2007/3/28

マーラー 交響曲第9番  クラシック曲目分析室

マーラーの交響曲第9番。未完の10番をカウントしなければ、マーラー最後のシンフォニーにして、死や別れ、崩壊といったキーワードとともに、深みのある内容をもつために、特別な機会に演奏されることの多い曲でもあり、いまでは人気が高い。

マーラーについて考えるとき、私は、これに対置してワーグナーを置いてみる。2人とも誇大的ともいうべき、響きの厚みをもっており、ある意味で「くどい」。そして、大きな共通点は、2人ともなにか世界のおわり、もしくは、何かの果て・・・とでもいうべきところを見てしまったような、強烈なイメージの曲を書いているということだ。

しかしワーグナーは、私に言わせれば、意外と単純なところがある。ワグネリアンたちはあれこれと公案を考えるし、もちろん、そういうレヴェルの観方があってもいいが、作曲者自身は、意外と単純なところに大事なものを置いているように感じるのだ。なくしものをあちこち探し回っていたら、なんだ、こんなところに・・・というところから見つかる、そういうイメージだ。

例えば、この前の「ローエングリン」について、本ページに寄せられた参加者の方のコメントで、「(ダ・ヴィンチの人体図の)○は精神□は実態の人間性を表し、ローエングリンはここに入りたい」という飯塚励生氏の意図を紹介していただいたが、そう言われてみれば、結局、それだけのことを言いたいがために、あの巨大な作品はあったのかもしれない、と納得させられるところもある。

この最たるものが「トリスタンとイゾルデ」であり、このページでも幾度か取り上げているように、この2つの名前を結びつける'und'に象徴される、人間の関係性を突き詰めたのがこの作品であり、ただ、そのことの証明のために、この長い作品は用意されているといっても、過言ではない。ワーグナーの作品は、ほとんど最初の一行だけが大事で、それを裏付けるために字句が弄される、哲学者の文章に似ている。

ところが、マーラーには、そのような単純さはない。世俗が入り混じり、明暗が激しく切り替わって、まるでヴェリズモのような展開を、スキーの回転選手のように巧みに滑り降りてきて、ひとつの作品としている。スキーの滑降よろしく、途中の断崖ではジャンプが入るが、降りたところに、もとと同じ雪山があるかどうかはわからない。

ワーグナーが哲学的であるとすれば、マーラーはより人間的な作曲家であるといえる。

この第9番は、とりわけ死というキーワードと結びつけて、イメージされることが多い。マーラーは、歴代の大作曲家がそのナンバーを書き終えると、必ずといっていいほど神に召されることを意識し、9番を飛ばして「大地の歌」を書いた。そして、注意ぶかく9番の作曲に取り掛かったが、結局、初演を迎える前にマーラーは死神の迎えを受ける。彼は既に重い心臓病への罹患を宣告されており、その意識がないはずはなかったろう。もちろん、聴こえてくる響きが、胸の詰まるほど苦しい寂しさに溢れている。

しかし、そうしたイメージは、9番だけに特別に見られるわけではなく、マーラーのシンフォニーの、若いナンバーのものにも、既にみられる特徴である。

荘重なアンダンテ・コモドの最初の楽章のあと、レントラー・スケルッツォを通って、第3楽章のロンド・ブルレスケは、一見、明るめの音楽であるが、錯綜するリズムの動きがキーとなって、なにか焦燥的な感じさえ与える。それには、対位法的な要素も一役買う。中間で響きが薄くなり、のどかな響きが現れるが、このあたりの緩序的な部分と、中間2楽章に特徴的な明るさを、どのように描きわけるかで、演奏の出来栄えは決まるだろう。私は、そういった明るさの何たるかについて、むしろ深い関心がある。

人間は常に、明るいところにいたいと思うものだ。だが、ゼウスの本当の姿に耐えられないように、人間は純粋な光の明るさに耐えられない。マーラーはしかし、そうした裸の光に接してしまった数少ない人間の、一人であるのかもしれない。私はもとより、そういった世界を知るものではないが、マーラーのシンフォニーを聴くと、いつも、なんて寂しい人なんだろうという印象がつきまとうのだ。それは単なる哀れみというよりは、人間として高すぎる場所に立ってしまったがために、必然的にやってくるであろう孤独さへのイメージから、やってくるものだ。

