2005/10/1
自分
17・10・1
古代社会の誰が、「自分・ジブン」との概念を持ち「自分」との語を、定義付けしたのだろうか。
其の御仁に対して、慄・おののきと尊敬を覚える。
「自分・ジブン」とは、自らの存在理由を知りたいとの理由から、「自(鼻の形)」と、「分(刃物で左右に切り分ける)」の意味を使い、「自分を 左右に切り分けて 自分の内側を観て 己の存在理由を探り出し 答えを得る」との、意識の目的を鮮やかに示している。
其の目的は、人間の永遠のテーマでも有り、其の模索は現在でも続いている。
其の答えを、明確にしたのが、中国の「老子」と、インドの「釈迦」である。
釈迦は、宇宙意識に到達し「衆生一切」を我子としているし、老子は、恍惚の中に身を置いて「道」の中に溶け込んで居る。
其の二人の超人は、同じ次元に到達し、其々の答えを出している。
其の答えとは、釈迦の「法・ダルマ」と、老子の「道・タオ」である。
法と、道と、呼び名は異なっても、差し示す処は同じである。
彼らは、この宇宙が誕生する瞬間に辿り着いて、久遠正覚を得ているのだ。
彼等には、「時間」も「空間」も無い、超越したトキが訪れたのだ。
彼らは、138億年の時間の螺旋を通り抜け、暗い宇宙空間に、我々の住む空間が、質量を持ち誕生するのを、自分が「産婆」の立場で観ているのである。
そして彼等は、森羅万象の変化が、自分の在り様だと、覚醒したのである。
人間の存在は、138億年の宇宙形態の最前線の姿なのである。
其の理に至れば、統べての現象が自分の為であり、全ての責任が、自分に有る事に成る。
其処の立場に至れば、もう何事も、言葉にする事は出来ない。
言葉を発する事は、宇宙の波動を乱す事に成るからである。
ナザレの「イエス」も、其の理には気付いて、「貴方達は あの山は動かない物だと想って居るだろう。ところが、私が山に『動いて 海に入れ』と云えば、山でさえ海に入るのだ。」と、云ったと伝えられている。
光に例えられている、宇宙のエナジーの世界は、意識だけが、確かな物なのである。
日本でも、「弘法大師空海」は、其の事を実感として捉えている。
其れが、「阿字の子は 阿字の地へ帰る」との短い言葉だ。
誰かが、久遠実成の世界に還り着き、答えを出せば、其れ迄の不純物質は取り除かれ、真実のマントラの海が拡がるのである。
其れが、仏陀を求める民の潜在意識である。
多くの民の存在は、其のたった一人の仏陀が、トキの節目に現れ、答えを出してくれる様にと、長い間、現象を支え続けて居るのである。
たった一人の、其の仏陀とは、別の名を「チャクラヴァルティン・転輪聖王(てんりんじょうおう)」と、呼ぶ事からも其れが解かる。
2600年毎に、時の節目に現れる其の現象こそ、この我々の住む宇宙が、竹の様に、節目を創りながら成長している証である。
もう、新しいトキの節目は出来上がり、次の空間が育ち始めている。
もう、仏陀を待ち侘びる事は無い。
仏陀は、其の作業を既に終え、再び、闇の中に溶け去ったのだ。
後は、今の瞬間に「空即是色」で、現象化している人々で、新しい空間の成長を支えて行くだけである。
もう宇宙(エホバ)は、過去の情報は拭い去り、新しいテーマに向かって進んでいる。
我々が、其れに気付かないのは、未だ、自分の仕入れた情報を、頭上まで被覆してしまって居るからである。
其のシールドを剥がしてしまえば、新しい情報が、目の前に存在する理に気付くのだ。
真実の「祓いたまえ 清めたまえ」のトキを、迎えているのである。
早く目覚めた者から順番に、新しい縦糸に成る事が出来るのだ。
自分の芯を立てたい者は、早く過去の衣を脱ぎ差って、トンボの様に大空に飛び立たなければ成らない。
何時までも、ヤゴの様に風を嫌がって、微温湯に浸かって居ては救われない。
自分で、自分の分けを知り得ない者は、答えを得た者の智慧を、参考にするしかないだろう。
其れでも、良いのだ。
どうせ結果は同じだし、始まりも、同じ処だったのだから。
他の何処にも、行き様の無い我々なのだから・・。
平成17年10月1日
礒邉自適
2003/11/5
諸刃の剣
15・11・5
「諸刃の剣」とは、「もろはのつるぎ」であり、別な言い方をすれば、飴と鞭と言う事も出来る。
片方には甘いものであり、片方には辛いものであると言える。
今日、「フォトンベルト」の著者・渡邊延朗氏と電話で話した。
フォトンベルトの光波が、地球にも訪れようとしているとの事である。
私には、光のエネルギーが遣って来る事は、喜び以外の何ものでもない。
私には、19年前に訪れた現象であり、その事に馴れた私には「待っていました」の時節の到来である。
私にとって、19年前の光の訪れは、新しい世界に移行する為の、鞭のような現象であったのだが、今では、素晴らしい体験の思い出と、変ってしまっている。
私は、人々の先駆けとして、神や精霊たちに、育てられたと言う事が出来る。だから、今回人類全体が、其れを体験出来るのであれば、こんな目出度い事は無いし、私にとっては、甘い飴のような現象と言う事が出来る。
今度、地球が光の振動波に包まれ、人々が変化を迎える事に成れば、人類は新たな次元を迎える事になる。
其れは、神の世界に、一歩近付く事に成るのだ。
自分のエゴ(利己主義)が無くなり、所有欲が消えてしまうのである。
其れが出来ないで、物や権力に執着する者達は、光の振動波を受け入れる事が出来なくて、その変化の波を通過出来ない事になるだろう。
私が、神の光の波動を感じた時、同じ世界に居たのが、当時2〜4歳の子供達だったのである。
何故、子供達が、光の世界に居たのか、其れは子供達が自由であり、金銭や色々な情報に、汚染されていないからである。
私達が、子供の様に純真な心になれば、神の光・フォトンベルトが来る事は、魂の進化を迎える事となるので、実に喜ばしい事となるのである。
