2007/3/18

蜷川実花 映画「さくらん」(土屋アンナ 主演)  シネマ

今回は、映画のレビューです。蜷川実花の監督した「さくらん」です。素敵な作品です。先週、NHKの「お宝ショウ」という番組に、映画の音楽監督を務めた椎名林檎が出ていて、その凄まじい音楽にショックを受けて、吉原ものはあまり面白かったためしがないとは知りながら、あの音楽がどんな風に織り込まれているかということだけを楽しみに、映画館へ出かけてきたのでした。

ここでは映画の記事は少ないので、ここ10年くらいで印象に残った映画を挙げてみます。

 ・B.ベルトルッチ 「シャンドライの恋」(1998年)
 ・T.アンゲロプロス 「永遠と一日」(1998年)
 ・L.カラックス 「ポーラX」(1999年)
 ・R.シューベル 「暗い日曜日」(1999年)
 ・W.ヴェンダース/ボノ(U2)監修
   「ミリオンダラー・ホテル」(2000年)
 ・L.v.トリアー 「ドッグヴィル」(2003年)
 ・T.アンゲロプロス 「エレニの旅」(2004年)

ご存じの映画があるでしょうか? どこか陰のある作品が好きみたいです。谷崎潤一郎の著作に、「陰影礼賛」というのがありますが・・・。この作品には、あまり陰はありませんね。遊郭という陰影たっぷりの世界を舞台としているわりには、わりにからっとしています。性的な描写もありますが、映倫のR-12指定で大したことはありません。

この映画は、通常の時代ものがめざすリアリズムとは無縁です。吉原という歴史的なロケーションを借りてはいますが、本当にあった吉原の実像とは遠く、着物の着付け、メイク、言葉遣い、時代設定まで、すべて紛いもので出来ています。椎名さんの歌でいえば、「迷彩(カムフラージュ)」ですね。土屋アンナ演ずる主人公も、いわゆる遊女ことばを取り入れてはいますが、基本的には、現代のことばで喋っています。所作も、考え方も、現代の女性です。少女時代の主人公が、吉原に売られに来る場面がありますが、身売りのエージェントみたいな人に向かって、悪態をついている少女が、既にして現代的です。私はその場面をみて、なんだ、現代の話なのかと笑い声をこぼしたのですが、正しく、そのとおりだったのです。

ビードロの中でしか金魚は生きられない、これがキーワードでした。金魚にとってのビードロと、主人公のきよ葉にとっての吉原は、同じことです。先輩の女郎がきよ葉に、金魚はビードロの中でしか生きられない、金魚が川に出ると、代を重ねてフナになってしまうと教えるのです(金魚はもともとフナを人為的に品種改良したもので、野生に戻れば生きていけないと思いますが、運がよければ、他のフナと交わって金魚ではない子孫を生むでしょう)。彼女は自由を失い、定められた道を歩むことになりますが、そのなかにおいて、自らのことを磨くことを憶えるのです。

彼女は郭の生活を嫌っていますが、そのなかで、すべてのことを憶えていくのです。まずは恋愛、憎しみ、怒り、生きること、そして、死。とりわけ、生と死が、この映画の訴えたかった、もっとも大きなテーマであったことは明らかです。死の場面は、なんとも鮮烈な2つのシーンが用意されています。ひとつは、絵師との感情のもつれから、自滅してしまった女郎の壮絶な死であり、この映画を特徴づける「赤」のひとつの要素が、血潮であったことがわかります。もうひとつは、市川左團次の演ずる通人を迎える静かな死であって、主人公の膝の上で眠るように亡くなっていく老爺のシーンは、とても感動的です。

一方、生のほうはまず、主人公の妊娠という形で訪れます。そのとき、彼女はとある大名に身請けされることが決まっていたのですが、生むことを決意して、その大名に打ち明けます。しかし彼は、子どもごと引き受けることを約束して、主人公を驚かせます。

