2007/2/15

東京交響楽団 新コンマスに高木和弘が加入  ニュース

東京交響楽団が、新しいコンサートマスターとして、高木和弘が加わることを発表しました。氏のプロフィールは、楽団HPに詳しいですが、1972年生まれということは36歳。若すぎず、弦楽器の奏者としては脂の乗りきったところでの就任となるようです。

私は、彼のソロはもちろん、コンマスとしても、その演奏に触れたことはないのですが、自身のHPなどみると、ファンの方が寄り付いておりますね。私としては、ヴュルテンブルク・フィルなどで、飯森範親さんの懐刀として仕事をしているというイメージが強いです。が、プロフィールを読むと、山響や大阪センチュリー響でも、ポストに就いているんですね。ご存じのとおり、山響も、飯森さんがシェフを務めております。また、DJ Yokuの下でクラブ・シーンでも活躍などという経歴があるのには驚きです。

楽団のHPでは、今後の出演予定も載っていますので、お確かめになってはいかがかと思います。ハーリ・ヤーノシュでも聴きにいってみましょうか。新国「運命の力」のピットにも入るようなので、そこでもいいかもしれせんが・・・。

東響のコンマス陣は、ニキティンが京都市響のコンマスに就任して、ゲスト・コンマスに退いてからは、大谷康子さんの負担が大きくなっていました。大谷さん自身、ソロやクワトロ・ピアチェーリの活動などで忙しくなってきているので、若いパートナーの来援にはお喜びのことと思います。私は、ニキティンのコンマスぶりも好きでしたが、ゲスト・コンマスになってからは、思いの外、急に登場が少なくなりました。「グレの歌」の合同演奏以来、彼の弾く姿を拝んでいないので、少しだけ恋しくなります。

いずれにしても、高木さんには、我らが東響をしっかり支えていただきたいと思います。
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2007/2/15

二期会 ダフネ 2/12 A  演奏会

R.シュトラウスの「ダフネ」は、ギリシア悲劇に形を借りた哲学的な世界であることは、既に、ディオニュソスとアポロの登場によって、すぐに気づくことだろうと思う。シュトラウスの同時代人であるニーチェは、この作曲家を分析しようとするとき、避けては通れない名前だが、彼がデュオニュソス的/アポロ的というキーワードで、ひとつの哲学的視点を時代に提供したことはよく知られている。

正直いって、私は、哲学には明るくない。だから、ニーチェの哲学と、シュトラウスのロジックを比較して、正確に論じることはできないだろう。

私が興味があるのは、このアポロというのが、一体、何者なのかということである。ニーチェの考え方では、アポロは理性的なもの、もしくは秩序の象徴である。これに対し、ディオニュソスの価値観が対置され、感情や知性以前のものに含まれる、強烈なエネルギーが、アポロの照らすキリスト教的な秩序に対して、鋭く突きつけられるのである。だが、この作品において舞台上に現れるアポロは、多分にディオニュソス的な面をもっており、羊飼いの姿で地上に現れて、自ら後悔してみるのも愚かな話だが、人間たちにむやみに自分の力を見せびらかしたりもすれば、ロイキッポスをあっさり雷で打って殺してしまうなど、軽挙妄動も甚だしいキャラクターとなっている。

ここには、幾重にもかさなった意味が塗り込められていると考える。まずは、アポロ的なものとディオニュソス的なものの混交である。最後のほうにあるアポロの独白で、ディオニュソスが現れなかったのは、自分がディオニュソスの皮をまとってきたからだという意味のことを言って、悲劇の元凶がそこにあることを述べている。アポロは、「弟のディオニュソス」という言い方で、自分があくまでアポロであることを、繰りかえし主張するのだが、彼は果たして、本当にアポロなのであろうか。例えば、ロイキッポスは、アポロのいうことが嘘だと言いきっている。そこに、半分の真実があるように思う。

R.シュトラウスは、多分、意図的にアポロとディオニュソスを重ねあわせている。例えば、羊飼いとして暴れ牛のことを語るあたりは、巨神族に襲われた際に、様々な獣にメタモルフォーズして闘い、ついに牛になったところで捕まったディオニュソスの前身、ザグレウスの故事を思わせる。短気で、見境なく力を使ってしまうところなども、どちらかといえば、ディオニュソス的だ。女に執着が強いのも、ディオニュソスらしい。彼がやっていることをみると、むしろ、ディオニュソス的な面のほうが強く出ている。

