2007/2/26

新国 さまよえるオランダ人 2/25  演奏会

新国立劇場のワーグナー「さまよえるオランダ人」、初日の公演を観た。劇場としては、手応えのある歌手を集めての自信のプロダクションであるようだ。ただし、演出には、若手のマティアス・フォン・シュテークマンを抜擢した。管弦楽の東響を率いるのは、手堅いミヒャエル・ボーダーである。まだ初日ではあるが、どんどん内容を書いていくので、これからご覧になる方が読まれることがあれば、そのつもりでどうぞ。

全体の印象としては、よくまとまったものであったと思う。これで素直に感動したといえないのは、なぜなのか。歌手陣は、ここのところ素晴らしいレヴェルを維持しているコーラスを含めて、特筆できる出来であったと考える。話題のウーシタロは、思いの外、繊細な歌声であった。声量よりも、フォルムの堅固さが印象的だ。彼の演じるオランダ人は、かなりナイーヴな感じであるが、ダーラントたちに初めて出会ったときや、ゼンタと初めて顔をあわせたとき、はっきりオーラを感じさせる高貴さも持ち合わせている。

第1幕、彼を中心に、男ばかりのアンサンブルが繰り広げられるが、ウーシタロと、ダーラントを演じる松位浩の2人で、じっくり織り上げていくドラマは、なかなかに緊張感があった。この松位は海外を拠点としており、あまり知られていない歌手であるかもしれないが、外国人に引けをとらない立派なバス歌手であった。また、舵手役の高橋淳も、気張っていた。この華のない舞台で、一際、目を惹いたのがオランダ人の衣裳であった。鬱屈とした深い黒と、エレガントな光沢を保った白のコントラストが美しく、ゴージャス感のある衣裳がウーシタロの張りのある体を、華やかに彩っていた。あとで現れるゼンタの衣裳も、胸もとのナチュラルなラインから、下半身に向けてふっくらと広がっていくワンピースがチャーミングだが、ひびのこづえのデザインは、はんなりして落ち着きがあるのに、それをまとう人物を優しく、華やかに飾ってくれる。

第2幕以降は、ゼンタに焦点が絞られているようだ。今回は、オランダ人が救済される演出が選ばれているが、その括弧つきの「救済」は、もちろん、ゼンタによるものである。シュテークマンは最後の幕で、舞台奥にオランダ船を立体的に競りあがらせ、舞台手前からタラップを渡しておき、乗り込めるようにした。オランダ船についた階段であがっていくと、てっぺんに舵が付けられている。フィナーレでは、オランダ人ではなく、ゼンタがここにあがって船を沈めるのだから驚きだ。

最近の演出では、精神病院に入れられたり、散々な解釈をされてしまうゼンタであるが、そうした「痛さ」は控えめで、なにか崇高な使命にとりつかれて、真っすぐに進んでいく少女という感じ。この役を演じたアニヤ・カンペの声の張りは、ときにウーシタロをも制するほどだ。指先までピンと伸びた指が、いやにチャーミングであった。エリックの言葉にいらっとして、糸紡ぎ車をまわしてみたり、芸も細かい。第2幕の冒頭で、くるくる回って、衣裳のチャーミングさをアピールするが、この衣裳がゼンタの印象を健康的なものにする。

エリックのエンドリック・ヴォットリヒもさすがだ。今回の上演は、声が立派なわりには、ウーシタロ、ヴォットリッヒともにナイーヴであるのが、ポイントであるかもしれない。ヴォットリヒはより直線的な歌で、キレのいい歌唱をする。今回のキャストでは、もっともつよい好感をもった歌手である。彼が魅力的であればあるほど、ゼンタの行為(救済)に奥行きが出てくるのだ。

オランダ人は最初の幕の独白でもわかるように、深い不信のなかで、神さえも信じられないところまで来ているのだ。エリックもまた、不信に陥る。ゼンタは、ここでオランダ人だけを救済したのではない。彼女の死は、同時にエリックの不信を刺し貫くのである。なぜならば、その犠牲の大きさにより、自らの不信がいかにつまらぬものであったかを、この男は気づくことになるからである。だが、その救済は副次的なものである。

結局、このおぞましい出来事のために、舞台上に残されたのはオランダ人だけだ。幽霊船も、何もかもが取り除かれ、舞台は空っぽになった。今回の演出で、オランダ人は岸に残っていた。かくして、彼は幽霊船のなかで静かに消えていくのではなく、ゼンタの犠牲を地に足の着いたところで、受けとることになる。彼は、女の誠実な愛情と、安らかな死とともに、寄る辺となる故郷を求めていた。だから、シュテークマンはこうしたのだろう。故郷がなければ、本当の救済とはいえない。そして、こころから彼女のことを欲しいと願ったエリックも、娘にこの上もない愛情を注いだダーラントも、その犠牲をまともに受け止めることはできない。オランダ人の苦しみだけが、その救済に値する本質的なものを持っている。

コーラスは、第3幕の歌合戦のところと、第2幕の糸紡ぎのところで、普通とはいえない素敵な歌唱を聴かせてくれた。とりわけ、歌合戦は舞台上の歌い手たちの充実感がよくわかる愉悦的なものであり、フォルムが崩れる寸前になって、ややクスリとさせられたものの、こうしたパフォーマンスはなかなか見られるものではない。なお、オランダ船側の歌にはPAを使用した。

