2008/10/23
屋久島の音楽神
20・10・23
今日は、今朝のメッセージを打ち終わって日付を打ったら、今日10月23日が私の父親の四十四回忌である事に気が付いた。
私の父親が亡く成ったのは、東京オリンピックの開催中であり、「東洋の魔女」の言葉が生まれる事に成った、女子バレーボールの試合で日本が優勝し、国中が盛り上がっていた44年前の今日である。
其れは、私が17歳の秋であった。
其の父親は、私が37歳の6月4日(旧暦5月5日)母親の64歳の誕生日に、4311体もの精霊の軍団を引き連れて、20年振りに彼の世から還って来て、私の前に姿を現したのである。
其の時、父親は精霊達の一番前に立って居り、私に「お前に 是まで苦労を掛けたのは お前の精神を鍛える為であった。もう大丈夫だから 此の人達に身体を貸せ。」と告げたのである。
そして、其の日から始まった事は、ダンスを踊る事だったのである。
今に成って考えると、一番初めに私の身体を使い始めた精霊は、屋久島の山の神である「ピーコドンドン」だったのかもしれない。
私は其の日、朝から散歩に出掛け、母の住んで居る松峰区の実家の方に、道に落ちていた一枝の紫陽花を拾って手に持って歩いて行き、途中に有る中村さん宅で休んでから、一度安房の自宅に引き返し、今度は車で、平野の無庵師匠の自宅に向かった。
すると、無庵師匠の自宅の門の扉の内側に、師の四歳の息子が待って居て、其の息子が門の鉄格子の隙間から、何かを握っている右手を差し出すのである。私が手を出して掌を広げると、其の私の手に握っていた物を置いた。
其れは、単なる一個の小石だったのである。
私は、其の小石を手に持ったまま、門に着いている入り口の板戸を開けて、屋敷の中に入った。
すると、其の息子さんが、私をプールの方に案内して、其の小石をプールに投げる様に云うのである。
私が云う通りにプールの真ん中に小石を投げ入れると、チャポンと音がして、其の小石が落ちた所から、周囲に波紋の波が拡がって行った。
其の波紋を見ながら、息子さんは「小父ちゃんが出て行ったら こんなに成る」と云って、私から、世の中に波紋が広がる事を示唆した。
次に、私を畑の方に連れて行って、人参を指差して「此の人参を抜け」と云うのである。
私が其の人参を手で引き抜くと、葉は茂っているのだが、根の方は細い人参が付いているだけである。
次に、今度は葉が紫で、横に這っている人参を指差して、其れを抜けと云うのである。
私が、其の葉の少ない人参を引き抜くと、其処には、丸い大きな人参が付いているのである。
其れは、種類も同じで、蒔いた日付も同じであり、育つ条件は同じなのだが、本数が多い事で日が当らなかった方が、根が小さかったのである。
其の息子さんは、「こっちの方に成れ」と、葉は茂っていなくても根の大きな方を示したのである。
其れは、見掛けではなく、根の大きな人物に成れと、謂う理・ことである。
其れから、今度は、父親が止めるのも聞かずに門を出て、近くに有る孟宗竹の山に私を連れて行って、大きな竹を見上げて居るのである。
すると、其処に風が強く吹いて来て、其の孟宗竹が風の力で撓った。
其れを見ながら、「こんな風に 生きて行け」と云うのである。
其れは、風で撓る竹の様に、しなやかに生きて行けと謂う理・ことである。
そして、近くに横たわっている古い竹の方を指差して、歩けと云うので、私が通り道に横たわっている竹を、跨ごうとすると、「跨いでは駄目だ 踏み折って行け」と謂うのである。
其れは、障害物は避けて行くのではなく、踏み砕いて、進んで行かなければ成らない理・ことを、意味していた。
其の後も、家の方に引き返さずに、竹山を見詰めて居るのである。
