2006/11/30

下野竜也 読売日響 サントリー定期 11/29  演奏会

この11月より、読売日本交響楽団の正指揮者のポストに就いた下野竜也が、就任後、初めての定期に登場した。当初から、そのように決まっていたわけではないと思われるが、これが就任披露の演奏会に当たることになった。私としては珍しいミッド・ウィークのコンサートだが、サントリー定期の会場に詰めかけた。

偶然ながら、就任披露には、打ってつけのプログラムだ。バッハの名曲「シャコンヌ」にはじまって、指揮者にとって恰好のリファレンスとなるモーツァルト、そして、下野が力を入れることになると思われる現代音楽(コリリャーノ)。正に、今日から明日へという感じの、未来を占うコンサートになっている。そして、どうやら、下野と読売日響の将来は、明るい希望に満ち溢れているように見受けられた。

まず、冒頭の「シャコンヌ」が素晴らしい。原曲は言わずと知れた無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番の終曲だが、今回は、斉藤秀雄の編曲による管弦楽版の演奏である。立ち上がりは、この楽団としては、ややアンサンブルの精確さを欠く内容で、十分に納得がいかなかった。だが、下野らしく弦の内声や、管の響きを丁寧に聴かせながら弾き進めていくごとに、表現が内側から固まっていくのがよくわかった。

斎藤の編曲は、原曲をいじくりまわすことなく、だしと醤油だけで、素材の味のゆたかさをじっくり煮出したようなものである。だが、使うからには、オーケストラの声部はひとつひとつ大事にされ、その良さがしっかり響きとして織り込まれるような構造をつくっている。下野の演奏は、その声部の多彩さをひとつとして潰すことのない、精細なアーティキュレーションが特長であるが、例えば、第2ヴァイオリンやヴィオラの、普通ならば、合いの手としか見られないような部分をときどきぐっと押し出して、その声部を浮かび上がらせることで、バッハがいかに堅固な響きのストリームを描いているかを、明快に示すのである。この指揮者を今後、生で聴かれる機会があるならば、是非、第2ヴァイオリンとヴィオラに注目していただきたい。

それにしても、読売日響の弦は、やはり凄いものだ。当夜のパフォーマンスは、彼らとしては上出来とはいえない。だが、それでさえ、あれだけのものをみせてくれるのだから、脱帽だ。最弱奏での粘りづよくフレーズを繰り返すヴァイオリン群が、弾力のあるボウイングをしならせて、適度な重みを感じさせながらも、まるでひとつの楽器しかないような響きを聴かせた場面は、息を呑んだ。それがまた、指揮の拍とシンクロして、まるで大量のドッペルゲンガーが下野自身を取り囲んでいるかのような光景も壮観。そうかと思えば、後半のヤマ場では、ワーグナーの幻影がみえそうなほど、堅牢な響きが立ち上がった瞬間もあり、その立体感も素晴らしければ、そこから抜けていくときの滑らかな流れの切り替えも見事だ。

当たり前に響きがスイートな部分よりも、見逃しがちな経過区において、響きがゆたかで、下野のタクトは冴えわたっていた。

この見事な「シャコンヌ」にはかなわないが、モーツァルトの交響曲第25番も、下野らしい真摯な演奏だ。一般的なイメージには合致しないかもしれないが、誰の真似でもない、スコアから取り出したオリジナルの解釈のみに基づいて演奏していることはよくわかり、特徴的な部分も指摘できる。例えば、第1楽章で速めのテンポを選び、オーボエのたおやかなソロを導くときの愉悦感や、アンダンテにおける粘りづよいフラット、メヌエットにおける明るめの響きなど。これらを聴いていると、まるでモーツァルトの自画像のような多彩な表情が、この楽曲に閉じ込められていることがわかる。アレグロでは、ハイドンのつよい影響が感じられ、驚きに満ちた展開の巧妙さと、優雅な響きを紡ぎあげた。

コリリャーノの交響曲第1番は、AIDSにより死亡した3人の友人たちを悼む意味で作曲されたという。いちど聴いたら忘れられない、表出力のつよい響きのプレゼンスが特徴的な作品だが、その点を、下野はよく捉えている。楽曲4楽章制だが、その本体は中心となる3つの楽章で、それぞれ3人の死者の思い出を刻みつけたもの。フィナーレとなる終楽章は、第3楽章に続けて演奏される。

