禅定の段階
清水 友邦
ミクシィ
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先日の夏至の日、三鷹の沙羅舎で2日間のブレスワークのグループが終了した。参加者の中には遠いニューヨークから来てくれた人もいた。初めての人も経験者も共に探求したいという人が多かった為かグループのエネルギーは高まっていった。ワークで自我の境界が揺らぐと、しばしば無意識のエネルギーは爆発する。グループではそれが全体に共鳴してエネルギーが循環するのである。当然、グループの一員であるファシリテーターの私もグループの恩威を多大に受けるのである。ありがたいことである。ブレスワークのプロセスはヨガや仏教の修行の段階と対応している。
仏教の修行は戒(シーラSila)定(サマーディSamadhi)慧(プラジュニャー prajna)といって戒律を守り、瞑想の修行をして、涅槃(ニルヴァーナ nirvana)に至る事が目的である。
アビダルマ仏教では禅定の段階を欲界、色界、無色界の三つに分ける。
欲界は外部の刺激を受けた物質的な感覚的経験の領域で、煩悩に覆われているので欲望にふりまわされ苦悩する。ここでの修行は嘘をつかない。盗みをしない。生き物を傷つけない。淫らな行為をしない。酒を飲まない。などの戒律(シーラ)を守る生活が要求される。アシュタンガヨーガではヤマ(禁戒きんかい)ニヤマ(勧戒かんかい)である。そして体の準備を整えるアサナによって瞑想の土台を築くのである。
色界は物質世界を超えた非物質的な感情や思考も含む微細な領域である。ここでは初禅・二禅・三禅・四禅の四つの段階に分けている。
倶舎論での初禅の説明は「尋伺(じんし)の鼓動によって心は水の波浪ように乱される」とある。瞑想によって粗い物質的(尋じん)な身体感覚や非物質的(伺し)な思考や感情に同化している状態から脱同一化をはかるのである。禅の技法では呼吸の数を数える数息感がある。ヴィパッサナ瞑想では呼吸に意識を集中させ(ヴィタッカvitakka、尋じん)思考や感覚を観察する(ヴィチャーラviccara、伺し)のである。
ブレスワークの導入部では仰臥禅の姿勢で呼吸をする。そして思考に同一化してしまわないように、ひたすら呼吸に集中する。ヨガに対応させると横たわる姿勢はアサナで呼吸はプラーナーヤーマ 、集中はダーラナー(凝念ぎょうねん)にあたる。
ジョン・C・リリーが作ったアイソレーションタンク(音や光が遮断された中で人の体温と同じ温度の液体に仰向けに浮かぶ感覚遮断装置)に入って感覚遮断をすると脳波がベータ波からシータ波に移行する。シータ波は寝入りばなの時の脳波だ。ヨガのプラティヤハーラ(制感せいかん) は五官に反応しないように訓練する事だが、感覚遮断の実験をすると実際に多くの人が幻覚を体験する。
感覚遮断の実験で幻覚を見るのは、外から全く刺激がこなくなると無意識のエネルギーが活発になりそれが意識の表面に現れるからである。眠ることによって外部からの刺激に対する反応がなくなり脳が休まり夢を見るのも同じメカニズムである。
ボディワークに頭蓋仙骨のリズムに働きかけるワークがある。頭蓋骨の内側には硬膜、くも膜、軟膜という三層の髄膜があって脳脊髄液が循環している。この部位に緊張がある人は問題を抱えている事が多い。ワークでこの緊張をリリース(エネルギー・トランスファー・アプローチ)すると脳が深いリラックスに入り、光をみたり、匂いを感じたり、鈴音が聞こえたりする人がいる。脳のバランスがとれたために無意識のエネルギーが活性化したのである。
仏教では肉体や思考を自分と考える心をマナ識といって、五官からくる煩悩に覆われ汚れていると考える。マナ識は個人的な無意識の領域といってよい。日常意識では五官からくる刺激に自動的に反応し、そのことに大部分の心的エネルギーを費やしている。グルジェフは「人間は機械である。」といった。こころは繰り返される刺激を自動化して処理している。そのため外界の刺激にただ反応して、決まりきったパターンを繰り返し、あたかも自由意志をもたない自動人形のようにふるまってしまうのだ。グルジェフの考えでは心的エネルギーの大部分を低次のセンターが浪費してしまい、高次センターの機能が活用されない状態だという。恐ろしい事に我々は眠りこけ機械のような行動パターンをとっていることに気がついてはいない。決まりきった行動パターンをとる人間の行動を予測する事は容易である。ただし、人間機械を占うことは簡単だが、条件付けから解放され、自由なエネルギーが流れている人物を予測する事は困難だろう。
