2006/9/18
インストラクター
18・9・18
今日は台風一過で、朝から秋空で、空気も涼しく気持ちが良い。
何時の間にか、ツクツクボウシの声も聴こえなくなり、事務所の周囲には、昨日の風に煽られた木々の枝の上に、紫色の葛の花や、カラス瓜の白い花が咲いている。
気付かない間に、季節は廻り秋に成ってしまっている。
おまけに、本日は、私の好きな日付で「(9+9)9(9+9)=9×5=45」の数の日である。
平家が、源氏に負けて「安徳天皇」は失脚したが、其の時の天皇の家紋は、中心から、三方に菊の花が横向きに開いており、其の菊一輪の花びらの数が9で、三方合わすと「3×9=27」の数になっていたのである。
現在の天皇家の家紋は、比叡山の開祖「伝教大師最澄」の家の家紋で、後醍醐天皇の息子が、足利尊氏と戦う時に、御旗に借りたまま、変換していない物である。
其のマークは「十六菊花紋」と呼ばれているが、シュメール文化の太陽マークだから、本来の菊花紋ではないのである。
本来の日本の王家の紋は、3×9の27の数霊の家紋だったのである。
其の家紋は、今でも生き延びた一族に、伝えられて残されている。
しかし、そんな事も、今に成れば、殆んど関係が無い。
何故なら、2666年遡って、新しい御代が構築されようとしているからである。
今朝の映像は、私の所に、団塊の世代程の男性が四〜五名合宿に来ており、学びが終り、帰る場面だった。
私は、部屋の中に居たのだが、玄関の方で、私を呼ぶ声がするので、玄関に出て行くと、全員帰りの身支度を済ませて、出発する処である。
そして、私に「お金を払うので 幾らですか」と云うので、私が戸惑っていると、皆で値段を決め、割り勘で払う事に成り、皆でお金を出し始めた。
処が、其れはお金には違いないのだが、現在使用されている紙幣ではなく、何かの伝票の様な物で、国が発行している物ではないのである。
其れは、現在実験的に使われている地域通貨の様な物で、其れが既に、世界共通の貨幣として流通しているらしいのだ。
彼らは、世界中を旅している人達のようである。
私は、気持ち良く、其れを受け取って皆を送り出した。
そして暫らくすると、人の気配がするので庭の方を見ると、やはり50代の女性が五名泊り込みの支度をして、私の所に訪れる場面だった。
どうやら、私は、是から、子供の相手をするのではなく、子育てが終わった中年の人達の、人生の締め括りの相手をさせられるようである。
其の映像から、今朝の題は「インストラクター」とした。
考えて見れば、私が、最初に作った名刺は「ライフ・スタイル・コンサルタント」「礒邉自適」と言うものである。
私は、何もする心算が無いので、始めの頃は、名刺も持っていなかった。
処が、皆が「他人に 自適さんのことを説明するのに 肩書きも無いし 仕事も持っていないので 自適さんとはどんな人ですかと 尋ねられても 説明の仕様が無いので 何か肩書きを作ってくれませんか」と云うので、仕方なく作った名刺が「ライフ・スタイル・コンサルタント」だったのである。
私の存在は、今では、アニミズムのシャーマン的に捉えられているのだろうが、私の最初の気持ちと云うか、考えは、人々の生活風習の建て直しに有ったのである。
何故なら、宗教や価値観も、其の生活風習の極一部だからである。
其れが、何時の間にか、生活習慣の指導から、霊界通信者みたいなものに成ってしまっている。
しかし、其の役割もようやく終りを向え、始めの頃の「ライフ・スタイル・コンサルタント」の働きに、返るのではないだろうか。
其れも、私が以前の様に、全国を旅するのではなく、世界中から、私の所に、短期的に五名以内で遣って来るのである。
日本には、懐石料理の世界が有るが、器は五客分で一組に成っている。
其れは、日本料理の神髄は、五人分を作るのが、精一杯だからであろう。
現在、ホテルでパーテイに出る料理の様な物は、朝から準備出来る標準的な物で、誰にでも当たり障りの無い食物と、味付けである。
其れは、日本の茶道から始まった懐石料理とは、根本的な処から違うのである。