この大名は椎名桔平が演じているのですが、男の執念みたいなものを感じさせて、女性からみれば、甚だ煩いヤツということになるかもしれませんが、同性には共感を呼びます。さて、その子は結局、流産してしまうのですが、彼女はお腹の子を死なせてしまったことにショックを受けてしまい、そのこころを受け止めたのが、清次という店の見世番の男でした。それまでの彼女は、生きることにさほど執着していませんでしたが、お腹の子の堕胎と、清次への想いに気づくことによって、はじめて生きる意味を知るのです。

その象徴として、咲かないはずの吉原に唯一という桜の老木が使われました。ここは少女時代、逃げるのに失敗したきよ葉が、清次から、どうせ逃げてもここと同じこと。この桜が花をつけたら、俺が逃がしてやると言って、諭された場所でした。清次も女郎の子で、幼いときから店で育てられましたが、店の主人に後継者として指名を受けると、明らかに困惑した表情をしました。清次は、この仕事を奥の奥まで知っていながら、こころの底で、割り切れないものを感じていたのでしょう。

さて、身請けされる日の朝、清次ときよ葉(このときは花魁で、日暮)は、この老木の枝の付け根に、ほんの小さな花を一輪つけているのを発見します。諦めるな、花の咲かない桜はないと教えたのは、例の通人の老爺でした。最後、清次ときよ葉が手を取りあってやってきた桜並木は、一体、どこで撮影したのでしょうか。この世のものとも思えない、美しい土手の風景でした。しかし、印象としては、あの一輪にはかないません。宮崎駿の「トトロ」のエンディングで、ひょこんと頭を出した若芽のことを思い出しました。ここも感動的な場面です。

写真家として有名な蜷川は、初めての監督作品としては、よく出来ていると思います。最初、画面がやや暗すぎる印象を受けたのですが、筋を追うにしたがって、段々と垢抜けていきます。同じように、序盤はすこし表現が硬い感じがしたのですが、きりきりと角度を変えながら、尻上がりに盛り上がっていくので、全体としては、かなりの満足感を得ることができます。画面のデザインは、従来の映画の常識からすると、かなりポップで、身近な感じがしました。

赤という色の重ね合わせや、例の金魚の譬えなど、意味の重ねあわせも面白かったですね。まずタイトルからして、錯乱、古文助動詞を付けた「さく(らん)」、さくら、(おい)らん、くら(い)などの掛詞で、複層的になっています。

椎名の音楽は、やや強引に思われた部分もあったにせよ、やはり強烈で印象に残ります。これは、CDを買わなくてはなりませんね。なにより、この映画の色彩や、文体とでもいうべきものが、彼女の音楽そのものとでもいうような感じで、よくあっていました。いや、あっているというよりは、2つでひとつのものという感じがします。この歌手は毀誉褒貶が多いものの、自分としては、美空ひばり以来の巨大な才能であると評価する大歌手です。どんな歌の世界にも瞬時に染まることができるのですが、一方、歌がおわってみると、いつの間にか、彼女独特の世界になっているのです。

蜷川も、椎名も頑固なんでしょう。彼女たちがやりたいことをやっているから、多少、いびつなところはあっても、観るほうとしては飽きが来ないのだと思います。エンディング・テーマのお兄さんとのデュオが本当に楽しそうで、愉悦的でした。これが、この映画の本質なんだと思いました。なお彼女は、このお兄さんの影響をつよく受けていると言っていました。ロールが切れるまで見ておきたい映画です。
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2007/3/18

