2006/6/9
土地の所有権に付いて
18・6・9
私は屋久島で 不動産業の会社も経営していました。
其れで感じた事は、人間を一番不幸に落しいれているのが、土地の所有権の問題です。
本来、土地は地球の表面であり、人間が所有出来る物ではありません。
処が、土地の所有権や隣との境界線などの問題で、助け合うべき間柄の者達が、口もきかない険悪な関係に陥ってしまいます。
其れは、個人間だけではなく、竹島問題の様に国の間でも起きている問題です。
私が、三次元の仕事を止めた事の原因も、其の土地問題に因る人間の醜い諍いを、度々目にする事が有ったからです。
其の、人間の性分・くせを視る度に、人間で在る事の、嫌悪感や罪悪感がつのってきました。
イエスキリストや釈迦牟尼佛は、人間の執着心を無くす理を、説いているのですが、其れが一向に、改善されていないのが現状です。
私は、新しい未来社会とは、先ず、土地の所有権を棄てる事から取り組まなければ、人間の意識が自由に成る事が、出来ないと考えています。
「所有権」を「借地権」に切り替えるだけで、人間の罪が消えるのです。
土地は自分の物ではなく、地球からの借り物であると考えた時、意識は自由に成り、神の世界に一歩近付く事が出来るのです。
地球は、此の惑星に住む、あらゆる生命の暮らしの舞台であります。
人間だけの物ではないのです。
是からの時代は、其の理・ことを人類共通のテーマとして、地球環境を回復して行かなければ成りません。
そのテーマが、法律や憲法の第一義として、取り扱われなければ成らないのです。
其の事を、第一義として取り組む事を明確にした時に、地球の災害は止まり、神の働きも平和と協調へと向かうのです。
其れが、皇紀2666年(西暦2006年)6月6日6時6分に、草木や虫達の、喜びのダンスとして現れて来たのです。
神は、人間に希望を抱き始めたのです。
過去に、八回失敗した神の計画を、今回成功させる為にも、土地に関する人間の価値観を、改めなければ成らないのです。
平成18年6月9日
礒邉自適
2005/6/11
私の未来社会への希望
17・6・11
私が近頃 想っている事は、現在とは違った形の郵便局が、全国津々浦々に在って、区民活動の拠点に成っている社会です。
其処には 最新のインターネットが完備されており、国の行政機関が出先を置きます。
其の区民館で 住民に関する情報を一元化し、生活や健康のサポートをします。
ゴミ問題や 資源のリサイクル、其れに 食料問題や環境問題など、皆の力と智恵を結集します。
其の様なシステムが有れば、イザと言う時にも役に立ちます。
一軒一軒に皆、パソコンを置く必要はないでしょう。
慣れた人が、交代で務めたら良いと想います。
人間が、良い環境のもとで、幸福に暮らせるノウハウの情報網が出来れば、区民館に居る人が、偉大な智恵袋と成ることが出来ます。
其の、お互いの顔が見える中から、まつりごと(政治)に関わる人を推薦すれば良いのです。
其の様な、仕組みの有る世の中が出来れば、お祭りや行事も、スムーズに楽しく出来るのではないでしょうか。
平成17年6月11日
礒邉自適
2005/2/20
御稜威・みいつ
17・2・20
古代社会には、「すめみま」の役割の者が居て、「みいつ」の働きをしていた。
「みいつ」とは、「御稜威」と書き、「稜威」とは、「斎祭る(いつきまつる)」の「いつ」で、潔斎して神に仕え、神のエネルギーを自分の心身を通してトランスする事である。
其の者の名を「すめみま」と呼び、其れは祭祀の時の天皇の尊称でもある。
古代社会では、各部族の中に其の働きをする者が在って、一族の生活の方向性を決めていたのである。其れは、族長の役割でもあっただろうし、シャーマン的働きをする者の、役目とも成っていたのかも知れない。
日本では、720年に持統天皇が「政・まつりごと」を一本化するまでは、18の部族が其々の政・まつりごとを行っていたとも伝えられている。
現代の皇室の祭り事は、物部一族の儀式を主に伝えている物の様だが、過去には様々な祭り事が伝えられていたものと想われる。
物部一族の先祖霊を祭祀する、奈良の「石上神宮」では、11月22日から23日にかけて、「新嘗祭」が夜通し行われる。それは、其の年に収穫された米を、先祖の霊(御祖神・みおやかみ)と共に直会・なおらいし、神通力を得るものである。
