2006/8/30

芥川作曲賞選考会 サントリー音楽財団 サマーフェスティバル 8/27  演奏会

最後に、芥川作曲賞の選考会について書く。今回は、河村真依、糀場富美子、藤倉大の三氏の作品がノミネートされ、小松一彦指揮の新日本フィルの演奏で、実演にかけられての選考である。その後、公開討論による選考がなされ、すぐに受賞者が決まるのが特徴となっている。

私は、山本裕之が受賞した3年前の選考会を体験しているが、正直、あまり愉快な思い出ではない。だが、それから2シーズン、基本的なスタイルは変わっていないが、多分、1次選考で初演のテープが付されるようになったこと(もしかしたら、前からそうだったかもしれないが)、湯浅譲二自らが選考委員となっていること、それに、若い選考委員が入るようになったことで、ノミネート作品は、より充実した内容の作品たちが選ばれているように感じた。

3作品のうち、私がもっとも惹かれたのは、藤倉の「ストリーム・ステート」である。チューバが中央にドンと陣取っていたり、低音や金管が前列に配置され、ヴァイオリンやヴィオラが後ろ。今回、ホールの条件もあるが、左右のバルコニーに金管と木管のバンダが用意され、弦の一部が起立して演奏するなど、配置からして、繊細な音響デザインを狙った楽曲だ。3作品の中では、リズムの要素がもっとも鮮明で、鮮やかなサウンドが勢いよく展開する。

個々の楽器がさかんに押し出され、それが展開しては、彩りゆたかに繋ぎあわされ、リズムによる制限の中で、それをむしろ生命感に変えて、横溢した喜びの賛歌に仕上がっている。各楽器のパフォーマンスはよく目立つが、常に抑制が効いており、響きのコミュニケーションを妨げることがない。それが楽曲の品格を成している。終わりのほうで、1箇所だけ各楽器がバラバラに咆哮する見せ場があり、これが全体のヤマ場であるが、そこに至っても、非常に凝縮したサウンドが丁寧に組み上げられており、見るも鮮やかなサウンド・デザインを前に、驚かないほうがおかしい。

受賞作となった糀場富美子の「未風化の7つの顔」は、戦後60年をすぎ、作曲家の聖地であるヒロシマの惨事を、絶対に風化させないという思いで書かれたという。楽曲は非常にシンプルな語法が特徴で、それが受賞の大きな理由ともなった。楽曲はピアノ協奏曲風の7つの断章から成っているが、より大枠で捉えれば、通常のピアノ協奏曲の構成に、最後、静かな小フィナーレがついたものとも、見られるように思った。

原爆被害への想いがモチーフとなっているとはいっても、爆発を表すどぎついサウンドがあるわけでもなければ、極度に感傷的な響きが選ばれているわけでもない。それよりも、各断章における響きの印象が、ひとつひとつ丁寧に提示されていくのが印象的な楽曲である。私は、ハープがコツンコツンと硬質な音を出し、時計の針の音とも、病室の向こうの靴音とも取れそうなイメージが、まったく鮮烈に、頭の中に残っている。その部分までは、ハープが非常に重要な働きをしており、そのモチーフが最後のほうで再現するとも思ったが、それはなかった。

糀場の音楽は予想不可能で、藤倉の作品にも共通した特徴があるが、思いがけない展開で、聴くものを飽きさせることがない。藤倉の場合、楽器そのもののキャラクターは素直であるのに(金管に息だけを通すようなテクニックは別にして)、その結びつきがマジカルで、予想がつかない。糀場の場合は、結びつきや展開というよりは、その楽器のキャラクターそのものが、実に意外な方法で際立っている。件のハープが、特徴的である。私は、この2人ならば、いずれが受賞しても異存ないと思った。

