2007/1/24

阪哲朗 シュトゥッツガルト歌劇場を指揮(予定)  ニュース

雑誌「ぶらあぼ」の海外公演の一覧を眺めていると、誰がどんなところで活躍しているかがよくわかる。ここにも、日本人の歌手の名前は、よく見かけるようになってきた。ロンドンで常連となっている藤村実穂子は当然としても、ウィーンで当たり前のように主要キャストに名前を連ねるようになった、バリトンの甲斐栄次郎。イタリアで活躍して、日本公演で見事な凱旋も飾った中島康晴などである。そして、ゼンパーオーパーへの出演が決まっている森麻季が、今後、ここに加わってくるのであろうか。

だが、世界の'OZAWA'と大野和士を例外とすれば、指揮者の名前はなかなか挙がってこないのが現状である。ところが、シュトゥッツガルト歌劇場の公演の指揮者として、阪哲朗の名前が現れた。目下、アイゼナハ歌劇場のポストに就いている阪だが、なかなか、その風聞は聴こえてこない。マネジメントのページによると、現地での評価は高いらしいが、一方、アイゼナハ歌劇場の予算が6割も削減されるという、厳しい便りも届いている。

さて、阪哲朗は当地では、ブザンソン・コンクールでの優勝経験があるせいか、フランスもの、もしくは、パリに集った作曲たちの作品が得意だとみられているのか、そのような曲目の指揮機会に恵まれているようだ。シュトゥッツガルト歌劇場で指揮する演目も、ドビュッシーの歌劇「ペレアースとメリザンド」である。最初の公演が4月29日なので、キャストなどは記載がないが、欧州でも売れっ子といえる演出チームであるヨッシ・ヴィーラー&セルジオ・モラービト演出のプレミエを任されるのだから、劇場としても阪のことを高く買っていることが推察される。4月おわりにプレミエを開けて、6月に再演する予定だから、勝負がかかる演目のひとつであろう。

実を言うと、下野に焦点を移す前は、阪に対して注目を置いていたこともあり、このニュースを取り上げてみた。1月のシティフィルのコンサートを逃したので、今年は関東では、秋の日生劇場の「天国と地獄」(但し、日本語上演)しか聴くことのできる機会はない。阪のオッフェンバックは面白いし(新国で『ホフマン物語』を2度にわたって指揮)、日本語上演でも楽しめるかもしれない。

阪は、かつてポストに就いていたベルリン・コミュッシェオーパーでの評価も高かったと聞くが、今後のアイゼナハでの活躍も楽しみである。苦難を乗り越えてほしい。今後、オペラでは「ボエーム」を指揮するという。
0

2007/1/24

プッチーニの世界 A  クラシック曲目分析室

トゥーランドットを読み解くとしたが、その前に、もうひとつだけ書いておくべきことがある。それは、プッチーニの描く女についてである。

オペラ作品は、女でもつ作品が多い。そのなかでも、プッチーニは、レヴェルの高い女と、それに及ばない男という構図が、ほとんどを占めている。ミミ、マノン、マグダ、トスカ、蝶々さんという魅力的なキャラクターに、あのいけ好かないピンカートンや、ぱっとしない屋根裏部屋の男たち、結局はマノンを守りきれないデ・グリューなどを並べてみるといいが、女たちは、それら不明な男たちのために、その貴い運命を縮めることが多い。惜しむべきことだ。

ところが、「トゥーランドット」は、いささか趣がちがう。トゥーランドット姫は、確かに強烈な存在ではあるものの、上に挙げた女たちと同じように、魅力的であるとはいえない。むしろ、男の愛情に対して、姫はかなり傾げたイメージを抱いており、カラフが、その誤ちを正すのである。男が、女を導くという構図は、プッチーニの作品では、ほとんど例外的である。