すると、其処にヒヨドリが二羽飛んで来て、竹の枝の間を飛び回ってじゃれ始めた。
すると、其の息子さんは、「小父ちゃん心配するな 別れても 次が待って居る」と、妻と離婚しても、次が準備されている事を示したのである。
其れから、ようやく家の方に引き返すと、今度は畑の境界に張られている鉄状門の所に私を連れて行って、「小父ちゃんは 今日から 此の様に成る」と云って、両手に手錠が掛けられる様な仕種を、して見せるのである。
そして「お父さんに 一筆 書いて貰え」と云った。
其れから、無庵師匠の居る自宅に帰った。
私が、其の息子さんの行動を無庵師匠に伝えると、師は、紙とペンを出して何やら書き始めた。
其れから、私の自宅の有る安房に向かう事に成り、師と奥さんと息子さんの三人を車に乗せ、私が車のエンジンを掛けると、後ろから、其の息子さんが、私の服を引っ張って「未だだ」と合図をするので、私は一旦車のエンジンを切った。
そして暫らくすると、其の息子さんが「もう良い」と云うので、車のエンジンを掛けて、安房に向かって出発したのである。
其の日の事は、今でも昨日の出来事の様に、頭にはっきりと其の場面が残っている。
何故、四歳の子供が親の制止を振り切って、其の様な行動をしたのか、今でも不思議に思っている。
そして、安房の自宅に着いて、私が会社で使っていた人間に電話を掛けて、会社の土地の権利書を渡す様に云うと、其の電話を一方的に切ったので、もう一回電話を掛けて、出る迄呼び出し音を鳴らしていると、自宅にパトカーが遣って来たのである。
其のパトカーは、無庵師匠の説明と、自宅で書いて準備をして居た書面を渡す事で、引き返して行った。
私はパトカーが帰ってから、無庵師匠に「川に入って良いか」と訊ねると、師は頷いて「両手を上げて 水に入って行け」と云うのである。
私は其の様にしながら、自宅前の安房川に浸かって、川の反対側の岸まで泳いで行った。
其の、私が水に入って行った場所は、私の両親が昭和21年8月3日(旧暦7月7日)に、初めて屋久島に上陸した地点である。
私の母親は、其の日、安房の沖に停泊している客船から「艀・はしけ」7に乗り移って、安房川の岸辺の桟橋に着き、其の桟橋の横の砂浜に座って、荷物と夫が到着するのを待って居たのである。
其の時、母親のお腹には、受胎16週の私が宿って居たのである。
私は、其の母親が39年前に座って居た場所から、母親の64歳の誕生日である6月4日に、彼岸に渡る儀式をする事に成ったのである。
私は、安房川の反対岸まで泳ぎ渡って暫らく休んでから、再び泳いで、此方側に返って来た。
屋久島の季節は、6月だから気温は初夏でもう寒くはない。
しかし、2000mの山から流れ下って来る水は、未だ相当冷たいのである。
川から上がって来た私の身体には、振るえが来た。
其の振るえが止まらないので、私は師に支えられて、自宅の二階まで上がり、布団を引いて貰い横に成った。
しかし、それでも振るえは止まらず、其の身体の振るえは、有るリズムを持って、床の畳を両手で打ち始めたのである。
そして、師の奥さんが、私の弟に連絡を取ったらしく、弟も二階に上がって来た。
そして、仰向けに成って居る、私の両手の右腕を師が抑え、左手を弟が押さえて、振るえが止まるのを待っていた。
すると、目の前の空間に、澤山の人の姿が現れて、其の一番前に20年前に死んだ私の父親が、立って居るのである。
そして、其の父親が「お前に苦労をさせたのは お前の精神を鍛える為であった。もう大丈夫だから 此の人達に身体を貸せ。」と云うのである。
そして、更に「仕事だと想うな。遊びだ 遊びだと想っていろ。」と云うのである。
そして私は、今度は弟に「握り飯を持って来い」と云い始めたのである。
