2006/10/27

大序曲 1812年 (チャイコフスキー)  クラシック曲目分析室

音楽を聴くときに、あまり固定したイメージをもつのは良くないことだけど、チャイコフスキーというのは、戦争を描くのがうまい・・・というか、そういう部分に切迫した表現を傾けられる作曲家だったということが、いまさらながら、つよく思われるようになってきた。ここのところ、僕は、チャイコフスキーの音楽を安っぽいロマン性だけで聴けたことがないんだ。

チャイコフスキーというと、みんなにとって、どんなイメージなんだろうか。世界的にみたときには、きっと「スワンレイク」や「ナッツクラッカー」の作曲家なんだね。これから年末の風物詩として、欧州の各都市で「ナッツクラッカー」の演目がかかるようになる。次に有名なのは、ピアノやヴァイオリンのコンチェルトかもしれないね。あの甘い旋律は、あまりにも有名なんだ。だから、みんなは多分、チャイコフスキーのファンタジックで、ロマティックな部分、ウェットな部分に、まず注目しているね。実際、この人の死に方はなぞに包まれているし、あまり女性との関係がうまくいかなかったこともあって、チャイコフスキーは、実像よりも随分とやわいイメージで捉えられている。

でも、実際は、チャイコフスキーの音楽は、そんなやわさをそっくり包み込むような厳しさのほうが本質的にあるんだ。甘い生クリームの部分が鼻につく人は、チャイコフスキーのことをばかにするね。でも、後期の交響曲を聴くだけでも、本当に生易しいだけの音楽なんて、ひとつもないんだ。

大序曲「1812年」は、本当にこわい音楽だね。作曲当時の祝祭的な雰囲気もあり、この曲は、しばしばフェスティーボなものと見られる。これみよがしに、大砲をぶっ放したりしてね。ラ・マルセイエーズが出てきたり、ロシア側の国歌が出てみたり、確かに、生クリームはたっぷりなんだ。でも、もうすこし、耳を済まして聴いてみようか。ちなみに、いま取り出しているのは、マルケヴィッチの指揮による演奏だ。まず、弦楽合奏で、いきなり甘い旋律がくる。だが、かなり深い音色だ。ここで、これは死者の追悼のための音楽なんだと気づく人は少ないかもしれない。何かすすり泣くように、同じ音を連打する部分があることに注目しよう。木管の高い声と、低音弦が響きを交わしあい、ドンという切断面まで、感情を高めていくところは、胸が重くなるね。

でも、ここでいったん、その流れは断たれる。時間は戻り、徐々に戦場のイメージが浮かび上がってくる。そうと気づいたとき、バスの霧の向こうから、小太鼓や角笛の音を伴ってラ・マルセイエーズが聴こえてくるんだ。一瞬の静寂。テンポを早めて、シンバルの一打を合図に、音楽は激しくなり、ラ・マルセイエーズが高々と響く。最初の会戦が終わり、夜が来るんだ。ボロディンの「韃靼人の踊り」を思い出す、美しい旋律が流れる。トライアングルが、いい効果を出している。あるいは、ホーメロスやクィントゥスの世界かもしれないな。こういう安らぎのあと、決まって凄惨な争いが起こるんだ。2日目も激しく戦う。烈火のような響きの鋭さが、ラ・マルセイエーズのエレメントを引き裂いて、さあっと退いていくさまが、目の前でみているように表現される。そうして、また夜だ。今度の打楽器は「チーン」という感じで、すこし弔いの雰囲気も含まれている。が、ロシア勢は、勝利を確信したようだね。

そして、決戦の3日目だ。ラ・マルセイエーズが一際、高らかに鳴りかけたのを中断し、ぶつぶつに切り刻んで、長い弦のトレモロが原型も感じられないほど、それを解体していくんだ。そのままロシア帝国国歌に接続するところは見事。天高く鐘が鳴らされる。勝利だ。そのあと、最後に、ラ・マルセイエーズをもういちど高々と吹奏する意味が、最近までよくわからなかったが、それは、最後の最後、コーダの圧倒的な昂揚の中で、こいつをのしてしまうためだったんだ。でもね、ここでチャイコフスキーは、戦勝の喜びなんて表現しようとはしていないよね。その証拠には、この部分では響きが荒れ狂い、決して喜ばしい雰囲気じゃない。神に感謝するはずの鐘の音は、多くの命を奪い去っていく悪魔の手伝いをするかのように、乱暴に響いているんだ。あれは、霊魂が上っていくときの、合図の鐘かもしれないよ。最強奏でおこなわれる同音連打にしても、あの序盤のすすり泣きに対応しているね。