この場合の神通力とは、三次元に生きる者の意識と、四次元に存在する先祖の霊の意識(魂)との、合体(意思の疎通)を図る意味である。
この世である「三次元世界・人間社会」に生活する者が、宇宙の意識の中間の世界に存在する者達を、聖霊とか神霊などと呼び、その者達を呼び戻すのが祭り事である。
私達人間は、三次元世界に於いて、物質として、波動が固定された物であるが、霊界の人々の魂は、自由な波動の世界に在るので、宇宙自体の波動に強い影響を与える事が出来るのだ。
其の、力の強い聖霊や神霊の影響を受け取る者の存在が、日本では「すめみま」と呼ばれ、インドでは佛陀と呼ばれ、西洋ではキリストと呼ばれて来た。
イエスキリストの言葉にも、「父と 子と 聖霊の 御名に於いて」と有るが、其れは「父」が天・宇宙の意志であり、「子」が自分(人)で、その間に「聖霊」の働きが有る理・ことを示している。
「いつ」とは、「厳」であり、それは、「@尊厳な威光。威勢の鋭いこと。A植物等が威勢良く繁茂すること。B斎み清められていること。」とある。広辞苑
「御稜威」とは、「皇孫・すめみま」や「佛陀・ブッダ」、「キリスト・メシヤ」「聖者・ひじり」の心身を通して、天・宇宙の働きが、四次元世界から三次元世界に流れ出る事であろう。
其の働きが威勢よく行われる時が、時代の変わり目であり、歴史が新しく刻まれる時なのである。
其の周期として2600年前、日本では「神武天皇」、中国では「老子」、インドでは「釈迦」が活躍し、古代ギリシャでは「哲学(叡智の意味)」が生まれた。
現代社会は、2600年振りに、新しい時の節目を迎えており、新時代を担う「すめみま」の誕生が求められている。その現象は、宇宙意志や、神霊・聖霊が働いて、「すめみま」を人間社会に育くむ事で現象化するのである。
そして、人間自身がその者の存在に気付いて、その者に同調しなければ、天の働きが地上に現される事は無い。
人類が、新しい世界に突入する為には、新しき価値観に目覚めなければならない。其の、人類の目覚めの切掛けに成る者の存在が、「マイトレーヤ(弥勒菩薩)」や「メシア(救世主・キリスト)」として、求められているのだと想われる。
其の「すめみま」なる者が現れていれば、普通の民衆の目には止まらなくても、その働きは厳然たる事実として存在する事に成るだろう。
スメミマなる者の御稜威の働きは、人々の潜在意識に影響を与え、新しい世界を日々創造し続けているはずである。其の事に人々が気付くのは、もう間近ではないのだろうか。未来を担う子供達には、確かに其の傾向が現れて来ている。
我々も、その働きに、自分を合わしていくしかないのだ。
新しい人類の未来を、この目で視る為にも。
2005年2月20日
礒邉自適
2005/2/4
神の発動
17・2・4
屋久島で、1984年6月4日(旧暦5月5日)に、礒邉自適に掛かった神は2600年前に「神武天皇」を動かした神と同じであった。
それから21年、いよいよ屋久島より、世界へ神が発動する。
2600年前、神武天皇には「奈良で山和の国を治めろ」とのメッセージだったが、今回は「世界の政・まつりごとを行え」とのメッセージである。
2600年前とは異なり、現代社会はインターネットの存在に因り、世界は一つに繋がっている。
今度、屋久島より発信される情報は、世界共通の情報と成り、未来社会を創造する事に成る。
屋久島の、山岳と森は「神篭り」として、世界を動かして行くだろう。
平成17年2月4日
礒邉自適
2004/12/27
12月5日の秘密
16・12・27
今年の12月4日、奈良県と和歌山県、其れに、大阪府の県境に有る橋本市に呼ばれて行った。
用向きは、生協を運営している西本氏に会う為である。
西本氏とは、1999年11月6日に、京都での催し「日本会議」で出会って、二度目の接触と成った。
今後の活動に付いての話し合いの中で、12月5日の日付に付いて、意味ある事が出て来た。
私が、1984年6月4日(旧暦5月5日)に禊払いを受けて、祝詞に有る「神魂の思頼・みたまのふゆ」を実際に体験した時に、神の計画が有る事を知らされ、その期間が16年半である事を知り、計算して見ると、2000年12月5日が、その期日の日である事を知った。