初めは、動かなかった弟が、私が何度も同じ事を言い続けるので、階下に降りて行って握り飯を三個作って来た。
私は握り飯が来たら、布団から起きて、其の握り飯を持って、其の階に有るトイレの戸を開けて中に籠った。
そして有る程度時間が経ってから、自宅を出て、安房川に架かる橋の中央まで行き、残っている握り飯を、橋の上から下流に向かい流したのである。
其の行動が、何を意味しているのか、其の時点では皆目解からなかったが、後に全国を旅して、其れが、天皇家の新嘗祭や大嘗祭で行われる儀式に繋がっており、物部家の「食国の政(おすくにのまつりごと)の官(つかさ)」に成る為の儀式である事が、判明して来たのである。
大嘗祭では、「悠紀殿・ゆきでん」と「主基殿・すきでん」の二つの建物が建てられ、天皇は其の建物を行ったり来たりするらしい。
其の、悠紀殿と主基殿の建物の代りが、私の自宅と、師の自宅の建物であったのだろう。
そして、先祖の「御祖神・みおやかみ」を呼び出す事に成功して、直合に必要な「飯・いい(握り飯)」を要求したのである。
其の日は、其れから、師と家族を自宅に送って、私は、師の自宅の庭の岩の上に暫らく静かに座って居た。
すると、身体がまた勝手に動き出して、今度は、屋久島の山岳に向かい両手を広げて、力一杯 口笛を吹き出したのである。
其の口笛が、屋久島の山岳に届いて染み込んだ頃、今度は、庭に有ったバケツを、上下逆さまに地面に置いて、バケツの底を太鼓代りにして、二本の草刈鎌の柄で、山に向かって打ち始めたのである。
そして夕方に成って、師が風呂に入った後、私も風呂に入っていると、身体を洗って流した水が、排水管の方に流れる時に、流しの蓋の間で共鳴して「ヒュル ヒュル」と音を立てた。
私は、其の音を聞いたら、今度は、脱衣所の板場の上に、裸で上向きに成って、上向きのまま両手で小太鼓、両足で大太鼓のリズムを打ち出したのである。
其の間も、師は奥さんを説得して、私の行動が止まるのを待って居た。
若し、無庵師匠の存在がなければ、私は間違いなく、精神病にされてしまうだろうし、師の存在がなければ、私も安心して、其の様な行動は起さなかったであろう。
其の日は、何とか夜までに落ち着いて、師の家で夕食を頂いてから、自宅に帰った。
しかし、次ぎの日からは、私の意識はドンドン変化して行った。
私は、其の夜、自宅では眠れなかったので、次の日から、母親の住んでいる実家に行き、仏壇の有る部屋に布団を敷いて、枕元に父親の位牌を置き、蝋燭と線香を立てて、夜間眠らない様にしたのである。
何故なら、父親が霊界から連れ還って来た澤山の霊に、憑依されるのが嫌だったからである。
しかし、最初の晩はどうか成っても、次の夜からは、ウトウトして居ると、首の後ろ側に有る「盆の窪」から霊が入り込んで、段々と自分の体を、自分の意志では、コントロール出来なく成ったのである。
そして昼間に、風呂場の洗濯機に、山水を流し込みながら洗濯機を回して、其の水を、頭から被り始めたのである。
其の時は、地面にアースしなければ成らない電気コードを、足元に置いて洗濯機を回していたので、足元には電流が通じてビリビリしていた。
其れに、水は掻き回すと、水の分子に摩擦が発生するので、エネルギーが発生するらしい。
其れは、滝の水に打たれて行をするのに似た、効果が有る様である。
そして、身体にエネルギーが蓄えられたら、庭に飛び出して、音楽のトー音記号の様な円を描きながら、リズムを持って飛び跳ねて回り始めたのである。
其の様子を、家族が師に知らせたので、師は家族で見に来たが、私と話すと、私自身の意識は冷静さを保っているので、私を其のままにして、帰って行った。
