ミクシィ ほそかわさんブログより
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道徳教育はどうなすべきか1 2008年01月22日13:45 集団的自衛権について連載している途中だが、先日徳育の必要性を書いたので、道徳教育の基本について、簡単に私見を述べておきたい。
道徳教育とは、何か。心を育てる教育である。心を育てるとは、心の中に価値を植えつけ、その価値を育て、自分で価値を判断する力を養うことである。価値とは、真善美聖をいう。価値を判断するとは、物事の真偽、善悪、美醜、聖俗を見分けることをいう。物事の真偽、善悪、美醜、聖俗を見分ける力を養うことにより、自ら得た価値観に照らして行動できる人間が育つ。それが、人格の形成ということになる。
◆道徳教育の復活には、教育勅語の復権を
戦後、長く道徳教育がほとんどなされていない。昭和22年に教育基本法(旧法)が出来たが、その翌年、GHQの圧力によって、わが国の国会で、教育勅語を排除し、失効とする決議がされた。それ以来、わが国の学校教育では、道徳がほとんど教えられていない。近年の教育の荒廃や青少年の問題の噴出には、道徳教育の欠落という事態が、重大な原因の一つになっている。道徳教育の復活は、日本の教育の立て直し、ひいては日本そのものの建て直しのために急務である。
そのポイントとして、私は教育勅語の復権を訴えている。教育勅語は、日本人の道徳の根本を説いたものであり、またそれに基づいて教育の理念・目的を示したものである。明治以来、家庭教育に対しても、基準・規範を示すものとなっていた。教育基本法の改正だけでなく、教育勅語の復権が行われてはじめて、日本の教育は、よみがえると思う。
この点は、他所に書いてあるので、ここでは省き、次に具体的な内容に入りたい。
◆道徳の二つの基本
道徳の基本とは、何か。私なりに古今東西の道徳説を概括すると、
「自分が他者(ひと)からされたくないことは、他者にするな」
「自分が他者からしてほしいと思うことを、他者にしてあげなさい」
という二つに、要約される、と思う。
「自分が他者からされたくないことは、他者にするな」という意味で有名な言葉は、「己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ」。『論語』にある言葉である。「人に迷惑をかけるな」というのは、これである。
もう一つの「自分が他者からしてほしいと思うことを、他者にしてあげなさい」というのは、もっと積極的である。人に親切にするとか、人に奉仕するというのは、これである。宗教で説く愛や慈悲は、これを深め、高度にしたものだろう。これまで人類社会では、前者の実行が大きく欠けているので、まず前者について私見を述べたい。
◆自分が嫌なことは、ひとにするな
他者からしてほしくないことには、何があるか。世界中によく知られているキリスト教の十戒と仏教の五戒は、そのうち四つが共通している。すなわち、「偽ること」「盗むこと」「犯すこと」「殺すこと」である。これらは、他者からしてほしくないことの最たるものだろう。
人にだまされるのは、いやなものである。ものを盗まれるのも、いやだろう。これらを喜ぶ人はいない。また、自分や妻や娘が犯されるのは、許せない。まして、自分が他者に殺されるのは、一番いやだろう。自分の親や子どもや恋人を殺されるのも、絶対いやだろう。
自分がいやなことは、人にするな。自分がしたいと思うことでも、他者がいやがることは、してはならない。だから、人を殺すのは、いけないのである。「人を殺してみたかった」などと言うのは、とんでもないことである。
法律で殺人が犯罪と定められ、殺人を犯した者には、重い刑罰が科せられるのは、それだけ強く人がいやがることだからである。
家庭や学校で、こういう道徳の基本を教えると、青少年の無軌道な行動は、少なくなってくるだろうと思う。逆に言うと、こういう道徳の基本となることを、幼少年期からしっかり教えていないから、青少年がどめどなく無軌道な行動に走るのである。
次回に続く。
関連掲示
・拙稿「教育勅語を復権しよう」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion02c.htm
道徳教育はどうなすべきか2 2008年01月23日08:54 ◆宗教や伝統文化の理解が必要
次に、より積極的な道徳のあり方について、私見を述べたい。「自分が他者からしてほしいと思うことを、他者にしてあげなさい」ーー本来は、こちらが道徳の主たる課題である。この課題は、宗教心というもの抜きには、ほとんど考えられない。
伝統的な文明社会では、宗教と無関係の道徳というものは、ほとんどありえないことだった。最も世俗的で合理的といわれる儒教においてさえも、天という超越的な意志や、祖先崇拝という心霊的要素がみられる。絶対的な規範を欠く「恥の文化」の社会といわれるわが国にも、「お天道様が見ている」とか「ご先祖様に申し訳が立たない」などという内心の規範があった。近代西欧が生み出した、非宗教的な、啓蒙主義・功利主義の道徳観は、特殊なものである。また、一部の知識人のものに過ぎない。
わが国では戦後、憲法20条3項と旧教育基本法9条2項で、公立学校での宗教教育が制限されてきた。近年はこれらの条文を、極端に拡大解釈し、あらゆる宗教的な文化・習慣までを否定しようとする傾向がある。たとえば学校給食のときに、「いただきます」と手を合わせて言うのは、仏教的だから為すべきでないなどと、習慣的な礼儀までも排除しようという動きがある。しかし、欧米では今日も、公立学校で、キリスト教に基づく道徳教育がされていることが明らかにされている。実際、道徳教育は、宗教や伝統文化への理解なしには成り立たないと、私は思う。
◆宗教的情操を養おう
わが国では、固有の宗教である神道のほかに、外来の宗教である儒教、仏教などが共存してきた。それによって、わが国には、西欧におけるような、血で血を洗うがごとき宗教戦争がなかった。神・儒・仏の三教には、先祖を敬い、生命を尊び、家族や隣人をいつくしむことが、共通している。そして、これらが渾然と融合して、庶民の生活文化に溶け込んできた。これは、わが国の伝統的な心の文化である。こうした文化を、子供たちに伝えることは、教育の大切な役割だと思う。
また、世界には様々な宗教があり、様々な価値観があることを教えることは、国際理解につながる。宗教的な理解力がなければ、異文化の人々の心を理解し、親善友好することはできない。宗教的な情操を育むことは、今日の本格的な国際化時代において、ますます必要となっていることなのである。
現行憲法や教育基本法の規定は、特定の宗教・宗派を児童・生徒に押し付けることを禁じたにすぎない。日本の伝統的な宗教観に根ざした規範意識や習慣の継承まで否定したものではない。宗教的情操を養う教育は、現行憲法のもとで可能なことである。そして、それを積極的に実行することによってこそ、「心の教育」は、真に教育効果を生むことができると私は思う。また、21世紀の世界を生き抜くことができる、国際的な日本人を育てることにもなると思う。(了)