2007/2/4

新交響楽団 シンフォニア・タプカーラ 2/4  演奏会

昨年11月に「トリスタンとイゾルデ」で大花火を上げた新交響楽団(新響)の演奏会を聴いてきた。会場は、前回と同じ東京芸術劇場。指揮者に、井崎正浩を迎えた。プログラムの最後に伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」が置かれ、故人の1周忌の迫るこの時期に、「伊福部昭没後1年追悼演奏」と副題してのコンサートだ。

井崎正浩は目下、ハンガリーを中心に活躍する指揮者だが、私は、これが初めてとなる。新響への客演は、これが6回目ということである。野平一郎の「ベートーベンの記憶」という音楽を収めたCDのおまけに収録された、野平の独奏、名フィルによる、ベートーベンのピアノ協奏曲第4番を指揮したときの演奏が手もとにあり、これを聴いてからというもの、是非、いちどは聴いてみたいと思っていた指揮者である。

最初のボロディンの歌劇「イーゴリ公」の序曲を聴いて、まずは予想どおり、響きの束ね方がうまいことに感心した。また、ブリュッヘンのレヴェルには及ばないかもしれないが、丁寧なアーティキュレーションのデザインも見事で、情報量の多い演奏には十分な期待感が漂った。

ところで、この曲はボロディンの代表的な歌劇の序曲とはいえ、グラズノフらのしつこい督促によって、ようやく形を成したものであり、グラズノフや、その弟子であるところのリャードフの手が入っているそうである。確かに、響きの整然とした流れなどは、有名な「韃靼人の踊り」からイメージされるボロディンの雰囲気よりは、几帳面なグラズノフの筆致に近いように感じられる。新響の弦はよく束ねられ、そうした特徴をよく醸し出している。

コダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」で、井崎の手腕に対する期待は、確信に変わる。さすがにハンガリーで活躍するというだけあり、コダーイは得意中の得意であろう。私は、このコダーイに対して、まだ、もうひとつイメージを確立できていないのだが、同じ年に生まれたストラヴィンスキーからの影響は、相当にあるように思う。例えば、この組曲の第2曲「ウィーンの音楽時計」や第5曲「間奏曲」などで、響きの作り方が、相当に類似している。

演奏は、なんといっても第6曲の「皇帝と廷臣たちの入場」に焦点が絞られている。このナンバーは、組曲のなかでも、コダーイが収集した民俗音楽の要素がもっとも色濃く反映されており、結局は、この華やかな祝宴のために、ハーリの冒険があったのではないかと思わせるような音楽であった。特に金管の活躍が耳をひくものの、井崎の指揮では、弦の低音や打楽器の動きが、むしろ、この華やかさの中に、しっかり存在感を保っているのが特筆できる。

第3曲の「歌」も、魅力的な演奏である。冒頭のヴィオラ・ソロは、ベテランの柳澤首席(だと思う)がこころを込めて演奏し、上手い下手というよりは、胸に響く音色を聴かせてくれたために、全体を通してもっとも感動した部分のうちのひとつとなった。そのテーマを大事に拾いながら、最初のヴィオラに倣って、丁寧にアンサンブルを作っていく、オケの様子が素晴らしかった。

次の伊福部作品でもそうだが、全体を通して、バスの低音がしっかりと響いており、日本人の指揮者には珍しい音づくりの哲学が感じられる。これが音楽の緊張感を、否が応にも増幅するのであろう。新響のバス陣が、これによく応えている。

伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」は3楽章というよりも、全体を串刺しにしたような演奏で、ABAに長大なコーダをもつひと塊の楽曲という感じを抱かせる。伊福部の音楽は、プロコフィエフの影響が強い部分もある。サウンドのデザインなどに相当の類似点が指摘できるようにも思うし、ピアノ協奏曲第3番などは、向こうが越後獅子の素材を取り入れているだけに、祭りなどで伝承された音楽を愛する伊福部の選んだ素材と、似た部分が出てくるのも致し方ない。