冒頭から、非常に重い音楽だ。中でも、故人の大事にしていたというアルベニスの「タンゴ」の旋律が引用され、その哀愁に満ちたメロディが切なさを倍増させる第1楽章では、叩きつけるような打楽器の悔しさに満ちた表情が、それと鋭く対立し、のっけから胸が詰まるような響きに身悶えさせられる。舞台上と袖の2台ピアノを使って、ドッペルゲンガーのように薄く重ねあわせる発想は、興味ぶかくも悲愴である。

だが、下野という指揮者は、辛いだけではおわらせない。第2楽章では、さらなる犠牲者となった2人めの友人を悼みながらも、タランテッラの躍動感が導入され、純器楽的な面白さも、十分にアピールしていた。そのなかで、溶け入るような弦の柔らかな合奏力が、要所要所でみえないパワーを発していたことに、是非、注目しておきたい。

終楽章は、3人めの犠牲者となった故人が、即興演奏した主題をシャコンヌ形式でチェロが変奏していく構造が中心にあり、おもに室内楽的な響きのシンプルさが強調されている。これが徐々に成長し、送りの鐘が鳴り響く葬送のクライマックスから、フィナーレの回顧に突っ込んでいく。チェロのソロは、名手の毛利伯郎である。その精緻な演奏を中心にして、じっくりと響きを味わいながらの合奏は、透徹としている。そうかと思えば、ときに第2ヴァイオリンの刻みをおもむろに前に出したりして、響きの出し入れが相変わらず面白い。フィナーレは、過去の素材が重ねあわされていくごとに、まるで知っている人間のように、故人たちを懐かしんでいる自分に気づく。響きは成長しきらずに、捻じ曲げられたり、途中で切断される。切ないが、最後の部分は、友人たちとの素晴らしい思い出が、温かいアンサンブルによって押し出されるのは、いかにも下野らしいサウンドであろう。

コリリャーノは、響きが分離的であっても、音がきれいで、柔らかく、親しみやすい。この曲は、その特長を生かしつつも、それがいろいろにずらされて、耳に引っ掛かる響きが、意図的に構築されている。また、交響曲という形式も皮肉で、友人たちをめぐる3つの標題的な、独立した楽章が設えられているにもかかわらず、それらは互いに、巧妙に関係づけられ、発展していくような形をとる。そして、それは発病から病魔に侵され、死を迎え、葬送されるという流れに、きれいに照応しているのである。

だが結局、既に述べたように、下野はおわりにかけて、そのイメージを大逆転している。この曲を表現するには、友人が死んで悲しい、悔しい、AIDSが憎いというテーマが、中心におかれるべきではない。その死によって、いよいよ惜しまれる友人たちの思い出の大切さこそ、コリリャーノが交響曲のなかに閉じ込めようとしたものなのではないか・・・下野の想いは、私に対して、はっきりと伝わった。
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2006/11/29

東京交響楽団の新シーズン  クラシック・トピックス

東京交響楽団の新シーズンのプログラムが、小冊子で発表されています。ここ数年、この手の案内の表紙はシーズン中におこなうオペラのイメージで飾られていましたが、今回は、ヘンツェによる2003年製作のオペラ「ルプパ」の、幻想的なイメージです。ヘンツェというと、一昨年の「裏切られた海」の素晴らしい公演が思い出されます。

プログラムのコアになるのは、前から噂が聞かれていたとおり、ハイドンです。中心となるサントリー定期では、「ルプパ」のオペラ公演を除き、すべての演奏会でハイドンの交響曲が取り上げられています。その曲目は・・・

 101番(時計)、93番、2番、3番、9番

 104番(ロンドン)、94番(驚愕)、25番

 82番(熊)

そのほか、川崎定期で1番が取り上げられる予定です。ハイドンを除いて、演奏会で取り上げられる作曲家をまとめてみようとしたが、あまり目立った特徴はなく、かなり手広く抑えた感じのプログラムになっています。