糀場の作品に難をいうとすれば、まず、上記のような特徴に照らしてみたときに、特に前半部分で、ピアノの奏でる旋律がやや粗く、そのキャラクターがぶっきらぼうであるように思われた。また、肝心のピアノであるが、静かな素材が起き上がって、テクニカルな部分に入るとき、急にロシアのピアノ協奏曲、例えば、ハチャトゥリアンやリムスキー=コルサコーフのような趣が出てくるのが、嫌いではないのだが、いささか疑問に思われてしようがなかった。また、糀場の作品は、そのものとして非常に味わいぶかいところはあるが、それが広がりをもった音楽の創造力に繋がっていかないのが、最大の難点である。

糀場の作品は確かに、日本人が選ぶ作品としては、それらしい。だが、藤倉のように、海外でどんどん認められていくような突破力には欠けている。

河村の作品は、審査員からは評価が高かった。しかし、私にとってはペダンティックすぎて、作品との間に壁を感じてしまったし、もっとも評価を受けた響きの分厚さについても、あまり感心しなかった。確かに、あれだけのサウンドをきれいにデザインして、破綻なく書き込んでいく手法の鮮やかさはあろう。だが、彼女の場合、ここはラッヘンマンの太鼓のようだとか、ここはストラヴィンスキーのハルサイ的なうねりだなとか、いちいち参照されたものが耳について、そのエレメントを十分に内部化しきれていないことに、不満が残る。私は彼女の作品は、もっとアイディアを絞ることが必要だと感じた。

選考は、3作品がまったくちがう傾向を示しているために難航気味であったが、最後は糀場の作品が選出された。審査側の細川俊夫は、藤倉とは活躍の場も似ており、ヨーロッパでの藤倉の評価を肌で感じている上、いわば同志のような関係にあるから、複雑な思いであったろうと思う。江村は、糀場の作品も高く評価しているが、やはり藤倉の作品を重くみているのが本音だ。

糀場は、受賞によって年齢が明らかになってしまったが、なんと52歳の新人だ。「広島レクイエム」という代表作があるようだが、その作曲から20年あまり、家庭に入って創作に専念できなかった事情もあるようだ。子息の成長もあったものか、2001年あたりから、創作意欲が再燃していることが見受けられる。私は昨年の夏、(親類に被害者はないが)慰霊のために広島を訪れているし、ヒロシマの問題には関心が高いのだが、来年の選考会にむけて委嘱される新作は、敢えてヒロシマから離れてもらいたいと願う。そうしてこそ、輝くものもあるのである。
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2006/8/29

国際作曲委嘱シリーズ マーク=アンドレ・ダルバヴィ サントリー音楽財団 サマーフェスティバル 8/26  演奏会

国際作曲委嘱シリーズは、マーク=アンドレ・ダルバヴィがテーマ作曲家。ここ数年は、どちらかというと、大御所的な作曲家が選ばれていただけに、こうした若い世代の登場は歓迎である。「ぶらあぼ」の海外公演のページなど見ていると、エッシェンバッハなどが盛んに演奏してまわっている。旬な作曲家である。管弦楽は、東京フィル。

さて、既に、インターネット上にも、いくつか各人の感想が出ているが、この演奏会は評価が真っ二つに割れているようだ。江村哲二は厳しく批判しており、いくつかの記事によれば、招聘側であるはずの湯浅譲二も、どうやら納得していないようだ。一方、どちらかというと、楽曲の新しさ自体にはあまり関心がない層にとっては、この演奏会は十二分に満足するものだったらしい。もうひとつ、リズムをめぐる議論が重要であると思う。私は、どちらかといえば、満足したほうの味方をしたいと思っている。

ダルバヴィの2つの作品は、ほとんど共作といってもいいほど、ピアニストのレイフ・オヴェ・アンスネスの存在感が重要である。このピアニストの特長は、非常に清潔なタッチ、解釈のシンプルさ、弱奏における抒情性の美しさ(強奏に入っても、そのフォルムが壊れないこと)、そして、音色の多彩さである。そのうち、ピアノ協奏曲では、アンスネスの音色の多彩さを重視し、それをオーケストラに溶け込ませることを目的とした作品である。この曲は、アンスネスの繊細なタッチがなければ、絶対に成立しない作品だ。ゆえに、アンスネスは来日したのである。

