2007/3/13

新国研修所 アルバート・ヘリング A  演奏会

さて、この作品は、本当に洒落が効いている。作曲当時の英国の事情に詳しくないが、作品は大きく3つのもの、すなわち、社会、人間、音楽の風刺で構成されている。社会と人間は、ほぼワンセットであるが、その中には世代的なもの、階級的なもの、ジェンダーなどに基づく批判性が含まれていて、その深い時代省察には感嘆を禁じ得ないところである。

アルバートは、世代的には若手に入るのだが、母親に支配されていて幼児性が抜けていない。今回の演出では、あの教育番組のようなセットで、そのことが象徴されている。そもそも音楽がキッチュにできていて、アルバートの未成熟を、既にして十分に語っているのである。まずもって、第一のテーマは、アルバートが、この幼児性からいかに自らの道を見つけて、独り立ちしていくかにあるのだ。

誰でも知っているように、英国では、いまもって階級社会の名残りがある。その象徴は無給の名誉職とはいえ、議会上院(貴族院)の存在であろう、彼らは米国の上院とは異なり、選挙で選出されていない。このほど、ようやく直接選挙の導入が検討されているようだが、もう決定されたのだろうか? クイーンがいるのは珍しくないとしても、レディだのナイトだのというのが、いまもって英国人の名誉を成す。この劇に登場するレディ・ビロウズは、かつての貴族か大地主の家系であり、地域コミュニティでは彼女に逆らえるものはない。

教師も、牧師も、警察署長も、彼女には一目置いている。さて、アルバートは、つましい八百屋の息子である。彼の母親と、レディ・ビロウズの関係をみれば、その階級差は歴然としている。こうなれば、マルクスの出番になりそうだが、アルバートの革命には、サヨクの難しい理論は必要ないのだ。彼は母親のくびきから逃れて、やりたいことをするだけでよい。たったそれだけで、この田舎町の暮らしには、衝撃の一打たり得るのだ。

ところで、レディ・ビロウズが守りたかったものは、女の純潔や貞操であった。だが、そんなものはあり得るはずもなく、逆にいえば、そういったくびきを適当に破ってきたからこそ、彼女たちの町も存在するのであろう。そのようなことは、夫人は百も承知であり、だからこそ、「クイーン・オブ・メイ」(ジャガイモの品種に寄せてメイ・クイーンなどと訳していた)などを選ぶ必要があったのだ。すると、夫人が守りたかったものは、本当は女の純潔などではなくて、夫人がコントロール可能な地方社会の秩序であったことは言うまでもないだろう。市長、牧師、警察署長、教師が、彼女にイヤイヤながらも協力していたのは、そのためである。

そのことは、最初の幕において、時間に対する扱いにより象徴されている。選定会議の時間に間にあったとか、1分遅れているとかいう会話があったし、音楽を遮るように表れる時計の音があった。演出は、そのベルの音にあわせて、長身の森が時計をいじくって、出てくる音とつじつまを合わせていたのが印象に残る。時間こそは、もっともわかりやすく、ぶれることのない秩序である。だが、アルバートが朝帰りするという「暴挙」に出るので、彼らは時間さえも絶対ではないと思い知らされるのだ。アルバートにとっては、それが酒によってもたらされた現象だという点が面白い。普段は床についているであろう時間に、アルバートは「寝つけるわけがない」と言っているが、これは、祭りで飲んだ酒の覚醒作用によるものであろう。

既にしてレディ・ビロウズの守りたい秩序に飽き飽きしている若者たちは、当然、夫人の眼鏡にかなうわけがない。キング・オブ・メイを選ぶという警察署長の提案は、こうした秩序からして、やや外れてはいるが、目的においては、彼らの価値観にあっているのだ。かくして、彼らの選び抜いた都合のいい存在が、ついには彼らの秩序を裏切るという、最大のイロニーが用意された。アルバートの革命が、酒の力を借りておこなわれたのは、話の筋としては納得できるが、一方で、やや物足りないものも感じさせる。彼は、意識的にではなく、そうと知らないうちに、革命を成し遂げてしまう。それはそれで皮肉なことだが、次の日、アルバートは本当に変わっているのかどうか、我々にはわからない。最後に、若者たちに桃を配るアルバートは、果たしてしらふなのであろうか、未だにアルコールの影響下にあるのであろうか。

前のエントリーで書いたが、アルバートの変化は、あのハリボテの八百屋を、自分で運んでくる動きに象徴されているのだ。そのとき、アルバートはまだ酔っているようにみえた。でも、桃をもってくるときには、酔っているようにはみえなかった。だが、あれだけ太っ腹なのは、酔っていたせいかもしれない。酔っていたとすれば、次の日のアルバートは、どういうアルバートなのであろうか。レディ・ビロウズをぎゃふんと言わせることができるのであろうか。あるいは、これもまたイロニーで、革命などとは一夜の酔いのようなものだという冷笑にすぎないのであろうか。

自分は、アルバートの革命もまた、ブリテンによって十分な共感を得ていないようにも感じるのだ。まずもって、レディ・ビロウズのような手合いが批判されているのは、言うまでもなかろう。彼女は若い女たちの節操のなさを口をきわめて批判するが、彼女の口ぶり自体が上品であるようには思えないし、まるで、今日のわが国の総理大臣殿のように、一から学びなおさねばならないのは、彼女のほうであることは明らかだ。しかし、アルバートたち若者にしても、さほど正しいようには思えない。しょせんアルバートは酒に酔って、女と遊んで3ポンドを消費したにすぎない。夫人がもうすこし立派な人物であれば、彼らの革命は通用しない。例えば、ある若者の名前を見ればわかる。3人の子どものひとりは、ハリー・ウッドである。ブリテンが、この名前から直ちに想起される、映画の大生産地に敬意を払っているとは考えにくい。

これはいささか穿っているが、アルバート・ヘリングの 'Herring' はニシンのことであり、これが薫製になると、人の注意を背けるものという意味あいを持つようになるそうだ。すると、アルバートのおかげで、若者たちはミスリードされたということになるのかもしれない。私はどちらかといえば、アルバートのほうの世代に入るため、この結末は受け容れやすいのだが、こころから共感はできない。やはり、酒が入った革命というのも頼りないし、これは演出によるものだが、最後の横一列はあまりにもキッチュにみえたのだ。

こうしてやっていくと、キリがない。音楽的なものへの風刺に関しては、例えば、祭りの前のコーラス練習の場面などが、いちばんわかりやすいが、それだけではない。例えば、アルバートが酒入りのレモネードを口にするときのトリスタンの引用や、あまりにも豪壮なレディ・ビロウズの演説につけられた音楽などは、どれもイロニーに満ちている。音楽そのものにも遊びが多く、先に挙げた時計のベルや、口笛のモノマネなどのアイロニカルな使用法が指摘できる。全体を通して、一本抜けたようなキッチュな響きが中心になっていることについては、もはや言うまでもなかろう。

ブリテン、面白い作曲家だ。この作品などは、チャップリンと並べて論じても面白いかもしれない。
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