2006/10/23

藤原歌劇団 ランスへの旅 in 東京文化会館 10/22  演奏会

藤原歌劇団(日本オペラ振興会)の公演で、ロッシーニの歌劇(カンタータ)「ランスへの旅」を観た。10月22日のAキャスト、東京文化会館の公演。管弦楽は、アルベルト・ゼッダ指揮による、東京フィルハーモニー管弦楽団。

全体として、非常に真摯な公演で、相当に楽しかったことは確かだ。いろいろ気づくこともあって、収穫は小さからぬ公演であった。歌手はまあまあ頑張ってくれたし、ゼッダの厳しかろうトレーニングをくぐってきたオーケストラは、素晴らしかった。エミリオ・サージの演出はやや煩いが、ロッシーニらしいユーモアを出して、うまく解釈していた。まだ歴史が浅いので、もうすこしコンサヴァティヴにしたほうが、作品の良さが伝わりやすいと思うが・・・。

時代設定は、限りなく現代に近づけられている。「黄金の百合」館は、さながら高級な健康ランドである。宿の働き手は看護服、旅客は全員がバスローブに身を包む格好で、女声も毛髪をバスタオルで覆っているから、はじめは、誰が誰だかわからない状況だった。遠くからみれば、なおさらであろう。恐らく、それも演出家にとって計算ずくのことなのだ。より直接的には、最後の大宴会での華やかさを際立たせるためであるが、多分、それだけではなく、何も色のついていないところから、ここに集った人間たちの個性を、いちから色づけていきたかったのであろう。

この歌劇(作曲者本人によるところのカンタータ)は、どの人物が中心ということもなく、それそれの関係が要所を成す作品である。最初に語られるエピソードは、貴重品を載せた馬車がひっくり返り、戴冠式で着飾ることのできなくなった婦人が昏倒し、その中で助かった高貴な帽子をみて機嫌をなおすという、なんともくだらない話である。こうした取るに足りない出来事が、ここに集う人たちには、命に関わる問題であり、運命のいたずらの問題となるのである。それに、実に荘重な音楽が付いたりする。私は、おかしくてならない。会場の雰囲気は、それに比べると、やや硬い。なぜ・・・?

演出家は、この旅籠で起こることを、まともに捉えてはいない。戴冠式へ行くのは、国家や平和へのつよい思いによるのではなく、そこで着飾り良い格好をして、高い名誉を得たうえに、できれば、気の利いた恋人を得るためである。メリベーア夫人とリーベンスコフのように。そして、宿の女将を含めて、彼らはほとんど子どもじみた騒ぎに奔走している。序盤のシャボン玉の戯れや、紙きり遊び、王に扮して登場した少年の持っていた風船、テープ投げの様子などが、そのことを端的に象徴する。我々が、ここに登場する高貴の身分にある人たちに、なんとなく親しみをもつのは、きゃっきゃと言って遊ぶ子どもをみて、微笑ましく思うのと同じ論理である。大人として尊敬はできないが、彼らの無邪気な行動は憎みきれない。

そうであっても、子どもは真剣に生きているものだ。歌役者たちは、どこまでも真剣に歌いつつ、本当に愛したり、怒ったりせねばならぬ。それが真面目で、真に迫っていればいるほど、笑えるのである。だが、その間の、ほんの僅かな瞬間に、ロッシーニは人間心理の奥深い洞察を忍ばせている。それは例えば、メリベーア夫人とリーベンスコフが、まるで反対の意味のことを言いあいながら、実は互いの愛を確認しあっていき、パウゼを境に、一挙に和解させるというエレガントな表現になっている。

この意味で、歌劇全体を転倒させるような役割をもつ女詩人、コリンナを歌った高橋薫子の歌唱は、なんとも見事である。特に、アルヴァロとリーベンスコフの諍いのあと、繊細な六重唱を経て、ハープを伴ったコリンナの即興詩が、舞台袖から聴こえてくる場面は、演出も知的であって、よく印象に残っている。すなわち、ここでは、重唱する歌手たちはマッサージを受けることによって血の気を抑えられ、それをオーケストラのはる薄い膜が支えている。ゼッダが唇に人差し指を当てて、オーケストラや歌手に、ここは静かにと指示していた。感情は抑えきれず、ときどきにょきっと立ち上がるが、慌てて按摩たちが手に力を入れて気を逃がし、押し引きを繰りかえす。短い間のあと、コリンナの美しい声が聞こえてくると、神々しいまでの雰囲気が広がる。ハープの音も柔らかく、聴いているほうもデッキに寝転がっているような気分だ。その歌詞は控えめに世界の安寧たることを祈るものであり、このあたりが、ロッシーニの本音なのであろう。

ところで、それを聴いた者たちは、また素直に気分を収めるのであるが、これもまた、一種の幼児性の表れである。最後も、再びコリンナの美しい即興詩を聴いて、その場にいる者たちが、みな、すぐに影響されるのだ。カラーテープを勝手次第に投げ上げて悦に入り、そのばかばかしい光景たるや、まったくおかしくてならない。その笑いのうちに、鮮やかなロッシーニ・クレッシェンドが決まって幕となった。

全体として、このようなシニカルが笑いで彩られているわりには、その主張が、ちっともわずらわしくないために、素直に、そのユーモアを楽しむことができる性質の舞台だったことは喜ばしいことだ。舞台は、木製のテラスを組んだため、ミシミシとノイズになる。多分、これは「黄金の百合」館そのものをも風刺の対象とするための、作為的なノイズであるが、音楽の大事な作品では、策士策におぼれるの感あり。不評である。歌手たちなどについて、より詳細なことは次の記事で述べる。