死といっても、肉体的なものではなく、むしろ精神に関わるものである。マーラーのシンフォニーは、ほとんど例外なく寂しいのだが、この9番は極めつけだ。この曲を弾くと、どんな楽団でも絶体絶命のところに置かれる。技術もさることながら、どれだけ追い込んで弾けるかに、聴衆は注目している。聴き手もまた、その寂しさからは逃れられないのであるが。ゆえに、それに耐えるだけの精神力は必要だ。

もうすこしだけ、よく聴いてみようか。この9番において、特別なポイントは2つある。ひとつは、最初に要点を置いて論を進めるという、西欧人の論法の常識に倣って、最初の出だしにある。非常に寂しげなところから、徐々に追い詰められながら高揚していくが、最高音のところで、響きはすっと閃光を上げて明転する。響きの厚さがちがうが、モーツァルトを思わせる見事な転回だ。

もうひとつは、中間楽章の焦燥感からは考えられないほど落ち着いた、最後の部分で示される、静かな生の意識にある。この2つの部分から読み取れるのは、マーラーは生ききった、ということだ。 死んでいくのではない。生ききったのだ。とわに終わらない自らの生への執着を、最後のうすく引き延ばされたストリングスの響きが粘りづよく語っているように思える。'ewig,ewig' と。

まあ、これを死ととるにしても、生ききったととるにしても、さほど変わらないのかもしれないが・・・。

しかし、ワーグナーにおいては、政治的に動く意志のないブルジョアジーの無力感が、作品に反映しているともいわれ、ヴェルディ同様、死に対して甘美なまでの味わいを加えているが、マーラーについては、もっとリアルな死が反映していて、これは、以前に書いたプッチーニのリアリティを思い出させる。例えば、蝶々さんの最期は甘美なものであるかもしれないが、ヴィオレッタのように格好よくはない。ヴェルディの場合は、死んで悔いなしとしても、プッチーニの場合は、なにか報われないのだ。マーラーの作品も報われない傾向だが、この9番だけは特別だった・・・のかもしれない。

これに先立つ「大地の歌」も、9番に似たようなところがある作品だが、これはもう、寂寥感だけが際立った作品だ。ユーモアも何も、すべて、そのために使われている。ここでは、とわに帰ることのない青春の厳しさだけが、歌詞とは反対に、ひたすら突き放すように語られているように思われる。二度と会えないことがわかっていながら、(その意識は共有しつつも)いつか、また会おうといって送り出す、東洋人の神秘が丁寧に拾い起こされている。

少しまとまらないが、交響曲第9番には、人生を生ききったマーラーならではの、生に対する永遠の執着が、書き留められているのだ!
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2007/3/26

N響 年間ベスト10 オーケストラに必要なもの  ニュース

N響の年間ベスト・コンサートが、25日の「N響アワー」の放送で発表されましたので、それについて、すこし思うことを書いてみようと思います。なお、この記事は「瞬間の音楽」というブログを参考にし、おもに、ソリストではなく、コンサートのほうに注目しています。

ランキング自体は、コンサートの質そのものを完全に反映しているとは見ていません。まず、どんなに素晴らしいコンサートであっても、注目度が低く、集客がうまく行かなかった公演は、当然、ランキング上位に来ないからです。ですから、とりあえず注目度の高かった公演が、上位を占めています。1・2は、N響がはじめてピリオド奏法に挑戦するということで話題を呼んだノリントンの公演であり、デュトワ、ブロムシュテット、スクロヴァチェフスキといった古参の人気指揮者に加え、音楽監督のアシュケナージを中心としたランキングになっています。

もうひとつ、ソリストが上位に入った公演は、その印象も手伝ってコンサートでも上位に来ることが多く、その点、今シーズンは、庄司とテツラフの1・3が、ランキングを押し上げた形になっています。こうしたバイアスを考慮に入れて、ランキングを見ておきたいと思います。

それにしても、いささか意外なランキングでした。このなかで、自分が聴いたのは、デュトワが指揮したベルリオーズの「ファウストの劫罰」と、ブロムシュテットの「ミサ曲ハ短調」だけなので、十分な評価はできませんが、放送されたものの印象や、評判などから見て、予想できないランキングだったと思います。自分の聴いたもので、「ファウストの劫罰」が4位に来たのは、意外も意外ですね。収録日だったこともあり、まったりした演奏で、うまくまとめてはいましたが、大満足な公演ではなかったからです。

意外に伸びなかったのは、私も観にいったメモリアルの、スクリャービンの色光ピアノ付「プロメテウス」です。また、大事なひとりが欠けてしまったこともありますが、正指揮者の凱旋シリーズも、思ったような効果を上げられなかったようです。

