2006/10/14

智恵子抄 シンポジウムとオペラ 10/14  演奏会

高村光太郎の詩集「智恵子抄」は、高校から大学にかけて愛読した書である。また、大学時代にコーラスをやっていたとき、平吉毅州の「レモン哀歌」という作品を歌ったこともあった。今年、光太郎が亡くなってから50年目、また、その夫人、智恵子が生まれてから120年目に当たるそうだが、これを記念して、作曲家の仙道作三をプロデューサーとして迎え、光太郎が幼少期を過ごした日暮里近辺の有志を中心に、荒川区の支援も得て、2人をフューチャーするフォーラムがおこなわれている。

14/15日の両日の間に、仙道作のオペラ「智恵子抄」を連日上演、その前に、それぞれシンポジウム(14日)と、地元の小・中学生による作文・朗読コンクール(15日)がセットになった催しである。そのシンポジウムと、オペラを連続して聴いた。

まず、「智恵子抄」について、少しだけ述べる。この詩集は、高村光太郎がのちに夫人となる智恵子と出会い、結婚し、途中、智恵子が狂気に陥り、死に別れたあとの作品も含め、光太郎が折々、書きつづってきた詩たちをまとめたものである。光太郎・智恵子の類稀なる愛の結びつきを描いた詩集として、つとに名高いが、私はそのことも踏まえて、少しちがう評価をしている。この詩集の大事な部分は、光太郎が木彫で素材に向かいあうのと同じように、光太郎、そして智恵子が、あるときはともに肩を並べて、あるときは、まったくバラバラに、なにかに向かいあう姿のなかにある。特に、智恵子に対して、光太郎がいかに厳しい態度で向きあってきたかということを、慎重に見つめていくと、単純にロマンティックな視点だけでは語ることのできない、ある深さが浮かび上がってくるのである。

2人はまず、社会というものと向きあわねばならなかった。当時、女性の自由はまだまだ相当の限定があった時期である。そんな中、智恵子は古い風習に縛られることなく、自らの言葉を語ることのできる女性として、光太郎の前に力強く出現した。その光太郎もまた、巨匠とされた父、光雲に楯突くような感じで、彫刻家としてのエリート街道から足を踏み外していた。歴史ある造り酒屋の娘と、武士階級の息子という身分や門戸のちがい。女性運動の旗手と目された智恵子の結婚にも、仲間の女性たちは戸惑いを隠せない。2人の結びつきはいろいろな面でいわく付きとなり、決して祝福されることはなかった。40代になってのことゆえ、盛大な挙式もなかった。2人の愛の生活は、こうして様々なものを捨てることによって始まった。

詩集の前半では、こうした背景に基づき、光太郎と智恵子が、いかにして社会からの風圧と向きあい、闘ってきたかを描く。2人は動揺し畏れながら、自分たちの信じる「自然」を守り抜きながら、力強く結びつきを深めていく。「人類の泉」「僕等」「愛の嘆美」といった作品で、その流れがいったん頂点を打つ。

続いて2人は、生活と向きあわねばならなくなる。「晩餐」以後、光太郎・智恵子の生活の貧しさが、以前にも増して重みを増してくる。「樹下の二人」のころ、2人は結婚した。だが、それで何かが好転するわけではない。「夜の二人」では、餓死という言葉も現れる。智恵子は、絵を書く手を止めて、「トンカラ機を織る」という生活をせねばならない。ほんの些細な贅沢に、冷めないうちにと鯛焼をふところに家路を急ぐ光太郎。造形の秘技と貨幣の強引が鋭く対立する。光太郎は、そんな現実もしっかと見据えて、詩に書いている。そのなかで、夫人との向きあいも、厳しさを増す。貧しさの中で、「附属品」を外した智恵子の美しさを、「あなたはだんだんきれいになる」という詩で、光太郎はうたう。

そして、光太郎は、夫人の病気と向き合うことになる。「人生遠視」から、ついに崩壊しだした智恵子の精神に対し、光太郎は全力で向き合っていく。九十九里での智恵子の野性化を描いた2つの詩は有名だが、そこにあるユーモアの厳しさ。また、そこに、結核の病が加わっていく。山麓の対話で「わたしもうぢき駄目になる」と智恵子は、光太郎にすがりつくが、「この妻をとりもどすすべが今は世に無い」と、光太郎は何もできない。「レモン哀歌」に至って、ついに最愛の人は亡くなる。 

こうして夫人が亡くなるまで、智恵子と必死に向きあった光太郎だが、さらに詩集はつづき、智恵子の死と向きあい、その不在と向きあい、のちには、いよいよ自らと向きあうことになるのであるが、この「向きあう」ということが、光太郎の態度を理解するうえで、本当に重要なキーワードだ。戦後の「暗愚小伝」など、まったくそれの産物である。自らを見なおしたあとは、再び社会と向きあうことに取り組みなおしているかのようだ。

オペラについては次の記事で書くことにするが、シンポジウムでは、大正生まれ、光太郎と直に面識のあった北川太一翁の講話が、ほとんど全てであったと言っていい。光太郎研究では大きな業績のあった、有名な批評家である。「いやなんです/あなたのいってしまうのが」という詩集冒頭の作品の書き出しについて、「智恵子抄」が発表されたのが戦時期だったことを踏まえ、戦争に父親や息子が取られていく現実、それに対する人々の無言の叫びを代弁したものとする考えには、目を見開かされたような想いがする。この言葉は元来、智恵子に対して、他の男のところに行くなんて堪えられないというメッセージを贈ったものであるが、そのような意味も含め、この詩集が奥ゆかしく隠した様々な表情を、この2行は本当に雄弁に語っているのだ。

