2007/1/14

寺岡清高 ブルーメン・フィルハーモニー 第28回定期演奏会 1/14  演奏会

このページでは、アマチュア・オーケストラのレヴェルの高さについても、積極的に書いていきたい。今年に入って、最初の演奏会は、ブルーメン・フィルハーモニーの28回目の演奏会を選択した。このグループは、年間数回のコンサートをきっちりと続けているので、「28回目」というと、相当に歴史のある印象を与えるかもしれないが、設立は1993年というから、まだ発足から14年目を数えるにすぎない。

さて、今回の演奏会は、新年としては「渋い」ともいえる曲目が並んでいる。

1、モーツァルト フリーメイスンのための葬送音楽
2、R.シュトラウス 交響詩「死と浄化(変容)」
3、シューマン 交響曲第2番

これらの曲目を繋ぐのは、ハ短調からハ長調へという調性の構造であると解説されている。それとともに、死や病気と向きあった楽曲たちでもある。聴きごこちとしてはライトな感じがするのであるが、その内面に光を当てると、ずっと奥まで洞窟がつながっているというような、難しさがある。

ブルーメン・フィルは初めてであるが、柔軟な表現力をもった質のいいオーケストラであった。特に、弦セクションが優秀で、プロオケもさぞやというほどの精度がある。指揮の寺岡清高も生演奏に接するのは初めてであったが、最近、常任指揮者を務める大阪シンフォニカーの演奏をTV視聴した限りでは、しっかりと響きをまとめあげることにかけては、相当なものであるとの印象があった。そして、その印象どおり、ブルーメン・フィルも、丁寧に縄で結わえた演奏で、素晴らしい。

そうした特質が、最初のモーツァルト「フリーメイスンのための音楽」で、まずはしっかりと表れていた。立ち上がりゆえ、アンサンブルにやや硬さがあるものの、葬送音楽であるために、それはさほど難ではない。むしろ中盤に入り、傑作が集まる彼の宗教曲を思わせるように、ゆたかで安息した響きが流れるところの、特に弦のしなやかな動きがいい。この曲は短く、モーツァルトにしては、いささか(死という)素材を持て余している感があって、表現が難しい。その点、今日の演奏は、ハ長調の結びがやや浮き上がってしまったが、中間のメッセージが充実していて、好みの演奏だ。

2曲目は、R.シュトラウスの交響詩「死と浄化」(題名は「死と変容」とするのが一般的かもしれない)これも難曲である。特に、管の弱奏が大事な部分に置かれ、これがアマチュアでは困難になる。当然、この日の演奏も、管のソロが完璧であったとはいえないが、私はそういう場合でも、十全でない部分を補う表出力があれば、問題ないと考える。そして、この日のブルーメン・フィルの演奏は、確かに、強烈な表出力を感じさせる質のいい演奏であったと断言できよう。

特に、内面を乗せた弦の表出力の強さには畏れ入ったが、これに代表されるように、指揮者によって響きのデザインが慎重になされていると同時に、奏者たちもまた、よく考えた演奏をしているのがわかる。その点、ソロに入る奏者たちの及び腰なことはもったいなかった。とはいえ、死と変容のドラマは緊張感を失うことなく、絶え間なくつづき、特に弦の強烈なアタックは、絶体絶命の淵から湧き上がる、この曲の隠されたエネルギーを鮮やかに印象づける。瑞々しいハープの、生の実感。後半は、ティンパニーが弱いながらも、脈打つ心臓のリズムをすっと伸ばし、そこから血液のように全身をわたっていく楽器の響きが、いやに胸に沁みた。

シューマンの交響曲第2番は、数年前、新日本フィルを指揮したブリュッヘンの、驚くべき解像度の高い、エレガントな演奏が忘れられない(間もなく、ブリュッヘンは再来日する)。今回は、それとは対照的に、分離するのではなく、結わえる演奏であった。躁鬱的な激しい動きのある音楽づくりで、冒頭のやや邪険なくらいのトランペットの響かせ方は、多分、意図的なものであると思う。

凄かったのは、第2楽章だろう。アレグロ・ヴィヴァーチェだが、実感としてはプレストに近い推進力が楽しめた。テンポも速いが、音楽の流れに隙のない点と、響きを離合集散してオーガナイズしていくところに、キレのあるところが、その勝因である。メンデルスゾーンを思わせるような響きの渦巻きが、この演奏では明確であり、ベートーベンのような響きの厳しさが、同時に前者の緊張感を引き立てる。

第3楽章は序盤の鬱蒼とした響きが強調されており、前楽章までの躁状態が、そっくり反転させられている。最初のオーボエのソロが魅力的で、それに重ねられていく各楽器の響きが、やや暗めに傾けられているのがポイントである。トリオはバロック的に弦のメカニカルな動きを刻むと面白いのだが、寺岡は、殊更バロック風に仕上げるつもりはなく、むしろ、管の音色をたっぷり聴かせながら、ゆったりとロマンティックに運んでいく。

第1楽章には「耐える」という意味があるソステヌートを置き、この楽章では、「アダージョ」という静かな曲想に、「エスプレッシーヴォ」(表情ゆたかに)という相反する要素を置いて、シューマンは自らの精神の闘いを象徴しようとしているかのようだ。だが寺岡は、その部分を明るさというものに置き換えるのではなく、例えば、病床にみる窓外の小さく可憐な花のような、暗さの中のほんの小さな光で照らしていくことを選んだのかもしれない。

終楽章は、またしても躁に戻る。とはいえ、第2楽章で指摘したメンデルスゾーンの素直な要素が、ここでも表れており、聴後感はきわめて爽やかである。この楽章の演奏は第2楽章同様、アグレッシヴな推進力のある演奏であったことが特筆される。やはり弦の輝きが素晴らしいが、寺岡のアクションに合わせて、力強いフォルテのなかにグイグイとうねりを作ることもできるし、ともすれば、音符の動きのわりに平板になりがちなのを、メリハリのあるフレージングで丁寧にアピールした。ティンパニーの強打からやや減衰気味に閉じられるフィナーレは、長大なコーダの展開で弦管のバランスが素晴らしく、それが圧倒的な緊張感を生んでいたことも記しておきたい。

このグループは、この日の指揮者、寺岡清高の呼びかけで発足したという。以後、様々な指揮者を迎えてはいるが、寺岡とのパートナー・シップは大事に温められているようで、今回も、彼らの関係がマンネリに陥ることなく、むしろ、相互の信頼として醸成され、心技にわたって、絶えることのない成長を続けていることが、はっきり読み取れるコンサートであった。ブルーメン・フィルのメンバーはまだ若いようであり、これから、どのように育っていくかが楽しみなアマオケである。

 於:杉並公会堂 大ホール
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