私の考えている料理の世界は、ホテルのパーテイ料理や、旅館の宴会料理の世界ではない。
私の料理の世界は、魂しいを養うべきモノであるから、自然と人間を、直接結び付けるものである。
其れを、別の言葉で言えば「身土不二」であり、席を共にする者は「一期一会」の間柄と成るものである。
其の世界こそ、いま世界中の人々が、日本に求めている次元なのである。
もう、スピルバーグやジョージ・ルーカスの映画の世界は、終わったのである。次に流行するのは、日本の風土の中で鍛え上げられて来た文化なのだ。
其れこそが、彼らユダヤの民が求めている、「石屋・メイスン・石上(いそのかみ)・物部」の世界なのである。
新しい未来社会とは、エントロピーの少ない社会である。
其れは、アメリカン‐ドリームとは、反対の処に位置している。
アメリカも「9・11事件」で、多くの人達が、現代社会の在り様に疑問を持ち始め、日本文化の禅を始める人や、自然の中にツリーハウスを造り、暮らし始める人が増えている。
其れは、私が、自分でも一番好んでいるライフ・スタイルである。
しかし、其れだけでは、何れまた、退屈が遣って来る。
其の時こそ、「自分が 何故存在するのか」との疑問が生じ、本当の自分探しの旅が始まるのである。
其の時こそ、本来の私の役割が果たされるのだ。
イエスキリストの言葉に、「一緒に食事をしなさい」と有るのは、正に「一期一会」の世界である。
そして、其れは、日本にも「同じ釜の飯を食う」の諺として残っている。
今朝の映像は、正に、私と同じ釜の飯を食う人が、次々に遣って来ると言う事であろう。
私は、是までの旅の中で、其れらしい事を遣りながら、修行を積んで来た。
だから、一応の器も揃えて有るし、包丁も各種が箱一杯に成っている。
其れは、場所と建物さえ有れば、明日からでも出来る事である。
其の場所が、屋久島なのかどうかは判らないが、自然の中に、其れに相応しい建物が有れば、簡単に始められる事である。
其の世界は、神社や寺院、其れに教会も必要ない世界である。
其の世界こそが、人間にとって基本的なもので、永遠不変のものなのである。
私の行く先は、手にする物が、杖か、包丁か、カメラ+パソコンなのか、未だハッキリしない。
取り敢えず、今日の役割は、是くらいで果たしているのではないだろうか。
平成18年9月18日
礒邉自適
2003/2/27
夢をみる
15・2・27
一昨日、久し振りに、屋久島鹿の焼肉を食べた。その所為か、今朝の夢は、三次元的な過去の夢ばかりで、未来世界のビジョンが出て来なかった。
場所や、風景も、昔の様子で、現れる人達も、全員昔の付き合いの人達で、善い思い出ではない事ばかりである。
肉を食べると、毎回、食べてから2日目の夢は、殆ど悪い夢で、未来には役に立たない事ばかりである。
其れで、仏教で肉食を禁じている意味が、能く理解出来る。
日本でも、天武天皇の頃から肉食が禁じられ、明治時代に西洋文化が導入される迄は、肉は賤しい者達の食料とされていた。肉食をすると、血液が酸化して暴力的になり、闘争を好むように成る理・ことを、昔の人々は知っていた様である。
穀物菜食だと、血液が清くなり、血圧も低いままである。見る夢も、清い水の流れや、小鳥や草花等、自然の美しさばかりに成って来て、夢に現れる人達も、善い人達や、未来に出会う人達に成って来る。
神の世界に通じて、平和なビジョン(未来像・見通し・幻想)ばかりが、映って来る様に成るのだ。其の理由を、取り敢えず、思い付くまま書き出して見よう。
穀物 菜食 肉食 邪食
・未来の夢 一 ・過去の夢
・美しく鮮やか 一 ・暗くて見難い
・優しく穏やか 一 ・恐怖・おそれ
・平和 一 ・災害(洪水 津波 火山爆発)
・美しい女性や子供達 一 男性の戦い・戦争
・発明 発見(ビジョン)
(ノーベル賞等) 一 ・破壊
・天国 ・喜び 一 ・地獄 ・悲しみ
・感謝 ・幸福感 一 ・うらみ(恨)・つらみ(辛)
・美しい音楽 一 ・音楽なし
・美しい食卓・料理 一 ・食料の奪い合い・排泄物
・仲の良い友人 一 ・悪い仲間
・神・佛が現れる 一 ・切られたり撃たれたりする