しかし、ひとつだけ、まったくちがう要素がある。それは、プロコフィエフの音楽は、その転回のエレガントさに特長があるのに対して、伊福部の音楽は、動かないということだ。伊福部は、自分で構築したテーマを、この上もなく大事にする。端から端まで、そのテーマを煮込んでいって、少しずつ変化をつけながら、しつこいほどに繰り返す。西洋人は、クジラの髭だけをとったら、あとは捨ててしまうという民族であるが、我々は、鯛のお頭から尻尾の付け根までしっかり味わい、骨までしゃぶりつくして、食えないヒレも酒に入れて生かすのだ。伊福部の音楽も、それと同じ傾向にある。

まず、最初の楽章の強烈なオスティナートの連続で、我々は度肝を抜かれる。新響のメンバーは明らかにこの曲を得意にしていて、自信たっぷりに、激しいパッセージを描ききっている。第2楽章は、北海道の大地を思わせる雄大な演奏であるが、この部分こそが、このシンフォニアの心臓部分なのではないか。新響のメンバーは、前後の楽章の熱狂を持ち込むことなく、伊福部の魂そのものともいえる世界を荘厳に再現する。

終楽章は、再び強烈なオスティナートがこれでもかと続くわけであるが、ある意味、我慢づよいとさえ言えるテーマの反復に、先ほど書いたような味わいを見つけているうちに、ギロの出す蛙の声がおもむろに中心に表れたときには度肝を抜かれた。実は、この曲は、はじめてなのである。これに象徴されるように、一見、ミニマル的でもある単調なオスティナートの中に、伊福部が閉じ込める世界はなかなかに多彩である。弾きおわりは、理解を超えた響きの鮮烈さに、ノックアウトされていた。中間でロンドをつくり、その回転のエネルギーを生かして、後半のオスティナートが繰り返されたのも面白いが、同じように、ときどきネジを巻くような役割で現れる、コンマスのソロも面白かった(しかも、なんと上手なんだろう!)。

この曲は、間違いなく20世紀の中葉を代表するシンフォニーのひとつだ。しかし、プログラムに載せられた自筆譜の、壊れやすいガラス細工のようなつくりを表すように、ほんの少しのバランスの乱れが致命的な傷となる楽曲であり、いささか怖さもある。しかしながら、新響のメンバーは、それゆえにこそ、大胆にアンサンブルを持ち上げ、自分たちのすべてをこの楽曲にぶつけてきた。そして井崎が、そのエネルギーをしっかり受け止めていた。これは、名演である。

これを聴くと、また聴きたいという想いと、否、これ以上のものは望めないという2つの感情が湧いてくる。3月4日に、「伊福部昭音楽祭」がある。行くべきか、見送るべきか・・・思案のしどころである。
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2007/2/4

ティム・ロビンス主演 輝く夜明けに向かって  シネマ

最近、東京でやっている映画は、話題の硫黄島の2作品をはじめとして、社会的なテーマを扱ったものが多い。この映画「輝く夜明けに向かって」も、アパルトヘイト時代の南アフリカ共和国を舞台に、現在の世界を取り巻く大問題、テロリズムや宗教紛争の「夜明け」を提起した作品であるといえよう。

主人公のパトリック・チャムーソは、現在も存命する実在の人物ということだ。モザンビークから出稼ぎで南アに出てきた両親の間に生まれ、父方と母方の2つの名前をもつトイウコトカラ、語り起こされる。彼はあたまがよく、英語をマスターして、石油精製所の現場監督として働いていた。美しい妻との間に2人の子どもがあり、サッカーのコーチとして、貧しい家の子どもたちの面倒をみる。パトリックは元来、移民の子ということもあり、政治向きのことには首を突っ込まないようにして、白人(ボーア人)と現地人の仲立ちのような役割をしていた。ところが、石油精製所の爆破テロで無実の罪を着せられ、結局は釈放されたものの、厳しい拷問を受けた上に、友人を殺され、妻までもが拷問されたことで、アフリカ民族会議(ANC)というテロ組織に参加することを決意する。