瞑想の技法は一定期間ある特定の対象に注意の焦点を合わせることが基本にある。心は常に今ここから立ち去ろうとする。五官からくる刺激に無意識に反応せず、こころを今この瞬間につなぎ止めると、滞っていたエネルギーは解き放たれるのである。
心理学のアプローチは影(シャドウ)との同一化をやめ、仮面(ペルソナ)を脱ぎすて自我に目覚めることにある。セラピーの現場では無意識の領域から浮上するエネルギーを取り扱う。禅では魔境として知られている。魔境の例としてはキリスト教徒が黙想中に出現するサタン、仏教徒が瞑想中にあらわれる魔羅(マーラ)など、神話世界で英雄を襲う怪物や魔物、恐ろしい動物などに相当する。影のレヴェルでは投影された自我のコンプレックスや抑圧した感情が浮上し、体のレヴェルでは身体症状となってあらわれる。心のレヴェルでは悲しみ、幸せ、動揺、憂鬱、心配、恐怖、喜び、有頂天である。心のレヴェルの魔境とは五官からくる知覚、思考や感情を自己と取り違えることにある。
セラピーと瞑想が共通するのは表面に浮上したエネルギーを自覚化してそれを見る事ができれば、見るものと見られるものとの混同が起きなくなることである。影のレヴェルの病理では自我の統合がおこり、身体のレヴェルではこころと体が統一体になり、心のレヴェルではリアリティを分離して見る事をやめるのである。
禅定の段階 その2
初禅から二禅では思考をつかわなくとも、対象を観察できるようになる。つまり意識的な努力をしなくとも観察が自然にできるようになるのである。
三禅では思考が静まり喜び(ピーティー Piti)があふれるようになる。思考が静まると滞ったエネルギーが自由に流れ始め、それを感じるようになる。そのときに脳内麻薬といわれるエンドルフィンがあふれ体中が歓喜(大楽)につつまれ恍惚となる。
四禅では喜び(エクスタシー)がおさまり、深いリラックスに入る。
この色界の先には四つの無色界がある。
・身体を忘れ、空間の広がりだけが感じられる「空無辺処(くうむへんしょ)」
・空間の感覚が消え意識の働きだけの「識無辺処定(しきむへんしょ)」
・意識を忘れとらえる対象が何もないという「無所有処(むしょうしょ)」
・ 意識があるともないとも言えない「非想非非想処(ひそうひひそうじょ)」である。
仏典にはゴータマ仏陀が若い頃にグル巡りをして瞑想修行に励んだ記述がでてくる。最初にアーラーラ・カーラーマという瞑想の師について無所有処(むしょうしょ)定という境地を達成し、次にウッダカ・ラーマプッタという師について非想非非想処(ひそうひひそうじょ)定という境地に入ったとある。しかし初期の仏典には空無辺処(くうむへんしょ)と識無辺処定(しきむへんしょ)の記述はでてこない。初期仏教の時代、仏典を研究して論争し教義をたてることを好むアビダルマ論師達とひたすら瞑想の実践にはげむ瑜伽行派とよばれる人々がいた。後にあらわれた大乗仏教の教典にでてくるので四つの無色界は瑜伽師の体験を基にアビダルマ論師達が整合性を待たせる為に作り上げた概念ではないかといわれている。アビダルマ論師達と瑜伽行派の人々は、いまだったら臨床家と理論家にあたるだろうか。
ブレスワーク中にクンダリニーエネルギーが上昇すると、ブリーザー(呼吸する人)は変性意識状態にはいる。強烈なエネルギーの流れを感じ、体は震えたり、ねじったり、のけぞったり、体のコントロールが困難な奇妙な動きをする。不安、怒り、悲しみ、喜びのなどの感情がつぎつぎと押し寄せる。カラフルな曼荼羅模様や光の洪水に包まれたり、美しい天上界の音楽を聞いたり、すばらしい香りがただようこともある。上昇したエネルギーの流れが頭頂まで達すると強烈なエクスタシーや絶頂感の中で恍惚となり、その後は深いリラックスが訪れる。
そのような人はセッション後、精神的、肉体的な葛藤や苦痛が突然、消え去ってしまい、本人も驚くことがある。
ブレスワークや瞑想だけでなく、日常の生活の中で突然、無意識からエネルギーが流れてくる事がある。愛する人との別離や地震や火事、事故などですべてを失うことによるショックのあとに非現実的な感覚に襲われることは珍しくない。
意識と無意識の境界の間にエネルギーの回路が開かれると内的な広がりを感じたり、崇高で神聖な使命感を確信したりする。
内的な覚醒が起きると生命は一つという感覚がわき起こってくる。人生の意味と目的に洞察がおとずれ、自己中心的な自我は後退していく。すべての存在からの愛の波動を感じ、神聖さで意識は圧倒され高揚する。