今回のフォトンの調べは、立て分けの剣(振動)だと言う事が出来るだろう。
仏教の佛像の「お不動さん」にも、波切不動尊が有って、手には剣を持っており、悪い波動を断ち切ってくれる事に成っている。
正に、今回の出来事は、人類にとって、最高のチャンスであり、イベントとなるのである。
諸刃の剣とは、その場に出合わせられた者を、どちらかに切り分ける働きを持つ物なのである。
その剣の働きが、人類全体に及ぶ時が、近付いたのであろう。
私は、其の時を迎える準備を、続けて来た。
もう多くの人達が、その道を歩き始めている。
是から、多くの人達が、その道に向って動き始めるであろう。
通った者より、今後、通らなければならない人々の方が、格段に多いのだから、物凄い混雑が予想される。
遅れて通過しようとする者達には、辛い現象だと意われるだろうが、其れは仕方のない事なのだ。
2000年前には、イエスキリストが忠告しているし、2600年前にも釈迦牟尼仏が予想を説いているのである。
私は、出来るだけ、人々が通り易い様に、霊界に道を通して来た。
其の入口を探し出すのは、本人の努力に任すしかないのだ。
是以上の私の手出しは、神に止められているのだから。
平成15年11月5日
礒邉自適
2003/4/28
ほどく
15・4・28
日本語の「ほどく」に、漢字を使用すれば「解く」と書く。
此れは、「仏陀・ブッダ」を「ほとけ・仏」と、日本語で呼ぶ事の原因にも成っている様である。
「仏陀」とは、「真理に目覚めた者・覚者」の意味で、物事の真理を理解し、全ての執着から脱する事が出来た人の、呼び名である。
真理に目覚め、全ての「執着」や「柵・しがらみ」から「ほどけて脱した者」を、仏教用語で「解脱者・ゲダツシャ」と呼び、解脱者が「仏・佛」の本来の姿である。
日本では、物事から離れない状態を「しがらみが多い」と表現する。
其れは、解脱と、反対の処に位置する言葉である。
色々な厄介事が積み重なって、身動きが出来ない状態が、「ほとけ」と反対の姿である。
インドの「釈迦」は、民衆のそんな姿を見て、解決の方法を探って、山中で6年間の修業を続けた。
そして、修業を続ける事も、執着の一ツの姿だと気付いて修業を止め、池の水で禊をして木に寄りかかって休み、悟りを得たのである。
日本の古神道でも、同じく、水で禊ぎをする方法が採られており、神社で清い水で身心を禊ぎ、神主の払いを受け、潔白に成ろうとする。
根本的な処では、仏教(釈迦の教え)も、古神道の行法も、同じ要素を含んでいる。
仏教では、しがらみ・柵をほどき、執着を離れる事が大事とされる一方、インドでは「ヨーガ」と言って、神とむすばれることを願うし、日本の神社でも注連縄を張って「結び・むすび」を願う。
英語の「宗教」の意味も「religion・リリジョン(再び神とむすばれる)」で、やはり「むすび」が概念の元と成っている。
どうして、ほどかれる事と、むすばれる事が、対に成っているのだろうか。
此の事を良く考えて見れば、人間社会のしがらみや、執着から「離れ・ほどかれ」て、神の世界とむすばれる事を意味していて、世界中の人が、両方の事を同じ様に願っている事に成る。
では、此の両方を解決する方法が、果たして有るのだろうか。
私の体験から、此の事を説明すれば、「解脱」と「むすび」は、全く反対の言葉で、対に考える事自体が、変しな事であるのだが、これを四ツに分けて考えれば、理解され易い。
柵・執着 ー 神無し
禊ぎ祓いーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
解脱 − むすび
図の様に、禊ぎ祓いを境として、「解脱・ほどける」すれば、同時に、神との「むすび」が起きる事が分かる。
人間の普通の状態では、柵や、執着が強く有って、神と結ばれていない。
しかし、禊ぎを正しく行えば、成仏し、神とむすばれる事に成る。
これが、神社での禊払いの儀式と、注連縄の意味である。
私の体験を、もう少し述べると、解脱をすれば、意識が正しい道に帰るので、判断力が蘇り、何が真実なのかが、能く理解出来る様に成る。
そして、真理の道を歩き、正しい行動をする様に成るので、聖霊が味方と成ってくれるのである。
これが、日本の神道の伝統「神霊の思頼・みたまのふゆ」であり、日蓮が云う処の「諸天善人皆加護に着く」である。
イエスキリストも、ヨルダン川で禊をした時に、聖霊に満たされ、同じ事が起きている。
そして、解脱する方法として、仏陀と成った釈迦は、他人にも出家する事を奨め、イエスキリストは「私に付いて来なさい」と、やはり仕事や家族から自由に成る事を奨めている。
解脱するには、どうしても家族や社会から、一度、自由に成らなければならないのである。
私の場合も、無庵師匠に「自適さんは 大事な役目があるので 仕事を止め 家族と別れてくれ」と云われ、それを実行して、釈迦やイエスの様な事が、自分に起きたので、此の世界の実体が能く分かるのである。
私の体験から、結論めいた事を言うと、真理を知る為には、一度、一切の行為を止めて、禊ぎをし、潔白の状態に成って、何の物差しも使わず、無意識のセンサーを取り戻す事が大事であり、本来の無垢の状態で物事を見詰めれば、全ての真実が明らかに見える様に成るとの理・ことである。
これは、社会や学校で習う事とは、別の世界である。
学校や社会は、執着と柵の巣窟であるので、何かの物差しが必ず掛かっている。
其れは、色眼鏡を掛けて物を見ても、本当の色は見えないのと、同じ理・ことである。
人間本来の、素直な眼・まなこを取り戻す事が出来れば、何が真理であるかが見えて来るので、道から外れている概念が、どんどん剥がれ落ちて、意識・魂が透明に成って来て、柵や執着の原因がハッキリと自覚されて来る。