この映画の特徴を示すキーワードは、重ねあわせである。そのために、フィリップ・ノイス監督は、いくつかの仕掛けを用意した。まずは、テロと闘う側の陣営から、敏腕捜査官のニック・フォスと、その家族を登場させている。知的な犯人と敏腕刑事の丁々発止ということでは、名画の「逃亡者」を思わせるが、それだけの役割ではない。次に、主人公のパトリックに、もうひとつの家族をもたせる。パトリックが浮気を続けるミリアムという女とは、かつてから関係を持ち、妻にも知れた相手だ。別れたと言い続けてきたのだが、女と、その間にできた子どもたちへの愛情は、密かに継続していた。これに加えて、少年サッカー・チームも、展開のアヤに使われるだけではなく、パトリックがチームに加えた天才ストライカー、シックスセンスという少年が、大事な役割をする。

さて、この映画のテーマは、結局、「赦す」というところに帰結する。これはキリスト教的倫理観の重要なポイントであり、全編は、その倫理によって貫かれているとも言える。では、赦されるべき罪とは何か。まず、パトリックは白人たちへの怒りからとはいえ、家族に無断でANCに加わり、彼らを捨てた。その前に、浮気を続けていたという罪もある。妻はこれに対し、フォス捜査官の心理戦にのせられたとはいえ、テロリストとして再入国し、石油精製所を襲った夫の居場所を密告した罪がある。エピローグで、アパルトヘイト後、離党の収容所から帰る元夫を迎える妻と、互いに自らの罪を謝り、赦しあう感動的なシーンがある。もうひとつの罪は、無実の人も徹底的に追い詰めるフォスのえげつない捜査術であるが、解放後、老いた彼をみつけたパトリックは、その罪を赦す。

面白いのは、この2人とも、自らの「正義」感に基づいて動いていたことだ。パトリックは捕まるとき、やるべきことはやったと恍惚の笑みを浮かべ、自分の人生はもう終わったと言って、フォスをぎょっとさせる。子どもたちは、自分が正義のために死んだと語り継ぐだろう。おまえの子どもは、どう言うかな・・・。その答えはエピローグで、河辺でひとり、寂しそうに寝そべるフォスの姿に表れている。彼には妻がひとり、娘が二人いたが、ひとりは父の仕事に理解を示していたが、もうひとりは嫌悪していた。理解的な娘でさえ、フォス家を襲いに来たテロリストを勇敢にも射殺したのはよかったが、こころにふかい傷を負った。それを見たもうひとりの娘は、なおさら父親を嫌悪した。

一方、パトリックの娘はたとえ離れていても、父のことを気にしていたことが、妻との再会シーンで語られる。パトリックが優しくしたシックスセンス少年は、パトリックの息子ではないのに、フォスに懐柔されたフリをして偽の情報を掴ませ、彼を助けようとしたのだ。

2人の「正義」は、明暗を分けた。だが、この映画はもちろん、パトリックがテロに奔ったことを正解とはみていない。パトリックはエピローグの独白で、自分の行為を「過ち」と認めているからだ。最後に実写を交えて、実在のパトリックが画面に現れるが、今日の彼があるのは、フォスへの怒りをおさめて、自らの過ちを認めたことによってである。そして、家族と子どもたち、サッカーを愛していた、本来の自分に立ち返って、パトリックは南アの北部に暮らし、何十人という孤児たちを育てあげたという。偉大なるファーザーである。

映画の出来としては、画面はきれいでソツがないものの、筋の進め方はやや粗い感じもする。最後に、TVのドキュメンタリーのようにパトリックのインタビューが入ったり、安易に実写を入れるのも安直な感じを受ける。いちばん問題があるのは、もっとも大事なメッセージである赦しに至る過程が、まったく描かれていないことだろう。それゆえ、最後の赦しは予定調和的なものに思えるのだが、主張として共感しやすいために、さほど疑問に思う観衆はいないかもしれない。だが、わかりきっているメッセージを、改めて配信しただけとみることもできるし、もうひとつ、ひねりがほしかったと思えなくもない。

したがって、映画としてはB級品であるという範囲を出ないが、少なくとも、監督がこの映画を撮りたかったことの意義は、十分に理解できる。自らの「正義」を見つめなおし、その「過ち」を把握して、相手を赦すことに努めるべきだ・・・映画の訴えたいことは、そこにある。そして、その象徴として、ネルソン・マンデラ大統領の就任演説が使われている。現実は、そんなに甘いものではないかもしれないが、終わらぬ宗教紛争や、テロリズムを前にして、人々の願いは、そこにあるのではなかろうか。
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