しかし、初禅から四禅までの禅定では自我が残っているので、月の満ち欠けのように、しばらくすると流れが下降し、自我が再び姿を現す。潮の満ち引きのように砂浜のゴミや汚れが姿をあらわすのである。いったん高次のエネルギーを知ってしまうと以前よりも低い位置に陥ったように錯覚する。
内的な覚醒のあとに訪れる退行は「魂の暗夜」と呼ばれる。
「私の信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、虚しさと闇しか見あたらない。神よ、この得体の知れない痛みがどれだけつらいことでしょうか。」
「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実ではない。」
「神は私を必要としてはおらず神は万能の神などではなくそもそも神など存在しないのだ。」
「私はといえば、虚無感と沈黙に苛まれている。見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえない。」
以上はマザーテレサの死後に明かされた聴罪司祭への告白文である。生前のマザーテレサはカルメル会の十字架の聖ヨハネが語る「魂の暗夜」を経験していたのである。
「魂が暗闇のなかにいるのは、耐え得る限界を越える明るさの光に目がくらんでしまっているからだ。光は明るければ明るいほど、ふくろうの目は見えなくなる。太陽の光線は強ければ強いほど、視覚器官の働きを鈍らせる。その器官自身の弱さによって見る力が衰えさせられるのである……目が弱り、曇ってくると、鋭い光に射られたときには痛みを感じるようになるが、魂も同じように自身の不純さのせいで、神の光に真正面から照らされるとはなはだしい苦しみを感じるものである。また、この純粋な光から発せられた光線が不純さを取り除くべく魂にふり注ぐと、魂は自身があまりにも不潔でみじめなものであるように感じられ、神自体が敵となり、自分が神にそむいてしまったように思えてくるのである。」十字架の聖ヨハネ
本人の献身的な努力ゆえに無意識が活性化され眠っていた低次のエネルギーがコントロールを失なって表出することがある。夢でも見ていたかのように、すばらしい経験は過ぎ去り、重い罪悪感と自責の念に教われる。すべては幻想か夢物語と思い込みたい衝動に駆られてしまう。
低次のエネルギーが表面に流れこんでくると、体験を否定する疑いと不信が頭をもたげるのである。
美しさと神聖に満ちあふれたヴィジョンや啓示をうけてしまうと、それに強く引きつけられてしまいもとの日常意識が価値が無いように思えたり、あるいは地獄に堕ちたかのように苦悩する。
低次のエネルギーに心が支配されてしまうと、人格が冷たく皮肉っぽくなり、自己嫌悪に陥ったり、あるいは慢心して人を見下したりする。
アビダルマでは悟りの段階を四つに分けているが完全な悟りを得た阿羅漢(アルハット、アラカン)の前段階では微妙な自我が残っていると考える。最後に残るのは高慢という煩悩のようだ。うぬぼれやプライドという微細な自我(エゴ)の膜が光をさえぎるのである。
パーソナリティーが十分に発達していないと自我に注がれたエネルギーの流れを消化できない。ウィルバーは前個(プレパーソナル)と超個(トランスパーソナル)のレベルの混同、虚偽と呼んでいる。
強いコンプレックスを持っていたり、自己評価が極端に低いと流れこんでくるトランス・パーソナルなエネルギーが自我を増長させてしまうことがある。トランス・パーソナルなエネルギーを自我のレベルに置き換えてしまい自己賛美、自己賞賛といった過ちを起こしてしまうのである。
感受性の強い人はトランス・パーソナルな境界から啓示やメッセージを受け取ると崇高なものと確信しまう事が多い。マザーテレサのようにすばらしい結果をもたらすこともあるが、メッセージを文字通りに無条件に受け取ってしまい、不条理な結果になってしまうこともある。
自分が全能の力を持った偉大な人間だと妄想をいだくことはさほど珍しいことではない。軽度なものから重度になると連続殺人を犯したり、精神障害となって現れる。
いったん妄想が確立されてしまうとバイアスがかかってしまうので、残念ながら言葉での忠告や説得はほとんど役に立たない事が多い。しかし、独善的な思い込みに気づき自我と超個(トランスパーソナル)を区別することを学ぶことができれば、困難な状況を乗り越え、新しい領域に達する事が出来るのである。
つづく