2007/2/12

二期会 ダフネ 2/12 @  演奏会

東京二期会、R.シュトラウスの歌劇「ダフネ」の公演の千秋楽(12日)を視聴したが、まずは、本邦初演を喜ぶべきであろうか。しかし、8割は低調な公演だったというほかないだろうと思う。なのに、残った2割だけで、かなりの満足感が得られたのは不思議なことだ。

初めて視聴して、なかなか難しい作品だと思った。一見、古典的なギリシア悲劇だが、よくよく見ていくと、かなり哲学的である。歌も伴奏もかなり難しい上に、筋はかなり端折られていて、下手をすると、作品のもつスピード感に置いていかれてしまう。かと思うと、妙なところに大きなスペースが空いていて、今回はダンスがついて埋められたが、そうでない場合は、演出家もかなり頭をひねらねばならないだろう。

今回の公演における最大の問題点は、前半のスピード感にほとんど乗れていなかったということだろう。なんとか釜洞と樋口の二人だけがつけていたが、他は自分の本領を発揮できていない歌手が多く、スピードに押しつぶされている。酷いのは東フィルの伴奏で、リズム感がまるでなっていない上に、弾き損ないも多くて話にならない。何より、舞台の上を気遣う余裕がないのだ。指揮者の要求より、少しずつ遅れているように聴こえて、歌手たちが可愛そうだった。

しかし、ディオニュソスの祭り以後は、話がちがってくる。天井から釣られたダンサーたちの踊りに度肝を抜かれたこともあるが、薄暗い祭りの雰囲気をつくるのに、オーケストラのベースが果たした役割は大きい。このあたりから、ようやくオーケストラにもまとまりが出て、東フィルの良さが出てきたといえよう。

ロイキッボスとアポロがやりあう場面からが見せ場だが、特に、ここで樋口達哉が演じたロイキッボスは、直線的な声の伸びが、ダフネへの真っすぐな愛情を表現するにふさわしく、はまり役である。いまのところ、彼の舞台にかける一生懸命さが、声の上にほんのりと乗って我々の胸に届いてくるのが、なんとも可愛げがあって良い。一方、アポロの福井敬は彼らしいスピントな歌声が十分に轟かないが、要所で持ち前の甘い声を響かせた。釜洞のR.シュトラウスというと、「インテルメッツォ」のクリスティーネ役を思い出すが、今回は、ほとんど少女というべきダフネの未成熟さを、見事に作り上げていたのは感心だ。

自分には神の力が乗り移ったといって、ダフネを庇い、アポロに立ち向かっていくときのロイキッボス、雷に打たれて死んだ彼を悼んで、自らの未熟を嘆くダフネの歌と、素晴らしい聴きどころだった。その後、自らの過ちを認め、月桂冠の謂れを歌い上げるアポロの歌も感動的だ。そのまま幕となりそうな、オケの美しいアンサンブルが激しく中断されて、ダフネが自らの運命を受け容れる場面も、釜洞が丁寧に歌った。最後、長大な後奏をバックに、メインダンサーの白河直子の凛としたソロ・ダンスには、溜息が漏れた。

結局、この日のダンス部分のコンセプトは、ダフネが愛し、ついには、自らがそれと化する木の中に流れるエネルギーを、全身を使ってわかりやすく提示するものであり、その力は体中から外へ弾き出されるように、ピチピチと蠢き、最終的には上へ上へ伸びようとする方向に昇っていく。イナバウアーのように後方に体を反らし、そこからすっと体を伸ばすことにより、そのことを示している。

昨秋の「レ・パラダン」のように、全編がダンスで彩られているというほどではない。歌手が踊るのも、祭りの場面のほんの少しだけだった。先述の祭りの場面の最初を飾った宙吊りのように、面白いアイディアも出ていたが、全体的には、ダンスの効果が十分有機的に機能していたとは言いがたい。これも既に述べたように、最後の場面は圧巻だったものの、こういう空きスペースを利用するだけでは物足りない。また、ややワン・パターンという感も否めず、限定されたアイディアでわかりやすいのはいいが、我々がダンスに慣れていないということを侮られたかのような感じもする。

それらの点において、H.アール・カオスの大島早紀子によるダンス演出は、さほどの感銘は呼ばなかった。むしろ、トニー賞受賞の松井るみ(&島田清徳)による舞台美術が美しく、沢田祐二の照明とあわせて魅力的であった。

指揮者の若杉弘は、荒海の中、なんとか船を港まで導いたということで、それなりの評価はするべきだろうし、なにより、「ダフネ」のような魅力的な作品が舞台にかけられたのも、彼のつよい推薦によるところが大きいのではないかと思う。その可能性の中心を感じさせたということでは、一定の評価を与えるべきだ。

なお、合唱だが、最近の新国の素晴らしいコーラス部隊の活躍と比べると、あまりにもお粗末だった。彼らも、スピードに押し潰されたクチかもしれないが・・・。でも、二期会はプロ歌手たちの互助会なんだから、そのメンバーによるコーラスがこれでは、面目が丸潰れなのではなかろうか。