だが、ダフネが太陽に捧げた歌を聞いていたり、ダフネのことを妹のアルテミスではないかと思ったりすること、それに、本人がやっぱりアポロだと言っていることから、彼がアポロであることは否定できない。何より、ロイキッポスを殺す場面は、ニオベの子どもたちを射殺した、アポロと妹の故事を想起させる。もとより、ダフネと月桂冠のエピソードは、アポロのものである。ただし、河岸でエロスをからかったがために、アポロは愛の矢で、ダフネはアポロが嫌いになる矢で射られるという筋はない。

大島の振付、および、演出においては、ギリシア悲劇の錯綜した部分を、それなりに描いているという点では、一定の評価をできる。例えば、冒頭のソロ・ダンスでは、最後に可愛らしい弓を引く場面が出てきて、そのエロスとのやり取りを暗示するのか、アポロが弓の名手だったことを表現しているのかわからないが、いずれかをきっちり盛り込んでいる。また照明は、昼・夕・夜・朝を丁寧におっており、アポロの時間、ディオニュソスを迎える時間、ディオニュソスの時間、アポロの時間をはっきり区分しており、その場の雰囲気を踏まえながら、上手に舞台をつくっていた。

それにしても、なんとも捉えどころがない。アポロかディオニュソスか、どちらかにしてほしいものだ。しかし私は、この混乱にこそ意味があると思う。理性的なものと、そうでないものが分けられなくなっているのだ。ということは、単に人々のもつ価値観が混乱しているということ示すに止まらず、もっと面倒な、重なり合った意味あいをもっているのかもしれない。例えば、秩序の象徴であるはずのキリスト教教会が、まるでディオニュソスのような行動をとっている。というような・・・。アポロは、ダフネとロイキッポスの純真さに打たれて、自らのレーゾンデートルを疑わざるを得なかった(そういう台詞があった)。そうすると、これは要するに、人々を導くべき教会の役割が曖昧になり、むしろ、教会のほうが腐っているということなのであろうか。

もしかしたら、こうした混交こそが、当たり前の人間の姿であるとも言えるかもしれない。そうすると、みんな、間違いだらけだったということになるかもしれない。例えば、ダフネはアポロへの憧れを素直に受け容れるか、ロイキッポスの真っすぐな愛情を信じて、迎えてやればよかったのだ。そのことは、本人も反省していたが。ロイキッポスはロイキッポスで、あんなに激しくアポロとやりあうことはなかった。ダフネへの愛情も、もっと時間を賭けて得ようと努力すべきだった。皮肉屋のシュトラウスは、純真と真っすぐさと、強引さでできた、こうした人間模様を、こうしてアイロニカルに束ねて、ひとつの作品として仕上げてみたのであろうか。

そのほか、弁証法的なものの見方を提示しているのだとか、言い出せばキリがないほどだ。だが、いずれにしても、この作品では、ダフネを知るためには、ロイキッポスやアポロを知らねばならず、アポロを知るためには、ディオニュソスを見ねばならず、ロイキッポスやダフネとの間で鋭く対比せねばならない・・・というように、ひとつのことを知るために、いろいろな方向から見ねばならないということを、明らかに前提している。敢えてダンスを使うのであれば、そうした言葉にならない、キャラクターのもうひとつの顔みたいのを、巧みに拾っていったほうがよかったのではなかろうか。

ダフネは大体、このような作品であり、したがって、通常のオペラに見られる心理描写などは、多分に割愛されている。また、ひとりひとりの人物造形についても、甚だ機械的であるばかりか、(故意の)言い落としが多いようだ。心理劇としてみれば、なにも書いていないに近いではないか。なぜ、ダフネは2人の男を受け入れないのか。どうしてアポロは、ダフネをあそこまで強引に追い求めるのか。ここで問題となるのは、なにゆえ、こんなにも前を急ぐような作品になっているのかということである。もっと、観客が考える時間を与えるような作品にすべきではないのか。

それから、月桂樹になっていくダフネという少女は、一体、何なのであろうか。そのことについても、疑問が浮かぶであろう。これらの問題は、一応、古典的なギリシア悲劇に答えを求めることができる面もある。だが、それでは不十分なのだ。これらの問題については、次のエントリーで続けたいと思う。
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