2006/10/29

ラデク・バボラーク ホルン・エレガンス 10/29  演奏会

KSTの演奏会で常識破りなパフォーマンスをみせてくれた、ホルン奏者のバボラークを追いかけてみました。彼の名前を冠した上で、「ホルン・エレガンス」と題された公演は、新日本フィルを相手に、すみだトリフォニーホールでの公演でした。指揮者は広上淳一ですが、彼もまた、私の信頼する指揮者のひとりです。

まあ、バボラークのパフォーマンスについては、KSTの演奏会のレビューで述べましたし、再度、筆を重ねることもなかろうと思います。いつ聴いても、驚くほどしなやかな音色の、見事な角笛であります。

最初のプントが、まずあいさつ代わりになります。お聴き及びない作曲家でありましょうし、私も然りでございました。多分、現代の作曲家かと思いきや、これはベートーベンと同時代のホルンの名手にして、作曲家だった人のようです。その協奏曲第5番は、第1楽章では技巧的な部分が続き、第2楽章ではホルンの深い叙情性を、第3楽章ではユーモア性を強調するというように、ホルンのもついろいろな顔を巧みに盛り込んだ作品で、バボラークにふさわしい佳曲でした。第3楽章では、最強奏と最弱奏の幅を使って、オーケストラとともに楽しいパフォーマンスが繰り広げられるのですが、その最弱奏たるや、この楽器としては信じられないほど、繊細な囁きだったのです。

バボラークが一息つくためでしょうか、オーケストラのみで演奏する曲目が、2つ用意されました。すなわち、全3楽章が切れ目なく演奏されるモーツァルトの交響曲第32番と、弦楽合奏によるレスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第3組曲です。しかし、後者などは、とても余興とはいえない素晴らしい演奏で、広上らしく、聴衆に媚びない、しっとりとした音楽を丁寧に編み上げた佳演です。最後、バロックへの力強いオマージュを歌い上げて終わる瞬間まで、息もつかせない美しい演奏でした。

広上はこの日、完全にバボラークを立てる側にまわり、最後まで、自分が賞賛を受けることはありませんでしたが、見事なサポートで、この演奏会を盛り上げた功労者です。

最後に、ブラームスのホルン三重奏曲の管弦楽編曲版による楽曲を披露しました。これは、バボラークと親交のあるミロシュ・ボクという作曲家によるものであり、原曲のピアノ・パートを管弦楽に置き換え、ホルンとヴァイオリンによる二重協奏曲風に編みなおしたものだそうです。ところが、意外とホルンが控えめなのです。ただ、ホルンの存在感がないわけではなくて、むしろホルンはオーケストラと独奏ヴァイオリンの動きにあわせて、ずっと響きを支えているのです。その粘りづよく、細々とした配慮に満ちた仕事ぶりは、ある意味で、バボラークの音楽の本質を衝くものでした。

ただ、編曲の出来は、やや退屈なものになってしまった感じがします。ボクは、うまくブラームスらしいエレメントを組み合わせて、なるほど、もっともと思わせる編曲を進めたわけですが、オーケストラ、ホルン、ヴァイオリンの関係が、互いを高めあうものになっていたかどうかは疑問に思います。フィナーレの結びの部分で、ようやくホルンが浮き上がってくるわけですが、それを促すオーケストラの動きも、躍動感に満ちて素晴らしいものがあります。その緊張感が、どうも全体を貫いていない感じの編曲でした。

この日のバボラークは、モーツァルトの「断章」(K.370)と「ロンド」(K.371)で、得意の高速タンギングが十分うまくいかないなど、絶好調ではなかったと思いますが、それでも、あれだけのパフォーマンスです。プントも本当なら、もう一段、突き抜けたパフォーマンスが聴けるような気がしますが、この日は、バックも新日本フィルの誇るホルン隊がいるので、それはそれで興味ぶかい演奏になりましたね。

なお、この日、指揮をとった広上淳一は、年末の「第九」で、再び新日本フィルに登場します。

 【プログラム】
1、プント ホルン協奏曲第5番
2、モーツァルト 交響曲第32番
3、モーツァルト 断章 K.370
4、レスピーギ リュートのための古風な舞曲とアリア
                          (第3組曲)
5、ロータ キャステル・デル・モンテ
6、モーツァルト ロンド K.371
7、ブラームス/ボク ホルン三重奏曲(管弦楽版)
 (vn:豊嶋 泰嗣)