そのほか、作品の深読み的なことに関しては、次の項に譲る。
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2007/2/11

アシュケーナージ N響 マラ4 2/11  演奏会

音楽監督のアシュケナージを迎えた、N響のA定期を聴いてきた。オケ自体がそうだが、このアシュケナージは指揮ぶりが格好悪く(細かすぎる)、職人的なニュートラルな仕事ぶりも、彼のピアノ演奏と同様にマジメ一徹なので、いろいろと厭味を言われやすい人だ。しかし、私は、アシュケナージは指揮者としても優れていると思う。

といっても、その体験は録音が主であって、実演は2回目である。前回は、例の大掛かりなスクリャービンだった。N響自体が久しぶりで、昨年4月のデュトワの「ファウストの劫罰」以来である。

今回は、マーラーの4番が、かなり満足のいく演奏であった。両端楽章が素敵な演奏だったが、とりわけ演奏が始まって5秒ほどで、ワルツ風のリズムで(第1主題の)ヴァイオリンが出るとき、そのリズムの見事なはまり方には深い感銘を受けた。さすがアシュケナージは、ピアニストとして、この上もないほど精確なピアニズムを誇っているのだから、こういうリズム感は、指揮者となっても身体に染み込んでいるのだ。こんな芸当ができるなら、J.シュトラウスのプログラムなんて、すごく上手に弾くのではなかろうか。

いくつかブログなどで感想を目にしたが、「中庸」という意見が主流だろうか。確かに、奇抜ではないが、それがノーマルで、面白くないという意味ならば、反対である。少なくとも、この第1楽章はアーティキュレーションもきれいで、よく整理された演奏である上に、かなり捻ったユーモアも醸し出していて、起伏に富んで、鋭い知性が輝いた演奏であった。

前プロのモーツァルトが室内楽的だっただけに、その方向でマーラーもいくのかと思っていたが、マーラーでは、かなり押し出した音楽が聴かれ、アシュケナージは予想がつかない。最初の楽章のおわりでは、打楽器がチリンチリンと、ひっきりなしに電話が鳴るような感じで打ち鳴らされるのを、「(死んでしまったからには、こんなことも)もう、おわり!」という感じで、強引にぶっちぎるユーモアが発見されて興味ぶかかった。マーラーは当時、作曲家としては評判芳しからぬも、指揮者としてのキャリアは絶頂。せわしない日常から、脱出したかったのかもしれない。

終楽章は、クララ・エクの独唱が素晴らしくて感動した。2003年デビューの若手で、日本では無名にちかいのも無理はないが、必ずや頭角を表すであろう。スザンナで歌いはじめて、既にこんなにも成熟した声を手にしているということは、多分、たっぷりと研鑽を積んでからの、遅めのデビューだったに違いない。彼女ならば、是非、「大地の歌」が聴きたかった。よく鍛えられた清らかな声をもつが、要所で上品なヴィブラートをかけて、マーラーのテクストの諧謔と、艶っぽさみたいなものを、うまく醸し出していた。ディクションもしっかりしているように聴かれ、強弱や軽重のコントロールも自在だった。

オーケストラのほうも、第3楽章でやや落ちたのを取り返して、丁寧で、ときに弾けるようなアンサンブルで、ソリストを支えた。ぐっと抑えて、ソリストの声を優しく包みながら、減衰していく最後の部分は、歌詞とは裏腹に、どこまでもうら悲しい感じで、残るファゴットの響きが孤独である。終演後、しばらく静寂が続いて、良い雰囲気だった。

第2楽章は響きが美しく、ニュートラルでいかにもアシュケナージらしい。第3楽章は全体にやや疲れ気味で、ヴァイオリン音に艶がなく、縦もあわなかったり、すこし持ち直していた金管がまた崩れだすなど、あまり聴き心地がよくない。全体としては良い雰囲気なのに、なんとも惜しい。この日は、モーツァルトで特に顕著だったが、N響自慢のホルン隊がどうもいけない。

前半のモーツァルトの交響曲第25番は、オーケストラを聴くぞ・・・と思って来た人たちには、肩透かしを食わすことになったろうが、自分としては好きな演奏だ。あのボッセが(KSTで)醸し出したようなドラマティックさはないが、室内楽的にまとめられた演奏は、独特なものであった。これでこそ、開演前に室内楽をやった意味があるのだ。この巨大ホールでは、機械仕掛けのオルゴールのようになりかねないところだが、一歩手前で踏み止まった、としておこうか。音色も明るめで曇りがなく、これでホルンがしっかりアンサンブルに解けてくれれば、申し分なかった。結尾の荘厳さも、なかなか乙なものであった。

3月はおやすみなので、今度のN響は4月となる。まだ決めていないが、前回来日で独特のブル6を聴かせてくれたマティアス・バーメルトが、歴史的な名歌手であるアンナ・トモワ=シントウとつくる「4つの最後の歌」に注目したい。
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