2009/1/2
日高三郎
21・1・2
昨日、明確に成って来た事が有る。
其れは、安房で一番由緒有る血統の、日高雲平氏の叔父さんの霊魂に付いてである。
其の小父さんとは、日高雲平氏の祖父である「日高小三・ひだかこさん(昭和17年1月26日死亡)の次男「日高三朗・ひだかさぶろう」で、日高雲平氏の父親の「日高純生」の弟に当る。
其の日高三朗は、昭和3年12月5日に肋膜炎にて、若干18歳で亡く成っている。
私が1984年6月4日(旧暦5月5日)に、安房川の岸辺で禊ぎ祓いの儀式を行なって、神の世界に入った時に4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起き、新嘗祭の儀式の意味である握り飯を、弟「正也」に作らせた。
そして、其の握り飯を食べる仕種をした後、部屋に有った扇風機を手に持って自宅から外に出て、安房川に掛かる橋の中央まで行き、扇風機を欄干から川面の上に出すと、「命が帰る・命が帰る」と言う意味の様な言葉が、口から迸るのを体験した事が有る。
そして、自宅の事務所で、神に「地球の管理を頼む。残り16年半しか無い。チャンスは一度 失敗は許されない。」と告げられたのである。
其の16年半後の、新しい始まりの日を、1984年6月4日から暦で考えると、2000年12月5日に成ったのである。
其の為に、私は2000年の12月5日を期限として、全国の旅を続けたのである。
其の12月5日の命日に関係有る人物として、天智天皇の息子である「大友皇子・おおとものみこ(648〜672)」が、叔父の大海人皇子(天武天皇)に滅ぼされ、672年12月5日に自殺している。
私は是まで、此の霊界の大きな動きに其の事が有り、息子が自殺する事に成った事件に対する政(まつりごと)の在り方に、天智天皇が心を痛めて、政(まつりごと)の改革を私に頼んで来たモノ・現象だと考えて居たのである。
しかし、1984年6月4日の扇風機の事を考えると、日高三郎の霊魂が一番初めに、関わりが有った事に成る。
私が若い時に、年配の女性(小松婆さん)に聞いた話で「日高三郎が生きて居れば 屋久島も今とは違っていただろう。」との事が有る。
日高三郎は、夏休みに安房川に掛かる吊橋の欄干の上から、友人達と、水中に飛び込み遊びをして居て、体勢が悪く、水面に胸から落ちて胸を強打し、其れが原因で、肋膜炎と成って亡くなっているのである。
だから、日高三郎は、自分の存在を私に知らせる為に、扇風機を私に持たせて、安房川の橋の上に行かせ、欄干の上から川面に向かって、言葉を吐かせたのであろう。
飛び込みの直後に、亡く成って居れば、悩む時間は無いが、18歳の若さで数ヶ月を床の中で過ごせば、色々な心の葛藤に悩まされたはずである。
其の憶いが、安房川の水の流れに、潜んでいたのではないだろうか。
其の日高三郎の命日が判明したのは、昨年12月8日に日高町長の自宅に伺った時に、町長夫人が「12月5日が三郎さんの命日だった」と云ったからである。
現在の屋久島町の町長である「日高十七朗氏」は、日高純生の孫に当る人物である。
日高三郎の命日が、12月5日である事が判明したのは、12月8日で釈迦牟尼佛が「大悟・大覚」したとされている日である。
そして、今朝のメッセージは、其れに関して、釈迦の仏教に関係の有る「陀羅尼」である。
其れにしても、日高家一門が誰も知らない日高三郎の死因を、私が青年の頃一回耳にしただけで、覚えて居たのも不思議な事である。
平成21年1月2日
礒邉自適
2007/7/20
婿殿・むこどの
19・7・20
今日、博多に向かう電車の中で、フト気付いた事は、日本の国造りは、旅人が婿殿に成る事で、国造りが出来ている事である。
「須佐之男尊」が海を渡って来て、奥出雲で「櫛稲田姫」を嫁に貰い、出雲の須賀で国造りを始め、「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」が鹿児島で「木花之佐久夜毘売命・このはなさくやひめ。別名・神阿多都比売・かむあたつひめ」を嫁に貰って日本に住み、「神武天皇」は奈良で「長髄彦・ながすねひこ」の身内の娘を嫁に貰い、国を治めている。
其れ等はみな、男性の旅人が、旅先の娘を娶る事で、其の土地に住む事が許されている事を示している。
そして、櫛稲田姫も、木花之佐久夜毘売命も、国津神である大山祇神の血筋である。
古事記にも、「鵜草葺不合命・うがやふきあえずのみこと」より前に、天神七代、国津神五代が有った事に成っているので、海を渡って来た側にも七代の先祖が有り、日本に既に住んで居た部族にも、大山祇神の先祖が在った事に成る。
其の事を考えれば、ライオンや、猿が、優秀な雄は自分の群れを出て、血筋の遠い群れの所に行き、ボスに成る自然の法則が、人間にも受け継がれている事に成る。