・未来の出来事・予知夢 一・悪夢・冷汗をかく
・光の世界 一 ・闇の世界
・公け・全体 一 ・個人的な欲望
未だ未だ、対比して行くと、出て来ると思うが、是ぐらいにして於こう。
この様に、食物が異なるだけで、自分の夢の内容は変化して来る。
何故なら、夢は潜在意識の現れであり、潜在意識は細胞が見る情報だから、細胞に成る血液の元である食物が変れば、夢も同じく変る事になるのは当然の理・ことである。
悪い細胞に成る食物ばかりを食べていると、血液から出来る卵子も、精子も、悪い記憶を残して行くので、子供達の魂も劣化して行く事に成り、出来の悪い子供達は、親に負担を掛ける様に成るので、親の視る夢は益々悪くなり、悪循環に陥ってしまう事に成るのだ。
最低レベルに成ると、昼間は眠っていて、夕方から起きて、夜中に街を徘徊する様になる。是は、ハイエナ的行動で、殺してから何ヶ月も経った、古い肉を食べる事から発生する行動である。
穀物菜食の人は、早寝、早起きになる。鶏の様に、朝が早く、太陽が好きになり、日向ぼっこを良くする様になる。善い夢を見る子供は、良い人生を歩む様に成り、悪い夢を見る子供は、不安感情に陥るので、周囲に当り散らす様になり、社会の不安定要素と成って来て、環境を悪くし、本人も、回りも、悪くしてしまい、社会全体を不幸にして行くのである。
夢は、潜在意識に深く関わっているから、悪い夢を見る事は、悪い疑似体験をする事になるので、人生を悪い方向へと導いていく事と成るのだ。
夢の世界は、人間個人の志・こころざしや考えとは違うもので、宇宙や、自然と、神佛につながるものだから、人間の自由には成らない。
人間が、夢を正しく見ようと想えば、食物を吟味して、自分の行為を正さなければならない。其れが、仏教で云う処の「精進」である。
私の夢の舞台は、私が生れ育った屋久島の自然であり、東京や大阪の大都市ではない。屋久島は、水が清くて、自然豊かな環境である。島に住んでいる人達も、不特定多数ではなく、一人一人の仕事や個性迄知っているので、夢に現れる時は、全て意味を持って現れて来る。
逆に考えると、個人情報を、私が把握しているので、役者として夢に登場して来るのだろう。
私に、夢で様々な事を伝えて来る相手は、人間や、環境や、存在物まで、全てを情報化できる大物である。私に、夢を見せて、言語化させているのだ。
私が文字化しなければ、直接神から情報を受け取れる人が居ないとの事だろう。居たとしても、自分の欲望をセンサーとしている人間では、神の伝えたい事を、歪める恐れが有る。
私の18年の修業は、正しく夢を受け取る為だったのかも知れない。
子供の様に、純粋な気持ちで夢を受け取り、賢者の意識で分析しなければならない。旧約聖書は、多くの預言で組み立てられている。預言は、夢のビジョンで視せられたものである。
ノーベル賞を貰った人達、ベンゼン、アインシュタイン博士、野口英世等、夢でヒントを受けた人達が数多く居る。
ユングや、明恵上人も、夢分析をしているし、レオナルド・ダ・ヴィンチに到っては、夢を創作の技術として使っている。私が、これから、夢の世界をどのように理解し受け取って行くかは、神と、霊魂の世界と、私の共同作業と成って行くであろう。
私は、其れ等の世界を、出口王仁三郎の様にややこしくせず、聖徳太子の様に建物・六角堂を必要とせず、誰でも簡単で容易なものとして行きたい。
ニューギニアのある村では、今でも、子供が起きて来た時に、親が子供にどんな夢を見たかを聞いて、其の夢の解釈をしてあげるらしい。夢の世界(潜在意識の内に)で解決してしまう事で、裁判所も無く、警察署も無くて平和にくらしているとの事である。
夢は、現実と、神との間の世界の出来事なのだ。其の世界は、植物を食べれば、植物と同じく太陽に近くなり、肉食をすれば、肉食動物と同じく闇の中で、獲物を狙うどろぼう根性と成って行く。
たかが「夢」だけれども、されど「夢」の世界である。
平成15年2月27日
礒邉自適
2001/3/3
赤き血 黒き血
13・3・3
「あの人は 腹黒い」と云う時の「腹黒い」とは、どう言う事なのだろうか。
