2007/2/21

二期会 ダフネ 2/12 B  演奏会

ダフネの記事が滞ったが、私は今、この作品の核心を突こうとしているのだと信じている。誰もが感じているように、このオペラの最大の眼目は、有無を言わさぬスピード感にある。この公演について、歌手たちやオーケストラが、そのスピード感に乗れていなかったことを、既に指摘しておいたが、それとはまた別の意味で、ここに登場するキャラクターたちもまた、スピード感に押し潰されていく犠牲者である。

今回の演出(照明)がうまく描いていたように、「ダフネ」には、滔々と流れる時間がある。人間や神さまがいかに悩み、激しくやりあおうとも、時間は待ってはくれない。

ダフネとは、一体、どんな女性なのであろうか。これが、私にはわからない。自然を愛する可憐な乙女というが、どんな男も受け付けず、ひたすら樹木を愛するような女性など、いささか自閉気味ではないか。それとも、これは掛詞であって、やはり哲学的にダフネを以って自然主義者の代表としているのであろうか。確かに、自然主義の立場からすれば、アポロの存在など認められるはずもなく、神などはそもそも不必要なのだ。ダフネが、ディオニュソスの祭りに気乗りしないのも、もっともだろう。また、ロイキッポスの叫ぶダフネへの愛情は、同じ立場からすると、あまりにも飾り立てたものであるゆえに、受け容れられないのかもしれない。

この見方で、相当に筋が通る。だが、それだけで終わらせないのが、R.シュトラウスの奥深さだ。彼は、ディオニュソス的なものとアポロ的なものの対立、もしくは、混乱のなかに、自然主義というもう一本の矢を組み合わせた上で、1本ずつ、非情にも圧し折っていくのである。

もしも、R.シュトラウスの作品が、哲学的なイディオムに溢れているとしても、それらはみな、最後には意味を成さなくなる。結局は、未成熟な少女のダフネが、あまりにも早すぎる展開のなかで幾重にも過ちを犯し、ひとりの男の死と、もうひとりの男の愛情に応えるために、自らは樹木となるという、ギリシア悲劇のロマンティックな筋で理解されても、まったく問題がないのだ。「未成熟」という便利な、しかし、怠惰なキーワードが、そのような安易な解釈を助けるであろう。また、できれば、観客がそのような表面的な解釈に止まるようにと、作曲者は周到に注意を払っているのだ。少なくとも、劇場にいる間は・・・。

このように、R.シュトラウスは、二段構えで作品を組み上げる。アリアドネも、エレクトゥラも、目の前に起こっていることに対する喜怒哀楽と別の次元で、いくらでも考えることがある。だが、それは劇場を出てカフェで一服し、家路に向かうときに、ぱっと思いつくのである。たとえ、そういうことに気づくなくても、十二分に作品は自立できる力がある。R.シュトラウスは、耽美的でもあるとともに、相当に頭でっかちの作曲家であるとも受け取られる。このような顔の使い分けは、オペラ作法では当たり前のことでもあろうが、その見事な描き分けについては、モーツァルトとR.シュトラウスが双璧である。例えば、ヴェルディやワーグナーならば、頭でっかちの要素が強すぎるし、Jシュトラウスやオッフェンバックならば、耽美的な面がはっきり出すぎている。モーツァルトとR.シュトラウスだけは、当たり前の会話や色恋沙汰のなかに、それとはかけ離れて深淵なメッセージを、きれいに織り込むことができる。

結論からいうと、R.シュトラウスは、ダフネの物語を借りて、自然主義者の常識を超えるものが、彼らの権化であるかのようなダフネ自身の「変容」によって、はっきりと示されるイロニーを描いたのだ。彼は、ダフネとアポロ、ロイキッポス、それに姿を見せぬディオニュソスの四者をみることによって、はじめて形になる世界を用意した。それがちょうど、ダフネの悲劇に重なった。そして彼は、そうしたメッセージを覆い隠すように、得意のリッチな管弦楽法で作品を彩り、ダフネをめぐる男たちの争いを、ロマンティックに描き出していった。そして、長大な後奏でダフネの変容を鮮やかに描き上げて、それらを鋭く突き合わせたのである。今回は、白河直子の見事な踊りが、そうした作曲者の試みが成功であったことを、如実に示していただろう。

言い足りなことはたくさんなあるが、このあたりで止めておこう。こういう難しい作品は、回を重ねてこそ意味があるのだ。この初演を、わが国の楽壇にある諸氏が、しっかりと生かしてくれることを期待したい。
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