其れは、生物が近親結婚を避け、遺伝子が近く成る事を避けるシステムが、人間の無意識にも備わっている事を示している。
私の父方は、礒邉・磯部・石部で、鹿児島湾や伊勢湾に昔住み着いた部族で、母方は新潟の出なので、中国か朝鮮系ではないだろうか。
其の事を考えれば、私の血も遠い者同士の組み合わせと言うことになる。
其の様な事柄を考えれば、国際化して、混血が進む事は、良い事であると思わなければ成らない。
其れを裏付ける様に、ハーフの人達には不思議な魅力の有る人が多い。
是から世の中が激変し、様々な事が起きれば、混血化が進み、新しい雰囲気を持つ人々が増える事に成るのかも知れない。
其の様な事を考えれば、人間の未来も、結構楽しいものに成ると思われて来るから不思議である。
平成19年7月20日
礒邉自適
2006/1/10
皇紀2666年
18・1・10
本日1月10日は、近江遷都を西暦677年に行った、近江神宮の祭神である「天智天皇」の命日である。
今年は、日本の暦では皇紀2666年である。
学者の中には、「神武天皇」は架空の人物で、日本の歴史は西暦300年くらいから始まったものだ。
皇紀2600年とは、「中国の干支に因って創り出した 嘘の世界だ。」との意見も有る。
其れに付いては、証拠が何も無いので、私は何も謂う気は無い。
しかし、一昨日8日から、私の身体と、意識の中に始まった事は、その中国の干支の真実性を示す現象・モノと成って来ている。
やはり、西洋のイエスキリストを紀元とするローマ暦より、日本の神武天皇を紀元とする暦が、神霊界では採用されている様である。
昨日と、今朝のメッセージの内容は、私自身にも初めての事なので、映し出された映像を説明する為に、言葉に変換する事が、真に難しい。
其れは、私の知識の中に、古代の文献の情報が、インストールされていないからである。
其れに、無庵師匠が私にダビングしてくれたソフトの中にも、其れに類する事は無い様であるし、弘法大師空海が恵果和尚から受理したソフトにも、これ等の内容は無いのだろう。
聖徳太子が、夢殿で探って居た情報が、是だったのであろう。
今朝の映像の世界は、太陽の中心の意識が、私の意識の中核に、其の侭入り込んで、地球のあらゆる生き物を観ていた。
蟻よりも小さな虫が、引っくり返って、足や触角をバタバタ動かしている姿まで、アリアリと観察出来ているのである。
これほど、「天照・アマテラス」の意識が、一切を照らして、観ているとは想わなかった。
今朝の映像は、全部説明して行くのには、何ヶ月も掛かりそうである。
しかし其れでも、私が平気なのは、其れ等の総ての情報が、私の脳の回路を使って、三次元のパソコンの中に入力されているのが、解かっているからである。
平成18年1月8日は、昭和天皇の御霊が、私の心臓に飛び込んで来てから、丸17年が経過した日である。
其の日から、新しいスメラの道が開いたのだ。
皇紀2666年とは、666年のサイクルが四回転している事になる。
スメラの存在が、代替わりするのが2666年なのである。
其れは、インドの「釈迦牟尼佛」や中国の「老子」も、同じ時のサイクルの中で、立ち現われて来た宇宙の叡智の産物である理・ことになる。
前回、日本では紀元前666年に「神武天皇」・橿原宮が動かされ、後は西暦0年「垂仁天皇」纒向宮→ 西暦666年「天智天皇」近江宮→ 西暦1333年「後醍醐天皇」吉野宮→ そして今回、西暦2666年は、未だパソコンの中の宮である。
これ等の、過去の歴史から学ぶ事は、新しい世の中を創るとは、「基本の処に還る」との意味なのであると考えられる。
昭和天皇は、昭和64年1月7日の夜中に、私の心臓にいきなりドカンと飛び込んで来た。
そして、2月24日の大葬の日の未明、霊夢に現われ「我が身 既に遠く 良き代を 願い奉る。」と伝えて来た。其れから、18年目が始まっている。
日本の天皇は、本来は「天津日嗣・あまつひつぎ」の御霊を継承するモノである。其の「天皇・すめらみこと」の役割が、本来の働きを失えば、日本国の人民には未来は無い。
私は、特別な「三島由紀夫」のファンと言う訳でもないが、三島由紀夫の無念さが良く理解出来る。
「何故 天皇に詔(みことのり)をさせないのか」其れが、三島由紀夫の言い分である。
日本国の伝統では、「天皇・すめらのみこと」こそが「無我の境地」で、国民の事を想える立場にあるのだ。
其の天皇が、自分の想う事柄を、国民に伝えなければ、誰が其の代わりを務められるのか。
「あきめくら・(民・目を潰されためくらの意味)が多い国で、選挙で選ばれるには、其の国民のご機嫌を取らなければならない。
だから、今の選挙制度で選ばれた総理大臣では、スメラの働きは出来ないのだ。
今こそ、天皇の「詔・みことのり」を復活させなければならないのである。