辞典『言泉』には、「@心がねじけている A心の中に悪巧みを持っている」と載っている。
其れは、心は、腹の中に存在すると考えている様である。
其れを、別な言い方に換えれば「黒い血が流れている」と言えようか。
一方、「赤心・赤き心」と言う云い方が有るが、是は、嘘偽りの無い事を表している。
其れは、赤い血が流れていると言えよう。
すなわち、血が綺麗(清い)である理・ことをさし、また、其れは、日本人の精神を「赤き血の大和魂」と、表現する事にも繋がっている。
血液の問題としてみれば、「赤き血」は酸素が多くてサラサラで、「黒き血」は酸欠でドロドロしている事に成る。
血液が汚く粘り、ドロドロに成ると、流れが悪くなり、毛細血管をスムーズに流れなく成る。
そう成ると、血圧は高くなり、脳は酸欠になって、頭の働きが悪くなる。
それが高じると、意識が曇り、判断力が低下し、暴力的になる。
目は三白眼となり、頭髪には血が通わないので、どんどん薄くなる。
更に、考え方が自己中心的になり、愛情が無く成って、他人を愛する事が出来なくなり、また、他人に、自分への愛情を要求する様になる。
其れに、自分の要求が受け入れられないと、他人や、社会を悪者にして、自分を被害者に仕立て始めるのである。
利他の気持ちはなくなり、利己的になって、自分の利益の為ならどんな事でもする様になる。
悪事を続けて警察に捕まっても、反省の色を見せず、神を信じる気持ちも無いので、恥じる心を持たない。
人を信じないので、説教も無駄である。
其の様に成ってしまった人は、神社や寺へ行っても、自分の欲望をお願いするだけで、精進や禊ぎの大切さを、理解しない。
食べる物は、野菜が少なく、肉魚を好み、大酒を飲んで上機嫌となる。
この様な人が、社会の中で多数を占める様に成ると、世の中は悪く成るばかりである。
商売人だけでなく、神主や僧侶までが、其の様に成ってしまうなら、世の中は救い様が無い。
其の理を考えて、振り返って、今の世の中を見ると現状はどうであろうか。
黒き血の方が、増えて来ているのではないだろうか。
仏の眼は、三白眼の反対で、黒目が下方にあり、黒目の上に白い部分が見えている。これを慈眼と言い、慈しみの目である。
仏様は、自分の欲望は一切なく、だだ、地球生命を育むだけである。
血が綺麗に成ると、人間の意識は、仏の気持ちを理解し始める。
人間は、神の化身である事を受け入れ、全てに対して優しくなり、自分の為の欲が無くなり、利他の心を持って、自分の持てる物を、他人に施す様になるのである。
所有欲が無くなり、自我の心が消えて、仏の心に近づくので、大自然の営みが自分と一体化してくる。
自分と、自然との垣根が無くなると、至福の境地に至り、心は常に安定し安らぎが訪れる。
これが解脱であり、ニルヴァーナである。
この生活を続ける事を、三昧、サマディーと呼ぶのである。
釈迦が言う「精進する」とは、正にこの理・ことなのだ。
日本は、1325年前「天武天皇」の御世の675年に、肉食を禁じて、明治に成るまで、其れが守られて来た。
それは、この様な意味が有ったのである。
「謂う」という字は、「言+胃」の組み合わせで、「胃の中に 米(穀物)が有る事が 意識(言)の元だ。」という意味から、成り立っている。
そうすると、胃の中に肉が有る人は、餌を取り合う動物と、同じだと言う事になる。
肉食動物は、目が冷たくて怖いが、草食動物は優しく可愛い目をしている。
全て、胃の中の食物の違いなのである。
食物の違いが、赤き血、黒き血を生み出すのである。
平成13年3月3日
礒邉自適
2001/3/3
植物細胞が形を変えて生物を創る
13・3・3
この地球上に住む生物は、全て、太陽のエネルギーに拠って、無機物から有機物に変化します。
現在、その名が知られてきた海の深層水は、陸から運ばれたミネラル等が、比重が重いために、海の底の方へ流れ込み、深海流に混じり込んだ物を、汲み上げています。
深海流が、海底の大陸棚などにぶつかると、その流れを変え、上昇して来ます。そして、海面下20メートルくらいに達すると、太陽光線が届くので、海水に含まれた栄養分(ミネラル)は、植物性プランクトンを大量に発生させます。
