2007/1/30

オペラ彩 トゥーランドット 1/28 B  演奏会

ところで、ここの記事は公演そのものにはあまり関係しないが、プレビューの「プッチーニの世界」シリーズの続きとして読んでもらいたい。

プッチーニは、意外と皮肉屋なところがある。それは、「ジャンニ・スキッキ」を見ても明らかであるが、私のみるところ、自分たちのやっているオペラそのものに対して、かなり批判的なところをもっている。例えば、「ボエーム」の第3幕では、フランス・オペラでは決まりごとのように、オペラのおわりにバレエ音楽が付けられるのを皮肉って、屋根裏部屋の男たちにアイロニカルな会話をさせている。

この「トゥーランドット」にも、そういう部分がある・・というか、大いに、その要素が含まれている。一番はっきりしているのは、何気ないコメディのような第2幕の、ピン・ポン・パンの会話であるし、全幕にわたる群集の反応もわかりやすい。ここは姫の乱行を、オペラ作家の乱行に当てはめて考えれば、よくわかるだろう。プッチーニは、ヴェリズモの作曲家だ。ヴェリズモは、結局、人が死ぬところを、どれだけエキセントリックに描くかにかかっている。そして、その人が不幸になるところを、やめろ、非道徳的だとか言いながら、楽しむのが観客なのである。これは、第1幕でペルシャの王子が殺されるとき、可愛そうだ、お慈悲を・・・などと言いながら、最後にはやれ、やれとなる群衆の姿と、どこが違うのであろうか。

無論、より責任があるのは、トゥーランドット=オペラ作家のほうであるが。

ピン・ポン・パンは、中国はどうなってしまうんだ。栄えある一族は滅びてしまったといって、郷愁に浸るアンサンブルに移るが、「中国」を「オペラ」に代えてみればいいだろう。すると、ロウ・リン姫の一族は、「イタリア・オペラの伝統」ということになるかもしれないのだ。ここでプッチーニが、その「伝統」をどこからどこまでと考えているかは興味ぶかい問題だと思う。果たしてプッチーニは、ヴェルディをどのように評価していたであろうか。殺されたロウ・リン姫は、ヴェルディなのであろうか。それとも、ロッシーニであろうか。もしかしたら、モンテヴェルディあたりまで遡らねばならないのか?

ロウ・リン姫の筋に当てはめて考えれば、イタリアのオペラは、異国の王子の手によって犯され、闇に葬られたとなる。もしも「異国の王子」がワーグナーだとすると、ヴェルディも地位も危うくなるかもしれない。それとも、ロウ・リン姫がもうすこしあとのブゾーニだとすれば、ヴェルディは良き伝統のほうに残れる。微妙な立場である。この場合、「異国の王子」は他国の誰かというよりも、ブゾーニの抱いた創作哲学のすべてを指すことになりそうで、より複雑な議論になろうかと思う。このあたりは、はっきりしたことが言えない。

異国の王子のことはしばし忘れて、とりあえずヴェリズモに対しては、これは断定的にいうべきだが、プッチーニはあまり良い方向だと思っていないか、もしくは、根本的なブレイク・スルーが必要だと感じている。それは、リューの扱いでわかる。もしも、彼女がサントゥッツァならば、自分を置いて姫に奔ったカラフを憎み、その名前を告げ口したにちがいない。姫や、ピン・ポン・パンや、北京の市民たちはそれを願った。だが、リューは秘密を守り、それがあなたのためになるなら・・・と言って、死んでいくのである。リューの死自体がヴェリズモ的な要素だともいえるが、微妙に、期待を外していることに、気づくべきだろう。そして、「プッチーニの世界 A」でも述べたように、ドラマは「生きる」という方向へと傾いていくのだ。

プッチーニはまた、ピン・ポン・パンとカラフのやり取りで、決意を挫くためとはいえ、純愛的なものを否定する考え方も披露している。これは結局、「この方の御名は、愛である!」で締め括られる作品自体にもあわないし、「ボエーム」や、その他の作品でのスイートなドラマを作る、プッチーニのイメージにも合致しない。だが、よくよく考えてみると、ミミやムゼッタの恋愛には裏があり、蝶々さんのこころも、ピンカートンによって裏切られるではないか。

