した当初のラヴェルの録音で、名曲の「ツィガーヌ」の独奏に、彼女を起用していた。

アシュケナージといえば、誰もが認める精確なピアニズムで知られる。その彼に認められるということは、構えの美しさが、楽曲のフォルムの美しさにも一脈通じている・・・ということを示すのであろうか。

ロストロポーヴィチの遺言として、木嶋の演奏を思い出すと、どこか、こころ動かされるものがある。その想いに応えられる奏者として、大きく育ってほしい。そして、新しい歴史の証言者となることを期待したい。

将星大地に落つ。ロストローポヴィチの死を悼み、その冥福を祈りたい。
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