勝利の喜びはあるかもしれない。でも、それは、多くの犠牲によって成り立つものであることを、チャイコフスキーはちゃんと見抜いていたんだ。コーダの、あの凄まじい響きを、よくよく聴きなおしてもらうといい。そこに聴こえてくる、メインの響きでなく、鐘の音と、それに絡みついた無数の響きをね。そして、それは、ついに金管の唸りだけに収束していくんだけど、ここでは、間違っても「ブラーヴィ」なんて盛り上がってはいけない。その金管の唸りは、もういのちの叫びみたいなものだ。必死に「ああ、ああ、ああー!」と声を上げて、死者へと呼びかけるんだ。その上に、勝利の喜びがあるんだよ。

多分、チャイコフスキーは、戦勝なんて望んでいなかったんだ。祖国を守れたことの喜びはあるとしても、そもそも戦いそのものへのつよい違和感は、いつも彼を支配していた。この曲から、反戦のメッセージを読み取るのは一般的じゃないけど、チャイコフスキーは少なくとも、戦争というものをしっかりと描くことのできた稀有な作曲家なんだと思う。その真実の姿が描かれた楽曲と向きあうことで、僕たちは、戦争の恐ろしさというものを、ある程度の実感として知ることができるだろう。

チャイコフスキーの本質は、悲しみにある。あの「悲愴」交響曲を思い出してみよう。僕に言わせてもらうなら、チャイコフスキーの後期の交響曲はすべて、戦争に関係しているんだけどね。あるいは、それを片方の軸において、もうひとつの軸に個人的なことを置いているんだよ。ゲルギエフが北オセチアのテロルのあと、「悲愴」を弾いて涙していたと言うけど、それは至極もっともなんだ。正しく、そういう想いで、チャイコフスキーは3つの交響曲を書いたかもしれない。だから、どれも異常に厳しい音楽になったんだよ。バスがゆったりと減衰していく、「悲愴」のラストみたいにね。チャイコフスキーが本質的に持ちあわせていたウェットさは、結局のところ、こうした厳しさに支配されているんだ。逆にいえば、本当に厳しいものを書くためには、甘さがなくてはならない、とも言えるね。

あまり固定化した考えはしたくないけど、実際、こう考えることで、僕にとっては、固定化とはまったく逆のことが起こっている。戦争というキーワードを思い出すことで、チャイコフスキーの音楽を、もっと素直に聴けるようになったね。以前より、ずっとたくさんの音が、深さや色彩のちがう音たちが、きれいに聴こえてくるんだ!
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2006/10/24

藤原歌劇団 ランスへの旅 A 10/22  演奏会

さて、このエントリーでは、歌手陣の出来を中心に述べていく。高橋以外のキャストでは、これは感動的だというものは特になかったが、一方、腹に据えかねるほどひどい歌唱でもなく、これでは楽しめないというほど酷いものでもないし、ほとんどの看板歌手が入っていて、スペシャルキャストを用意したわりには期待どおりでないけれど、まあ、作品の面白さを訴える程度には、ちゃんと歌ってくれたと言っておくべきだろうか。

ロッシーニは、難しい。だが、それを隅から隅まで、ちゃんと歌えるなんてことは、多分、ほとんどないことだと思う。欧州の一流劇場が、世界のベルカント歌手のトップ・スターたちを、無理やり集めでもしない限りは。そうならなくても、ロッシーニの作品というのは、十分に楽しめるようにできている。下手でもいいとは言わないが、この日のキャストたちは、自分たちの持っているものを出しきって、良い表情で、舞台を終えた。ROFのディレクターであるゼッダも、彼らの仕事を讃えていた。