例えば、ヴェリズモでいえば、相手を好きなことに理由が要らない。盲目的に好きで、一緒にいられないなら死んだほうがまし。裏切られれば密告し、殺してやるという世界なのである。このある意味で単純な人間関係は、プッチーニ独特のリアリティからすると、相容れないものであるように思う。

プッチーニの「トゥーランドット」は、男女の恋愛関係において、その複雑さを語ることにおいては、モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」に肩を並べた、唯一の作品であるといってもいい。トリスタン 'und' イゾルデの機能的な、あまりにも機能的な関係の究極に対して、プッチーニは、男女の関係のリアルさを追求する。カラフ「と」トゥーランドット、カラフ「と」リューという、その「と」のなかに含まれる、関係の複雑さこそが、プッチーニの描きたかった'e Amor'の正体なのである。

大晦日に三枝氏が言っていたように、イタリアの知識人がプッチーニを大衆迎合的だとして批判しているとすれば、それは、プッチーニを正しく理解していないことを示すだけであろう。プッチーニをヴェリズモの中に入れるとしても、マスカーニとは同じにできない。

批評家のフレデリック・ロベール氏は、「オペラとオペラ・コミック」という本(文庫クセジュ)の中で、プッチーニを指しているわけではないが、「新しい道を照らす者は、まず、魅惑することから始める」という名言を残している。これは正しく、プッチーニにこそ、ふさわしい言葉ではなかろうか。彼の場合、「魅惑する者」としての輝きがまぶしすぎて、「新しい道を照らす者」としての役割が覆い隠されてしまっている。だからこそ、人気作曲家なのでもあるが・・・。プッチーニは、もっとも美しい形で、批判をおこなう。それゆえに、彼自身が彼の批判したことの弊に、はまっているとさえ見られることもあるだろう。だが、その実は、誰よりも厳しい批判者というほかないのである。
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2007/1/29

オペラ彩 トゥーランドット 1/28 A   演奏会

前のエントリーのつづきを書く。この公演、既述のように演出は直井研二である。市民オペラの経験豊富で、このオペラ彩でもお馴染みの演出家である。今回は、中国の城の前庭を舞台に、写実的でコンサヴァティヴな演出で、これといった解釈や独特の動きはないものの、最近の流行というべきか、3人1組(×2)のバレエダンスが目を楽しませた。第1幕の前に、銅鑼の音色をときどき聴かせながら、マイムで昔の姫が殺される場面が挿入されたのは独特だ。

今回は、姫と皇帝、大臣以外は貧民ばかり(カラフやリューにしても)なので、衣装を飾り立てる必要がなく、その分をPAにかけた。直井は今回、合唱などが表で歌うべきかどうかにあたまを悩ませたと見えて、かなり多くの部分でPAを使ったが、その意図は汲み取ることができる。エコーをかけたり濁らせたりして、こころのなかに鳴り響く声や、はっきりとは聴こえないうわさ話のようなもの、本当の声か幻想の声かわからないものなどとして、上手に提示していた。銅鑼など、一部、楽器を拾わせる部分もあった。若干、使いすぎだとはいえようが、それが公演全体を台無しにするような質のものではない。

それ以外の部分では、リブレットに書かれた以上の、踏み込んだ解釈などは見られない。その中で面白かったのは、第2幕のピン・ポン・パンの語らいの部分で、郷愁のセンチな回想部分を童心の表れのように解釈し、キャスターのついた椅子を滑らせて、夢見心地に舞台のうえに遊ぶ姿は、いかにも可愛げがあった。あとは、3つの謎が解かれるごとに、姫が上段から徐々に降りてきて、ついにはカラフに見下ろされるようになるのが面白かった。

ドラマに関する私の最大の興味は、リューの死を、どのような形で乗り越えていくかにあるのだが、その点は、直井演出はほとんど何の解釈もしていない。とはいえ、そのことを、敢えて批判する気にはなれない舞台だった。

管弦楽は澱みなく、テンポ的にも早めだと思うが、なにしろ引っ張らないというのが特徴的である。この意味については、前のエントリーで推察してあるので繰り返さない。特に第1幕はからっとした仕上がりで、そのまま第2幕に突っ込んでも、まったく差し支えなかったほどに、前へ前へと音楽が進行していくのは、いささか驚いたが、なるほど妥当な解釈であると考える。

