2006/10/7

ハーディング マーラー室内管 in 相模大野 10/7  演奏会

ダニエル・ハーディングが、手兵のマーラー室内管(MCO)とともに来日中だ。7日のグリーンホール相模大野での演奏を聴いたが、エキサイティングな体験になった。曲目は、モーツァルトの後期三大交響曲、39番〜41番で、しばらくすると、アノンクールが同じプログラムを振りに来る。私はそちらは聴かれないのだが、こんな聴き比べができる人たちは幸福だ。

さて、ハーディングの音楽は、なかなか表現が難しい。ある面を切り取ろうとすると、別の面が脱落してしまう。例えば、彼の演奏のスポーティな音楽の特質(それは即興性にも通じる)や、オリジナリティに満ちた新鮮な解釈について述べようとすると、それと裏表になっているオーソドックスさや、演奏に際しての慎重な配慮(品位の落ち着き)については、切り捨てることになってしまう。そのリスクを承知でいうならば、なんと発見の多い演奏であったことだろうか。エキサイティング、この上ない。

まずは、39番。出だしは、必ずしも素晴らしくない。相当にテンポを抑えてはじめたが、金管が吹き損なって、形が定まらない。止むを得まい。彼らは、来週からはルツェルン祝祭管の仕事もあるため、3日の最初の公演から1週間弱の間に、全部で6つの公演をこなすが、これが早くも4つめの公演となるのだ。今公演が終わり、翌日には14時から、京都のホールで演奏するという強行軍だ。お疲れさま!

しかし、ダニエルの辞書に「手を抜く」という文字はない。この39番では、徐々に集中力を増すオーケストラに対し、ダニエルが煽ること煽ること! 鋭いフレーズを激しく突きあわせ、その切れ目をきれいにプレスする。その変わり目の音色の処理、その多彩な響きが美しいから、中間の格好よさが一層引き立つのである。第1楽章の最後など、息も止まりそうな、鮮やかなドライブで驚かされる。これに象徴されるように、39番の演奏ではオーケストラがイソギンチャクのように、ふかく連動した動きにより、むしろ自由なアンサンブルを引き出すという事実を、はっきりと実証してみせたのであった。

3つの交響曲は、アノンクールによれば、密接な関係をもって作曲されたものだという。その秘密を、私は十分に知るものでないが、3つをあわせて大交響曲と考えるとすると、それぞれを1楽章として、急−緩−急の3楽章構成として考えることができる。

緩徐楽章となる第40番は、一分の隙もない演奏で、本日の白眉ともいえる。とはいえ、なんと辛い演奏だったことか。この曲は、モーツァルトが娘・テレジアの追悼のために書いたと聞いたことがあるが、ハーディングのイメージも、正しくそれではないかと思う。こうした繊細な感情によって織りこまれた40番は、スダーン&東響以来の体験であった。

第1楽章は、どちらかというと、楽しい思いでの回想のように見える。ハーディングはさほど引っ張ることなく、淡々と手綱を引き締めている。この曲から弦の配置が変わり、それにより、視覚的にも注目される第2vnからヴィオラの導入が、実に深い音色で印象的だった。アンダンテに入って、しばらくは、やさしいメロディを丁寧に刻みつけていく。細部の音色が美しいので、ついつい、そちらに引っ張られる。「ケロッケロッ」という管の音型を、高いほうから、フルート、オーボエ、ファゴット、ホルンと渡していくところで、小さなリングを描かせたり、しばらくして、それを今度は弦が模倣するとかいう風景を、音色の美しさだけで楽しませてくれるのだ。

だが、同じようなフレーズを積み重ねていくごとに、それだけでは済まなくなる。主となる旋律は、次第にひそひそ声に、節々であらわれる唸りは深く、哀しみの色をみせはじめ、囁きかける管たちの音色にも、陰翳がつく。正しく、この第2楽章が、本日の演奏の肝であった。最後、すこし響きを持ち上げて、さっと退くところがいやに切ない。メヌエットも、最初の数音を聴いただけで、その雰囲気を引き継ぐ意思が明確にわかる。フレーズの頭とお尻を持ち上げて、真ん中をスカスカにして演奏すると、メヌエットの跳躍感を抱かせると同時に、フレーズに何ともいえないエッジがついて、死を悼んで悔しがるような、激しい感情が表出されるかのようだ。

終楽章では、その音楽の本質が、いよいよハッキリとする。最初のフレーズを繰り返したあと、タッター、タララーラという部分が、「アッディー(オ)、ミ・アミーカ」と聴こえたのは、私だけであろうか。ハーディングは、音楽のドラマティックなフォルムを失うことなく、見事な制御でテンポを抑えこみ、荘重な祈りの世界を築き上げる。毅然としたホルンの叫び。バスは控えめに、内声をうまく支えに使いながら、内容の重さと音色の華麗さが絶えず突きあわされていく。主題の繰り返しがおわり、切ない木管のセクションに入る前に、大きなパウゼが取られた。聴いているうちに、だんだん背筋が伸びてくる、しっかりしたアンサンブルが厳しく守られる。最後は、急にテンポを落として、やさしげに弾きおわる。客席からはすぐに拍手が起こったが、(私はクリスチャンではないため)、短くお祈りの真似ごとをする。