植物性プランクトンは、動物性プランクトンの餌になり、さらに動物性プランクトンは小魚の餌となり、小魚は大きな魚の餌となるのです。
大きな魚は、死んで、海の栄養分として、再び、この循環の中に取り込まれて行きます。
其の、自然の循環の頂点に立つのが人間です。
これは、海の中の食物連鎖ですが、陸上でも、同じ様な食物連鎖が有ります。
陸では、植物が根から栄養を吸い上げ葉に送ります。
葉は、太陽光線のエネルギーで光合成を行い、澱粉を合成します。
それが、人間や、草食動物や、小鳥などが食物とする、実や芋などの栄養素になります。
葉の「葉緑素(クロロフィル)」は、緑色に見える色素で、葉緑体に含まれています。
葉緑体は、光合成を営む細胞質顆粒で、植物細胞の一部分を占めています。
植物細胞は、葉緑体の他に、最も重要な、核や情報を伝えるミトコンドリアなど、10数個の部分で成り立っています。
植物細胞と、動物細胞の違いは、細胞の最も外側に位置するのが、植物細胞では「壁」で出来ているのに対して、動物細胞では「膜」で出来ていると言う事であるそうです。
進化のどこかで、植物と動物に分かれたのでしょう。
元々、植物も動物も、同じ源から出発している理・ことは、現在では常識となってきました。
その証拠に、人間も空気を多く摂取し、水を飲みます。
違うのは、植物はミネラルを水に溶けた状態で、根から吸収しますが、人間は一度お腹に入れて、腸内でバクテリアに分解してもらってから、小腸の毛細胞(根)で吸収する事です。
そして、人間が摂取したミネラルは、血液という流れに乗って、全身に送られます。
もう一つ違うのは、植物は二酸化炭素を取り込み、酸素を放出しますが、動物は植物の放出する酸素に、依存していると言う事です。
更に、もう一つの違いは、植物は一箇所から動かないで、根を下ろしていますが、動物はその名の通り、動き回って、餌を探さなければならないと言う事です。
人間は、動き回る動物の方に、気を向けがちですが、動物と植物は、殆ど同じ仕組みで出来ており、どちらかと言うと、植物の方が優性なのです。
動物が居なくても、植物は生きて行けますが、植物がなければ、動物は生きて行けません。
植物が存在した上での、動物の存在なのです。
動物の生活は、植物を保存する事で成り立っていますが、人間だけが、必要以上に自然破壊をしています。
其れは、自殺行為と言えます。
人間の肉体は、60兆個の細胞で出来ていると云われますが、基本的な仕組みは、植物に依存する形で、出来上がっています。
それは、植物が生命の源に在るからです。
ですから、人間はその理に気づいて、食の大切さを考え、自分のお腹に入れる物の、良し悪しを見極めねばなりません。
体が喜ぶものを食べてこそ、60兆個の細胞は、本来の働きを取り戻す事が出来るのです。
人間の食生活の基本は、植物を食べる事にあります。
動物の肉を食べるのは、補助的に、月に数回という程度にしなければなりません。
人間は、五感が発達した為に、細胞レベルの営みを狂わせて来ました。
今一度、植物細胞を取り入れる事が、人間の食の基本である理・ことを思い出し、太陽の恵みのありがたさや、空気や水の大切さに、思いを向けるべきなのです。
そうしなければ、人間の未来は有りません。
この理に気付く事が、21世紀の文化・文明の基礎となるでしょう。
平成13年3月3日
礒邉自適
2001/2/27
昼と夜
13・2・27
人間は、夜の闇を嫌い、明るい昼間を喜ぶ。
その原因は、人間が夜行性ではないからと言う事にすぎない。
地球の生物には、夜の方が、都合の好い物が澤山存在する。
人間は、本来、食料は植物を主としている為に、猿と同じ様に、昼間に食べ物を探して歩く。
鳥も同じで、木の実などの色を区別する事が、優先しているのだろう。
夜間に、食べ物を捜して回る動物は、色が判らないので、匂いや、音が、重要な情報源となる。
海の中も、昼に餌を捜す物と、夜間に捜す物とに分かれている。