そして、其れから私は、身体がダンスに慣れて来たら、町のクラブに出掛け、フィリピン国から来ているダンサーに合わせて、踊り始めたのである。
そして、ある日、山に登ると「喜多郎の音楽を聞け」と告げられたので、屋久島に一軒しかない宮之浦のレコード店に行って「喜多郎と言う人の レコードが有りますか」と訊ねると、店の女性が「カセット」が一本有ると云うので、直ぐに其れを買って、空港近くに有った牧場に行き、其の草原の真ん中に車(三菱パジェロ)を止めて、ドアを皆開放し、其の喜多郎の音楽のボリュームを上げて流した。
すると、其のシンセサイザーの音に合わせて、私の脳は、脳幹まで反応を起して、脳内が回転し始めたのである。
其の夜は満月で、誰も居ない其の草原は、ダンスの最高の舞台と成ったのである。
其の夜から、益々、私の音楽的感応は開いて行ったのである。
これ等の私の行程を考えると、私の意識の解放には、最初から、音楽を司る精霊・神霊が関わっていた事が、理解されて来る。
其れは、屋久島の山岳の神々が、確かに、音楽に関わりが有ると言う事になる。
屋久島には、神々の「通り道」が幾つも有り、今回、村造りが始まる小島地区の土地は、鈴川の右岸で、昔し其の斜面を、白い服を着て提灯を手にした精霊が、何十人も山に向かって歩いて行くのを見た人が、居ると聞いた事がある。
其れに、原地区の宮方の釣り場も、太鼓や鈴の音が聞こえる所であり、私は其処で瞑想をしていて、ロシアのバレリーナの「アンナ・パヴロワ」が現れた事が有る。
原の鯛の川から、モッチョモ岳を経由して耳岳を通って、奥岳に通う神様も存在する。
また、栗生の太鼓岳に関係が有る神様は、「ピーコドンドン」と呼ばれていて、音楽に関係が有る神様である。
ピーは笛の音であり、ドンドンは太鼓の音である。
其れを、漢字で表記すれば、「笛鼓・ピーコドンドン」と成る。
其の様に考えると、私が1984年6月4日に師の自宅の庭で執った、山に向かって口笛を鳴らし、太鼓・バケツを叩いた行動は、其のピーコドンドンの神様に、音楽奉納をした事に成るのではないだろうか。
屋久島は、1400万年前に浮上して来た、全島花崗岩の島で、中心の最高峰の宮之浦岳は1936mの高さが有り、普通の岩石より2・7%比重の軽い花崗岩の島は、現在も年間1mm、千年で1m上昇しつつある。
屋久島は、石英の花崗岩の島だから、水晶と同じ六角形の形で、コップに入れた氷と同じく、2.7%地表に浮いているだけで、海中に立っている石英の柱なのである。
其の花崗岩の山頂を舞台として、音楽を演じている神は、地球にどれだけの影響を与える事が、出来るのであろうか。
私は、2004年に仲間達と、第一回・屋久島「ピーコドンドン・2004」の祭りを行い、私が其のナレーションの文章も作成した。
「屋久島は 古代から 神の住む島として 称されてきた 修行の地です。
島の神さまには、音楽の神さまも在ります。
その神様は「ピーコドンドン」と言う呼び名で、耳岳と太鼓岳を通り路として、村々の生活を守護しているのです。
音楽の神さまは、大量の雨を島に呼び寄せ、島はその水の力で、何時も浄化されています。」
其の ピーコドンドンの神を 再び揺り動かす時節が 巡って来たのかも知れない。
平成20年10月23日
礒邉自適
2005/4/24
屋久島に帰って今日で丸3年
17・4・24
昨夜は、屋久島の安房中学校の同窓生の集いが、6時半より行われた。
場所は、船行に新しく出来た友人の店で、店内には本人の撮った写真が展示されていた。
島内には、現在24名が生活しているが、同窓生の名簿を見ると79名の名が有り、死亡が確認されている者が4名で、消息が判らない者が数名いる。
昨夜は、其の中の10名が集まった。
