2007/1/20

日フィル 小林研一郎が退任  ニュース

日本フィルと20年ちかい関係を温めてきた小林研一郎が、今年度末の任期満了とともに退任することが発表された。1988年に首席指揮者に就任し、1990年から途中に間をあけて2度、常任指揮者を務めたあとは、2004年に音楽監督となり、その人気をひとりで支えてきたともいえる小林研一郎氏が、この3月をもって同職を退任する。ソースは、同団のホームページ。予想はしていた事態だが、今後の日フィルがどのように舵をとるのか、注目される。

小林の功績について、私が解説する必要はないと思う。日フィルにとっては精神的な支柱であり、日フィルといえばコバケン、コバケンといえば日フィルという関係を築き上げ、多くの固定ファンを獲得した。特に、自ら作曲もする才人でありながら、敢えて演奏曲目を厳選し、じっくりと煮込みあげて、常に謙虚な音楽づくりをみせてきた姿勢には、多くのファンが共鳴していた。聴衆や奏者たちを立てて、自らは屈み、ともに歩んでいこうとする小林の音楽的なスタンスは、「市民とともに歩むオーケストラ」の象徴として相応しく、また、世界的にみても、ほとんど例をみない指揮者のあり方である。

退任後も、小林の登場は多く用意されているようであり、いきなり、ぷっつりと関係が途切れてしまうことにはならない。任期中、特に注目されるのは、来週の定期においてプログラミングされているマーラーの9番であろう。小林のマーラーというと、3番と5番、それに1番が得意であるとされる。9番はご存じのとおり、マーラーのシンフォニーでも、とりわけ複雑な曲目であり、メインストリームとなるパートを浮かび上がらせていく、小林のわかりやすいスタイルには乗りにくい面もある。むしろ、情報量の豊富さが重要となる曲目である。私は、そうした小林のスタイルには十分共感しない面もあるが、しかし、なんやかやと言っても、コバケンは凄いのである。

なお、スケジュールどおりにいくと、任期中、最後に演奏されるのは、大晦日の記憶も鮮烈なベートーベンの交響曲第7番となる見込みだ(3/23 名曲コンサート)。

これは推察にすぎないが、後任がすぐに発表にならないところを見ると、当面は、トップを置かないままシーズンを送るのではないだろうか。そうであっても、沼尻竜典が正指揮者として残るし、客員首席指揮者/ネーメ・ヤルヴィ、首席客演指揮者/イルジー・ビエロフラーヴェク、名誉指揮者/ルカーチ・エルヴィン、ジェムズ・ロッホランといった指揮者陣が控えているほか、関係を温めてきた客演陣が公演を支えてくれるだろう。

小林は今後、4月にN響の指揮台に再び上がることが決まっており、得意の「幻想交響曲」を演奏する。なお、意気盛んである。
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2007/1/20

下野竜也 都響定期 松村禎三ほか 1/19  演奏会

期待が高すぎただけに、今回は、十分に納得がいっていない。しかし、良いコンサートであったことは、間違いないだろう。特に、松村禎三のピアノ協奏曲第1番を、望み得る最高レヴェルの演奏で聴けたことは、それだけで喜びであった。

都響の「日本管弦楽の名曲とその源流」と題した定期演奏会/Aシリーズを聴いた。選曲はプロデューサーの別宮貞雄が、日本の作曲家の中でもっとも好きだという松村禎三に焦点を当てたものというけれども、別宮の師匠筋に当たるミヨーと、その友人であったオネゲルが合わされて、どちらかというと、松村ではなく、別宮の「源流」にすり替わっているような感じがしないでもない。

会場は、この日の主役となるべき松村禎三のほか、どこかで見たことのある作曲家や批評家の顔が並んでいるが、その多くは名前が出てこない。私がはっきりわかるところでは、先日のヴィエナ・コラージュの公演で見覚えた一柳慧がいた。

さて、松村のピアノ協奏曲第1番だ。この曲は、容赦なく凄い作品であると、はっきりわかった。特に感心したのは、ピアノとオーケストラの結びつきが、これほどまでに緊密なコンチェルトは見たことがないということだ。この曲は30分程度の単一楽章形式であるが、その全編にわたって、ピアノとオケの緊張関係は失われることがない。単に溶けあうとか、ぶつけあうといった表現では、正しくない。2つのラインは、常に一本の線としての存在感を失うことはないが、それらはときに垂直に交わり、そうかと思えば、平行に響きをピンと張りあったりもする。その関係の複雑さゆえに、弾き手も聴衆も、一瞬たりとも気を抜くことができないのである。