 管弦楽:新日本フィルハーモニー管弦楽団

 コンサートマスター:西江 辰郎
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2006/10/28

新国 イドメネオ 10/28  演奏会

新国立劇場で、モーツァルトの歌劇「イドメネオ」を拝見した(10月28日)。偶然だが、最近、クィントゥスの「トロイア戦争」というのを読んでいるので、参考になった。そこでも既に、壮年期を過ぎた武将として現れるクレタの王、イドメネウス(イドメネオ)に振りかかる帰国直後の災厄をモチーフとしたお話しだが、伝承では自らの息子を殺さねばならなかったのを、オペラの台本ではネプチューン自らに赦されて、息子も助かるようにできている。

さて、この劇の素材は、殺されかかる王子、イダマンテをめぐって、トロイ人の王女であったイーリアと、ギリシャの盟主、アガメムノンの王女で、例のオレステスの復讐譚に関わる逸話でも有名なエレットラが争う筋も表れ、演出的には、いろいろな知恵が浮かびそうな興味ぶかいものである。だが、演出のアサガロフは、それらのアイディアに敢えて手をつけないことを選んだようだ。この演出、下手なことをやらなかった分、概して好評を得ているが、私から見れば、決して満足のいくものではない。敢えて、言おう。あんな舞台ならば、優秀な美術と衣裳のデザイナーがついていれば、誰だって演出できる。特に、エレットラの扱いに意味がなさすぎる。海神との契約による運命の悲劇と、イダマンテ・イーリア・エレットラの三角関係の意味が、まったく解釈されていない。イドメネオとイダマンテの交代が、どのような意味をもつのか、明確なコンセプトが与えられていない。立ちっぱなしで、ひたすら歌うしかない役者たちもかわいそうだ。

だが、音楽家たちにとっては、歌唱(演奏)に集中できる分、好都合の面もあったかもしれない。演出について、何も述べるべきことがないので、こちらも、音楽面の成果だけに注目して書くしかないのだ。

最大の驚きは、あの藤村実穂子が、こうしたズボン役の青年王子(イダマンテ)を演じて、実にフレッシュな歌声を聴かせてくれたことだ。多分、彼女の声にぴったり合った役ではなく、1年中、こんな役をやり続けたらば、喉を潰してしまうことになるだろう。しかし、今回のパフォーマンスに関しては、賞賛に値する。

これに伍して、イーリア役の中村恵理が、見事な歌唱を聴かせた。他のキャストが、ふだんの自分とはちがう領域に挑戦していたのに比べて、中村のイーリア役は、正しく、自然な配役であった。序曲のあと、早速、イーリアが最初のアリアを歌いだすわけだが、予想以上に美しい声で、伸びやかで良い声が響く。第3幕のはじめのアリアで若干の疲れを感じさせ、声が震えてしまった点を除けば、非常に魅力的なイーリアだった。油断すると、ヴィブラートが強くなってしまう傾向があるが、よく鍛えて、クセのない美しい声を作り出していることが、はっきりとわかる。

この2人が絡むナンバーのうち、もっとも繊細な表情をもった第3幕第2場の二重唱は、王子とイーリアが愛情をはっきりと確認しあう、重要な場面であるが、ここで2人が見せた静かな声の重なりには、思わず陶然となる。

イドメネオのトレレーヴェンは、破綻の少ない安定した歌唱である。この役にぴったりとは言えないが、親子の情と神との誓いの間で揺れまどう王の内心を、細やかに表現している点は高く評価できる。「トロイア戦記」を読むと、そこに現れる当時のギリシャ人たちの、親子の絆の強さ、深さというのは、胸を打つものがある(一方で、アガメムノンのような悲劇もあるわけだが)。そのような絆を感じさせる場面、海岸で生け贄となるべき息子と出会って絶望するところ。第2幕において、息子を逃がして神を裏切ることに揺れる心情をうたうアリア。第3幕で、アルバーチェと大祭司の忠言に促され、自らの残酷な誓約を明かす場面、などが印象に残る。特に、第2幕のアリアは、序曲やフィナーレに現れるテーマを、イドメネオが歌う場面であり、突き抜けるオーケストラのサポートも逞しく、麗しき女声2人の数々の名場面を押しのけて、当日、最高の感動を築いたひとときであったかもしれない。ただし、神殿の儀式のときは、ちょっとだけ声のフォルムが崩れていた。

アルバーチェ役の経種廉彦、大祭司役の水口聡は、あまりにも出番が少ないが、その範囲では、素晴らしい仕事だった。もっと張りのある役柄で聴きたい人たちだ。神の声を袖から歌った峰茂樹も、確実に役割を果たした。