かといって、場面場面の印象が薄いという感じはしなかった。第1幕の最初で父子再会を喜ぶ場面の緊張感が素晴らしかったし、さっきまで首切りの娯楽に息巻いていた群衆が、見目麗しいペルシャの王子に同情する場面は、王子役のバレエが説得力抜群で、歌唱も丁寧なら、ペルシア風の音楽をくっきりと象ったオーケストラも上手で、よく印象に残っている。ここでちょっと姿を見せて、斬られる囚人を一瞥しただけで下がっていく姫の姿も気を引いた。リューのアリアのあと、秋谷の「泣くなリュー」が出色で、特にリューに向かって、残される老父を助けてくれと(身勝手に)頼む場面に力があった。

第2幕は全体のコアとして、今公演では、もっとも重視されていたかのように思える。ピン・ポン・パンのやりとりは、嘆き・郷愁・平和の夢・諦めという風につづくが、特に、夢を語る部分の3人のアンサンブルが、なんとも温かく印象的だ。皇帝とカラフが、去れ、否、試練を受けると言いあう場面も、アカペラの美しい節回しに緊張し、手に汗を握った。

トゥーランドットは、低予算でもゴージャスに、上品に飾られており、並河の姿がとても美しい。だが、最上段の高いところで歌うと、やはり言葉が聞こえにくくなる。このことに、多くの演出家があまり気づいていないか、気づいていても、それに代わる適切な手段を見つけられないようだ。だが並河は、自分がなぜこんな態度をとっているかと演説する場面で、実にシャープで丁寧な歌唱により、十分に説得力のあるところをみせた。カラフが、ちがう、謎は3つで生がひとつなんだ・・というのに対して、姫のほうは謎は3つで死がひとつと主張しつつ、ついに最強奏をうつ場面では、神田がコーラスと管弦楽を燃え上がらせて、並河の声のもつ強靭な部分を引き出したことは、前のエントリーで書いた。

姫の謎かけの部分はすごく上品で、カラフの答えの部分が毅然としていい感じだ。謎が解けたあとは、例のコーラスの素晴らしい山場を頂点に、この日のもっとも感動的な場面が訪れた。第2幕最後の、コーラスとオーケストラのアンサンブルの、この上もない強靭さと、そのアンサンブルの安定感に、再び拍手を送りたい。

第3幕の冒頭は、最高潮に達した第2幕のおわりの緊張感に比べて、やや停滞した感がある。「誰も寝てはならぬ」のアリアは、喉の疲れもあろうが、力が入りすぎた。むしろ、その後、あんなに善良にみえたピン・ポン・パンや、群集が牙をむいて、カラフやリューを責める場面が印象的になる。姫がリューに言い寄って、カラフを売らせようとする場面は、ヴェリズモ的な流れとの対比で面白い部分だが、やや姫の迫り方が淡白だったかもしれない。リューの最期のアリア「氷のような姫君も」は、気持ちのこもった羽山の歌が素敵だったが、あまり強烈にはやらずに、リューの寂しさをぐっと内面に閉じ込めていくような死に方が、羽山の良い面を引き出した。それゆえ、次のティムールの嘆きが魅力的に聴こえたのである。

アルファーノ・エンディングはやや緊張感に欠けるといったが、それは曲のつくりの問題で、ここでのカラフと姫のやり取りは、実は、今回、とても楽しめた。これはやはり、並河が姫の厚い仮面を脱いで、繊細な女の姿を歌うことに長けていたということに、はっきり関係すると思う。それだけに、プッチーニの書いた部分と比べたときに、アルファーノの書いた部分がやや単純に思えた部分もあった。だが、例えば、ダン・ダダン・ダンと打楽器をうって、ついに姫が接吻を受ける場面のつくりなどは、見所もある。

単純な、恋人同士の掛けあいも悪くはない。秋谷も終盤は声に艶が戻ったし、大事な最後の言葉「e Amor」に向けて、並河の持っていき方も素敵だ。「誰も寝てはならぬ」のテーマが再起するため、先程の欲求不満も埋めあわされたし、こういう場面で神田のみせる統率力は、音楽の単純な感動を何倍にも引き立てる。

こうして大きな感動を伴って、劇は幕を閉じた。市民オペラにしては、相当に盛り上がったカーテンでもあったと思う。素直に、成功を喜びたい。
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