第41番は、壮大なフィナーレだ。モーツァルトの人生の、すべてが詰まっているといってもいい音楽のすごさを、ハーディングはすべて見せつけた。序奏はよそ行きの彼の姿だ。口笛を吹きながら社交界を歩き(木管の旋律)、華麗な音楽を展開する(しかし、ハーディングは、ここをあまり持ち上げすぎない)。どこか満ち足りない響き(数度の繰り返しは、こんな生活がつづいたことへのシニカルな象徴なのかもしれない)。ハーディングは、どこで流れを変えるのかと、耳をそばだてて聴いていた。木管のブリッジ(こうした切り替えは、一貫して美しい)から音楽が切り替わっていくあたりが、それであったろうか。公的な顔の裏に、短くモーツァルトの些細な(愛の)喜びや、切なさが浮かび上がって、あれこれと忖度するのも興味ぶかい。終わりのやさしげな旋律は、モーツァルトの本質であろう。オーボエ、フルート、クラリネットあたりがセットになって、弦のアシストとともに、穏やかな響きをつくる。だが、最後は、「ティート」を思わせる金管の唸りが優美である。

第2楽章は、モーツァルトのもうひとつの本質、孤独に迫る音楽である。響きを絶対に尖らせることなく、柔らかな響きがつづいて夢のようであるが、オーボエの吉井のたおやかなリードから、短調に入っていくときの厳しさは、穏やかな部分にも持ち込まれている。第3楽章は、伝統的なメヌエットからはみ出して、喜びや、冗談にあふれた、モーツァルトの快活さや、芯の強さが表現される。そのイメージは、強奏の間に置かれたオーボエとフルートの響きに凝縮されており、必ずしも強くはない2本の楽器の響きが、アンサンブル全体を受け止めるようにして、全体を組み立てる。2本を追って出るほかの木管と、弦のうすい支えをかき集めるように、ハーディングは指揮をする。そう・・・強さといっても、それは弱さの裏返しである。

終楽章は、フルートの優美な響きが印象的である。無論、それだけでは語ることができない内容の豊かさであるが、そこに象徴される繊細と、オペラまで想像させる大きな構えとが、絶妙なバランスで織りこまれている。この時期のモーツァルトの作品は、3つの交響曲だけに限らず、スパイラルのように絡みあって、限りのない世界を形成している。この41番には、39番の劇的な音楽性、40番の哀切な響きに加え、「ティート」のエレガントな響きや、クラリネット協奏曲の繊細な表情や、ヴィルトォージティの冴え、有名な3つの歌曲(春を素材とした)のやさしさなどが、きれいに溶け合っている。それは、つまり、モーツァルトの公的な顔と、私的な顔が、激しく交代しながら、その音楽の中に、互いに姿を現していることを意味する。このフィナーレの後半では、これらのものが不可分に結わえられ、蓄積されることにより、絵も言われぬ音楽の昂揚感を生み出すことがわかる。

ハーディングとMCOのメンバーは、この難所において、いよいよアクセルを踏み込んでいくが、そこに、39番でみせた例のイソギンチャクの連動を見たとき、私は堪らなくなった。一方、ブレイクして木管の中心となる弱奏部も冷静にコントロールして、懐のふかさをみせつける。最後の1分は、正しく愉悦に満ちた時間であるが、そのアンサンブルの強烈なまでの一体感を前にしては、まったく開いた口がふさがらないという状況であった。クライマックスでのティンパニーの強打も、胸の奥に響いてくる。おわりで、こころなし流れを緩くしたのも、すこぶる効果的であった。

終演後、ハーディングが振り向いた瞬間、一斉にかかった掛け声の凄まじい迫力が、その興奮を象徴している。相模大野(この街は町田の隣だが、相当に賑やかなところだった)の公演は空席も目立ち、残念な状況だったが、最後は盛大な拍手が送られ、オケが下がったあと、熱心なファンたちがハーディングを再度、引っ張り出すシーンもみられた。

なお、MCOには、バスとオーボエの首席をはじめ、ほかに第1ヴァイオリンに1、第2ヴァイオリンに1、合計4人の日本人が含まれる。41番の演奏では、第1の荻原尚子がコンマスのグレゴリー・アースの隣に座るサーヴィスもあった。なお、弦の配置だが、40・41番では、1vn、vc、2vn、va だったが、39番のみ、チェロと第2が入れ替わっていた。バスは、全曲を通じて、1stの後方である。
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