ところで、プログラムの将来の公演を眺めていて、2007年5月の「リゴレット」の指揮を、リカルド・フリッツァが担当することが正式に発表された。この指揮者は、新国「マクベス」で尾高忠明を押しのけて初登場、口うるさいオペラ通たちをも驚嘆させた、才気煥発の劇場指揮者の新鋭である。Aキャストでは、題名役としてアルベルト・ガザーレが起用される。

ところで、今後の藤原のキャスティングなど見ていると、新しいタレントが次々に出てくる二期会に比べて、藤原はここのところ、人気高いメンバーを使いまわす体制になっている。そのような運営姿勢は、所属の歌手たちにとって幸福なことなのか疑問に思われるのだが、どうなっているのだろうか。私が言うことではないが、若手の台頭が難しくなり、所属の歌手がモラル・ハザードを起こすのではないか、といささか不安に思った次第である。
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2006/10/21

岡田博美 リサイタル in 東京文化会館 10/21  演奏会

10月21日、岡田博美のリサイタルを聴いたのを報告する。会場は、東京文化会館の小ホールである。今回は、「矢代秋雄へのオマージュ」と題され、歿後30年目のメモリアルの意味も込めた演奏となった。

それにしても、岡田博美の打鍵の美しさは、まったく比類がない。清潔そのものであり、何も取り去らず、何も付け足さない、音楽のクールさでありながら、無駄のない力加減により、ダイナミズムは明確に感じとれる。鳴りすぎず、弱すぎることもなく、十分に起伏を楽しむこともできる。聴き手は岡田の音楽に接するとき、きっと耳を傾けて、その左右の打鍵の完璧なバランスを、余さず聞き取ろうとする。その意味で、岡田のピアノは、ある意味で時間を忘れさせるものがある。なぜなら、一瞬一瞬が、真に貴重なときとなるからだ。

そうした岡田の演奏によれば、バッハの「フランス組曲」第5番は、対位法のラインの一本一本が、はっきりと聴きわけられる興味ぶかい演奏であった。この曲をヴァリュエーションのように弾き進めた岡田は、単純な対位法のラインたちが、平易な動きの中で、その関係を深めていき、最後のジーグに至って、見事に収束していく様子を、鮮烈に印象づけていた。また、ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」は正しく名人の仕事であり、こんなにもたおやかで、明晰な演奏は、かつて耳にしたことがない。名曲「月の光」は、正しくそのタイトルどおり、天からさす一条の光をそのまま照らし出したように、この上もなく柔らかな打鍵が陶然とたゆたうのであった。

だが、これら2曲を豪奢な踏み台とした、現代作品の表現こそが、この日の演奏の眼目であったことは言うまでもなかろう。

矢代秋雄の作品は、ソナティネ、ノクチュルヌ、そして、ピアノ・ソナタの3曲だ。ソナティネは祭囃子のような旋律を使いながら、ラヴェル的な自由な書法で組み合げられた作品だが、凝縮したセンスの良い響きが、岡田の丁寧な打鍵で、なおさら引き立っている。ノクチュルヌも、しとやかでソフトな潤いのある旋律を、控えめながら鋭い表現で、岡田が抉った。ショパン、ドビュッシー風の清らかな響きに、少しばかり日本的な響きも混じった佳曲である。

ここで切って拍手を受け、いったん袖に下がってから、ソナタが演奏される。若書きの前二品に対して、この曲は、30代前半の脂の乗りきった時期に書かれたものだからである。この10年ちかくで、矢代はもっと複雑な音のクラスタリングを身につけて、このエレガントで、美しいソナタを得たのだ。第1楽章から、ピアノの動きの鋭敏さが聴き手を捉えたが、いささか難解なはずの音楽も、岡田の変幻自在の音色づくりによって、瞬間瞬間にファンタジーが生まれ、たちまちのうちに、見目麗しき音のモニュメントが築かれた。

だが、最大の聴きどころは第3楽章である。冒頭は、墨絵のように音の広がりを単色で染め上げるのだが、岡田は、雲のなかの水の滴をひとつひとつ描きわけるようにして、この部分を奇跡のような明晰さで一筆書きにしたのだ! 後半は循環主題を丁寧に扱いながら、鮮やかな打鍵の煌びやかさで魅せた。

最後に演奏されたデュティユーのピアノ・ソナタも、矢代の作品同様、シンプルで清潔な書法に貫かれている。だが、そこには、より複雑に計算された、響きの対立がある。プロコフィエフの作品を想起させる第1楽章の押しの強さが注目されがちだが、第2楽章の、スクリャービン風のカラフルで、しとやかな響きで、お膳立てを済ます。楽曲の肝である第3楽章は、自由な変奏の性格がわかりやすく演奏されたが、特に第3変奏の部分では、あの名人芸のドビュッシーにも通じるしなやかな動きが再現すると、あまりの美しさにうっとりだ。コーダというべきか、最後のコラールの盛り上がりでは、ぎっしり凝縮した響きの密度に瞠目した。

どうも筆の滑りが悪いような気がするが、この日の岡田は本当に真摯な仕事ぶりで、楽曲の性格をきれいに描きわけていくことに成功した。バッハのあっさりしたテンポ以外は、ほとんど疑問を挟むべきエレメントは感じられなかった。そのことを書けば、この日の演奏会が、どれだけ丁寧に吟味された、素晴らしい演奏会であったかがわかるはずだ。
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