注目されるのは、ブルックナーの2曲で、4番と7番をいずれも大友さんが指揮することになっています。必ずプログラムに入ってくるマーラーは、1番と4番、それに、ゲルネを迎えての「子どもの不思議な角笛」の抜粋。やはり、大友さんが4番と角笛を振ることになっており、飯森さんが1番です。

スダーンは、古典派にこだわったプログラム。もっとも大きな曲は、モーツァルトのミサ曲ハ短調でしょう。昨年はフランス音楽などにも手をのばしたが、今年は、ベートーベン、メンデルスゾーン、シューベルト、ブラームスなどの曲目に徹することになったようです。特に、シューベルトの「グレート」交響曲の演奏は、注目されましょう。

ゲスト指揮者で注目されるのは、昨年の定期で見事な「惑星」を聴かせた、ラモン・ガンバの再登場です。メインには、意外なショスタコーヴィチの交響曲第12番を据えています。プログラムは2つで、チャイコフスキーをメインに据えたオペラシティの演奏会もあります。新国ピット関連では、同劇場のノヴォラツキー監督の信頼も厚かったシュテファン・アントン・レックが、カペル型の指揮者としては珍しい、コンサート演奏会への登場を果たします。小菅優の独奏によるラフマニノフのパガニーニ狂詩曲もさることながら、メインはハルサイで、オペラとは、まったく関係のないプログラムなんですね。

名曲全集はなかなか手が込んできましたが、若いゲスト指揮者がここに集められているのが目を惹きます。まず、プッチーニの名手、吉田裕史がオペラ系のガッラ・プログラムで登場するのは注目に値するでしょう。6月に登場のマーティン・マズィックは、まったくの無名指揮者といえます。10月に登場のゴロー・ベルクは、30代後半ながらデッサウ歌劇場のシェフで、カペル型の指揮者だが、これから名声を高めつつある人材といえます。「運命」を取り上げる。2月に登場予定のシズオ・Z・クワハラは、今年の東京国際音楽コンクールで、入選どまりだった人。これはもう、青田買いというほかはない。プロコの「古典」とラヴェルのクープランというプログラムは魅力的でしょう。

いろいろ喰いつきどころの多い東響のプログラムですが、その名曲全集の掉尾を飾る演奏会では、「三大ヴァイオリン協奏曲&三大ピアノ協奏曲」と称して、渡辺玲子さんと横山幸雄さんが呼ばれていますが、つごうコンチェルト6つという大企画です。ヴァイオリンは、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、ベートーベンでしょうか。ピアノ・コンチェルトは、何が来るのでしょう。チャイコフスキー、シューマン、ベートーベンのエンペラー?(コメントに、訂正情報あり)

来シーズンの名曲全集は見もので、この年齢で圧倒的な完成度を誇る天才ピアニスト、高木竜馬さんが登場するほか、ミューザ開館直後、小川典子&ストットで見事な演奏を飾ったフィトキンの「サーキット」が再演されたり、スダーンによるオール・メンデルスゾーンなど、中身の濃い内容が並んでいます。

ソリストでは、ケラスを呼んでのドヴォコンが、この上ない楽しみです。アコーディオンのcobaさんが、楽器を弾くだけでなく、自作のコンチェルトを披露するというのは驚きです。これは、「クラシック」なんでしょうか? 現代ものでは、諸井誠さんの作品も取り上げられますし、アスキンという未知の作曲家も楽しみですね。樫本大進のベートーベンは、プログラムの並びによると、協奏曲ながらメインに据えられています。これは、ファジル・サイの「シンフォニック・ダンス」以来のこと。

大友さんの英国音楽への傾倒も大したもので、ペインの補完による「威風堂々」第6番と、交響曲第2番のエルガー・プログラム。そして、交響曲第1番をメインとした、オール・ヴォーン・ウィリアムズ・プログラムと、彼ならではの音楽が楽しみです。

特別演奏会が組まれると思いますが、名曲全集以外では、第九が入らないプログラム構成も独特かもしれません。いま、後援会員なのですが、定期会員に復帰しても良いかなと悩めるプログラムができました。われらが東響に幸あれ!
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