効果的に使われるダウン・グリッサンドは、「ロッシーニ・クレッシェンド」「ブルックナー休止」などと言われる、作曲家たちのもつスペシャリティとして、松村の代名詞ともなるであろう。この曲では、グリッサンドは楽曲の流れを解体し、新しい構造を組み上げていくときの、効果的な装置として上手に機能している。重要なことは、その滑り落ちるようなグリッサンドが、少しも恣意的でなく、ちょっとしたデクレッシェンドのような顔をして、仕事をする点にある。

これに象徴されるように、松村の作品を語るキーワードは、スクラップ・アンド・ビルドだ。もうすこし気の利いた言葉を使えば、諸行無常である。楽曲はオスティナートを多用し、途中まで、一貫した流れで構造物を積み上げていく。だが、松村の場合、先のグリッサンドのような仕掛けにより、それらは「当たり前のように」解体されていくのである。この点は、ライヒらのミニマルにも通じる要素を想像させるが、実際、聴いてみた感じでは、それよりもはるかに厳しい破壊・・・というよりは、消滅運動が、松村の音楽には見て取れる。

前奏曲などは正しく、全編が「消滅」というキーワードに吸い込まれているが、カデンツァなどを挟みながら展開していく、この協奏曲の終盤の部分も、直前のトゥッティの強烈な組織力、激しい全合奏のトレモロなどによって生み出された、エネルギーのほとばしりを丁寧に消していくような仕事に他ならない。最初の曲が「前奏曲」であるとするなら、それは、これから始まることのために用意された何物かではなく、逆に、そのためにホワイトアウトさせられた画面をつくることに主眼があった。そして、この協奏曲では、さすがにまっさらに戻すのは無理であるとしても、中間で胸いっぱいに詰め込まれた響きの強烈さを洗い清め、その厳しさから、聴き手を解き放つ役目を果たしている。

だから、この作品は確かに恐ろしいほど強烈なプレゼンス(厳しさ)をもった作品であるが、聴き手が抱え込めないようなものは、予め楽曲のなかで回収してしまっているために、終わりでは、どこか清々しい感じが生まれているはずだ。しかし、余韻をひく弾きおわりで、しんと静まり返った会場の雰囲気も素晴らしかった。

ソリストの野平一郎は、よくオーケストラを聴いて、ピアノのラインと、オーケストラのラインを見事に接合していたが、決して埋もれることのないプレゼンスの安定感と、どんな複雑な交差の場面でも、頑として、ラインの美しさを守った精確なピアニズムは、特筆に価する。野平自身が作曲家であることも、生きていた。しかし、なんといっても、あたかも耳がピアノを弾いているような、そんな幻覚がみえてきそうなほどに、からだ全体でオーケストラの響きを感じて、手もと、足もとに適切な判断を下していた野平の、聴く力には感服した。

後半は、やや消化不良の感がある。都響はよく弾いてはいるものの、ミヨーとオネゲルに関して、やや腰が低いという感じがして、物足りない部分もあった。特にオネゲルは、置きに行っている感じがして、都響らしくない部分が目についたが、そのため、音楽がこじんまりとして、表出力に欠けていた。指揮者の下野竜也の解釈は面白いのだが、ややオーケストラの喰いつきが悪いと感じられた。

オネゲルに関しては、バス・クラリネットやチューバ、コントラバスといった低音楽器がよく効いており、興味ぶかい演奏ではあった。下野は、オネゲルの暗い精神構造よりも、ミヨーのユーモアにも通じる歯切れの良さを見出させようとした。なお、楽章の最後に、バスとともに「レ」の音を叩くティンパニーは(それ以外では使用しない)、3連の楽器の1つだけを切り離して、コントラバスの隣の前面に配置された。この最後の一打が、妙にあとを引くのはよくわかった。一方、ミヨーについては、下野得意のブラス・パートを特に引き立てることで、なんとか重いからだを持ち上げようとする意志が明確である。

企画の面白さに対して、オーケストラの煮込みの足りなさが露呈しており、限られた時間のなかで、それは致し方ないことであろうが、ミヨーやオネゲルに関しては、楽曲のもつ本来の素晴らしさが、いまひとつぼやけてしまっていた。しかし、その可能性の中心を掴むということでいえば、十分に充実したコンサートであったといえる。

【プログラム】

1、松村禎三 管弦楽のための前奏曲
2、松村禎三 ピアノ協奏曲第1番(ピアノ:野平一郎)
3、ミヨー ケンタッキアーナ=ディヴェルティメント
4、オネゲル 交響曲第5番「3つのレ」

コンサートマスター:山本 知重

於:東京文化会館 大ホール

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