9名は島に住んでいる者で、1名は、島に新しい家を作り、数年先には、島に帰って暮らす計画だとの事。
その、大阪から島に帰って来る女性の店を兼ねた家で、当人の話を聞くと、子供も独り立ちをし、孫も居て、10数年前より始めた写真の世界を趣味にして、生活をしているとの事。
有名な写真家に習っているとの事で、写真はプロ級の出来映えである。
私達は、中学を卒業して40年余りに成る。
其々が、当時気付かなかった能力に、目覚めてもいる。
私は、農業の後継ぎに成る事を決めていたので、学校の授業時間以外には、殆ど机に向かった事は無かった。
それが、今は毎日の様に、机に向かって文字を書いている。
「夢にも 想った事が無い」とは、この事であろう。
10名が賑やかに話している中で、私は島に帰って、今日で丁度、丸3年に成る事に気が付いた。
私は、平成14年4月24日に、8年振りに島に帰って来た。其れは、平成6年の7月に、島に帰って以来であった。
当時は、熊本県阿蘇の日の宮幣立神宮の近くに、新しい家族と暮らして居たので、よもや、屋久島に再び帰って、生活するとは想ってもいなかったのである。
それが、何故か、島に帰り生活する様に成り、三年経過した今は事務所も出来、私の支えと成って下さる方々も、増えて来た。
屋久島には、私が協力した「新しい高等学校」も開校して、新たな世界が動き出している。
私にも、未だ会ってはいないが、島に初孫も出来た。
其々が歳を重ねて、自分の人生を切り開いて来ている。
昨夜の集いの目的の一つが、来年に迫った還暦の行事を、どうするかを話し合う事であった。
私も、還暦を迎える年代に至っていたのである。
自分自身は、未だ若いつもりで、還暦だとの意識は無いのだが、同級生だった友人達の姿を見れば、確かに、その年齢に達している事は明白である。
思い出を探ると、青春は未だ、数日前であった様な気持ちでいるのに、何時の間にか40年もの月日が経過してしまっていたのだ。
思えば、もう身体の方は昔の様な敏捷さも無いし、冬の寒さ、夏の暑さを楽しもうとの気力も無い。
しかし、何か若い時とは違った、充実感と、安心感が、自分を包んでいる。
若い時は、年取って老人に成る事は、悪い事の様な気分も有った様に想う。
しかし、還暦を迎える年代に成って、ようやく自分も年をとって、いずれ天に帰って行くのだとの、安らぎが生まれて来ている。
様々な事が、有った人生だが、もう何もせずとも、天界に無事に帰れる日が近付いて来ているのだ。
私の人生は、他の人達が見れば、随分と不安定な生き方だと思うだろう。
しかし、当の私に取って考えれば、自分の予想以上の事が起きて、その時その時には、大変だと意う事も多々有ったが、今になって考えれば、大変刺激的で、楽しめた人生だったと、思える様に成って来た。
私が、数年間関わりを持った、モラロジーの「廣池千九郎先生」の教えには「40・50は洟垂れ小僧、60歳に成ったら 少しは世の中の役に立つ事が出来るかも知れない。」と有る。
40歳や50歳では、未だ自分の事に精一杯で、世の中の役には立っていないとの理である。
事業や、商売で大成功していても、それは、物の氾濫や、地球の環境悪化に手を貸しているだけで、長期的に考えれば、地球の資源を無駄にして、人心を混乱させているだけに、過ぎないのである。
60歳代に成れば、自分の性的欲望や、食欲等も一応の沈静化を見る。
そうなれば、精神的立場が静かな処に在るので、地球の未来や、人類の在り方が正当に視えて来る。
その様な立場や、気持ちに成った時に、始めて、正しい指針が示せる様に成るのだろう。
その理を、廣池千九郎先生は説いたのでは無いだろうか。
そうであれば、ようやく私も、正しい立場で、物事の思索が出来るのかも知れない。
