黒衣の旅人さんの日記 ミクシィ
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本日の雑念
朝、気功、もしくは経絡体操をしていると、ある段階から、平衡感覚を失う。
三半器官による平衡感覚、つまり重力バランスから、重心バランスに移行する瞬間がある。
そこで、ナンバ歩きが出現する。
ここで言ってみた重力バランスとは、例えば、犬がいるとして、大地の上で四つ足で立っているようなことである。
人間は直立しているので、二足である。
犬の四足と、人間の二足とは、どう違うか。
犬は四本の足でバランスをとり、人間は二足でバランスをとる、というだけの違いか?
そうではなく、自由になった手と、足とのバランス関係がある。
これを、重心バランスとしてみた。
重心バランスは“センター”をめぐっている。
(最近ひじょうに忙しく、かなり疲れていて頭がまわらない。重力バランスとか重心バランスという言葉が適当であるか、判断保留のまま進める。)
犬が四つ足で、大地の上に立っている。
○
─
人間は直立しているので、こうなる。
│○
これが、重心バランスであり、センターであるというのは、唐突ではあるが、“リーマン球”という数学的なモデルが使えるという話になるのかもしれない。
リーマン球とは、無限に広がる大地を想定したとして、大地の無限の彼方を、ふろしき包みのように、まるくまるめてみると、無限方向が今度は、鉛直方向に変わる、というものである(画像参照)。
これが、“センター”、中心軸ではないだろうか。
女性は、これを、子宮まわりの出来事で自然に学び取るらしい。
男は、修行などをやって、ようやくそれを獲得するが、身に付いたセンターの力は女性のそれにはるかに及ばないのだという。
初めから、“大地”という性質の感得のあり方に大きな差があるのだろう。
あるいは、子宮という器官の構造由来であり、それがあるか、ないか、ということが、すごく大きいのかもしれない。
つまり、例えば、子宮がリーマン球のようなものであるのならば、それがあるのとないのとで、経験の総量がまったく違う。
テキトーな話をしているが、これはメモなので、いたしかたない。
甲野善紀の表情、たたずまいなどをビデオを見ると、ひじょうにクリアーなものを感じる。
無思考、考えずにいること、ということを、当たり前にできている人であろう。
それは、高度の集中力により、身につけたものであろう。
それは、日本刀という危険な刃物を用いて為されるということであろう。
考えるというのは、対象をもつ思考のあり方である。
○○について、あれこれと、考えている。
無思考というのは、らくなものではない。
集中力の欠如。
またあるいは、大脳とは、考えたいものであるという事実。
それを凌駕する集中力があるか。
しかし、無思考でいれば、脳という器官は退化する。
よって、無思考である時間をおぎなうほどの、高度の思考能力を、発揮する、
つまり、大脳を鍛える、ということを他でやれるかどうか、ということ。
私の思考は、クリアーではない。
かろうじて、雲を、はらってはらって、ようやく、青空が覗く。
訓練がないというのは、仕方がない。
しかしそれでも、なんとか、雲間が晴れる。
考えないことというのは、“無限遠点”に近い。
つまり、リーマン球におけるセンター軸ということに近い。
ところで、想念の力による人格形成ということがある。
これは、性的なエネルギー、もしくは、生命的なエネルギーをエネルギー源としている。素材としている。
人間の想念には、ある種のパターンがある。
安定した人格とは、そのパターンが単調であることだ。
これは、与えられた世界に対する“疑いの無さ”にもとづくものだろう。
例えば、超自我モデルとしての親に対して、肯定的であれば、特定の安定した想念パターンが得られる。
これが、安定した性エネルギーの供給ルートと結びついて、一定の安定した人格が定まる。
ところが、疑いの多い人間、疑いだらけの人間の場合、安定した一つの人格というものが得られにくいという場合がある。
特定の、外部の、思想や信条に依拠するというのは、そのような、不安定な人格によりもたらされる場合が多いのだと思う。