平成18年1月10日
礒邉自適
2004/8/12
皇室の役割
16・8・12
日本の皇室が、何故存在するのか。
其れは、倭民族に長く傳えられている、伝統文化を護る為である。
其の伝統文化を、正しく傳えないのなら、天皇家の存在は不必要であり、国の少ない予算を投入する事は、止めるべきである。
では、天皇家の傳えるべき伝統とは、何なのか考えてみよう。
天皇家で一番大事とされる事は、「天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)」の働きを継続する事にある。
天照皇大神とは、「皇(すめ)」が「スメラノミコト」の「スメ」であり、その「スメ」は、シュメール文化の「スメル(葦の生える地を治める者)」の意から来ている。日本の国が「豊葦原瑞穂の国」と呼ばれて来たのも、因は其処に有るのだ。
現在、天皇家で使用されている十六弁菊花紋も、シュメールから伝わった物で、後醍醐天皇の皇子が、京都の比叡山の開祖「最澄」の家紋を借りたものである。最澄の先祖は、シュメールから中国を経由して日本に渡って来て、琵琶湖の西岸に有る坂本の地に、住み着いたものらしいのだ。
日本の文化は、縄文文化の上に、弥生文化が重なって出来ている。
弥生文化が稲作文化であるので、瑞穂とは「水の上に稲の穂が有ること」に、由来するのだと想われる。
日本の国は、長い間、稲が通貨の代りにも成って来た。
だから、天皇家の儀式で一番大事なのは大嘗祭で、大嘗祭とは天皇が即位後、初めて行う新嘗祭である。
新嘗祭とは、その年の新穀を、天皇が先祖代々の霊魂と「共食(なめる・嘗)」する儀式で、毎年11月22日から23日に掛けて、夜通しで行うものである。
現在は、新嘗祭の日を「勤労感謝の日」と名前を変えてしまっているので、国民の認識は、其の事から薄らいでしまっている。
この儀式からも分かる様に、天皇家の神は「御饌殿(みけどの)」とされており、台所の「饌・け(食べ物)」が神なのである。
伊勢外宮の「豊受神・とようけのかみ」や、出雲熊野大社の「櫛御氣命・くしみけのみこと」、熊野本宮大社の主祭神の「家都御子神・けつみこのかみ」と、其れに、福井県敦賀市の氣比神宮(けひじんぐう)の祭神も、皆「饌・ケ」であり食べ物が神とされている。
出雲の熊野大社で毎年10月15日に行われる「亀太夫神事」の儀式も、出雲大社(杵築大社)が熊野大社に餅を納め、熊野大社側が其の餅を受け取る「受け餅」の儀式から来ている。
この様に、日本に伝わっている古い伝統は、皆、同一の仕来りから来ているのだ。
新嘗祭の儀式の様式は、奈良の「石上神宮」で毎年11月22日から23日に掛けて行われている「鎮魂祭」が元である。
聖徳太子が、佛教導入に力を入れる迄は、天皇家の儀式は物部家が司っており、お盆の行事も、旧暦の7月14日に行われていた、鎮魂祭の夏の禊の儀式が、佛教に取り込まれてしまったものである。
天皇家の本来の役割は、これらの伝統を、国の代表者として護り傳える事にあるのだ。
天皇家の役割は、格式有るお菓子屋さんが、其の味を護り伝える様に、日本文化の暖簾を大事に傳え続ける事であって、皇室外交がどうのこうのと言っているのは、本末転倒と言えるだろう。
現在の皇室の問題点は、キリスト教の概念を取り入れて、日本文化の真髄を失った処に有ると想われる。
キリスト教では、イエスキリスト一人が神の子であって、他の人は皆、罪の子であると教えられるが、日本の伝統的考えは、人間は皆神の子であり、禊ぎ祓いを時々行って、罪穢れを祓ってさえ居れば、良いとの事である。
養老猛先生が「バカの壁」の本の中で言われている様に、人間は、自分達が創造した世界から時には外に出て、禊ぎ祓いを行って、自分の本質に目を向けるべきなのである。
お釈迦さんの教えも、其れと同じである。
「仏・佛・ほとけ」とは「ブッダ・仏陀」の事で、其れは「覚醒した者」の意である。
其の「ブッダ」を日本語にすると、「スメミマ」であり、「スメ」とは「覚醒した者の目(意識)」のことで、「ミマ」とは「聖者の肉体」のことである。
それが、祭祀の時の天皇(祭祀王)の尊称「スメミマ」と成っているのだ。
「スメ」とは「仏陀の第三の目」と同義であり、それは松果体と呼ばれている珪素で出来た物質が、額の中央に有る事から来ており、「珪素」は英語で「シリコン」である。
シリコンの純粋な結晶は、松果体(まつかさ状)に成るらしい。
と言う事であれば、覚醒(さとり)とは、珪素の振動波に、意識が同調する事であると理解出来る。
日本の主食である、米の糠に含まれる籾殻は、90パーセント以上が珪素で出来ているらしい。
天皇家の伝統文化は、玄米や未精白の穀物を食べる事にある。「白米」や「白いパン」を、饌・ケとして居ては、スメミマと成る事は出来ないのだ。