真実が理解される事で、余計なモノが一切無くなり、純粋意識に立ち返れるのである。
純粋意識に立ち返る事こそ、釈迦の教えであり、日本の古神道の伝統なのである。
つまり、古い概念を、全て脱ぎ棄て去る事なのである。
無庵師匠が1984(S59)年に、私に初めて書いた物を下さった。
その書き物が、ようやく時節を得て、現実のモノと成って来た様だ。
ナニモナサザルナ ソノママデヨイ
自然無為
達人が 平凡に生くること
こそ 本科なり
カンヨウ
必要 こそ道
無庵記
平成15年4月28日
礒邉自適
2003/1/10
四国巡礼
15・1・10
私は、四国に丸2年間住んで、神社起こしをしながら、文章を書いていた。
今朝は、その頃の書類を、整理していて気付いた事がある。
書き掛けの文章が沢山有り、其れに目を通すと、その頃の自分のレベルが、深くて高い事が良く判かる。
其れは、四国の霊魂達のお陰様だろうか。
四国には、88ヶ所巡りの「お遍路」の文化が有り、世界文化遺産にしようとの動きも起きている。
88ヶ所巡りは、奈良時代の僧・行基(668〜749)が遣り始めた事を、弘法大師空海(774〜835)が完成したものと云われている。
空海は、御存知の通り、書や文章に卓越していた人なので、私に告げられる文字や言葉も、レベルが高いものであった様だ。
四国に居る時は、其れが当たり前だったのだが、屋久島に帰って、改めて文章の書き出しを見ると、後の書き足しが出来ない。
考えて見れば、島には達筆な人間が出ていない。
「泊 如竹」と言う人物が、安房地区から出ているが、勉学に励んだにも拘らず、あまり文章が残っていないのである。不思議な事である。
泊如竹翁は、島津の殿様の学問の相手になっていたのだから、何等かの哲学を持っていたはずである。
18年前、私の肉体を真っ先に使用し始めたのは、この泊如竹だった事はハッキリしているのだが、言葉や文字を使う事なく、私の肉体を使用して、物事を起こすだけで、自分の正体を明かす事はしなかった。
其の様子からすると、自信が無い訳ではなく、全てを知っていての、遣り方だったと想われる。
私は、18年前、4311体もの霊魂に憑依され、島中の荒野を巡る修行を続けた。
島中をグルグル廻る事で、確かに、意識の変容を見た。
私の、体験からしても、四国八十八ヶ所を巡礼する事は、其れなりの意味がある事に疑いは無い。
只、私が気に成っているのは、巡礼をする事が、神通力を得る事なのか、自分を虚しくして、意識を禊ぎ払う事なのか、其の目的がハッキリしない事だ。
二ヶ月も掛けて、八十八ヶ所を巡礼していると、仕事の事も、家族の事も、皆頭から消えてしまう事は確かである。
携帯電話で、毎日、家族と連絡を取って居れば、別の話だけれども、人間の細胞は「他人の噂も75日」で、75日すれば忘れてしまう様に出来ている。
釈迦の訓えである、執着を離れる方法としては、一番遣り易い方法であろう。
日本の、古神道の禊ぎ祓いの方法からすると、少し時間が掛かり過ぎだと想われるが、昔と違って、業・カルマが深い現在の世の中なら、それは其れで、仕方の無い事と言えよう。
私が、是から、屋久島をどの様に考えれば良いのかは、四国に住んで居た事が参考に成ると想われる。
四国巡礼は、1000年の歴史が有り、宿や、道の整備も出来ており、御接待の仕組みも出来ている。
1200〜1300kmの道程を、早い人で30日、遅い人は60日を掛けて歩いて巡る。其の距離は、屋久島一周の丁度10倍の距離が有る。
屋久島は、一周130kmだから、30時間掛かるので、10時間歩くと3日、8時間歩くと、4日の行程と成る。
屋久島は、山が深いので、山登りコースも幾通りも出来るし、滝が多いので「滝巡り88ヶ所」も不可能ではない。
今の処、何も設定されていないので、是から始めるとすれば、何とでも出来る状態である。
肉体の修行の方法は、何とでも出来るが、後は、精神の修行をどうするかである。
私の体験からすれば、3月5日から11月まで、8ヶ月を掛けて、自分の肉体を浄化し、仕事も止め、家族とも別れ、執着を離れて、神霊と繋がって神通力も得た。
其れまでの修行を、行う人は居ないと想われるので、人間の、本来の魂しいを取り戻すだけの事でも良いだろう。
そして、人間にとって、何が一番大事かを、学んでもらえばそれで良い。
私みたいに、文章を書いたり、言葉を紐解いたりはしないで良いだろうから、霊界人と付き合う必要も無いだろう。
考えて見れば、私が是から行う事も、未だ具体性が無いままである。
四国の霊団が、屋久島にまで付いて来て居るのだろうか。
それさえも、未だ明白ではない日々である。
「屋久島八十八滝巡り」http://moon.ap.teacup.com/20070822/
平成15年1月10日 旧暦12月8日
礒邉自適
2002/9/20
一人の涅槃
14・9・20
「涅槃・ねはん」とは、梵語の「nirvana・ニルヴァーナ」の音訳から生じた言葉らしい。
辞典言泉では「滅度、寂滅と訳す。@すべての煩悩の火がふきけされて、不生不滅の悟りの智恵を完成した境地。解脱。」と 載っている。
私が今朝、何で「一人の涅槃」との題にて、文章を書き始めたかと言うと、「何もしないでよい 自由を得ている」との事を、感じたからである。
私は、何も目的が無い。
目的が無いと言うと、普通の人には誤解が生じるだろう。
少し具体的に言うなら、個人的な欲望が無くなり、何かを、自分からしようとの欲が、出てこない事である。
欲が有ったにしても、実行出来ない状態に在るのだ。
どうすれば、人類が幸福に成れるか、どの様に物事を考えれば良いか等の事は、18年の旅で掴んで来た。
其れに、生命の仕組みも理解出来てきたので、「智慧は付いた」と言っても良いだろう。
「智慧を完成した状態」と言えば、其れは当っているかも知れない。
