prayasさんの日記
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2007年05月02日13:56 弁栄上人 其の三 仏蹟巡礼
日本人で最初にインド各地の仏蹟各地を巡拝したのは山崎弁栄上人である。ブッタガヤだけは弁栄上人が訪れる十年前の明治十六年に北畠道龍上人が訪れている。
日清戦争が勃発した年の明治二十七年十二月十五日、弁栄上人36歳の時、フランス船サラージ号の中等船客として横浜港からインド仏跡参拝に向かった。明治二十八年一月六日、スリランカ島のコロンボ港に上陸して、十日間スリランカに滞在して仏教聖地を巡礼した。キャンディにある仏歯寺で、特別に厨子を開帳してもらい、仏歯黄金の宝塔を礼拝している。
一月十七日船でスリランカを発ち、一月二十三日カルカッタに到着、マハーボディー・ソサエティー(大菩提会)の創立者ダルマパーラの紹介によりビルマ前国王の邸に逗留してビルマ国王の歓迎を受けた。弁栄上人はダルマパーラよりインド仏蹟についての話を聞いて、次のように詠んでいる。
「なかなかに 聞くさえかたきみ仏の
みあと訪う日の うれしかりけり」
明治二十八年一月二十五日いよいよ釈尊成道の地ブッダガヤに到着した。ブッダガヤは明治十四年(1881年)にはインド考古調査局の創立者カニンガムによって金剛宝座が発見されていた。弁栄上人が訪れた頃には菩提樹もスリランカより移植されて繁り、五、六世紀のグプタ王朝の欄楯も復興されていた。
「応身の讃」 弁栄上人
(前略)
伽耶(ガヤ)の毘鉢羅(ピパラ)の樹下(このもと)に
金剛座(かたきいわお)のこけむしろ
むすぶ跏趺(あなうら)いかめしく
三昧(さまや)の床に曵(ひ)きしめぬ
天つ魔羅(あまつマーラ)が吹きおこす
百(もも)のいかずち群雲(むらくも)も
晴天冴(みそらさや)かに照りわたる
月には障(さわ)りあらざりし
臘月(しわす)八日のあかつきに
明星仄(ほの)かに出(いで)しとき
無明生死(むみょうしょうじ)の夢さめて
無上正覚(またなきさとり)を得たまえり
仏陀のをしえは正覚(またもなき)の
無量の光(みだのひかり)をさとらしめ
牟尼(むに)の法(みのり)は涅槃(ねはん)なる
無量寿国(とわのみやこ)にかえるなり
(後略)
弁栄上人による涅槃とは生死の夢から覚めて、真如の光が現れることだという。私たちは無限の光と無限の命の世界からやって来て、そこへ又帰る存在なのだ。正覚とは太陽が出て、心の夜が明け、今まで見ていた娑婆世界が消え、宇宙全体が真実に輝いて、光明に満ちた蓮華蔵世界が現れることだという。その絶対なる世界が弥陀無量光如来のことだという。弁栄上人は阿弥陀仏を諸仏のなかの一仏ではなく、いわば宇宙の大生命そのものであるととらえた。
念仏について弁栄上人は「心が阿弥陀に同化した上はたとえ念仏を唱えなくとも一切の行為が念仏となる。阿弥陀の業が行為に表れるのならばむしろ立派な仏の行為である。念仏とは口で唱えるだけではない。阿弥陀の心より出る行為は口で唱える以上の念仏である。従来の念仏者はただ口ばかりを重く見て仏の行為をしないのは発展度が低いことだ。」と普通の念仏の考えとは異なることをいう。
阿弥陀の語源はサンスクリット語のアミターユスあるいはアミターバが語源だがアミタは「無限」アーユスは「寿命をもつ」の意味なので無量寿という中国語訳があてられた。アミターバはアーバーの意味が「光を持つ」なので無量光と訳された。阿弥陀は意味を訳さず音を漢語にそのまま当てはめたのである。そうすると阿弥陀の世界とは死んだ後の世界のことではなく、この宇宙そのものをあらわしていることになる。
浄土とは如来の成所作智(じょうしょさち)の現象であるという。ウパニシャッドやシャンカラの注釈によると神は自己のキャンバスの上に自己自身の多様な絵を描き、己自身がそれを見ておおいに喜びに興じるという。成所作智はこの眺め楽しむ僭像の働きをいう。弁栄上人によると浄土がいまここを離れて物理的にあると考えるのは間違いで、法眼が開けばこの現実がそのまま浄土であると説く。念仏門の人はあまりこのような主張はしないらしい。生きているあいだはとにかく念仏を唱え死んでから西方浄土に行くのである。
大般若経によると菩薩には肉眼、天眼、法眼、慧眼、仏眼の五つの眼があると説かれている。肉眼、天眼は粗大身(グロスボディ)の物質的な自然界を見る眼だ。法眼、慧眼は微細身(サトルボディ)の眼になり、仏眼は原因身(コーザルボディ)に相当する。