そして、何より1・2がノリントンだというのは、まさかでしたんr。放送ですこし聴くだけでも、未完成でした。リハーサルの映像で、ノリントンのノン・ヴィブでやってみますかという質問に、篠崎さん、間髪入れずに「ノー・プロブレム!」と返したのは可笑しかったですが、本番の演奏は、まだまだノリントンの求めるものの半分くらいの出来でしょう。実際に聴かれた「瞬間の音楽」の書き手も、名演というほどでは・・・と仰っています。多分、そうなんでしょう。

しかし、もうすこし踏み込んで考えてみましょう。なぜ、N響を聴いた人たち(注:会員以外も投票できます)が、十分なレヴェルで熟成していたとはいえないかもしれない、ノリントンの共同作業を評価したいと思ったかです。私もそうですが、聴き手は多く素人なわけですから、こうした想いの部分を重視すべきだと思います。

まず、ひとつあるのは、ノリントンに限らず、上位に来たものはすべて、指揮者の個性が色濃く反映されるプログラムが揃っているということです。デュトワのベルリオーズにしても、もっとグリグリ抉ってもいいのではないかという演奏でもありながら、なるほど、デュトワらしい色彩感の華やかさとか、表情の豊かさということでは、目立った公演でもあったのです。最近のブロムシュテットを象徴する、肩の力の抜けきったブラームスやモーツァルトの演奏、ツァグロゼクのモーツァルトのしっかりしたフォルム、定評あるスクロヴァチェフスキのブルックナーに、アシュケナージのショスタコーヴィチ・・・。

そして、もっともわかりやすかったのは、ノリントンの導きによる新しいスタイルの印象だったのかもしれないと思います。また、英国音楽はもとより、'sir'の称号をもつノリントン母国の音楽ですからね。

N響はアシュケナージの任期満了後は、しばらく音楽監督を置かない体制が決まったそうですが、彼らの楽団としての欠点は、結局、長期的な視野に立って、彼らの目指すべき方向を示すことのできる指導者をもたないことにあります。この点で、デュトワは卓越したオーケストラ・ビルダーとしての手腕をみせ、レパートリーの拡充や、オペラへの進出などで、一応の成果を挙げたといえますが、その後、アシュケナージは旺盛な楽旅などを通じて、国際化への道を開いた以外では、目立った方向性を示し得ていません。

しかし、これはアシュケナージ本人の責任というよりは、もともと、そうした変化をもたらすことのできる権限を与えなかった、楽団全体の問題であると思います。

そこへ来て、ノリントンの仕事というのは、ひとつ、N響のファンたちに希望を与えたのではないでしょうか。確かに、目下のところ、深い古典的教養に加え、現代的なセンスの持ち主でもあるスダーンにトレーニングされた東響のほうが、より古楽的に、キレのいいモーツァルトを演奏できるとする、「瞬間の音楽」の書き手の主張も、この楽団をこよなく愛する私には、理解できます。しかしノリントンは、ピリオド派の中でも、もっともラディカルな指揮者のひとりであり、N響のもつフォルムは、東響とは比較にならない堅固さがあります。これは、N響の奏者のセンスが硬いというわけではなく、むしろ、東響が柔らかすぎるのです(もちろん、それはいいことでもあります)。

今回、ノリントンはN響を思いどおりに動かし得たかどうか、疑問です。しかし、ノリントンの再登場への期待は、この投票からハッキリ読み取ることができます。私は、ほんのちょっとの放送ながら、N響が、ノリントンの誇るシュツットガルト放送響にも比すべき可能性をもっていると、感じました。N響を高く買うノリントンのインタビューは、あながちリップ・サーヴィスではないように思います。何事も、最初から万事がうまく行くことはあり得ません。東響だって、スダーンがはじめて自分のスタイルをガッチリ当てはめた、就任披露の「第九」では、散々な出来だったのです。そのことを、N響の聴き手たちはよく理解しているのでしょう。

来年は、継続会員の多かったサントリー定期が、ホール改修のために東京文化会館に場所を移し、自動更新ではなくなりますよね。その点で、ひとつの修羅場になる可能性を指摘しておきたいと思います。注意深くやらないと、放送局本体が危機に曝されるときに、楽団の存在意義そのものが疑われかねない事態になるかもしれません。N響の会員は保守的であるかもしれないですが、同時に、ノリントンが導入したような、ラディカルな変化にも期待を抱いていることが、よくわかるランキングでした。

ただ並べてみるだけなく、そこから読み取れるメッセージを、今後の公演づくりに生かすべきだと思います。
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