確かに、私の心理状態は18年前の状況とは異なっている。
18年前の6月4日以降の時期は、解脱の状態ではあったが、其れは、老子の謂う「恍なり惚なり」の状態であり、見る目には、解脱の状態(体の事)ではあるが、「ブッダ・仏陀」の智慧が有る情態(心の事)では、なかったと言う事が出来る。
18年前の、其れは、確かに「神・宇宙」との一体感が全身を包み込み、幸福の絶頂感に在った。
其の時の体験が有るから、恍惚が如何なる現象・ものかは、良く理解出来ている。
しかし、其れは、自分だけの状況であり、他人は気味悪がって、近付いては来ない。
私が、安房川の中洲で、石の上で座禅をして居たり、山中に一人で静かに座って居たり、裸で歩いて居たりすると、其れを見た人達は、私の母親に電話を掛けて知らせるので、母親が私の事を心配して、心労で一変に歳取ってしまった。
母親にとって、一番頼りにしていた長男の私が、一切を捨て去り、出家してしまったのだから、大変なショックを受けたのである。
現在の様に、私に智慧があれば、母親に其の様な心配を掛けないで出来たかも知れないが、其の時には、そんな余裕は無かったのである。
仕事や、人間関係や、物や金の管理等、無心の境地に至る為に、邪魔に成る一切のものを捨てなければ、解脱は起きない。
釈迦牟尼仏や、イエスキリストも家庭を捨て、一切の束縛から離れ去っている。其れと同じ事が、私にも起きたのである。
私が、一切の人間社会の仕組みを捨て去って、自由を得てから、何が始まったかと言うと、神の臨在が始まったのである。
「臨在」とは「高い位置から 多くの物事を見ている意識が 下に降りて来て存在する」との、意味である。
其れ迄の、自分の意識(私心)が消え去って、高い大きな意識の目が、自分に住み着いてしまうのである。
自分の、其れ迄の小さな世界はフッ飛んでしまって、其処には、宇宙意識が同居してしまい、其れまで自分の内に無かった概念が、次々と発生して来る。
其れも、一日、又一日と言うのではなく、瞬間的に連続で遣って来るので、自分の概念を持ち込んで、自分の物差しで計っている余裕は、全然無い状態である。
人間の、現在の能力は、自分の知っている言語の意味を取り出して、其れに当てはめて物事を判断する。
自分の言語に置き換えて、正しいと思えば受け入れ、正しくないと思えば、受け入れない様になっている。
自分が、言語を仕入れた時に間違っていれば、永遠に、正しい答えを導き入れる事は出来ない。
其れが、人間の大脳の仕組みである。
だから、地球の生物の中で、宇宙の法・ダルマから外れているのは、人間と、人間に飼われて野生を失った、家畜などの動物達である。
其れ等は、人間の大脳が創り出した「まやかしもの」の産物なのである。
其の「まやかしもの」の世界から、脱出させようとするのが、般若(梵・prajna)の智慧の「色即是空」「空即是色」の経典の言葉である。
私は18年前、この人間の社会が、皆、まやかしものである理を悟り、人々に其の事を伝えようとしたが、まやかしの内に在る者には、其の行為は奇異にしか、想えないのである。
私は、其のまやかしの世界から、家族や友人達を救おうと、色々考えた末、その方法を探る為に屋久島を出て、全国行脚の旅が始まったのである。
私は、佛教やキリスト教、其れに日本の神社、御輿、相撲等の伝統を調べて、人々との共通言語を探して来た。
共通言語とは「同じ概念を 共有出来る 言葉のこと」である。
そして、ようやく、どんな人とでも、話しを合わせられる事が、出来る様に成って来た。
私は、未だ、此の世界に入って18年しか経っていないが、インドの釈迦牟尼仏は35歳で悟りを得て、仏(ブッダ・覚者)に成って、80歳の旧暦2月15日迄、説法を続けたと伝えられているので、私は未だ、釈迦の其れには45年及ばない。
だから、釈迦の涅槃経の次元迄は、至っていないのは勿論である。
私は釈迦の様に、方便による説法だけが、役目ではないようである。
釈迦牟尼仏は、イエスキリストの様に、政治や経済に注文を付けてはいない。
私は、釈迦の説法の続きと、イエスの経済の完成の念いを、実行しなければならないようなのである。
其れも神武天皇の様に、他の部族を殺す遣り方ではなく、全ての民族を救える方法を、見出さなければならないのだ。
私が、他の人々に理解されないのは、自分自身で、誰にでも簡単に納得出来る様な事を、しては居ないからである。
事業を興したり、本を出版したり、病気治しの奇跡を起したりの事を、何もしていない。
している事は、メッセージを文章にして、インターネットに載せたり、起きた出来事を写真やビデオカメラに撮ったりして、記録を残す事であるが、今の処、其れが何を意味しているのか、理解している人はいない。
其の事を、少し説明すると、「神と共用する」との言葉にする事が出来ようか。神とは、此の宇宙の実体の姿と、目に見えない働きの全てを、言う意味である。
私の肉体も、神の一部であり、私の心は、神と共に在り、私の意う事は神の想いであり、私の行動は神の代行である。
だから、私の身心は、森羅万象と同根であるが故に、神と、この森羅万象を共用している事に成るのである。
其れを、使い古された言葉で云えば、預言者と言う事になる。
旧約聖書は、聖者の霊夢が元に成っている。
現在、私に、同じ事が起きているのである。
其れは、当事者にしか理解できない事なので、縁の無い人には、解らないのである。イエスキリストの行動は、イエスに付き従った人にしか、解らないのと同じ事である。
私には、実に多くの人々が、救世の当事者である理・ことが見えているのだが、本人は、其れに気付いていないだけである。
だから、私の涅槃に付き合っていてくれる人は、未だ誰も居ない。
私は、全国に何百人の友人知人が出来た。