天皇が、禊ぎ祓いをして「天臥間・あめのおふすま」にて、稲魂から森羅万象の情報を受け取る。それが、新嘗祭の儀式なのである。
日本の伝統は、ブッダに成る為の儀式を、毎年繰返す事なのだ。
其れは、天皇家だけではなく、古代社会では、各部族の代表が行なって居た儀式でもある。
天皇家は、全国民の代表として、日本の伝統である「天津日継・あまつひつぎ」を、継続すべきなのである。
イエスや、釈迦が悟ったのは、30歳代である。
天皇になるべき立場に在る者は、30歳代の時期に、伊勢神宮の奥宮に籠って、スメミマを体験しなければならないのだ。
それは、難しい事では無い様だ。
何故なら、禊ぎ祓いがしっかりと出来れば、先祖の霊魂である「御祖神・みおやかみ」が、全ての知恵を授けてくれるからである。
天皇家の役割は、日本に長く続いている伝統が、天皇自らが、山に植林をして、水を守り、田植えをして稲の収穫をするのかを、世界に向けて、治しめる事にあるのではないだろうか。
平成16年8月12日
礒邉自適
2004/3/16
仏陀
16・3・16
「仏陀」とは、梵語のBuddhaの音写で、覚者・智者と訳す。
目覚めた人の意で、悟りに達した人をいう。特に、釈迦牟尼を指すが、広義には過去・未来および十万世界に多くの仏陀が存在するという。仏(ぶつ)ほとけ。ブッダ。 広辞苑
と 広辞苑には載っているが、誰が仏陀かは、ブッダに成った者・成仏した者しか、知る由が無い。
誰がブッダなのかは、世間の者には、判らないのだ。
仏陀と成った者が現れても、過去の仏陀とは、生きて居る時代も、場所も異なるので、お互いの状態を比べる事さえ難しい。
私が20年前、同じ様な体験をしたが、其の日から、自分も社会も、日々変化しているので、仏陀の意識を、認識する事さえ難しいと謂わなければならない。
何故かと言うと、誰かが、真のブッダに成ると、其の瞬間から、宇宙が意識の変容を始めるからである。
仏陀とは、周期的に、宇宙の意識を変化さす働きの者の役割なのだ。
だからこそ、仏陀の働きは、仏陀の働きを体験した者しか、理解が出来ないし、同じ時間帯には、一人の仏陀しか現れないので、仏陀を、他の仏陀が認めると言う事は、永遠に不可能だと言う事が出来る。
若し、同じ時間軸の中に、二人の仏陀が現れれば、互いの意識が混濁してしまい、両方とも、仏陀の働きが出来なくなるし、神霊界も、どちらを主体の本尊・如来にして、事を進めて行けば良いのか、決められない事となってしまう。
仏陀と成った者は、自分の自我意識を消して、宇宙意志や神霊の動きに、身を任せてあるので、神霊の働きが止まれば、仏陀の働きも止まってしまう事に成るからだ。
其の証拠に、私は動かなくても、私の姿が、世界中の人の夢に現れている。
其れは、神霊界が、私の姿を借りて行動を起こしているからである。
その事は、私が自覚しない処でも、神霊が働いている事の証だ。
だから、私は、自分の周囲に起きる事を、認識さえしていれば良い事になる。そして、私の認識出来た分だけ、次のパターンが始まるのだ。
此の、文章を書くという作業も、私の認識の一つとして、進められていると言って良い。
私が、仏陀としての認識が進めば、其れだけ、未来のステージが早められる事になる。
人間界の、意識の進み方が遅いので、神霊も其れに合わせて、仕組みを進めているのである。
私の役割は、仏陀が存在すると言う仕組みを築きながら、自分の自我意識も、進化させて行かなければ成らないのだ。
昨日は、植物の多様体が夢に現れて、その一部が動き出し、動物の顔の様に姿を変え、私に、唇を突き出してキスをして来た。
動物達ばかりではなく、植物群も、私の仏陀としての存在に、感謝を示す段階に、この世界は進んで来たのだろう。
20年前、私は、屋久島の岩や、動植物と仲良く成り、全ての森羅万象と、意識を合わせて一体感を保った。
其の時の感覚が、又蘇って来て居る。
新たな人々、新たな命達、新たな世界が、次なる世界へ向けて、動き出している。
其れは、現代の仏陀と、過去世の仏陀と、未来仏と成るべき魂の総合に因る、創造力の発露である。
これらの事は、私の意識が働いているのではなく、私が自分の意識を捨て去ってから、起き始めた事であり、私の力が有るからではなく、私の力が休んでいるからこそ、進んでいる事である。
だから、ブッダに成った者は、自分の行為は、全て休んでいるのだから、世間一般の人達には、その者が、何かをしている様には見えないのである。
若し、何かをしていて「仏陀」と名乗る者が在れば、其れは、真の仏陀ではないだろう。
仏陀とは、無為の者だから、全くの自由を、手にして居る者のことである。
自由だからこそ、全ての存在と一体となり、それらと遊ぶことが出来るのだ。
私が、植物の霊に気に入られたと言う事は、私が再び、自然の中に溶け入る日が、近いと言う事かも知れない。