還暦で、真っ赤な上着を着るのは、衰え始めた心身を、赤い色を見る事で、視神経を通して脳に刺激を与え、ホルモンの分泌を促し、もう一度、若返らせ様とするものである。
旧時代なら、60歳でその行事を行っても、合っていたのかも知れないが、80歳を平均寿命とする様に成って来ている現在では、少し早すぎる様にも想える。
ようやく60歳に成って、カルマ・業が消え始め、静かな時を迎え様としているのに、赤い色を見せて、刺激する必要も無いのではないだろうか。
しかし、私も島の人間として、全国に散って暮らしている同窓生を迎える事に、協力せねばと考えている。
75名の人数が、何名集まれるのかは、未だ判らない。
時代は移り変り、人間の生活や心情は変化して来ている。
其の変化して行く事象から、人間は、何を感じ取れば良いのか、それが還暦を迎え様としている、私の課題なのかも知れない。
赤い色は見ずとも、私の内には、未だ赤い灯火が燃え残っている。
肉体が年老いるとは、有難い現象である。
何事にも行動的で、社会に迷惑をかけ、全て許されて来た過去の人生、漸く逆の立場として、私も、人々のカルマ・業を鎮魂出来る技が、身に付いて来ているのではないだろうか。
私は、もう屋久島の峰々を駆け、谷川を飛び越える体力は無い。
しかし、峰の花崗岩の上に静かに座し、平和を祈念する事は出来る。
赤き色の物に、心躍らせる年頃から、白き衣に身を包み、樹下石上が嬉しい年代と成って来ている。
年を重ねると言う事は、この様な理なのだろう。
屋久島の魅力は、深い森に、年老いた樹木が白い梢を晒し、幾千年の時の流れを現しているからである。
現代社会は、縁側で日向ぼっこをしながら「昔し昔し あるところに・・・」と、時と場所を超えた、世界の話をする年寄りが存在しない。
その為に、人間社会に、深みや遠近感が無くなったのである。
私達は、二年後に始まる、問題の団塊の世代である。
私達の年代が、一番多く社会に存在する。
その年代の人々が、未だ未だ、赤い色を見ながら、煩悩の火を燃やし続けるのか、それとも、静かな森の大樹の様に、社会に深みを与えて行けるのか、これからの課題と言えよう。
今日から、新しい島の生活が四年目と成る。
私も、この屋久島に産まれた事を喜びとしながら、自分の年輪を、確かめて行きたいと意う。
平成17年4月24日
礒邉自適
2005/1/28
57歳最後の日
17・1・28
「岳に雪 里には赤い 櫨紅葉」
昨年の台風の影響で、一斉に芽吹いた黄櫨・はぜの若葉が、ようやく寒波を受けて真っ赤に色づいて来た。
今年ほど、鮮明な赤い櫨の紅葉を見た記憶が無い。
それは、若い元気な葉が、寒に触れて反応したからだろう。
それとも、私の気持ちが、自然の色合いを、楽しむ余裕を持って来たから、そう感じるのだろうか。
私は、明日で満58歳と成る。
昔は数え歳だから、還暦を迎える年齢ではないだろうか。
自分の、58年間の人生を振り返って見ると、多くの変化を求めながら、生き続けて来たものだと思う。
両親が、屋久島の安房川の岸辺に、艀・はしけから降り立ったのは、昭和21年8月3日(旧暦7月7日)なので、其れから58年6ヶ月が経過している。
母親は、長男である私を頭に、5人の子供をもうけて、現在4名が健在で、計16名の孫が出来ている。
父親は、一人の子供の結婚も見ぬまま、49歳の若さで、この世を去ってしまった。それから、40年が経ってしまっている。
当時17歳だった私は、父親から、是と謂った訓えを受けないまま、父の跡を継いで、此処迄生きて来た。
私の生き方を、いま振り返って見ると、不思議な程、父の生き方を真似ている様に想える。