しかし、其れ等の人々は、私から此の世的に、其の人達に近付いて行っているのであって、誰かが、私の涅槃の世界に、付き合っていてくれる分けではない。
だから、私の涅槃は、未だ一人なのである。
平成14年9月20日
礒邉自適
2001/8/29
トビラを開けるのに薬を使ってはいけない
13・8・29
今迄の自分を省・かえりみて、他人との違いを考えてみる。
私と、同じ様な理を謂っている人は、澤山在るだろう。
其の中には、本で読んで知り得た事を言っている人もいるし、何かの薬物を使用して、非日常の世界を覗き見て言っている人も居るだろう。
だが、私は、何等かの薬物も使用した事は無く、本で読んだ知識に影響されて修行をした分けでもない。
私は、屋久島の自然の中で育ち、屋久島で日常行なわれている、農林漁業の仕事に携わって生活して来たのである。
私は、第一次産業の中で育って来たので、極普通の生活様式の中で育った事に成る。だから、私の精神構造は、田舎の百性の意識が土台に成っている。
都会生れの人達の、知識を土台とする意識とは、根本的な処に違いが有るのだ。
東京生れであっても、50年程前、都心以外で産れ育った農家の人だったら、私とあまり違わないのかも知れないが、私の育った屋久島は、周囲130kmの島が、海抜2000mの高さに盛り上がっているので、景色や、吹いている風等は、随分異なるだろう。
私の頭には、それほど知識は詰まっていない。
テレビが着いたのも、18歳に成ろうかという時期なので、文化的にもさほど都会の文化には汚染されていないと想われる。
インドの釈迦は、王様の息子だったので、優秀な先生が何人も付いて教育を受けている。
だから、頭が空に成る迄、六年もの歳月が掛かっているが、悟った後は、その教育が土台に有るので、イエスよりは言葉も多いし、理論も整っている。
私の場合は、自分が体験を先に済ませて、その体験のあり様を、他人に説明する為に、後に知識を必要とし、釈迦牟尼仏や、老子や、イエスキリストの言葉を研究し始めたのである。
私の悟りの体験は、1983年3月18日に屋久島で無庵師匠に見出されて、翌1984年の3月5日から修行に入り、丸三ヶ月後の6月4日(旧暦5月5日)に自宅前の安房川にて、師の手に拠って「バプテスマ・禊ぎ祓い」を受け、大譲祭の儀式が行われ「神霊の思頼(みたまのふゆ)」が起きたのである。
3月5日から修行に入り、6月4日は丁度三ヵ月間である。
釈迦が、6年掛かった事を、中身はどうであれ、三ヵ月で通過した事に成った。
私は、釈迦と体験は同じでも、言葉や理論が未熟なので、学歴が高い人達には幼稚と受け取られるであろう。
体験した世界は、言葉に表現出来なければ、他の人へは情報は広がらない。
その分、私の中には、他人に伝えられない理が沢山残っている。
悟り・目覚めの旅は、其々が全部異なるので、他人の遣り方を学習・真似しない方が良いのだが、誰にも禊ぎ祓いは必要である。
釈迦牟尼佛や、イエスキリストも、日本の「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、水浴を済ませた処から、その世界が始まっている。
釈迦やイエスも、薬物を使用して、その世界に入って行けたわけではない。
水が、清めであり薬なのだ。
薬物を使用して、薬の力で見る世界は、悟りの世界と同じ現象を見るらしいが、それは、脳が見るだけの世界であり、個人の一人相撲で終り、宇宙の現れである、大自然の仕組の情報とは、直接の接触は起きない。
だから、その人の行動と、天の働き・道・ダルマ・の繋がりは起きないのだ。
「むすび・religion(リリジョン)」は起きないのである。
薬(ヘロインや大麻)を使用している人達は、その薬物自体に依存を起し、精神的完全な自立が出来なく成る。
悟りの条件は、本人の自立と自由にある。
人間社会から、完全に自立して、自由となり、意識の解放が起きた時に、ソレは起きるのである。
だから、薬に心が執われている間は、ソレは起きないのである。
大麻の、使用自由を唱えている人達が居るが、大麻草の利用は自由と成ったにしても、薬として使用する事は、自由でない方が良いだろう。
只でさえ、青少年の喫煙が増えて問題に成っている時代である。
人間の肺は、本来、酸素を取り入れる器官であり、二酸化炭素を取り入れる器官ではない。
だから、大麻等を喫煙する事は、根本の道に外れる行動なのである。
人間が、本当の幸福を得るには、真理に目覚める事しか無いのである。
その理を知って貰うのが、私の役目であり、天が、私を育て、此の世に送り出した目的でもある。
私は真理の証しとして、屋久島から人間社会に出されたのである。
「毘慮舎那仏」とは、「光輝く」と言う梵語「ビローチャナ」の当て字であり、光明遍照の仏の意味で、宇宙の真理其のモノを身体としている仏、密教では大日如来と訳す。とある。 (仏教いわく辞典)
私の肉体を、此処まで使って来た霊団の「神霊の思頼」は、何時完成を迎えるのか、私には分からないが、唯 云える事は、私が薬に依存していれば、霊魂達は希望を失って、天の偉大な事業は、失敗に終っていただろうと言う事だ。
今日迄、私を支えて下さった人達の為にも、薬物使用は全体に良くないと言って措こう。
其れが、神物に対する、エチケットではないだろうか。
平成13年8月29日
礒邉自適
2001/8/7
悟りとは光りの速度を超える事
13・8・7
悟りとは、釈迦牟尼仏より始まった感が有りますが、其れは、古代から有る価値観です。
日本では、「禊ぎ祓い」をすれば「悟れる・神とむすばれる」として、古代より其の理は伝わって来ました。
「悟り」の事を一口に説明すれば、「光の速度を越えて 時間と空間(物質の存在)から 自由になる」理です。
人間は、光に拠って、視覚で「もの・現象」を見て、名前や、形態を認識し、情報を組み込んで成長します。