カエルの子はカエル。個性とは、かけがえのないものである。
ひとつのパーソナリティーとは、巨大な歴史が産んだ産物で、その個性の輝きは、おそらく、どんな思想も信条もかなうことはないだろう。
「私は人間を観察するのがなによりも楽しい」。
野口晴哉の言葉であるが、まあ、そういうことだと思う。
もっとも、野口晴哉の場合は、暇があればあしげく図書館に通っていたらしいが。
その人が、その人なりの、個性により、考えるということ。
あるいは、感情反応するということ。
そこには、つねに、劇的なドラマがあるといえる。
私は、正直なところ、そんなドラマからは常に疎外されてきたような気がする。
「君はいったいどういう人なんだい?」「さあ、自分でも分かりません」(笑)
「私は本当に空っぽな人間なんです、ほんとうに」(村上春樹の小説の主人公)
「考えない」ということも、一つの人格形成となるのではないかと今日、思いついた。
通常、私はどのように考えるか、私という個性はどのように考え、その個性的な考え、あるいは感情反応、行動を、いかに、よりよい表現としていくか、ということがある
しかし、考えないということが、一つの人格形成をするということであれば、それはまさに、私がある時期から、三十代半ばから、一度“すべてを諦めて路傍に立ちつくす”ことから始めた時から、形成されてきた、それであると思う。
考えるということは、つねに、なにかについて考えるということである。
つまり、考えるということは、ほぼ無限数の、多様性をもつ。
これに対して、考えないということは、たった一つのことでしかない。
つまり、考えないということにより形成された人格は、一つの普遍性を持つことが出来る。
つまり、そこで、つながることができるということである。
無思考。
しかし、思考をしないということは不可能である。
つまり、思考しないということではなく、それは“対象をもたない思考”なのである。
野口整体の12種体癖論では、上下型というのがあって、さらに、一種と二種の、開・閉と分かれる。
上下型一種・開は、論理的思考に向くタイプで、外向的である。
しかし、どうやら、残念ながら、私は、上下型二種閉型の気質が強くブレンドされているらしい。
これは、考えるのは好きであるが、考えれば考えるほど、混乱してくるらしいのである。
混乱し、内向していくらしいのである。社会に開いて行かないらしいのである。
考えるほどに、ただ自分の部屋で、どんどんドツボにはまっていくらしいのである。
考えるほどに混乱するのに、考えるのが好きであるとは、これは、やらない方がよいことをやらずにはいられない、ダメ人間ということに近く、これはいかにも自分に似ているので、野口晴哉の本を読んでいて、一時、自暴自棄になりそうになった(笑)
しかし、上下型二種・閉に関して、間脳ということに関係があるとか、反射的な能力、というようなことが書かれている。
これはひじょうによく分かるのである。
つまり、頭で考えるというよりも、体で考えることに向くのである。
瞑想や体操やダンス、その他、ボディーワークというのは、身体で考えるという要素が強い。
体育の授業は嫌いであったが、身体で考えることは、おそらく、一貫して好きだったのだろうと、今にして思う。
その身体で考えるということは、通常の思考とは異なるために、ひとまず、考えないということをやる必要がある。
つまり、自分の中で、開かない無駄な思考のあり方から、遠ざかる必要があるわけだ。
向かないのだから。それをやっても、社会的に評価されないのだから。
考えないということをやる。無思考ということを訓練する。
その時から、初めて、運が開ける。
そんなことは学校では教えてくれなかった。
頭が考えないと、身体で考えるということができてくる。
このことがすなわち、「考えない」ということが、あるいは、「対象をもたない思考」ということが、一つの人格形成力をもつ、ということであり、
そしてそれはまた、「一つの言語」としての普遍性を有するものである。
なぜならば、このような思考は、古今東西、どこでもやられていたものだからである。
すべてを諦めて、捨ててから、始まる道ということ。
この道に入ると、「○○は△△だ」というタイプの思考のあり方は、ある種の「雑草」ということに近い。