さて多分、私が「感動的だ」といえないのは、オーケストラのせいであると思う。東響はピットに入れるメンバーとしては、かなり豪華な顔ぶれを集めて、この公演にかける意気込みを感じさせたものの、久しぶりのオペラ舞台で、いまひとつ乗り切れていない感がある。特に、ホルンはハミル、甲田の両主席に、バンダにも竹村首席を使っているにも関わらず、いつもの演奏会では考えづらい出来におわっている。回を重ねるごとに良化していくとは思うが、初日の出来は6割というべきだろう。なお、マグデブルク歌劇場の山下洋一が、コンマスに迎えられていた。
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2007/2/25

日本の作曲 21世紀へのあゆみ 室内楽の諸相X 2/24  演奏会

この日は、マチネは「兵士の物語」、ソワレは日本の室内楽という一日だった。現代の作曲家にも多大な影響を与えたストラヴィンスキーと、現代の室内楽の聴き比べは、なかなか興味ぶかい。このシリーズは1998年から続いてきた企画で、今年の4本のコンサートで締め括られることになっている。こうした蓄積があるだけに、曲目としても奏者としても厳選されたソワレの方も、ストラヴィンスキーの名品にも負けない実力を示した。

特に、クァルテット・エクセルシオの演奏した2つの曲は、特に魅力的に思えた。前半の最後に演奏された、三輪眞弘の弦楽四重奏曲「皇帝」は、同じニックネームをもつハイドンの作品の主題を使っての変奏曲だ。このハイドンの名品はドイツ国家ともなっており、2000年の作曲当時、日本の国旗・国歌の法制化が問題となっていたことへの視点を含んでいる。そのためか、おわりのほうに、僅かに「君が代」の最後の部分が聴かれる。

作風としては非常に聴きやすく、ライヒのミニマリズムの影響が色濃く感じられる。エクセルシオの一本一本が粒立ち、コクのある音色が、この楽曲の表現にふさわしい。特に、最初のテーマの演奏が、全体の美しさを底から支えている。また、彼らの明るめの音色が、三輪がコンピュータ・プログラムとの対話で紡ぎだした響きの組織化を、生き生きと描き出すのが爽やかだった。後半、急に変奏が動かなくなり、明かりを絞っていくと赤い光がクァルテットを照らし、幻想的な雰囲気だ。そのまま終わるかと思いきや、再び変奏が動きはじめ、「君が代」の断片を挟んだりして、僅かに持ち上げたところで演奏がおわる。

最後に演奏された野平一郎の弦楽四重奏曲第2番は、もともとアルディッティ四重奏団のために書かれたこともあり、複雑に散らされたクラスタを形にして、響きとして聴き手に伝えるのは、そうそう簡単な曲ではない。技術的に難しいのは当然としても、深くて理知的な解釈と、作品に対する素直な共鳴(パッション)がなくてはならない。その2つをエクセルシオはしかかりと持っていたばかりか、彼ららしい表現の明晰さで、作品の魅力をダイレクトに客席に届けた。

その作風は多様にして、よく束ねられている。プログラムの解説にもあるように、全体としては一筋にびっちりと貫かれた印象があるものの、音楽の変わり目のタイミングや角度のつけ方が絶妙で、そこに野平らしいシャープなラインが象られており、一刻も気を抜くことができない緊張感が特徴としてあった。エクセルシオの演奏は、そうした特徴を颯爽と弾き上げて、迷いがない。アルディッティにも負けない、素晴らしい演奏であろう。作品としても、この野平の作品が、一歩抜けているように感じられた。

藤家渓子の「深々と」は、笙とヴァイオリンが様々な角度から睦みあい、場面ごとの表情が実に楽しい佳曲であった。今回は石川高の笙と、大谷康子のヴァイオリンによる演奏だが、いずれも紛れのない清楚な美しさで、この曲を上手に表現してくれた。楽曲は、2つの楽器のズレや重なりをいろいろにいじって、次々に表情を変えていくのが面白い。前半がつとに魅力的で、日本的な雅楽のような響きを笙はもちろん、ヴァイオリンが真似してみたり、それが次第に中国風のものに移り、そのうち蒙古のステップを思わせるような響きが出たり、果ては笙がパイプオルガンの響きに姿を変えて、欧州まで届くような感じもちらりとみせながら、世界旅行をしている気分だ。

この作品は多分、笙の奏者との綿密なコミュニケーションがなくては生まれない作品であり、そのような貴重な時間に恵まれた作曲者の幸運に想いをいたしたものである。これは、あとで触れる筝の作品についても言える。

山田泉の「素描 ヴィオラ・ソロによる」という作品は、ヴィオラの甲斐史子が全身を使った表現で、この曲のなかに秘められたエネルギーの動きを、しっかりと感じさせて見事な演奏だった。久留智之の「オーガニック・モーションズU」も、演奏者の千葉純子の見事なタンギングなどが印象的で、こちらはもう、千葉が楽曲の持てるもの以上のものを、しっかりと印象づけていた。北爪やよいの「はる なつ あき ふゆ」は、矢川澄子の10の詩に、筝と演奏者による謡で付曲されたものだが、こちらも、伝統的な日本の芸能を知り尽くした草間路代の、重厚なパフォーマンスが見ものだった。

どの作品も聴きごたえがあり、この分野がクラシック音楽のレパートリーとして、まったくと言っていいほどに開拓されていないのは、残念でならない。素敵な演奏会であった。なお、会場は紀尾井ホールである。
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