私は、屋久島での修行が始まって、半年後の11月半ばに屋久島を出発し、全国の旅を続け、16年目の2000年6月4日を東京で迎え、次の日に、愛媛県伊予中山町の道場に引越しする事が決まった。
そして、其の年2000年12月6日から、インターネットで「森の木」のホームページに、文章を載せ始めた。
そして、三年目の2003年12月6日に「真諦」との言葉が来て、それから丸一年間、インターネットのHPへの掲載を止めていた。
この一年間、神界からのメッセージが途絶えたわけではないが、載せては、いけない事柄が含まれていたのだろう。
其れから、一年が経っているが、年明けには事務所が出来るので、再び、屋久島から発信を始めたいと考えている。
それは、今月の12月4日に西本氏に会って、12月5日の意味が、解明されて来たからである。
12月5日は、「後醍醐天皇」の孫である「自天親王」が殺され、南朝が滅亡した日である事が分かった。
日本国の、正しい「天津日継・あまつひつぎ」の神儀が、この日に途絶えてしまったのである。
日本の伝統は、「国譲り」が行われる事で続いて来ている。
初めに、出雲の「大国主命」が、天津系(渡来族)の「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」に政権を譲り、次に、奈良で「ナガスネ彦」が「神武天皇」に政権を譲っている。
其れが「後醍醐天皇」の時には、足利尊氏が勝手に天皇(北朝)を立てて、自分の言う事を聞かない後醍醐天皇の一族を、滅ぼしてしまっている。
後醍醐天皇の息子「護良親王」も建武新政を起こしたが、尊氏に鎌倉に幽閉され、足利直義の臣「淵辺義博」に27歳で殺されている。(1335年)
天皇を、真の天皇にするのには、本物の神主が在って、正しい「大嘗祭・だいじょうさい」を行わなければならない。
その事が、出来る神主が、後醍醐天皇の一族と共に、この世から消えてしまっているのである。
其の、秘儀である天津日継の伝統が、今復活しようとしているのだ。
平成元年(S.64)1月7日の夜中に、昭和天皇の御魂が、私の心臓に飛び込んで来て、2月24日の大葬の日の夜明け、私に「わが身 すでにとおく よき世を 願い奉る」と告げて来た。
その事からしても、霊界では、新しき天津日継の「政・まつりごと」を、復活させようとの動きがあるのだろう。
現在、天皇家は色々な問題を抱え、先行きが不安な状態に陥って来ている。
今日の状況を、見通しての昭和天皇の願いではなかったのだろうか。
先月11月20日に「我らが皇(すめ)御子」とメッセージが有り、11月21日には「日継の御子」とメッセージが有った。
11月21日は、物部神社の鎮魂の儀式の日であり、22日から23日にかけて夜通し行われる「新嘗蔡」の準備の日でもある。
いよいよ「天津日継・あまつひつぎ」の復活の日は近い。
平成16年12月27日
礒邉自適
2003/3/7
人権を無視した政治
15・3・7
卓越した、人材が無い現代の政治は、方向性を失い、本来の正しい政治が行われていない。
政治とは、何なのかを、理解している政治家が、居ないのである。
其れは、日本だけではなく、世界中がそうだから、どの国も、低次元の処に落ち込んで、互いのレベルの低さが相互作用を起し、国民の幸福を、蔑・ないがしろにしてしまっているのである。
何時の時代も、真に、民衆の幸福を願って活動する者は、権力に迫害され命を失って来た。
人間社会は、進歩していると言われているが、其れは、科学や商業システムが発展しただけで、精神的な幸福感は、貧しいままと言えるだろう。
特に、魂しいのレベルでは、段々と落ち込んでいる様である。
「人権」とは、【人間が 人間として 生まれながらに持っている 権利】と 辞典には載っている。
人間が、生まれながらに持っている権利とは、果たして何なのだろうか。
私には、その意味が、能く理解出来ない。
私が、自分の事を振り返って考えて見れば、学校には通ったが、好きで通った分けではなく、無理やり通わされた様な感じがある。
義務教育とは、誰の為の教育なのであろうか。
国民が、教育を受けなければならない義務なのか、国が、国民にしなければならない義務なのかが良く分からない。
国民が、無理に受けなければならない義務であれば、基本的人権を無視している事になる。