平成16年3月16日
礒邉自適
2004/2/16
海渡族の謎
16・2・16
私は、1984年の6月4日に、神の世界に最初に触れた時に、「海渡族の謎を追え」とのメッセージを受けた。
其れから、既に20年が経過した事に成る。
其の「海渡族の謎を追え」との事が、何の意味だったのかが、ようやくハッキリとして来た。
今年の、学研発行の雑誌「ムー1月号」に、鹿児島と屋久島の間に有る海底火山「喜界島カルデラ」の大爆発によって、南九州に住んで居た縄文人が逃げ出して、南米のエクアドルに辿り着いた事が載っている。
6300年前の喜界島の爆発によるアカホヤの下に、それ迄の縄文人の使用していた土器が、発見されているのだ。
12000年前の氷河期には、現在のミクロネシアやニューギニア島辺りは大きな大陸で、多くの人々が住んでいて、其の後の温暖化に因る海進で北上を始め、南九州にも渡って来て、住み着いていたのであろう。
其れが、6300年前の大爆発で、沖縄から、関西辺りの地に住んでいた縄文人は、逃げ出しているのだ。
だから、アイヌや蝦夷と呼ばれる人達は、関東以北に残った事に成り、沖縄とアイヌの人達が似ており、南米エクアドルやアンデスの人達の遺伝子が、その人達と同じである事も、科学的に証明されている。
数年前、日本に来たエクアドルの人達が、屋久島の岳参りの風習と同じ風習が、南米にも残り伝えられていると、驚いて居たそうである。
縄文人達には、山を信仰する風習があった様だ。
沖縄にも、「御岳・うたき」と呼ぶ聖地が在り、森や石が、信仰の対象と成っている。
南米でも、山の湧水の有る所が、精霊の住む聖地とされているのである。
これは、アイヌの風習と同じである。
私が20年前、神の世界に入った時には、毎日、屋久島中の湧水の有る所や、古代の人達が、生活して居たであろう水場に、静かに座って瞑想をしていたのも、古代の人達の霊に導かれての事であったのかもしれない。
古代の人達は、山の樹木や、岩石に、精霊が宿ると信じていたのである。
私が体験した世界は、正にその世界であったのだ。
屋久島から、6300年前に人が消えても、島の岩に記憶された人間の意識・精霊の働きは、残されていたのである。
その古代の霊魂の働きで、私の意識は目覚め、世界中の霊界人と、コンタクトが図れる様に成ったのだ。
私は、1984年の6月から10月末迄、屋久島での修業を終え、11月から全国の旅が始まり、1985年の7月2日迄、日本国中を巡り、屋久島の小石を全国の山や岬に埋めて廻った。
だから、現在、屋久島で生活していても、全国に屋久島の石が有って、霊的な回路として、働いている事に成るのである。
私にとっては、日本列島全部が「御岳・うたき」と成って、霊的な働きをしている事に成る。
私は未だ、国外に出て、他の言語や風土には触れていない。
日本での答えが、ハッキリしない内に、国外に出る事は、意識の乱れに繋がるし、霊界の混乱を引き起こし、新しいアカシックレコードの製作に、影響を与えるのであろう。
私が、自分の人生を振り返ると、7歳で文字を習い始め、17歳で父が死に、27歳で結婚、37歳で神の世界に触れ、妻や子と別れ、47(〜48)歳で言葉の真実(マントラ)に目覚めて、今年(2004年)1月29日で満57歳を迎えた。
是から10年間、どんな事を遣らされるのかは分からないが、何か、これまでに行っていない事を、修業させられるのではないかと考えられる。
私に、不安が全然無いと言う分けではないが、御岳・うたきを想う事で、全てが完成されて行くように感じる。
明日の事は、明日考えれば良い。
今日一日、自分が無事である様に、祷るだけである。
20年前に、「海渡族の謎を探れ」と告げて来た神霊が、何者であるかは判らないが、世界を動かしている神の働きが存在して、一定の方向に間違い無く、事は進んでいるとの事であろう。
20年も掛かって来た、神のプログラムである。
今更、簡単に壊れる事は無いだろう。
「人類の存在を、おまえに委す。失敗は許されない。チャンスは一度。」と告げられ、あれから20年が経とうとしているのだ。
自分でも、良く続いたものだと感心している。
平成16年2月16日
礒邉自適
2002/4/12
墓記・おくつふみ
14・4・12
4月8日、岡山で「家庭画報4月号」を見ていたら、アイルランドの古代遺跡の写真が載っていて、其れを見て驚いた。
アイルランドのダブリンから、北西約60キロのボイン渓流沿いにある、5000年以上前の巨大古墳にある、石に刻まれている渦巻き模様の石と、日本の岡山県の倉敷市にある古代古墳「王墓山古墳」から出土した石が、色も形も模様も、良く似ているのである。
岡山の「王墓山古墳」の石は、楯築遺跡の墳丘から出た石で、日本に他に例が無いとの事で、古代吉備の一族の王墓と考えられている。