「三歳(みつご)の脳(たましい) 百歳まで」との諺が有る様に、三歳の時に記憶した情報は、脳のイメージの基盤に成って、死ぬ迄、残像すると言う理・ことを、其の諺は言い表しています。
是を、反対に捉えると、人間は三歳頃より、脳の情報が染みと成り、死ぬ迄、其の記憶が取れないと言う理・ことになります。
だから、人間は、光で見える世界の次元の情報に、拘束されてしまっていると言う事になります。
仏教では、瞑想をして悟る方法が有りますが、其れは光の世界、目で見える世界から、離れる為の方法の一つです。
有名な般若心経に「色即是空」と有りますが、それは光で目に見える色(物)の世界が、本当は無いのだとの教えです。
其れは、本来は「何も無い」のだと言う価値観を持つ事で、光に拘束されている意識・世界から、切り離れる方法なのです。
光の世界から、離れる事に成功すると、それを「解脱」した、「悟った」と言います。
悟った人を、「仏陀・ブッダ」と呼び、その事を仏に成った、成仏したと言います。
「成仏・じょうぶつ」とは、死んだ人を言うのではなく、生きている内に、光の速度を超えて、宇宙の真理(ビルシャナ)に到達し、宇宙の真実に気付いた人の事を言うのです。
執着を離れる、捨てるとは、光の速度の世界を離れる理・ことです。
光の速度を超えて自由に成ると、自分の意識は、光が生まれ、活動する世界を、客観的に見る事が出来る様になります。
其の事を「観音力」と言い、其れが出来ている人を「観音菩薩・観自在菩薩」と言います。
悟った人は、目に見える此の世界の現象に、振り回される事が無くなりますので、静寂な境地に至ります。それを「菩提・ぼだい」と言います。
「菩提達磨・ボーディダルマ」とは、悟った達磨さん、静かに座っている達磨さんの姿を言います。
宇宙には、目で見える世界よりも、大きな情報の世界が存在します。
その情報のことを、釈迦は「縁・えん」と謂っています。
日本の神社では、その情報の結び付きを「注連縄」として表現して、「神むすび」と言っています。
「阿弥陀仏」のアミダは「アミターバ(無量光仏)・アミターユス(無量寿仏)」で「人間には 計りしれない光・壽」と言う意味です。
此の宇宙には、光より速い情報の世界があるのです。
光は、前に進むだけで、後戻りは出来ません。
ですから、過去へは、光の速度では行けない理・ことになります。
光の速度を超えると、情報の記憶の世界は自由ですので、過去にも行くことが出来ます。
「行く」と言う言葉は正確ではありませんが、テレビのスイッチを入れると絵や音声が出てくるように、情報がやってくるのです。
電波は、何時もそこに存在しますが、受け取る側のスイッチが入らなければ、情報を受け取る事は出来ません。
テレビと違うのは、仏に成るための受信機は、チャンネルが自由なので、目盛りがありません。
フリーパスですので、数字を合わす事が出来ないのです。
だから、そう成る為には、自分のチャンネルを開放しなければならないのです。
悟った人は、拘りが無く成るので、チャンネルが必要ではなくなりますので、俗に言う「阿房・アホ」の顔になります。
仏になった人自体には、決まった概念がありませんから、部外者が何かの条件を付けようとしても「糠に釘」で、一向に埒・らちが明かない事になります。それを「悟った人は もう 誰も 条件付けが 出来ない」と、言い現します。
普通の人々の価値観は、光の速度の内側に在りますので、その知識では、光の速度の外側の人間は計れないのです。
光の中に居る人は、光が生れる様子を見る事は出来ません。
光の外側が、神の世界であり、私達の肉体が住む世界は、内側の光の世界です。
現在の宇宙は、誕生して138億年くらいです。
だから、私達の肉体は138億歳なのです。
そして、生命を持った有機体としては38億歳くらいと言われています。
其の有機体である微生物が、二酸化炭素を食べはじめて32億年程経っています。
そして、二酸化炭素を食べて、代わりに酸素を吐き出した為に、27億年前から空気中に酸素が増えて、空が青く晴れて来ました。
そして、炭酸同化作用をする植物が大発生して来たのです。
我々動物は、現在酸素を食べる体に成っていますが、植物はいまだに二酸化炭素を食べています。
人間の身体は、60%以上が水で出来ていますので、肉体は個体と言うより液体に近いのです。ですから、水が一番大事なのです。
水は、HH+0ですので、水素が2個と、酸素が1個の組み合わせです。
水素が、宇宙で一番古い物質です。水素が集まって、ヘリウムと成って爆発する前には、光は有りません。
「光」の文字は、漢字で「火+人」の組み合わせで、人の上に火が有ると言う意味の象形です。
光は中国での読みは「コウ・クァワ」です。
日本語では「光・ひかり」ですので、日本語の意味だと「霊借り」なのではないでしょうか。「宇宙の霊を借りる」の方が、分かり易いかもしれません。
一般的には、ひかりは「ピカリ」と光るので、ピカリから来ていると云われてもいますが、定かではないようです。
「人・ジン・ニン」は「ひと」の日本語に使用しますが、「ひと」は「霊留・ひとどまる」の意味です。
昔の人達は、自分の中に霊が宿っていて、日(光)を借りて生活(認識)をしているのだと、感じていたのではないでしょうか。
宇宙は、全域が暗闇です。
夜だけの世界は、何も見えませんので、認識が起きないのでしょう。
ですから、日・陽を借りて、「ある」のだと言う考えになったのではないでしょうか。
太陽がなければ、地球生命は総て活動が出来なくなり、全生命は地球から居なくなります。
人間は、光の段階をいくつ認識しているのでしょうか。
宇宙誕生(例:ビッグバン)の光、太陽(水素、ヘリウム活動)、電気、雷、蝋燭、蛍、様々な光が存在します。