否、父以上に、父らしい生き方を貫いて、生きて居るのかも知れない。
私の父親は、家族の食物が無くなりそうでも、他の人々に分け与えていた。
しかし、それでも家族を養う為に、最低の安全は確保していたと思う。
しかし、此の私は、自分の家族までも犠牲にして、20年間を過ごして来た。それは、そうしなければ、家族の未来も、人類の未来も無い事を、神に知らされたからである。
37歳から、この身一つで未来社会の創造の為に働いて来た。
その成果が、どれ程のものであったかは、私自身が知っているだけで、誰一人其の全容を理解する者はいない。
部分的には、私と係りを持った人々は、その時点、その時点で、感じ取る事が出来たかも知れないが、20年間の動きの全体像は、見えていないだろう。
神々が、私に、何をさせようとして来たのか。
是迄の20年間の歩みの中から、私自身が、感じ取らなければならないのだ。
私は、屋久島に帰って4月24日で丸三年と成る。
其の頃には、今回私が関った、新しい通信教育の高等学校も、開校の運びと成るだろう。
そして、20年前の遣り残して居た事柄も解決して、新たな、私の人生が始まるのではないだろうか。
此れから始まる出来事が、プログラム的に私から始まる事なのか、父親「礒邉勲」の人生から始まっていた事なのかは、定かではないが、何か、目に視えない一本の糸の様なものが繋がっていて、全ての物事を、運んでいる様な感じがする。
それを、神の働きと呼ぶのであれば、確かに、神の働きは存在しているのだ。
全国を旅していて、私が出会った長老の方々は、何人も、私が現れる事を知っていて、喜んでくれた。
私の事を理解出来る人達は、相当な見識が有る人格者であった。その人達の多くは、現在この世にいない。
しかし、私の感じでは、その長老達の考えや意念と、同じ方向を持った人達が、増えて来ている。
其れは、全体的な想念の世界が、レベルアップして来ているからではないだろうか。
20年前に、私を理解して下さった長老達と、同じレベルの人達が、増えてくれば、自ずと、私の意見も、拡がり始めるのかもしれない。
幸い、数名の人が、正月から自適塾開講の準備を始めて下さっている。
其れ等の準備が出来上がれば、一気に、神の計画が動き出すのではないだろうか。
私は、唯 神の存在の証明だけを、頭に置いて居れば、よいのだろう。
深い緑の中の、赤い櫨を還暦の衣として。
平成17年1月28日
礒邉自適
2004/8/25
水の島
16・8・25
屋久島は、水の島と呼んで良い。
有名に成った縄文杉も、豊富な島に降る雨に育てられて、大きく成ったのだ。世界には、屋久島よりも、雨が多い島が有るそうだが、それでも屋久島は、雨の島・水の島と言って良いだろう。
私も、その雨の島に生まれ育って、57歳に成った。
この年齢に成って、自分の人生を振り返って見る時、やはり一番気に成るのが、島の雨と水の世界である。
子供の頃、台風が近付き、強い横殴りの大粒の雨が降り始めると、素っ裸に成って屋外に飛び出して、素肌に突き当たる雨の刺激を、楽しんだりしていた。
夏に成れば、近くの川に行き、泳いだり、ウナギの罠を掛けたりして、遊んでいた。
だから、雨や水が、私の生活の一番身近に有った事になる。
私の人生を、急変させたのも、屋久島の水である。
私は、1984年6月4日(旧暦5月5日)に、無庵師匠に見守られながら、安房川の岸で禊ぎ祓いの儀式を行なった。
そして、私はイエスキリストの様に4311体もの聖霊に、満たされたのである。それは、38歳の初夏の出来事であった。
私の人生は、其れから、全く違ったものに成ってしまったのである。
私にとって「禊ぎ祓い」の言葉が、実体験と成ったのである。