アイルランドと、日本の岡山の石が、同じ民族が墓に供えた物なら、5000年以上前に、岡山とアイルランドの人達の文化が、繋がっていた事になる。
日本では、天武天皇が日本書紀の編纂を命じて、次の持統天皇が歴史を一本化するまでは、18の部族に、其々の「墓記・おくつふみ」が伝えられていたとの事である。
西暦720年までは、様々な墓の造り方があり、祭りの儀式も、言葉も、其々特有の物が伝えられていたのだろう。
徳川時代に、殆どの葬式が、仏教で行われる様に成ったが、仏教が導入されるまでは、日本には神式などの、別の葬式が行われていたのである。
其の証拠に、日本の代表である天皇家は、今でも、仏教での葬式ではない。
亡くなっても、仏に成ったと言わないで、「身罷(みまか)った」と言っている。
昔の人達に、一番大事な理・ことは、魂が死んだ後どうなるかだったので、墓の造り方と、その祭りの仕方は、其々特有の物があったのだろう。
日本の祭り事(政治と葬式など)が大きく変ったのは、推古天皇の時代、聖徳太子が蘇我馬子と組んで物部守屋を殺して、仏教を大きく取り入れた事(587年)が、原因と考えられる。
「霊魂」が永遠不滅のものであれば、自分の死後、祭り事が変って、自分の嫌いな敵の儀式で、自分の魂が祭られる様になれば、気分を悪くしているのではないだろうか。
明治維新で、天皇家が万世一系とされ、日本国中の神社は「天照大神」を祭る様に強制され、多くの神社で祭神が消されてしまっている。
全国に、「八幡神社」が多い原因は、天照大神は天津系で渡来系なので、国津神系は仕方なく、八幡様等を祭神としたからとの話しもある。
今月4月15日は、愛媛県大洲市に在る「少彦名神社」の春の大祭である。
大洲の少彦名神社は、「少名彦・すくなひこ」が亡くなった地とされ、神社は少彦名の墓・御陵とされている。
少彦名が、どの様な「祭り事(禰宜・ねぎらい)」を希望しているか判らないが、儀式の内容よりも、現代の人々が忘れずに「思念・おもう」する事が、一番の供養になるのではないだろうか。
日本の、仏教の行事であるお盆は、釈迦の弟子の一人「目連尊者(もくれんそんじゃ)」が、霊界の母親の供養をした事が始まりだが、其れが8月13日〜15日とされているのは、本来旧暦の7月14日が、古神道での先祖供養の日であり、迎え火を焚くのも飯を盛るのも、神道の儀式であったのだ。
現代の若者達が、生き方の方向を見失っている今日、もう一度「墓記・おくつふみ」の理を考え、霊魂の事を想って見るべき時を、迎えているのではないだろうか。
神社の「神主」や、寺の「僧侶」に盆正月の儀式を頼んでも、本人達が、先祖の霊魂を信じていなければ、其れは何にも成らないであろう。
坊さんを頼まなくても、日常の自分の気持ちが先祖に通じていて、自宅に御影・写真を飾って言葉を掛ければ、先祖の霊も、其れを聴いているし、たまには墓に行けば、先祖代々の霊が迎えてくれるのである。
これ等の理を、民族・部族毎に伝えていたのが、18の民族の墓記だったのだろう。
720年以前にも、まだ、他に隠された墓記が伝えられていた事だろう。
墓記が「おくつふみ」と読まれるのは、死の儀式が大事とされ、「奥の文」とは、隠されながら伝えられる、秘密の儀式の文・あやの意味なのだろう。
その理が、日本書紀に統一される時、其れまでの多くの霊が、納得して居たのであれば、別に問題は無いが、現代の状況を見れば、霊魂が安らいでいるとは、とても言えないようである。
今後の、社会の安定の為には、全国の神社の祭神や、各家族の先祖の霊を、正しく供養する必要があるだろう。
天皇家に、国の祭り事を全部預けて、国民が何もしないのでは、社会が改まる訳がない。
古墳の石は、古代の魂の記憶を伝える、レコードの役目をしていると考えられる。
5000年前、遠いアイルランドの人々と、日本の人々の交流が有ったとすれば、世界が一つに成れるヒントが、墓記・おくつふみに有るのかもしれない。
平成14年4月12日
礒邉自適
2002/2/22
聖徳太子の命日
14・2・22
本日2月22日は、聖徳太子の1370年目の命日である。
旧暦と、新暦のずれは有っても、霊界との結び付きは、暦・カレンダーがその役に立っている。
其れは、哲学や主義主張と異なって、日付だけが、純粋性を保ち得るからだ。
「易」の漢字が「日+勿」の組み合わせで、「太陽」と「蜥蜴」の組み合わせで出来ている様に、太陽の運行と、人間の脳の原皮質は、蛇や蜥蜴と同じ時代の脳であり、潜在意識の領域で繋がっているのである。
人間が、太陽の日の出と共に働き始めるのは、蜥蜴と同じ、原皮質の脳の活動に関係が有る。
易が発達したのは、その脳の働きを、古の人々は知っていたからであろう。
易で方位を大事にするのも、原皮質は伝書鳩の様に、地磁気も感じる事が出来るからである。