さて、いくら褒めすぎても褒めすぎということはないのが、ダン・エッティンガーの指揮による管弦楽(東フィル)と、三澤洋史の鍛え上げたコーラスである。

率直にいって、この日のエッティンガーのアプローチは、(モーツァルトとしては、)あまり好きなタイプではない。とはいっても、ここまで見事にやられると、むしろ賞賛の方向で筆を動かすべきだろう。リンデン・オーパーで、バレンボイムの留守を預かって、功績の大きい彼であるが、濃厚で、しぶとく音楽の粘りを生かし、太い根の張った音楽が、このいささか隙の多い劇世界を、見事に大地に引きつけるのだ。序曲の腰の高さにまず驚いたが、その据わりの悪さは、徐々に、高いレヴェルでの安定にすりかわっていった。高いテンションを終始、維持して、あっと言わせる細かい配慮も滲ませた。

この作品には、のちにそのまま交響曲の素材となる部分があったり、彼がそのゆたかな才能を発揮する宗教曲へ通じるエレメント、最晩年の歌曲に流れ込んでいくとも見られる素材などが見受けられ、また、オペラ・セリアというジャンルの問題以外にも、平和とか、三角関係にやぶれて破滅する女というキーワードで見ると、「ティート」に繋がる要素もある。そうした要素を全部感じさせながら、上手に縫い上げていった手腕も評価しなくてはならない。また、次のページにもあるように、この歌劇は、実に様々な様式のあり方を縫合し、あるいは、モーツァルトが独自のアイディアを織り込んで、仕上げたものである。その点についても、エッティンガーの仕事は示唆に富んでいた。休符の生かし方もなど独特だ。もちろん、その要求の多くに応えた東フィルの奮闘ぶりも、予想以上のものである。

参考ページ(北とぴあ国際音楽祭):
 http://www.kitabunka.or.jp/data/jigyo/himf2004/himf2004-2.htm

そして、そして、合唱の素晴らしさだ!! 合唱指揮の三澤自身が、しきりに自慢するだけのことはあり、ここだけ取り出せば、世界のトップ歌劇場にもヒケをとらないパフォーマンスだった。弱奏から強奏までの幅の広さと、それぞれにおける繊細な配慮である。すなわち、強奏部分では適度な品の良さを保ちながら、分離の良く、胸に迫る歌唱をみせ、一方、弱奏でも堂々と、ひとつひとつの声がよく集まって、適切な重みで伝わってくる。何といっても、パート内での聴きあいが素晴らしく、彼らの声があれば、指揮者は本当に多彩なオプションを試すことができるだろう。今回のエッティンガーは、この誇らしき合唱団の組織力の強さを最大限に利用して、圧倒的な表現の強さを手に入れた。

ところで、この劇におけるエレットラとは何であろうか。本来の流れには、あまり必要のないキャラクターだ。しかしモーツァルトは、この不幸な女のために、特に重要な場所で2つのアリアを与えている。特に、第3幕のアリアは、ふつうならば、神の赦しが出て大団円を迎えるべきところで、おもむろに挿入され、その運命の行く先も曖昧なままエレットラは退場して、フィナーレに突っ込む。前半の出番は、イダマンテが、イーリアとトロイアの捕虜たちを赦免し、和解ムードが高まったところでの批判である。この2つが重要だが、第2幕でも、愛人とともに故郷に旅立つことができる幸せをうたう部分がある。その幸福が、ネプチューンの赦しによって消滅し、エレットラの立場はなくなるのである。エミリー・マギーの歌唱は悪くないが、立派に歌った最後のアリアで象徴的であるように、彼女のパーソナリティが、このエレットラからは、やや遠すぎるような気がしてならない。

ところで、これは私の考えだが、モーツァルトの自由観、平和観というものは、きわめて厳しいものである。「ティート」でも、ヴィッテーリアの犠牲、そして、ティートとセストの友情を生け贄にしなければ、平和は手に入らなかった。フィガロもコジも、最近のいろいろな演出にみられるように、やはり犠牲の伴った解決である。「後宮」のハッピー・エンドは、セリムの大いなる孤独化を代償とする。魔笛でさえ、夜の女王の手痛い被害がなければ、収まりがつかないのだ。エレットラの存在が踏みつけられなければ、この劇の大団円は訪れない。そして、去ったエレットラのことを、誰も気遣ったりしない。その点に、何の解釈も施されていないという点が、もっとも残念である。

土曜の夕方であるのに、フロアーの盛り上がりはいまひとつで、カーテンも短かった。そのくせ、第2幕のスタートで、早くも指揮者に声がかかっていたが、3分の1しか終わっていないのに、これは気が早すぎるというものだろう。それはともかく、総体的に高いレヴェルでまとまった公演であることだけは間違いない。
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