北川も昨今の社会状況に不安を呈していたが、日本人はまた、自らの生きる世界と真剣に向きあうことを、避けるようになってきた。光太郎・智恵子が止むなくはじめた孤立を、現代人はむしろ進んで選び取っているかのようだ。厳しく、社会や生活、家族と向きあうことになしに。二丁も離れた防風林の夕日の中で、我々は一体、なにを目撃できるのであろうか。光太郎を安易に真似することは、自らの首を絞めつけるだけである。
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2006/10/14

特集 兵士の物語 (ストラヴィンスキー)  

ストラヴィンスキーの音楽劇「兵士の物語」について、15日の公演に先立って、少しだけ分析を入れてみたくなった。ルツェルン・祝祭チェンバーフェストの公演は「組曲」なので、語りはつかないが、その点も含めて考えてみたい。

この曲、まことに不思議な曲である。完成は1918年で、「ハルサイ」でセンセーションを起こしてから5年ちかい歳月が経っており、作曲家は38歳になっていた。折しも、第1次世界大戦の最中であるが、その厳しい情勢の中、人々に舞台芸術の素晴らしさを届けたいという想いから、「兵士の物語」が生まれたという見方もある。

この頃、ストラヴィンスキーは、故国の土地を革命政府に接収され、スイスで亡命生活を送っていた。制作史からみると、ちょうど作風の変わり目にも当たっており、原始主義から新古典主義への移行に際する、象徴的な作品としても取り上げられる。この作品では、兵士と悪魔を中心とした語りに重点が置かれており、音楽は副次的な役割を与えられている。とはいえ、組曲が編まれていることからもわかるように、この作品の音楽的要素も、それだけ取り出して注目するのに値する。本来は、そこに舞踊の要素も組み込んである。そうなると、歌唱の要素も出てきそうだが、それはどういうことか欠けている。そういえば、ストラヴィンスキーには、オペラを含め、声楽のための作品は少ない。

さて、この劇の特長は、まったく無駄なものがないということである。楽器も7パートだけである。すなわち、ヴァイオリン、コントラバス、クラリネット、ファゴット、トランペット、トロンボーン、打楽器、そして、語り手だ。役者も、兵士と悪魔、ナレーターの3人がいれば十分。男性だけでも十分に成り立つ。舞台装置も、このシュールな世界では、さほどのものを用意することもあるまい。作品は、短い金管の導入から低音弦がドンブラコッコと波を打ち、シニカルなナレーションと呼応する「兵士の行進」にはじまる。音楽は繰りかえしが多く、ミニマリズムを先取りするかのような感覚もある。素材を使いまわして、その意味を微妙にずらしたりして無駄がない。作品のクライマックスのひとつを成す「大コラール」も、実際は、響きがきれいに整理され、長閑な田舎の教会音楽風に仕上がっており、最大の聴きどころ「悪魔の踊り」も、響きのシンプルな重なりが、そのエネルギーの中心を指一本で押さえたかのように、ピンポイントで捉えられている。

第2の特長は、並外れた音楽の柔らかさである。「シュロモ」の作曲で知られる同時代の作曲家、ブロッホは「ゴミ 夢 ぼろきれからできた良き音楽の手本」として、「兵士の物語」を高く評価している。実際、そこに現れる音楽は驚くほど多様であるが、それらはジャズ的な手法によって、自由な形式で束ねられているというべきか。ジャズに譬えたのは、作曲者がその影響をつよく受けたとされることもあるが、まったく肩の凝らない音楽だからである。この作品を前にすると、「ハルサイ」でさえ、いささか硬く感じられるだろう。この二面にわたる柔らかさが、「兵士の物語」の魅力を倍加している。

第3の特長は、テクストの深みである。主人公の兵士は、イワンのばか的な無能力者である。ただヴァイオリンを弾くことだけに、特別な執着がある。いわば魂そのものともいえる音楽と、兵士の生の欲望を象徴する富との引き合いで、兵士と悪魔が押し引きをするのだが、最後はどちらが勝つでもなく、宙に浮いておわる。兵士は故郷をめざして歩く最中に悪魔と出会い、時間を奪われて、故郷に戻るも亡霊扱いされ、再び旅に出て王女を救って帰郷を試みるが、悪魔がまたも阻もうとする。結局、兵士は故郷へ帰還できない。帰郷しようとして国外に出たときが、悪魔の狙いどころなのだ。結局、随分ながく歩いてきたが、まだ故郷に着かないという、最初のモノローグに帰っていく。シニカルな笑いを呼ぶ筋立てだが、ここに、どんな意味を重ねるかは、まこに興味ぶかい問題である。

音楽的な立場からいっても、故国を離れて亡命する身としての社会的な立場からいっても、ストラヴィンスキーは微妙な位置に立っている。結局、故国を愛した彼が再びロシアの地を踏んだのは、1962年、80歳になってからである。しかも、その土地には既に居場所がなかったのか、この年の訪問以後、7年後にニューヨークで亡くなるまで、彼はもはや帰還を果たすことはなかった。兵士は、ストラヴィンスキー自身の人生を予告するものでもあったのである。彼は結局、悪魔に勝ったのか負けたのか。

ルツェルン・祝祭チェンバーフェストにおいて、望み得る最高の布陣で聴ける「兵士の物語」は、組曲とはいえ、本当に楽しみだ。録音では、あまりにも有名な、マルケヴィッチ50歳の誕生日を祝った、ジャン・コクトオ語りによるディスクがある。
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