2006/10/15

仙道作三 オペラ「智恵子抄」 in 日暮里サニーH  演奏会

さて、13:00〜17:00まで続いたシンポジウムのあと、オペラになる。登場人物は、智恵子と光太郎の二人のみ。これに、オーケストラがつくわけだが、ピアノとヴァイオリン、パーカッションによる版もあり、今回は、こちらを使用。智恵子はソプラノで、津山恵。光太郎はバリトンで、佐藤光政である。「智恵子抄」の詩をモチーフとしながら、評伝的に2人の愛の遍歴が、事実に基づいて描かれる。

作曲技法は、手馴れているかといえば、そうではない。仙道の作品は、多分にアマチュア的であるのだが、逆に、そこが魅力的なのである。調は解放的で、行ったり来たりという感じ。ドビュッシー的なピアノのラインが現れたかと思うと、あるときはショスタコーヴィチの厳しさが顔を出したり、もっと崩れた音楽になることもある。唱歌のような素朴なメロディ、民謡風の大らかな旋律の温かさ、ワルツの華やかさ。最後者には、あとで仕掛けがある。形式的には雑然としており、統一感はない。だが、素材がいいこともあろうか、不思議に不満が募ることもなく、聴いていて飽きが来ないのだ。

注文としては、もっとふんだんに、詩の中の言葉を使うべきだと思う。作家の山本鉱太郎が台本を書き、物語に仕立てているわけだが、やはり光太郎自身が書いた部分と、そうでない部分では、胸に響く重みがちがう。あれだけ洗練された言葉が並んでいるわけだから、後世の作家の言葉はなるべく控えめにして、なるべく詩集のエクリチュールに合わせなくてはならない。特に、智恵子の台詞はオリジナルが多いわけだが、例えば、詩の一部分を女声にシェアするなどすれば、オペラとしても無理はないと思う。単純にオペラ化するというのでなく、連作歌曲的な感じがあってもいいわけだ。

前半は、光太郎・智恵子の出会いや、その愛の深まりを描くのだが、その部分は詩集にはないものも多く、その一部分のイメージを膨らませて書いたりしているが、台本は光太郎の詩ほど言葉の力が強くないために、引き締まらないで冗長になってしまった。この部分は、わりに音程のぶつかりや、宙ぶらりんなところが多いが、少なくとも津山の歌う智恵子のきっちりした歌唱は、効果的だったと報告したい。難しいところ、複雑なところこそ、しっかり歌わねばならないが、これが難しい。相手役の佐藤の苦労を思えば、彼女の素晴らしさがわかる。津山の真面目な音楽性が、こうした部分で貴重である。

前半では、男声がやや不安定だったものの、後半にいくにつれて、佐藤のほうも本領発揮しはじめる。如何せん、あまり好みの声質ではないが、九十九里の場面など、なかなか身の入った歌唱で泣かせる。智恵子の紙絵を褒める部分や、「レモン哀歌」の歌唱のやさしさ。最後、智恵子の姿を自分の手で彫るんだと決意して下がっていくラスト。ここは、十和田湖の彫像のことを想起させるが、詩集の「裸形」という作品にも同様の決意がある。そこでは「天然の素中に帰ろう」となっているが、オペラでは、(十分聴き取れなかったが、どこかに)沈み込んでいこうという歌詞で、十和田湖の彫像は本当は湖の底に沈めるはずだったという、彫刻家の峯田敏郎の講話とオーバーロードする。佐藤の話に戻ると、終演後のワルツのアンコールなども安定した歌唱が聴けたが、その思いきりがオペラ本番から出ていれば、さらに作品が輝いたことと思う。

ちなみに、アンコールを含め2回演奏されたワルツは、実際は華やかな挙式をあげられなかった智恵子への、仙道の想いをカタチにしたもののようだ。オペラの流れからウェディングドレスでというわけにはいかなかったが、終幕の病床では、パジャマというにはゴージャスな純白のドレスを着用させて、遅ればせながら、花嫁衣裳に智恵子を飾っている。津山がその格好で現れたときは、息を呑んだ。この終幕は有名な「レモン哀歌」を温存し、智恵子退場のあとまで引っ張り、代わりに、光太郎が「あどけない話」を歌うのに、智恵子の苦悶の叫びが重ねあわせるなど、手が込んでいる。

私が確認できたところで、光太郎の詩が導入されたのは、例の「いやなんです/あなたのいってしまうのが」の「人に」、「郊外の人に」「或る宵」(最後の一行のみ)「樹下の二人」「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「値ひがたき智恵子」「山麓の二人」「あどけない話」「レモン哀歌」である。ただし、その一部がカットされたり、恣意的に言葉が削られている場面あり。例えば、「千鳥と遊ぶ智恵子」で「二丁も離れた防風林の・・・」という部分は、この場面、智恵子と光太郎が隣にいる設定なので、「二丁も離れた」という文句は削られている。「レモン哀歌」でも、噛んだレモンの雫を浴びた智恵子が一瞬、正気に戻るという部分がカットされている。こうした部分は、のちの一部の評論によれば、現実からみて矛盾のある装飾的表現と目されているので、その点を仙道が慮ったものであるかもしれない。例えば、二丁(200m以上)も離れた防風林の中で、松の花粉や砂塵が巻き上げられる状況下、しかも、陽の沈みかけた夕方とあっては、光太郎に実際、何が見えたのかは疑問である。

この詩集を読み知っていること、加えて、すこし事情を知らないとわかりにくい部分もあり、その点、いささかの難はあるかもしれない。そうかと思えば、前半のアトリエと展覧会の場などは、いささか説明的すぎるかもしれない。しかし、そうした減点法では語れない作品だ。是非、改訂を期待したい。私としては、智恵子が死んでからのエピソードも入れてほしいし、音楽的な完成度はもっと高められるはずだ。この作品を愛するからこそ、そのように発言しておく。
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