新国ピットをめぐって 通称「新国立劇場管弦楽団」は、是か非か?  クラシック・トピックス

来シーズンから、新国立劇場オペラ部門の若杉体制がはじまる。劇場の打ち出しつつある施策の中で、ネーミングに関するものがある。ひとつは劇場そのものの愛称で、これは既にネーミングの応募が締め切られて、選考に入っている。3月中に発表されよう。もうひとつが、ピットに入る管弦楽団の名称に関するものだ。まだ正式には何も決まっていないだろうし、発表もされていないが、若杉新監督は繰り返し、東京フィルや東響という楽団の名前を使用せず、少なくとも新国のピットに入るときは、「新国立劇場管弦楽団」などの名前を名乗ることを求めている。

私は、この提案に対して、初めは反対だった。まず、そのような名称を用いることで、事情が知れている国内的には何のアピールにもならないし、海外に対しては、西洋の劇場に当たり前のようにある、座付きの管弦楽団であるような印象を与える可能性があり、それがひとつの狙いかもしれないが、実態にあっていないため、かえって批判を受ける可能性がある。また、我々としても、ピットにどこの楽団が入っているか、よくよく調べねばならない状況は不便である。東京フィルなら行くとか、東響なら行かないというようなことはあり得ないが、演奏に対するオーケストラの責任が曖昧になるような気もするし、やはり、それぞれの楽団が名前を出したほうがすっきりしている。

はじめはこのように考えたが、「新国立劇場管弦楽団」にすると、いくつかのメリットが考えられる。まず、直接的には、一時的にとはいえ、このような看板を共有することで、オーケストラと劇場の絆が深まるのではないかということである。現状において、新国のピットにまったく満足だという人は、少数ではないかと思う。ときに、明らかに準備不足とみられるシリーズもあり、先日の「オランダ人」の東響などが好例である。看板を書き換えても、そうした現状が変わるわけではなかろうが、しかし、楽団の活動がメインで、ピットはサブだという意識は、若干、抑えられるようにも思う。東京フィルなり東響の楽団員だというアイデンティティに加え、劇場管としてのアイデンティティが芽生えてくれば、意識的に変わってくるかもしれない。

残念ながら、新国立劇場が本当の意味で、その名前にふさわしい座付きオーケストラを設置できる可能性は少ない。そこに繋がる第一歩とするには、あまりに些細な火種にすぎないが、少なくとも、楽団の請負仕事というレヴェルから、劇場のファミリーとしての意識へと変化していく契機になれば、それはそれで悪くない。

もうひとつは、よりフレキシブルなピット体制が構築できる可能性があるということである。東京フィルなり東響がピットに入るということであれば、基本的には、その楽団のもっている資源の枠組みの中で、ピットを仕上げていくことになる。だが、それぞれの楽団には得手不得手があり、現状では、そうした要素は関係なく、時期によって、2つのオーケストラが使い分けられているにすぎない。

理想としては、ひとつの楽団が骨組みとなりながらも、その楽団が不安をもつポイントに、他の楽団やフリー奏者からの補強をおこなうことにより、より質の高いパフォーマンスが得られるならば、そのほうが観客にはありがたい。例えば、「オランダ人」の公演で、東響が金管の練度を上げる余裕がないというのであれば、質のいいフリーの奏者を補強して準備を整えてもらい、東響側のアンサンブルと合わせていけばいいのだ。現状では、楽団のトラ扱いになってしまうが、劇場管の看板のなかでは、各楽団の名誉を傷つけることなく、いずれにとっても幸せな、こうしたやりくりが可能になるのかもしれない。

オペラというのは結局、こうしたパッチワークの芸術である。とりわけ新国は、ほんの一握りのスタッフを除けば、歌手もオーケストラも、スタッフも持たない空っぽの劇場なのだが、それは一方で、余計な垣根がないということでもある。管弦楽に関しては、もっとも理想的な専用のオーケストラが用意できない以上は、むしろ、こうしたフレキシブルな組織をつくるほうが劇場にとって有益であるばかりでなく、ピットに入る楽団の負担も軽減することにも繋がるだろう。

要は、何のためにそうするかだ。せめて名前ぐらいは・・・みたいな了簡でやるなら、断固反対である。
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