「義務教育」を辞典で調べると、【国民が その保護する子女に受けさせる 義務を負う教育。憲法・教育基本法などで規定。第二次大戦後、日本では小学校・中学校の教育】と 載っている。
義務教育とは、戦後に出来た法律用後で、戦前には無かった様である。
戦前までは、学校に行きたくない子供は、行かなくても良かったらしい。
学校には、行きたい者だけが行けば良い、それが、自然の状態である。
学校で教える事が、全部正しい分けでもなく、学校の教師が、人格的に皆立派であると言うわけでもない。
私の場合も、気狂いみたいな教師に、理不尽な仕打ちを受けた事がある。
学校自体が、基本的人権を無視して、人格を破壊し、人権を取り上げている所と言える。
現代の教育は、人間の尊厳を破壊し、魂しいの摩滅を謀る、政府の謀略ではないのだろうかと想えてしまう。
人格の芽生えの時期に、人生の役に立たない事ばかりを詰め込んで、人格の無い人間を育てている。
その成果が、着実に効果を挙げて、人格の無い人間が、政府機関の中枢に陣取っている。
其の様な政府に、人権を理解出来る者が、存在するのであろうか。
現在の国会を見ていると、相手の人格を、無視した遣り取りばかりが目に付く。人格の無い人間が発する言葉は、相手の人格を下げていくばかりで、人間の尊厳は益々失われて行く。
丸で、相手を攻撃する事が、目的の様にも想われて来る。
経済政策を見ても、「経済」とは、国を治め、人民を救う事で「経国済民」の事である。
「国の方針を経て 民を救済する事」が、「経済」の本来の意味である。
其れが、必要も無い公共事業に税金を使い、政治家にリベートが入る等との事は、立派な犯罪である。
国の政治に係わる者が、法を犯していれば、国が善くなる事は無い。
その原因は、教育の原点が間違っているからである。
教育の質が堕ちているので、正しき道を整える人材が、育たないのである。
其れは、個人の人権を無視して、邪・よこしまな知識を、詰め込んだ結果なのだ。
幸いにして、私は屋久島の自然の中で生れ育ち、父親が現代社会の弊害を能く知っていて、其の害から私を守ってくれたので、此れ迄、自分の意識を保ち続ける事が出来たのだ。
私を、捜し出してくださった無庵師匠が、「自適さんは 立派だ」と云うので「どうしてですか」と尋ねると、「自適さんは オリジナルで生きている」と、応えたのである。
その事が、何を意味しているのか、当時は能く理解出来なかったが、18年間全国の旅をして、多くの人に出会って、師の言葉の意味が、ようやく理解出来る様に成って来た。
教育を受けて、学問を積み上げる程、他人の意識を盗んで、自分の頭は一杯に成り、オリジナルが一ツも無くなるのである。
現在の世の中の、地位の高い人間ほど、自分の体験ではなく、書物からの引用を使って来る。
他人の、古びた体験を、応用して生きているのである。
其れは、高い地位に位置すれば、お金が沢山入る事になり、物質的に豊かに成るから、止められないのである。
是では、知識偏重学問の、東大や京大の法学部を卒業した官僚が、主体を占めている政府自身が、教育改革を起せる分けがない。
現代社会では、老子や、釈迦牟尼仏や、イエスキリストの様な人物は、生活し難いと言ってよいだろう。
現代社会は、釈迦や老子が謂う処の、人間の尊き本質が、全く失われた社会と言えよう。
「政治」の漢字の「治」の意味は【民の心を 不安から取り除いて 安心させる】の意味であり、日本語では「治(し)ろしめす」と言って、民の魂を安定させる言葉を、拡げる事を意味している。
現代社会の政治とは、本来の目的から外れた処に在る。
「人間が生まれた時より 本来持っている権利」とは、自然豊かな大地で、神と共に生きて、魂しいを育てて行く事である。
其の大事な権利さえ、忘れ去るような教育を、誰が始めたのか、其の責任を、求める相手も、明確ではない現在、私達一人一人が其の事に気付いて、取り組んで行くしか、他に道は無いのではないだろうか。
政治家に物申しても「馬の耳に念仏」で、何の事だか、解からなくなっている現在、気付いた者から立ち上がらなくては、人類の未来も無いし、神の加護も受けられないだろう。
この事は、聖なる魂しいを持った子供達が、全滅しない内に、行動を起さなければならないのだ。
平成15年3月7日
礒邉自適