法隆寺に何故、夢殿と呼ばれる六角堂建てられたのか、其れは聖徳太子が仏教に大変興味を持って、建物の中で瞑想にふけって居たからではないだろうか。
ヨーロッパの大天才「レオナルド・ダ・ビンチ」も瞑想を続けながら、芸術の世界・科学の世界を追求していた。
日本の大天才「弘法大師空海」も、虚空蔵菩薩求聞持法と名付けた瞑想法を編み出している。
天才達にとっては、何かの為に行動すると言うよりは、瞑想する事の方が、重要だったようだ。
宇宙には、「アカシックレコード」と呼ばれる様な記憶のシステムが存在し、その記憶にチャンネル出来る事を、覚醒する、目覚めると言っている。
今朝は、別紙に「慈愛」の題で、慈愛は永遠性の時間の事であると書いた。
「慈愛」http://sun.ap.teacup.com/20061030/253.html
「イエス・キリスト」は、永遠の命に入るにはどうすれば良いかと、主の愛に付いて説いているし、インド生まれの釈迦牟尼仏も、「私が覚醒して佛(ブッダ)になったのは、今回ではなくて、何代も前の 昔である」と謂っている。
中国の老子も、「古の人々は、凄いところまで、意識を積み上げてきている」と感心している。
其れ等の事からも、永遠性の「時間」が確かめられる。
其れに、イエス、釈迦、老子の三聖者が説いている理・ことが、愛、慈悲、道徳で共通している。
現在の学校教育で教えている内容は、自分本意の教えであり、時間的には、人生80年の短時間の認識でしかない。
神とか、仏とかは、永遠性の時間認識がなければ、理解はできないだろう。
神とか、仏を感じるには、ただ静かに瞑想して、永遠の時の空間に身を置くしかないだろう。
奈良の大仏や、各地の阿弥陀仏や、大日如来像などを拝んでいても、無意味な事である。
其れ等の像は、永遠の時の中に身を置く、覚者の姿を表した物であるから、其れ等の像を拝むのではなく、自分自身が、その姿を採用する事で、意味が生じるのである。
今日は、聖徳太子の命日とされている。
622年2月22日、太子は身罷ったとされている。しかし太子の死後、太子の想いは破られ、太子の息子や孫は、全員死に追い遣られてしまった。
其の所為で、奈良には様々な災害が発生したので、其の霊を鎮魂する為に、法隆寺が建立されたとの事である。
私は、平成元年9月4日の未明に、阿蘇郡蘇陽町の「日宮幣立神宮」にて、聖徳太子のメッセージを受けた。
そして、9月26日に蘇陽町に引っ越して、10月30日奈良の法隆寺に参拝した折に奇跡を見た。其の時の事は、別紙にも書いて、インターネットにも写真付きで掲載している。
「法隆寺の奇跡」http://moon.ap.teacup.com/199966/105.html
昨夜は、一晩中、私の意識は、宇宙の永遠的時間軸に縛られて、「とき・事象」の中心に定まっていた。
「神」の漢字の意味を、身をもって感じていたのである。
「神・示+申」の「ネ(示)」祭壇の前にて、宇宙の(申)のイナを感じ、身動きできない侭、一夜が明けたのである。
「イナ」とは、イナ光・稲光の事で、雷の電気の事である。
宇宙の情報が電気的に繋がって、自分の意識がレコード盤の中心に存在し、身動きが出来ないのである。
神に仕える聖人の立場は、地球の地磁気の中心は、北極と南極に位置しているが、北極と南極を、レコード盤の様にペシャンコにして裏表にしてしまい、其の中心に自分が在ると考えれば良いだろう。
釈迦は、其の意識状態の事を「佛(ブッダ)」と言い、宇宙の情報源を「法(ダルマ)」と説いた。
そして、その法は「時節因縁」「一大事因縁」として、2600年の輪廻で現出すると言うのだ。
アカシックレコードの記憶盤は、2600年用に成っているらしい。
其れは、2600年置きに、宇宙の記憶が再生されて行くからなのだろう。
私が、1984年6月4日(旧暦5月5日)神の世界に入り、屋久島の全体の花崗岩を使って、宇宙の記憶盤をダビングし直して、既に17年が過ぎて、18年目に入っている。
今朝の感覚は、17年前に、屋久島で体験していた時と同じパターンが、来ていた様だった。
16年前の屋久島での時は、自分に何が起きているのか、理解不能だったが、今では、何が起きても、何の事なのかは理解出来ている。
其れで、17年の間の旅は、無駄ではなかった事が自覚できる。
その分、霊界の指導者たちも楽だろう。
昔と違って、現代は精神病院が存在するので、社会的に迷惑を掛ける様な行動をすると、直ぐに病院に入れられ、注射を打たれたり、薬を飲まされたりしてしまうので、余り過激な行動はさせられない。
其れかと言って、刺激が無ければ、意識の変容は起きないのである。
其れ等のバランスを取りながら、人間に、意識の階段を登らせなければ成らないのである。
