hahakiさんの日記
前の日記
2007年03月25日
16:07 殷人と縄文人 アイヌと宋人
フィリポさんの「(メモ)古代の日本海文化」から以下の内容を連想しました。
『呪の思想/白川静・梅原猛』、p.164、「殷と日本 沿海族の俗」より。
─引用開始─
編集部 「沿海族(えんかいぞく)」というくくりの中では殷も日本も夷族であると、殷の文化が日本に残っていると考えてよろしいんでしょうか。
白川 沿海族の共通の特徴は前回にも言いましたが、まず文身の俗です。内陸には全くない。
梅原 殷には文身はあるんですか。
白川 殷は文字の上にね、文身の俗がたくさん残っている。身体に付けた文身は残りませんけどね。文身というのは、「文」というのが「人」の正面形に「イレズミ」を加えた形なんです。胸に心臓の形を書く。これは葬る時にね、ここに心臓の形を書いて棺に納めて、再生を祈ったんでしょうね。(中略/引用者)
梅原 そうですか、沿海族しかないということですね。『魏志倭人伝』に倭の人は入墨もしていると書いてありますね。それと繋がると思いますね。日本では縄文人が入墨をしていますが、弥生人になるとなくなる。だから縄文人はどうも沿海族のようです。
弥生人はしなくなるが、隼人とか蝦夷は入墨をしていた訳です。神武天皇が来た時に、海人族の安曇部が目に入墨をしたという。これは言うなれば殷の風習ですね。そうすると縄文文化は殷の文化と繋がる訳です。それがずっと続いて、アイヌの人たちは、僕の知ってるハル婆ちゃんは、口の周りにこう入墨をしていた。このハル婆ちゃんはアイヌに生まれて17歳の時にシャモ(日本人)の家へ子守に行った。それ以後はアイヌ語は使わなくなった。頭のいい人で昔のアイヌのことよく覚えていて、さっと出て来るんです。
白川 沿海族の極めて特徴的なものは、文身と貝の文化ですから、殷は沿毎族であったと僕は思う。殷は最後までその文化を持っていたと思う。ところが周の中頃になると、殷の部族自体が同化して、そういう固有の文化自体が崩壊するんです。一部は賤民となって細々と残っている。(中略/引用者)
梅原 宋という国は殷人の国家だったんですか。
白川 その子孫が封じられた国です。
梅原 この宋という国は春秋戦国時代にはどんな位置付けだったんですか。
白川 それは風俗習慣もかなり違うので、特別扱いされておった。何か間の抜けた人の話は全部、宋の国の人の話。例えば「株を守る」というのは待ちぼうけの話、「宋人に……」という言葉で始まる。また舟からものを落としたが、舟が岸に着いてから探したという話もね。必ず「宋人に……」と始まっている。
梅原 今のどの辺りでしょうか。
白川 河南(かなん)省の東北部あたりでしょうね。鄭(てい)州の少し東の方。殷の古い都があったところです。殷はその辺で4、5回都を遷している。そしてのち、鄭州へ入る。
梅原 先生は『老子』という本は宋の人によって作られたというお説ですね。これも面白い。超越的なものが出て来ますね。
白川 現突からは疎外されているところがありますから。
梅原 宋は実際には同化されて、殷の風習はなくなってしまうんでしょうか。
白川 いや、やはり殷の系統の者がそこには残っている。国を建てて何千人の単位で入っていますから、一応は続いておった訳ですが、しかし戦国以後、秦・漢時代になると全国的にローラーをかけたみたいに変動しますからね、地域的なものは滅びます。日本はそういう意味では、神代がそのまま残っている。
─引用終了─
※画像は『呪の思想』p.162、「絵取る 異形となるシルシ」より。イレズミは、刺青だと、ものものしく怖いようであるが、入れ墨、描くイレズミの場合は、素朴な温かみを感じる。以下の詩が同ページにあります。
─引用開始─
やさしい人たちがいた。
そのやさしい気持が、遠い先祖の罪滅ぼしをしている。
いや、やさしい人たちは、海の彼方のニライカナイからやって来て、
日本海の浦で、ひっそりと暮らしている。
ユートピア、楽土、楽土、楽土。
─引用終了─
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=380292929&owner_id=4328869