ヤナーチェクの”In the mist”を素材とした、委嘱新作「ヤナーチェクの作品によるオーケストラ変奏曲」は、アンスネスのヤナーチェクの録音を知っていれば、なるほど納得のいく作品である。その特徴は、思いきって楽曲を引き延ばし、慎重に選び取ったように提示していく和音の美しさを表現する、精妙なタッチのすごさである。

さて、ダルバヴィの作品は、その肖像を写し取るような曲であり、楽曲の冒頭の数分間は正しく、アンスネス当人が素材を弾いていく。オーケストラが入る段になっても、アンスネスのタッチを模倣しながら、否、若干引き延ばしながらというべきか、いずれにしても、そのままこだまを返すだけだ。しかし、徐々に尾ひれがつき、やがて楽曲はダルバヴィの手法に染まっていく。どうやら変奏曲になってきたところで、曲はその役目を終えた。これは要するに、まずヤナーチェク作品へのふかい追慕があり、多分、バルトーク、スメターナ、ドヴォルザーク、ヤナーチェクから、フランス音楽へ流れ込んでいく要素への尊敬も含んでいる。そして、これを扱うに、彼の優れた盟友であるアンスネスの手法に敬意を表し、その方法を模倣して、自らの変奏曲ができるまでを「ラ・ヴァルス」のように、聴衆にみせ(聴かせ)ようと思ったのではなかろうか。

上記のような方法は、決して「新しい」とはいえず、最前線の作曲家からみれば、何の価値もないものであろう。だが、その響きの美しさにおいては、決して凡庸とはいえないものがあり、ピアニストとのコミュニケーションにおいては、前にも書いたように、羨ましいほど深いレヴェルが達成されている。

それから、ダルバヴィは、なぜかドビュッシーの交響詩「海」を演奏した。このことについても疑問が呈されているが、私は、この選択は既に書いたような理由から、一定の妥当性あるものとして認める。私は、ピアノ協奏曲においても、新作の変奏曲においても、ある部分で日本的、もしくは東洋的というべき要素が、ひっそり紛れ込んでいることに気づいた。そして、北斎の「浪裏」の絵図をイメージしたという以外にも、「海」のなかに、それに似た要素があることはよく指摘されるとおりである。

また、「海」を指揮したことは、彼の指揮ぶりが相当に危なっかしいものであったとしても、彼がその作品をどのように内部化しているか、その敬意をどのように創作に結びつけているかという点で、今回の隠れたテーマにとっては、まことに重要な要素だったとも考えられる。東京フィルは優秀なオーケストラで、ダルバヴィがいかなる指揮をしようとも、しっかり安定した響きをつくって健闘した。かくして、「浪裏」の部分や、いくつかの部分で押し出したい部分については、しっかりアピールできていたのだから立派である。ダルバヴィは、ドビュッシーの作品を、まるで自らの作品のように弾いた。そのことは、前の2作品と比較すれば明らかである。その最大の特徴は、私に言わせれば、素材をわかりやすい形で浮かび上がらせることにある。それが多少、いびつに組み合わされるのだが、響き自体は爽やかで紛れがない。

立ち上がり、ドビュッシーの響きは、その点で、やや鷹揚に過ぎるように思える。しかし、さすがに大作曲家の代表作であり、響きが厚くなっていくごとに、その書法の見事さが次第に判然としていく。響きの複雑さが、イメージの弱さへと転化せず、むしろ、それをいよいよ清らかで、強烈なイメージに導いていくのだから凄い。

リンドベルイについては、敢えて詳しくは触れない。わかりやすく聴きやすいが、これといってこころを打つものはなかった。

【プログラム】
1、リンドベルイ 彫刻〜オーケストラのための
2、ダルバヴィ ピアノ協奏曲
3、ダルバヴィ ヤナーチェクの作品によるオーケストラ変奏曲
4、ドビュッシー 交響詩「海」
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