昼と夜では、どちらの方が優先するかと言うと、宇宙レベルでは、夜が優先すると言った方がよいだろう。宇宙の基本は、夜である。
宇宙は、何所まで進んでも、夜ばかりである。
晴れて、月の無い夜の状態が、本当の宇宙であり、真暗闇の空間に星が光っていると言う姿が、宇宙の本当の姿なのだ。
人間は、昼を喜んでいるが、昼間は、太陽光線が物質に当っている所にしか、存在しないのだ。
月を見ると、解る様に、太陽が当たっている部分が、光っているのである。
月が満ち欠けしているのではなく、光の当っている部分が、増えたり減ったりしているだけである。
そして、光の当っている場所にしか、昼はないのだ。
地球も同じく、昼とは、地球が薄い絹の下着を着ている程しかないのだ。
其れも、太陽の光が届かなくなると、脱がされてしまうのである。
その下着も、雲の柄・がらがなければ、有る事さえ判らない、スケスケ下着である。
私達は、その薄い世界で、其れだけが宇宙だと思って、其処で、争いながら生活しているのだ。
だから、七日間も夜が訪れないと、眠れないで死んでしまうだろう。
人間にとって、一番大事な事は、昼間活動する事ではなく、夜間に眠る事なのである。
夜こそ、人間が宇宙のエネルギーを取り込む時間なのである。
赤ちゃんが大きくなるのは、母乳を飲む事は勿論だが、よく眠るからである。現代の人々は、眠る事を大事にしていない。
それで、ストレスが溜まって、病気になったり自殺したりしている。
昔の人の方が、西方浄土に天国が有ると信じて、生活している。
それは、人間の安らぎは、太陽が西に沈んで夜の訪れと共に、ぐっすり眠るという形で得られるからである。
偶々、仏教が、日本から見れば、西方のインドで発生したので、釈迦牟尼佛の存在も、情報として含まれてはいるが、昼間の過酷な労働から解放される事が、救いだったのであろう。
一方「救いの光は 東方から」と言われる様に、人間の幸福を運んでくるエネルギーは、太陽であり、その太陽が昇る方向は東である。
光は、現象を照らし出し、地球の全生命は太陽無しでは、何物も存在する事が出来ない。
この世を創り出しているのは、大日如来であり、天照らすであり、アラーの神である。
太陽は、植物を育て、命を育んでいる。
そして、其れが、人間の心の対象となっている。
昼がなければ、太陽光線で植物が育たない事になるし、植物がなければ、全ての生き物が生活できない。
昼がなければ、植物や動物が地球に生まれていないので、其れを元とする、石炭も石油も出来ていない理・ことになる。
昼は、生命の活動の場なのである。
しかし、その植物も、夜は光合成を止めて休んでいる。
昼も、夜も、動き回っているのは人間だけである。
夜間、人間の活動で電灯を照らし過ぎると、植物も動物も、夜の眠りを乱されて体調を崩してしまう。
昼と夜の生活を、本来の処に戻さなければ、生物の本来の姿は失われてしまうのだ。
本来の処から、道を外れた生物は、幸せには成れないのではないだろうか。
我々は、夜の方が、永遠の世界である理・ことを、決して忘れてはいけないのである。
平成13年2月27日
礒邉自適
2001/2/10
洗胃
13・2・10
「洗胃」と書いて、「心を改める」と言う理・ことを意味する。これは、今朝の夢だ。
今朝は、夜明け近くに自分の胃と、眉間の間が繋がっている様に感じて、胸と頭が一体と成る感じを受けた。
ちょうど、冷たい「かき氷」を食べた時、胃も冷たくなるが、同時に眉間にキーンと痛みに似たものを感じる、あの感じである。胃と眉間は、何かで繋がっているのだろうか。
キリスト教の信者が、祈りの時に切る十字は、縦に「額」と「鳩尾・みぞおち」の辺りを繋ぐ仕種をする。
人間の急所は、眉間と鳩尾で、喧嘩をする時も、眉間を殴ってはいけない事になっている。
何故、両方の急所が繋がっている様に感じるのか、私は文字の意味から調べてみた。
「眉間」の「眉」は、目の上のまゆ毛の象形である。
「胃」は「田(米)+月(肉)」で、「米」は胃の中に入った食べ物、特に穀物を表し「肉」は胃袋の意味を表している。
