2006/3/30

東京オペラ・プロデュース カルメン B  演奏会

最後に、演出をめぐっての議論だ。これは、ほとんど満足ということは少ないので、どうしても批判が多くなってしまう。今回のように、台詞やレチタティーボを落とした上演では、なおさら制約が多くなるのである。「カルメン」は有名な作品であるため、ストーリーが追えなくなる心配はないが、その分、演出家の自由度は小さくなる。

まず、良かった点を拾っておこう。それは既に音楽的なことにも触れて述べたように、第2幕のエスカミーリョのところだ。ここでは闘牛士の歌にあわせて、酒場の連中が歓声を上げたりする。それが、うまいこと音楽にはまっていて、指揮者と演出家の意思疎通がはっきりしていた。

キャラクターの特徴について、既にミカエラの扱いについて、特に字数を割いたし、主要ロールについての扱いもさっと触れてあるが、重要な三役、カルメン、ジョゼ、エスカミーリョの関係はどうか。

馬場は自らの解説の中で、ジョゼへの愛情が、後半2幕では既に冷めたものとしている。では、エスカミーリョに完全に乗り換えたかというと、かつてジョゼに夢中になったほどは愛さなかった・・・という。はっきりしない。馬場演出の弱点は、この関係を十分に消化できていないことにある。

確かに、カルメンは、エスカミーリョに夢中ではない。群衆の賞賛を受けながら登場し、彼女に愛を語る闘牛士に対し、カルメンはさして感激もしない様子で、演ずるところの水口さんは終始、あさっての方角に顔を向けているのだ。しかし、明らかにジョゼも遠ざけている。惑星と、その衛星のように、2人は向かいあっても近づきはしない。群衆が去り、スタディオの前で待つジョゼを、カルメンは睨みつけた。しかし、そこから先が、解釈されていないように感じられる。

蛇足ながら、私の解釈を書くが、カルメンは最後まで、ジョゼを愛しているのだ。スタディオの前で言い寄るエスカミーリョに対して、彼女は「あなたより愛している人がいるなら、私は死ぬ」という。これは一見、エスカミーリョのことが死ぬほど好きだという意味で解釈できよう。

だが、こうも考えられるのだ。エスカミーリョのことは好きだけれども、それ以上にジョゼのことを愛しているから、私は死ぬのよ・・・。水口さんの、あの落ち着き払ったカルメンは、こうして自らの死をはっきり意識して、ジョゼに向かうように見えた。ジョゼの顔をきっと見据えたのは、つまり、死を、自らの運命を、しっかと見据えたということである。

そのような心理が明確に意識されていない点で、馬場演出はなにかモヤモヤした感じで幕を閉じてしまう。

もうひとつの問題点は、私がみたオランジュ音楽祭のプロダクションに、馬場も影響されているということだ。こちらの偏見もあるのかもしれないが、こうしたことはよくあることだ。第2幕で舞台中央に小ステージを設えた点や、第1幕のミカエラを男たちが取り囲むシーン、また第1幕で、逃げ出すカルメンを追わないで、ジョゼがすぐさま連行されるシーンなど、その影響が濃厚だ。

このうち、最後の第1幕の終わりのところの演出が、特に問題がある。なぜなら、舞台上手のほうでジョゼがカルメンを逃がすのだが、そこから1mもないところに兵隊が迫っているのだ。しかも、ジョゼが手をはなしたあと、カルメンは手縄を踏みつけたりして悪態をついている(彼女の、自由への強い執着を表すのだろう)。だが、兵隊はカルメンを追おうともせず、ジョゼをすぐさま連行する。細かい動きが加わっているが、コンセプトがかなり似ている。

台詞がないこともあり、第2幕につなげるため、ジョゼが捕まるシーンがどうしても必要なのだ。だが、やや説明的な感じがする。オランジュ音楽祭との共同製作のときも、この演出には疑問を感じたものだが、演出家は安易に取り入れてしまったようだ。他に、盗賊一味があまりに多すぎるのも、オランジュ音楽祭と同じだが、私には違和感がある。

第1幕で、フラスキータとメルセデスがカルメンの捕縛を目撃したり、その後、迎えに出ているのは珍しいが、あまり意味はない。私が演出家なら、彼女たちになにか罠を仕掛けさせて、カルメンが逃げるのを手伝わせるだろうが、それもやっていない。

低予算ゆえの苦肉の策であると思うが、終幕で闘牛士たちのプレビューの行列は舞台上に現れず、会場側をマスと子どもたちで眺める形にしている。行列を追いかけるように、子どもたちが上手と下手を走って行き来する。よく考えたものだが、せっかくの華やかな場面がもったいないかもしれない。

このように紋切型で、かつ、オリジナリティのない点も指摘できるが、美術的にはとても美しい。第2幕の酒場の壁画など素晴らしいが、第3幕の洞窟で、ジョゼが見張りをする場所に、サイドから見ると階段がついているのは必要なこととはいえ、興ざめだ。