雑草を駆除して、対象をもたない思考という樹木を、育てていかねばならない。
性エネルギーは、様々な人格性を育てる。
これが、呪物性ということであり、物神性ということだと思う。
世界に対して疑いの少ない、安定した人格の場合は、自己が、自己の場所から分離しにくいという長所がある。
太古の人間たちは、超自我という人間の歴史の力が弱いので、自己ということが、自己の場所から浮遊してしまいがちである。
そして、考える能力も低いので、パイプの流れを邪魔をするものがなく、性エネルギーは強いのである。
自己を場所規定する自己を自己たらしめる能力が、外部に流出しやすい。投影しやすい。
しかもそれが、強い性エネルギーの裏付け、つまり人格形成能力をもっている。
精霊とか、妖精とか、妖怪とか、アニミズムとか、そういう世界が展開してくる。
そのように、人間の四次元的な意識領域においては、自己ということと、モノということとは、交換可能となる。
あるいは、自己の位置と、モノの位置とは、等しいものとなり得る。
エーテル体領域。生命エネルギーの交流は、それを可能とする。
これは言うまでもなく、呪術的な、あるいは魔術的な、世界観である。
キリスト教徒が、キリストという人格神をピン止めして、超自我を強化し、人格の流失や投影、つまり呪術的・魔術的行為を排除したというのは、それなりの理由があるのだろう。
ひとつには、生殖の管理であろう。
家畜文化であるが、家畜管理というのは、要するに、馴(じゅん)化であり、野生を去勢するということであろう。
動物と、人間は、近いので、動物に対して行使された管理、あるいは権力は、そのまま、人間社会に移入される。
良い食物というのは、「近くて遠いもの」だと言われている。
つまり、近くで取れた、地場産の、遠い種目、つまり、植物、野菜や穀物である。
肉は冷凍できるので、「遠くて近いもの」を可能にする。
これは、人間が自然から離れる道となると言われている。
家畜の去勢技術が高まると、当然のことながら、人間も、とくに人間の雄も、去勢される。
すると、性エネルギーが衰えて、呪術が不可能になる。
性エネルギーの伴わない呪術とは、精神病を招くことになると思う。
狂人が多発し、精神不安が広がれば、呪術は、魔術は、禁止される他はない。
それは、その拠って立つ根拠を失ったのである。
(性エネルギーが衰えたからといって、性欲が減退するわけではない。それは、いわゆるエロジジイと言われる人種をみれば分かる。あるいは、倒錯型の性犯罪者はおそらく、基本的には、性エネルギーの減退者であろう。)
“円心”図を使って考えてみよう。
○を描く。その中心に・を打つ。
○、円弧は、“多”である。中心点・は、“一”である。
○・多には、「分裂的人格性」を置く。
ここには、呪物性や、物神性が置かれる。
しかし、性的なことがらが抑圧された社会では、モノは、十分な生命力が注がれることがないために(仏作って魂入れず)、それらはただ、離散する。
離散したかたちで、分離し、点在し、場所性を確保することがない。
これは、商品市場主義経済社会ということと重なる。
それら多くのことがらは、“雑草”である。
雑草を廃し、ひとつの有効な芽を、樹木を、生命の樹を、育てねばならない。
これは、○・多に対して、その中心に位置する・ということであろう。
それが、「本当の自分」であり、そこには「非対象的思考」が置かれる。
これは、「分裂的人格性」ではなく、「そのものとしての分裂症」であり、
たくさんの雑草としての人格、あるいは亡霊を廃除した、「向こう側の人格」、
それが、本当の自分であり、それは、ろくでもない思考・妄想を廃した、
ゼロポイントにある。
(ただし、野口三千三は、集中のためには雑念が必要であるというようなことを言っている。これはたぶん正しいと思う。そして、雑念もまた正念なりの領域があるとか・・・)
画像:
・拡張された複素平面とリーマン球
http://hooktail.maxwell.jp/kagi/9e13b12e832aa936da2413ff16085915.html
数式はともかく、てるてる坊主みたいなもんだということでしょう。