この作品で、わからない点はふたつある。まずは、カラフが、なにゆえ姫に恋をしなければならないのか(つまり、姫の魅力とはなにか)。次に、リューの死と、カラフ・姫のあいだの愛の成就とを、どのように考えるかである。いずれも、難問であろう。とりわけ、リューの愛がいかに真正のものであっても、それを受け入れることなく、姫への感情を貫くカラフの姿は、私には理解しがたい。そこへもってきて、アルファーノ・エンディングと、ベリオ・エンディングの問題が出てくる。この2人の音楽の、どちらがプッチーニの考えた世界に、より近いのであろうか。いまのところ、一応、次のような見解を持ってはいる。

姫への恋は、落ちるところまで落ちた境遇に飽き飽きしたカラフが、ほとんど破れかぶれに挑みかかったものであり、本当の愛情ではなかったのに、いつしか、それが真正のものであるように思い込みはじめていた。しかし、リューがこちらこそ、まさしく真正の愛情と呼べるものに殉じて斃れたため、カラフはようやくにして目覚め、姫への愛情が本当のものではなかったことに気づく。カラフは死を願って、姫に自らの名を告げるが、カラフの情熱と、リューの想いを受け止めた姫は、結局、カラフの存在を受け容れることにする。カラフは、その大胆な決断に驚く。かくして、カラフと姫はすれ違いながらも、互いに対する尊敬により結びつけられることとなる。ゆえに、アルファーノよりは、ベリオのエンディングが、より複雑な2人の関係を象徴して、好ましい。大筋を示せば、このようになる。

では、カラフは本当に、トゥーランドットを「導いた」のだろうか。私は、そうは思わないのだ。なぜならば、作品のクライマックスを導く「この方の御名は・・・『愛』である!」という台詞は、カラフが姫に教えたものではないからだ。カラフはただ、死にたかっただけである。リューの真心に気づかず、姫のほうに奔った時点で、彼は間違いを犯したのだ。それを、姫が救った。余計なことを・・・と思ったかもしれない。2人のその後の関係も、恐らくは難しいものとなろうし、死ぬほうが、よほど問題は簡単なのだ。

元来、ヴェリズもから始まったプッチーニの作品は、大体、ヒロインが死ぬこと終わっている。「エドガール」「マノン・レスコー」「ボエーム」「蝶々夫人」「アンジェリカ」など、ことごとくそうだ。死ななくても、「つばめ」は相当に寂しい悲恋で終わるし、「外套」もグロテスクな終わり方をする。トゥーランドットも、リューの死があるが、それだけで終わらない点が、ほかの作品とちがう。カラフは、苦しくとも生きることを選択することになるのだ。まず、そのことが重要だ。

それと、もうひとつ言うべきことは、この作品は終始、言葉をめぐるものだということだ。プッチーニの描く人物は、リアリティが強いということを前のエントリーで述べたが、「トゥーランドット」だけは例外である。カラフもリューも、姫も、よくわからない。それは、プッチーニが人物造形に失敗したのではなく、そういうことが重要でない作品だということを示しているのかもしれない。つまり、この作品は、登場人物が発する言葉の丁々発止にこそ主眼があり、その美しい対応をいかに歌いきるかが先決であって、それがキャラクターを超えてしまっている奇特なドラマだということである。

詳しいことは書ききれないが、有名な「誰も寝てはならぬ」のアリアで、直前の民衆の嘆きの言葉をを切り返して、カラフがいかに見事な台詞を吐くかに注目するといい。こういうのは、ちょっと珍しい。ふつうなら、主要人物同士のやりとりから、名台詞が生まれてくるはずだ。ところが、このアリアでは、姫の非道な命令の言葉を捉えて、すぐさま「姫さま、貴女もそうしていらっしゃることでしょう」と鋭く切りかえし、むしろ、自分のことを想って、星空を眺めているだろうと歌って、聴くものを驚かせるのである。ふつうなら、どうしよう、ばれるかもしれない・・・となるところで、カラフは姫の愛情を確信していることを歌うという、そうした部分への驚きこそ、このアリアの眼目である。最高音がしっかり出るかどうかが問題なのではない。夜よ、明けろ。そうずれば、姫の愛が手に入るということを歌うという、その大胆さに聴き手は涙するのだ。

これら2つの要素において、「トゥーランドット」はプッチーニ作品の中でも、特別な位置を占めている。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