イエスの時は、其れが過激過ぎたので、十字架に張り付けになって殺されてしまった。その失敗も、今回は生かされたのだろう。
それでも、私は、精神病院行きスレスレの処を、数ヶ月過ごしたのである。
よく此処まで、無事に進んで来れたものである。
私には、老子の言葉が指針となり、釈迦の体験や、イエスの想いが、私を導いて来たのである。
其れと、一休禅師や、良寛さんの遊び心が、私に、余裕を与えてくれもしたのである。
聖徳太子は、法律や政治の形態も考えて、政・まつりごとの在り方を、現実化した人である。
是から、どの様に、時代を導いていけば良いのか、古の人々と協力しながら、創造していかなければならない。
聖徳太子が、今、霊界で何を考えているかは分からないが、聖徳太子が霊界の中心にいる事だけは、間違い無いだろう。
聖徳太子が何を考えていたか、また、1370年間天界で何を学んだのか、その成果が、是から現されて来ることだろう。
私も、其れに、協力して行くしかない。
また霊界人も、私が協力しなければ、現象世界には、手も足も出ない事は、能く解かっている。
是からの12年間が、私にとっても正念場である。
平成14年2月22日 聖徳太子命日
礒邉自適
2001/5/21
玉依毘売命(たまよりひめのみこと)
13・5・21
2001年5月20日(日曜日)、良い天気に恵まれ、鹿児島の隼人から、宮崎の鵜戸神宮へ出かけた。
鵜戸神宮には、16年前に旅の途中で参拝しており、その時に、私に声を掛けてくださった人が居て、名前も覚えていたので、神宮で其の方の所在を訊ねてみた。
其の人は、「山口弘美」氏で現在76歳であり、宮崎の鵜戸神宮から宮浦の「宮浦神社」に移り、其処の宮司をなさっているとの事。
山口弘美氏は、「玉依毘売」を祭る「宮浦神社」の宮守の家系で、先代も現在101歳で健在との事である。
宮浦神社に到着し、お参りしてから社務所の方に行くと、山口弘美氏本人が居て、話が弾んだ。
社務所には、素晴らしい絵画が数点飾られているので、誰の作か尋ねてみると、今年43歳になる、山口氏の二男「山口正仁氏」が描いた作品であると云う。
「宮浦神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/482.html
其の絵は、玉依毘売が子供を抱いている構図が、神話の中の一場面の様に描いてあったり、仏教的な観音様として描かれたり、儒教的な慈悲の母に描かれたりしていて、其々が、全て気品が有り、美しく描かれていた。
玉依毘売が、胸に抱いている子供は「山幸彦・ひこほほでみのみこと」と「豊玉姫・とよたまひめ」との間に生まれた、「鵜葺草葺不合命・うがやふきあえずのみこと」で、玉依毘売にとっては、お姉さんの産んだ子供を預かって、育てていると言う姿である。
この時の玉依毘売は14歳で、後に大きくなった鵜葺草葺不合命と結婚して、四人の男子をもうけ、四番目の末子が、後に神武天皇となるのである。
玉依毘売は、都合五人の子供を育てた事になる。
其れに因り、玉依毘売は安産や子授の神様となっているのである。
玉依毘売は豊玉姫の妹で、姉妹の父親は「海神・ワダズミ」である。
一時期、玉依毘売の霊を、鵜戸神宮の豊玉姫の霊と合祀したところ、神宮の裏山が崩れたので、慌てて、玉依毘売の御霊を宮浦神社に祀り直したと事である。
16年前には、山口氏は鵜戸神宮の岩戸の入り口で、「空の上で 女性の話し声が聞こえる。」と云っていた。
私は、「世の中がいま変わろうとしているので 女神様の会議が開かれているのでしょう。ここは 女の神様の神社だから 女の神様が集まっているのではないですか。」と、答えたのだった。
今回の山口氏の話では、不思議な出来事が、次々に起きていて、自分でも驚いていると言う事だった。
其の後、ビデオとカメラで玉依毘売の絵を撮影し、宮崎市に住む息子さんである「正仁氏」を訪ねる事になった。
帰り掛けに、神社のお札を頂いたのだが、現在では、どこの神社でも、お札は印刷か外部へ注文するかである。
しかし、この宮浦神社では、山口宮司が直に筆を執って、謹製されているもので、お札を受け取ったとたんに、手足の指に神の電気が流れ入って来た。
其れは、其のお札が、本物である証拠である。
宮浦神社を辞して、宮崎市で山口正仁氏と2時間ほど、話をする事が出来た。絵の話から、神話や現代の子供達の教育の事まで、今後の活動を話し合った。そして、お互いの仕事を連携して行こうと言う事になった。
いま世界中に、日本のマンガ文化が広がり、漢字がお守りに使用されたりする様になっている。
IT社会となり、世界は一つのイメージを、共有する様になって来たのである。
私は、若者達に未来の夢を伝えて行きたいと想っている。
その方法が、具体的に成って来た様に感じられる、今回の旅となった。
平成13年5月21日
礒邉自適