さらに「胃」の意味は、@いぶくろ。Aこころ。と載っている。「胃」が、こころという意味を持っているなど、初耳である。
そう言えば、「胃」を使った漢字に「謂」がある。
「謂」は「謂う」と使って、話す。説く。
「謂われ」と使うと、わけ。意味。
「謂う」と使って、考える。
と言う意味が有り、「心の中を言う」といったイメージが浮かぶ。
心の修養を行う、仏教の修行僧達は「精進」という言葉を使う。「精進」とは、魂や精神を養うという意味だが、精進料理と使われるように、その修行中は肉や魚を摂らず、穀物菜食をしたのである。
日本では、天智天皇の時代から明治になるまで、1200年に亘って肉食が禁じられていた。肉は「四つ足」と言って忌み嫌われていたのである。それは、肉食に因って心が乱れる理・ことを、知っていたからであろう。
天皇の食事は「御饌・みけ」と言い、調理を行う場所を「御饌殿・みけどの」と言う。「御饌殿」は非常に重要なものと考えられており、天皇家の存在意義は「御饌殿」の伝承を守る事に有ると言ってもいいほどだ。
天皇家の最も重要な儀式は、大嘗祭、新嘗祭であり、天皇は、その年収穫された米を先祖霊と一緒に食べ、来年の心の準備をするのである。
「胃」とは、米を胃袋に入れた時の状態を示している。新嘗祭で、天皇が米を食べ、その時の心が自然のはたらき、神の思いを包括していると言う理・ことを伝えているのだ。
其れが、日本の本当の伝統であり、「食国の政り事・おすくにのまつりごと」と呼んで、現在まで伝えて来たのである。
米を食べると、その米のエネルギー、すなわち胚芽の記憶が眉間にある第三の目松果体の珪素と同調し、まぶたに映像を浮かび上がらせるのだ。人間の松果体は、30数億年前、生命が誕生したときからの器官であり、昆虫の時代には触角が生えていたところである。
昆虫は音、温度、匂い、風の流れ、危険な敵の忍び寄る振動まで、この触角から波動分析し情報として取り込む。其のチャンネル装置が、珪素の機関なのである。人間もまだ、その装置を残しているのだ。
触角の代わりが両手になり、しっぽが消えた代わりに、両足がバランスをとっている。両手の細かな動きが、脳の前頭葉を発達させ、両足の指や足の裏が、脳の後頭部と繋がりを持っている。
第三の目が、チャンネルとしての機能を取り戻したインドの釈迦は、足の裏まで信仰の対象となっている。釈迦が悟りを開き仏になれたのは、王家の食を捨て洗胃を実行したからである。それによって、仏教では精進が大事であるとされているのである。
仏教で行われる「得度式」は、7000年前のシュメール文化の、王の儀式が始まりであるそうだ。日本の天皇制度も、シュメール文化を源としており、「シュメール」が「スメル(統める)」「スメラ」となったのであり、「スメラミコト(大君)」は「芦の生える地を 治める者」の意味である。
仏教の儀式も、天皇(大君)家の儀式も、源は同じと処から来ているのだ。「スメル」はたらきの者は、胃と松果体の「珪素」の働きが元に戻った者なのである。
「虫の知らせ」の言葉を、我々は忘れかけているが、其の考えを大事にしなければならないのだ。
食物の神は、「豊宇気毘売神(伊勢外宮)」「大宣都比売神」「保食神」「倉稲魂神」「若宇迦乃売命」「宇賀御魂神」と呼ばれ、稲荷の神として全国に祭られているが、狐とは本来何も関係は無いのである。
「出雲大社(杵築大社)」が、その年に穫れた米を、杵で搗き(築)、「熊野大社」に納めたと言うところから、「熊乃大社」の祭神である「神祖熊野大神櫛御氣の命」が、「保存食の神・うけもちのかみ(受け餅の神)」と呼ばれる様になったのだ。
其れが、正月の「鏡餅・かがみもち」の始まりでもあるのだろう。要するに、人間は、食い改めない限り、目覚める事は出来ないし、神と結ばれた仏・ブッダに成る事も出来ないのだ。
もし、食い改めないで霊が憑いた者があれば、それこそ邪霊であり、神社でお祓いを受けなければならない。
それも、食い改めた神主の手に拠ってである
平成13年2月10日
礒邉自適
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