最後は細かい話になってしまったが、重要な点に戻ろう。それは、カルメンがなぜ死なねばならないかだ。もちろん、これは決して、自由よ万歳という物語などではないのだ。カルメンはむしろ、その自由さによって縛られており、死ななくてはならない。ジョゼは、そのことを理解できていないが、結果的に、カルメンを自由から解放する。

カルメンは終始、ジョゼを愛しているが、帰営ラッパに縛られるようなジョゼにすべてを捧げることはできない。それよりは、闘牛士を選ばざるを得ないのである。なにしろ、それが、カルメンの生き様なのだから。かくして、ジョゼはカルメンの愛を取り出すために、彼女を殺さねばならない、というところに悲劇があるのだ。

死んだ彼女をみて、ジョゼは激しく慟哭し、まるで誰か別人を告発するように自らの罪を訴える。嗚呼、カルメン!・・・と高音を張り上げる、テノールの見せ場だ。内山さんの、美しい声がすべてを浄化した。そこには、複雑に絡みあった愛の叫びが、むなしく響く。そのことを、私の知性は掴んだ。

このあたりをしっかり描ききった演出は、ないものだろうか・・・。
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2006/3/29

東京オペラ・プロデュース カルメン A  演奏会

つづいて、歌手について触れたい。しかし、役の造形は、演出によるところも大きい。演出意図は、必ずしも明確でなかったが、わかりやすいコンセプトがひとつある。それは、ミカエラについてである。

今回の歌手は、斉藤紀子さん。二期会「ジャンニ・スキッキ」のラウレッタ役で、有名な「私のお父さん」のアリアを見事に歌いきった人だが、またしても娘役である。第1幕で男たちに言い寄られ、モラーレス伍長にも迫られるが、ここでミカエラは(遠くでわからなかったけれど)、多分、短銃を籠から取り出して相手を仰天させる。

あとで解説を見てみると、なるほど、ミカエラを清純な乙女として描くのではなく、その強さを描きたかったらしい。斉藤さんは、もともと芯のつよい声をもっているから、この演出はよくはまった。

演出の馬場さんが、どれぐらいふかく携わったのかはわからないが、歌手のキャラクターを考慮に入れて、やっているのかもしれない。エスミーリョはどうもロカビリー風で、そのイメージを闘牛士のところに嵌め込んで、我々に理解させようとしているらしい。それはいいが、三塚至さんはとても細かい感情の機微を、繊細に演じ分けられる人で、その味が十分に生きたエスカミーリョだった。カルメンも、情熱や熱狂、自由への失踪というよりは、ずっと落ち着いた自由人の矜持をコントロールできる女性だった。水口惠子さんは、余裕たっぷりに見受けられた。

そのなかで、ひときわ異彩をはなったのが、内山信吾さんのジョゼであろう。前半は硬く、聴きづらい歌唱だったけれど、後半は、役柄が興奮すればするほど力が抜けて、柔らかい歌が聴こえる。まだまだ安定感がなく、終幕などは膝を折っての熱唱だったが、格好はよくない。とはいえ、肩の力が抜けると、膨らみのある、まろい高音が伸びて、ときどきアラーニャを思わせる爽やかさを放つ。

この役がつよいので、カルメンは逃げられない。エスカミーリョを愛しても、やはり、ジョゼへの想いは断ち切れていないのだろう。これは、馬場さんと考えが違う。カルメンの大いなる謎は、カルメンがどうして死なねばならないか、カルメンは誰を愛していたかということに尽きる。そのことについては、3つ目の投稿に譲ろう。

それにしても、水口さんのカルメンは、やや魅力が弱い。立ち居振る舞いなどに、工夫のあとは見られる。だが、歌唱の魅力が十分でない。これは指揮者の意向でもあると思うが、第1幕を抑えたのがあとで響いた。ハバネラを煽らないで、ゆったりと歌い上げたのは驚きだったが、懸命と思う。だが、リーリャス・バスティアで十分、カルメンの魅力を印象づけられなかったのが問題だった。やはり、あの音楽に乗せてぐいっと高揚していってほしい。

2幕あたまの煽りはなかなかのものだし、ジョゼを踊りで迎えるシーンも印象的だ。しかし、すべて取り返すには至らない。声質的にも、ときどき強いビブラートがかかって、好みでないこともあろう。

一方、ミカエラはすごい。声量的にも圧倒的だが、演出家の意図をもっともくっきりと印象づけた。だが、この才能あるソプラノには、隅々までより行き届いた配慮が必要だ。ときどき力任せになったり、休符への入り方が粗いのが気になる。とはいえ、故郷のお母さんを歌うところなんて、なにか特別な思い入れがあるのではないかというぐらい、じーんとくる歌いっぷりだ。ただ、できれば、次は、ワルの役を聴きたい。

ほかのキャストに触れられないのは残念だが、思った以上に頑張ってくれた人が多い。中で、カーテンコールではあまり人気がなかったようだが、三塚至さんの優れた演唱には感銘を受けた。
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