光は、人間の目に見える世界の表現です。
宇宙には、人間の目には見えない波長の世界が、無限に存在します。
その無限の波長(波動)の世界に触れることが、悟りの世界です。
悟りの世界は、宇宙の無限の波長に、自分自身がタッチして、影響を与える事が出来る世界です。
その理を、人類が理解出来る様に成る事が、21世紀の世界でしょう。
私にも出来たのだから、新しく地球に生れて来ている未来人には、可能なはずなのです。
私の役目は、その先達として在ることでしょう。
平成13年8月7日
礒邉自適
2001/5/2
アカシック・レコードの針
13・5・2
宇宙には、全てを記憶しているレコード盤の様な物が存在すると云われている。では、誰が其のレコード盤を創ったのだろうか。レコード盤を回し、針を落として記録させたのは誰だろうか。
其のレコードを聴いているのは、私達だが、録音機や音源がなければレコードにならない。
2600年前の時代に生きた仏陀釈迦は、自分が悟ったのは何代も前の魂であって、其の時の記憶が残っていたので、思い出したのだと謂っている。
中国の2500年前の老子も、自分が真理を得たのは、過去の人々の素晴らしい業績が存在したからだと謂っている。
2000年前のイエスキリストも、永遠の命の存在が有る事を訴えているし、ソクラテスとプラトンも其の事に気づいている。
弘法大師空海は、アカシック-レコードから般若波羅密の知恵を頂く方法を「虚空蔵菩薩求聞持法」として纏めた。
彼等は、どの様にして、アカシック-レコードを聴く事が出来たのだろうか。
私なりに、其れに付いて考えてみた。
アカシック-レコードの情報・音源を聴く為のレコード針は、第三の目と云われている松果体であろう。松果体は、眉間の第三の目と呼ばれるところの奥に有り、その組成はシリコン(珪素)である。
アメリカに、「シリコン-バレー」と呼ばれるコンピュータ産業の発達した町が有るが、そのシリコンとは珪素の事である。
珪素は、電気信号で情報を流すのに都合の良い物質である。其のシリコンが、人間の額の奥に「松果体」と言う形で存在するのだ。
生物の体には、必要な器官しかないはずである。であれば、松果体は人体においてどんな働きをしているのだろうか。
残念ながら、未だに、其の松果体の働きは詳しくは解明されていないのである。私は、松果体は昆虫が持っている触角の様な物の名残ではないかと思っている。昆虫は、触角で、温度、風向き、匂い、光の量、音などを感じている。
人間は、其れ等を感じるのに、五感が発達した所為で、触角が退化し、其の跡が珪素からなる松果体として残っているのだろう。
人間は、尻尾を完全に退化させてしまったのに対して、松果体を未だ残していると言うのは、松果体が、今でも何らかの役割を果たしているからではないだろうか。
人間には、五感に加えて第六感が有ると言う。第六感を感じる器官が、何処に在るのか明らかにされているわけではないし、科学的に証明されているわけでもないが、その存在を信じる者は多い。
其の、第六感を感じる器官が、松果体である可能性は高いと思う。珪素は、磁力に反応しやすいので、精密電子機器に使用される。現在の情報産業は、珪素をふんだんに使用したコンピュータ無くしては語れない。
近年、人間の脳の仕組みも解明されてきて、脳で考えると言う事は、電気的信号の遣り取りであると言う事も解ってきた。珪素の持つ周波数が、あらゆる生物の体内に存在する珪素と同調し、また地球の岩石中に存在する珪素とも同調しているのだとすれば、その周波数にチャンネルする事で、地球上の全ての情報を得る事ができる事になる。
其の様に考えると、アカシック-レコードとは、珪素でできたCD-ROMと言えるだろう。
インドの聖者や、現代の量子物理学者が「大統一場」の存在を云っている。
宇宙には、根元的な振動波が存在し、物質はその振動波を基本ベースとして、存在を続けていると言うのである。
中国では、何千年も前から、其の事を「玄の響」として捉えていた。
其の、玄の響きを捉えて同調し、人間の世界と結んで安定させる事が「徳」であるとされていた。
其れを、日本では「スメラノミコト・天皇」の「御稜威の働き」として伝えているのである。
珪素の振動波にアクセスできれば、珪素の酸化鉱物である石英や、その透明な結晶である水晶にアクセスするのは簡単である。さらに、層状珪酸塩鉱物である雲母にまでアクセスできれば、「役の小角」や「弘法大師空海」に近づく事になり、モーゼやイエスもそう遠い存在ではなくなる。
アカシック・レコードの制作者さえ、すぐ身近なところに位置しているのだ。其のレコードに、吹き込む歌を唄うのは人間かもしれないし、楽器を鳴らすのは聖霊かもしれない。
インドのヒンズー教には、創造と破壊の神「シバ神」がいる。宇宙が、生成と消滅を繰り返している理は皆によく知られている。シバ神は、コスミック-ダンスの象徴でもあるので、アカシック-レコードの回転板の上で踊っているシバ神の姿が、目に見える様である。
古代の聖者達は、そのシバ神の姿を第3の目で見ていたのではないだろうか。アカシック‐レコードは、人間の文化文明を全て抱え込んでいるのである。
其れを知ろうとするのが、今も、窓の外を、雨に濡れながらひたすら歩いて、四国八十八カ所を回る、お遍路さん達である。
平成13年5月2日 雨
礒邉自適
2001/3/14
反省
13・3・14
漢語の「反省・ハンセイ」の言葉は、日本語では「かえりみる」である。
「返って見る」事、つまり自分が、物事を見ながら進んで行くのを止めて、元の位置に引き返して「物事を見ながら 進んでいた自分を 客観的に見る事」である。
青海社の字典には、「かえりみる」は次の様に載っている。
A 己の言行をふりかえりみること。
A 平生 外へ向いている注意力を内へ向けもどすこと。