法眼が開くとこの世界が浄土の荘厳な様子のように黄金の光に満ちて美しく見える。慧眼が開くと眺めている世界と眺められている世界が一つで光明そのものである事がわかる。仏眼では見るものと見られるものすべてが光明に溶け込んで一つになって三界すべてを観照する。
弁栄上人は物質的な娑婆世界と眼に見えない荘厳な浄土世界の両方を見ていたのである。こんな弁栄上人だったのでしばしば念仏の世界からは伝統的な教えと違うので異安心(いあんじん)ではないかと噂され離れて行く者もあった。異安心(いあんじん)とは浄土宗、浄土真宗の用語で異なった安心、つまり間違った教えのことである。キリスト教で言えば異端である。
あるとき、あまりにもみすぼらしい弁栄上人の身なりに案じた帰依者の婦人の「真宗の教えに一致させてはどうでしょうか」の涙声に「天台宗の異安心者が法然上人となり、また日蓮上人となり、法然上人の異安心者が親鸞上人となったのです。浄土宗の末徒必ずしも法然上人の御心を汲むものばかリではありません。それもやはり異安心者です。弁栄はしかし法然上人の御心にかなうので、ある意味の異安心でも悪いのではありません。」と崇高な態度で話された。あるとき異安心について聞く真宗の僧侶に向って「弁栄の苦心は宗祖の真精神を現代に復興せんかとの一事にある。」と説かれた。
弁栄上人は釈尊が悟りを開かれたブッダガのネーランジャナー河(尼蓮禅河)の川岸で前正覚山をあおぎ見て
「わが法はなぞかくばかりになりにけむ
尼蓮禅河の流れつきせで」
と、詠んだ。
ガヤ市でビルマ国王の山荘に宿泊、列車でベナレスに向かい、駅からタンガ(客馬車)で廃墟だった初転法輪の地サルナートへおもむいた。
「みあとなる 鹿野のそのは あれはてて
見るさえ今は かなしかりけり」
ダーメクストーパ以外は釈尊をしのぶものはなくサルナートは荒れに荒れ果てていた。
続いて釈尊涅槃の地クシナガラへ馬車と列車で向かった。カニンガムによってヒラニヤヴァティー河の河床から巨大な涅槃像が見つかったのは明治9年(1876年)である。
「世をてらす 法の燈火かかげつつ
ただながかれと いのるなりけり」
釈尊の遺骨を荼毘に付したラーマーバル塚を拝した後、ゴラクプールへ戻り列車でサヘト(祇園精舎)マヘト(舎衡城)へ向った。
祇園精舎は1863年にカニンガムによって発掘されている。遺跡には多くの精舎跡が見られるが、長い間荒れ果ていて廃墟になっていた。残念ながら四大仏蹟地の生誕地ルンビニーは、当時ネパール国の独立により入国は困難で断念せざるを得なかった。次に予定していたヒマラヤ山脈を見る為のダージリン行きは、風雨のために取り止めにして、一月三一日カルカッタに向った。
「西に入る 夕日の方ぞ 恋いしけれ
われをまちます ほとけいませば」
カルカッタでは、マハーボディー・ソサエティ(大菩提会)の一室を借り、インド考古博物館に通って、仏教美術品などを写生した。またダルマパーラによりブッダガヤの仏蹟復興運動の名誉会員にも堆挙された。
「水こしの 目にもとまらぬ小虫まで 三世の仏のかずにはもれじ」
二月二六日、通訳村山清作を同伴して、カルカッタからフランス船に便乗して帰国の途に着いた。途中、帰国の船が寄港したビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)で、高さ100mの黄金の仏塔があるシュエダゴン・パゴダを参拝した。その時、日本人楼主の懇願に応じて日本人の遊女屋に寄り、貧しさから親の為にカラユキさんになって故郷を恋しがる 遊女達に、如来の慈悲を説法している。シンガポール、香港を経て明治二十八年三月下旬神戸に帰国した。
帰国してから、弁栄上人はブッダガヤより持ち帰えった土と粘土を混じた釈尊像を陶工河合瑞豊の手によって焼き数千体造っている。それを京都の浄土宗各本山をはじめ、禅宗の東福寺、日蓮宗の本固寺、その他の各宗本山及び有縁の各宗寺院に奉納している。、また奈良におもむき、東大寺、西大寺、輿福寺、薬師寺、法隆寺等にも奉納し、その他関東をはじめ全国有縁の寺院や在家の人々に寄贈した。
さらに、ブッダガヤ並びにサルナートの煉瓦を持ち帰ったのを細かく砕いて、薄く彩色した釈迦三尊像を一寸五分程度の和紙に描きそれを幾千枚となく製作して、有縁の人々に配っている。
北畠道龍上人とともに山崎弁栄上人は日本人最初の仏蹟巡礼者の双璧とされる
「奥ふかき心にのみと思いしに
庭の花さえさとりひらきつ」
「にせものの 心身(かたち)ばかりを 我とおもい
まことのわれを知る人もなし」
参考文献
日本の光 弁栄上人伝 田中木叉著 光明修養会
如来光明の礼拝式 弁栄聖者 光明会