メリベーア夫人の森山京子、フォルヴィル夫人の佐藤美枝子、それに吟遊詩人の高橋という華やかな三役は、それぞれに自分の華をアピールできたと思う。ミロノフが評判どおりではなくて、光るものは感じたのだが、もうすこし小さなホールなら、彼のよさが生きたのかもしれない。男声が弱くて、特に、シドニー卿の彭は、詩人との大事な場面があるだけに残念だった。禿頭の折江忠道がベテランの味で脇役を手堅く演じ、表現の難しい目録づくりのアリアを、ビジネスライクに、クールなユーモアで歌い上げたプルデンツィオの久保田真澄などが良い。

多重唱は響きが整理されていて、有名な14声の大コンチェルタートなどは、やはり聴きごたえがある。ただ、全体的に、もうすこしはみ出るものがあってもいいような気がする。今回はコーラスを使わないで、その部分をキャストがカヴァーする仕組みだったが、特に、その部分でキャストたちが役のフォームを崩さないで、合唱が登場人物を揶揄したりするところで、もう一工夫がほしかった。レチタティーボ・セッコは、意外と活きが良かったように感じたが、これはゼッダのサポートが大きい。

コルテーゼ夫人の登場のアリアのあと、佐藤扮するフォルヴィルの演じるコメディが、なかなか重要なのだが、少なくとも私は、この部分で逸早く演出家の冷笑的な視点を感じることができたわけだから、佐藤はここで、とりあえず良い仕事をしたということになろう。

コリンネ登場の前の六重唱は落ち着きすぎという意見もみられるが、私は、前のエントリーで述べたように、ここの部分の音楽づくりには満足している。コリンネの美しいハープ付きアリアのあと、快活さを取り戻す6人の描写は、これも前のエントリーに申し述べた視点から面白い。その後、シドニー卿の部分が凹んだが、ベルフィオールの告白は、演出がやや煩すぎて、歌のよさが引き立たない部分のひとつだ。小山陽二郎の熱演も、不発。ローブを脱いで、全身水着姿になる部分の笑いは軽薄だった。それでも、大げさに言葉を飾り立てて歌うところを、小山はできるだけ強調した。最後、愛の二重唱のように背中をあわせて2人を歌わせるのは、やや工夫が足りない。

目録の歌と、大コンチェルターテについては、既述のとおりだ。後者では、キャストが舞台上で着替えをはじめるところが話題になっているが、くだらない。間を縫って、中心となる歌手が前に出るところは、ハラハラする。

フォルヴィル夫人とリーベンスコフの和解は、既に触れたとおりだが、森山の歌唱は、ここが最良だった。ミロノフは、男声であれば、相手方をもうすこし包み込むようなものがほしい。愛の成就はこの部分だけなので、本当は、もっと盛り上がってもいい場面だった。

お国自慢の歌遊びは、あっさりやっていた。もうすこし観客を巻き込むような熱狂がほしい。それぞれの歌唱は決して悪くないが、演出がフロアーを寄せつけないのだ。それで、あっという間に詩人の締めが来るが、その素晴らしさは既に述べたとおりだ。ピットのハープの横に降りていって歌う演出は好評らしい。

終演後のフロアーからは、高橋に大きな喝采が集まったが、結局、誰が誰だかわからなかったなあという感じが、明らかに漂っていた。佐藤、小濱、折江に、やや熱い拍手。ミロノフは意外に拍手が多く、後半、盛り返した感じだろうか。彭と森山に、ポツンとブーイング(森山へのブーは不当だろう)。指揮者のゼッダは、第2部のスタートを含め、大喝采であった。

オーケストラが立ったときに、ゼッダがハープを指したが、フロアーは気づかず。この場を借りて、ブラーヴァと言っておこう。フルートにも大事な部分(シドニー卿のアリア)があるが、斉藤和志が吹いていたようだ。すこし吹きそこなった部分もあったが、弱いバスをよく支えたと思う。弦を中心に、東京フィルはよく鍛えられたロッシーニ・サウンドを出して好評だ。新国「イドメネオ」とのシェアで、不安視する向きもあったが、いずれもオーケストラの評価は高い。こういうことは初夏にもあって、ハーディングの「復活」と、ルイージのオペラ・ピットで、いずれも及第点のパフォーマンスをしているから、問題はない。
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