@もAも、外向きに動いていた自分の体と、意識を止めて、動き出す前の場所に戻し、自分が動いて認識した行動と、意識を、録画テープを巻き戻して再生する様に、意識して見直す事である。
この立場で見る意識は、神に近付いた見方である。
神は、自分で行動するのではなく、人間を創造して、人間が動く事に拠って、自らの存在の有様を構築している。
したがって、自分の人間的行動を、外から客観的に眺める事は、神の立場に立って見る事と似ているのである。
外側へ向けた認識作業を止めて、内側の意識に視線を向けるのは、人間の内側の意識が、神の意識に直結しているからなのである。
この理に気付こうとするのが、瞑想や座禅である。
其の理・ことを、宇宙的に考えると、粒状物質が内側に吸い込まれて、極限である特異点に達すると、光のエネルギーに転換されて、もと来た方向へ、飛び出して行く出来事に似ている。
人間は、宇宙の光エネルギーから出発して来た、物質の究極の姿であると言える。
その人間が、物質的次元の活動を休めて、意識と言う電気回路を逆向きにすると、神の意識「おもわく」に通じる事が出来るのだ。
神の「おもわく」に通じれば、仏・ブッダと成れるのである。
日本では、昔から、其の理が解かっていて、禊ぎの世界が確立されていた。
神話の世界を見ると、省みる為の階段が、用意されている事に気付く。
どこまで「かえりみる」かは、本人の努力次第である。
老子の謂う、「玄・ゲン」まで還るのは難しいかもしれないが、人間の人たるところまでは、誰にでも返れる可能性がある。
ただ、実行するか、しないかと言う単純な違いだけである。
普通の人々は、今日一日を、かえりみる作業さえ忘れて、酒を飲んで酔いつぶれて、眠るだけの一生を送っている。
是では、何度生まれて来ても、永遠に、神の立場は理解できない。
海外に出掛ける物見遊山の旅は、もうそろそろ止めてはどうだろうか。
この世に、物見遊山の為に生まれて来たのであれば、其れで良いのだが、自分の存在の分けを知りたい者には、「かえりみる」事は、避けて通れない課題なのである。
平成13年3月14日
礒邉自適
2000/12/24
あなたはだれ だれでしょうね
12・12・24
昭和22年生まれの私には、「あなたはだれ だれでしょうね」の歌が、メロディと共に、記憶の何処かに残っている。
現在・いま53歳に成っても「あなたは誰」と訊かれたら、ドキッとして狼狽えてしまいそうだ。
改めて、其の事に付いて考えて見れば、父親が付けてくれた名前「自適」を名乗っても仕方がないし、会社の役職名や、社会的な役職名を言っても、其れは、自分の説明には成っていない。
父親であるとか、夫であるとか、又は、両親の名前を並べて、其の子供だと云っても、其れは関係性の説明であって、私が誰かと言う説明には、成っていないのである。
更に、人間であるとか、神の子だとか、大自然の一部だとか、反対に罪人だとか答えても、「私・本人」の説明には成っていない。
私だけが、其れに付いて、答えられないのだろうか。
昔の人は、どうだったのだろうか。
昔は「あなたは 誰」と言う質問を、意識に上らせる事も、無かったのだろうか。
そうでは、ない様である。
「自分」と言う漢字は、「自」と「八+刀」の組み合わせで、「自らを 刀で両方に八(わ)ける」との字義であるので、昔の人も、自分の分けを知りたいと願って居た事は、間違い無い様である。
其れに付いて、誰か、答えを出した人が居るのだろうか。
インドの釈迦は、「私は目覚めた 仏に成った」と、謂ったと伝えられている。仏に成るとは、成仏したと言うことだ。
すなわち、「私は 仏だ」と謂う答えを、出しているのだ。
しかし、今度は、私達に、其の「仏」が解らない。
人間が、何なのか分らないのに、目に見えない仏では、益々分らない。
釈迦は、昔し実在した人間であるから、石や木を彫って作った、仏像ではないことは明らかである。
「仏・佛」とは、「ブッダ・仏陀」の「ブッ」の表音文字である。
「ブッダ・仏陀」とは、インドの言葉で「悟った人・覚者・大通の人」の呼び名である。
何を悟ったか、何に目覚めたのか、私には未だ理解出来ない。
しかし、私は、仏とは「宇宙全体と 魂しいが 一体化した人」の事ではないかと考えている。
ナザレのイエスは、自分の立場上「仏に成る」と云わないで、「永遠の いのちに入る」と、謂っている。
そして、「パンは 私の肉だ」「ワインは 私の血だ」と謂っているので、宇宙と一体化して居たと言って良いだろう。
また、天を父とし、自分を子として居る処からも、宇宙と一体化していると言える。
此のイエスの言う「永遠のいのち」も、釈迦の謂う「久遠元初」と同じ意味であろう。
現在「あなたは だれ」と聞かれて「私は 仏だ」と答えると、人々は怪訝な顔で胡散臭そうに、其の人を見るだろう。
現代人にとっての仏は、寺や仏壇の中にいるだけで良いのであって、現実として人間社会に現れては、困る物・存在らしい。
現代人は、2000年前のイエスキリストや、2500年前の釈迦牟尼仏に、直接会う事は出来ない。
仏と、直接会った事も、見た事も無い者が、もし成仏している者に会ったとしても、其れが仏だとは判らない。
たとえ、仏が横に座って居ても、誰も、それが「仏・ブツダ」だとは気付かないのだ。
リンゴは、誰が見てもリンゴだと解る。
けれど、仏は実在して居ても、誰にも、其れがブッダだとは解らないのだ。
此れでは「私は 仏だ」と答えられる人が現れても、社会の中では理解されず、仏は、此の世には現れない事に成ってしまう。
全ての人間が、目覚めて成仏しなければ「あなたはだれ だれでしょうね」の唄は、永遠に続いて行くのだろう。
其れは、自分が誰だろうかの、裏返しの言葉だからである。
平成12年12月24日
クリスマス-イブの日に 礒邉自適