日本の神社には、鳥居の所に「御手水」と呼ぶ、水が用意されており、其の水で、口や手を清め、其れから鳥居を潜り、神のお社の方に向かう。
神霊と会う前に、清い水で、心身を禊がなければならない様に、決められているのである。
其れは、日本の神道の始まりである「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が、小戸のあわぎ原で禊ぎ祓いをして、「天照大神」「月読命」「須佐之男」の三神を生み出した神話に、因んでいるのだろう。
世界の宗教に目を向けると、キリスト教の教祖であるナザレの「イエス」も、ヨルダン川で「ヨハネ」と言う人に、禊ぎの儀式を受けて、聖霊に満たされて神の道に入っており、佛教の教祖であるインドの「釈迦(ガウタマ・シッダールタ)」も、厳しい六年間の厳しい修行を止め、池で禊ぎをしてから、木に寄り掛かって休んだ時に、悟りを得ている。
其れ等の出来事を考えると、日本の神道も、キリスト教も、佛教も、皆、教祖が水浴びをして、禊ぎ祓いの儀式を行ってから、神の世界に通じる様に成っている事が、理解出来る。
水こそが、神の世界に通じる入口に関係があり、其れが、神の世界の神秘とされているのだ。
神道でも佛教でも、山中で滝に打たれたりするのは、その神秘に触れるのが、目的と成っているからである。
その意味からしても、滝の多い地形の屋久島は、最高の修行の場と言えるだろう。
屋久島の、聖者として伝えられている「泊如竹」を、五歳の時に見出して僧侶にしたのも、屋久島に修行に来ていた行者だったと云う話もある。
昔から、屋久島には修行を目的とする人達が来島し、島の清い水で禊ぎをしながら、修行を続けたのであろう。
私は、この屋久島に産まれ、水と戯れながら、成長して来た。
私の魂しいは、島の水と共に、在ると言えるのかも知れない。
平成16年8月25日
礒邉自適
2004/6/22
丸い屋久島
16・6・22
日本の禅宗のお坊さんが、よく丸い円を筆で描くし、日本の通貨の単位の円は、嘗って360円で、分度器の360度と同じ数字に制定されていた様に、日本人は丸い形が好きである。
国旗の日の丸もそうであるように、太陽の形が好きで、満月には月見もする。正月の鏡餅や神社の鏡も丸で、日本の文化から、丸い形を取り除くことは出来ない。
私は、屋久島で生まれ育ったので、故郷の島も丸い形である。
私は、若い時から屋久島中を回って、貝取りや、魚釣りや、海に潜って魚や伊勢エビ等を獲って居たので、丸い屋久島の地図や、地形が、頭の中に納まっている。
島中の経済や、政治と人間の生活も、全て丸い島の自然情景の中に、納まっているのである。
私達の住む地球も、月も、太陽もみな丸いし、太陽系も円軌道で営まれている。
丸い円の形は、出た所も引っ込んだ所も無い。
だから、丸をイメージしていれば、縦横とか、左右とか、上下の意識も生まれないし、何等かの差別も権利関係も生まれない。
「全てが 円満に」との言葉は、其の様なイメージから、生まれたのだろう。
現在の世界情勢を観れば、丸い形を念じる人達が、人の上に立っていないことが窺える。
円の思想が無ければ、仏教のマンダラの図や、天皇家が使用している、シュメール文化の菊花紋も、誕生していなかったであろう。
其の点からしても、丸い形は、人類に、平和と安定を齎していると言える。
現在の、縦割り形の社会体制は、ピラミッド形である。
ピラミッド形の体制やシステムは、調和を生み出すことは出来難いのだ。
世界が不調和になっているのは、円と中心の機能を、失ったからではないだろうか。
上下の管理体制では、永久に真実の平和は生まれない。
円の形はクルクル回るので、誰でも上にも成るし、下にも成る。
円の持つ関係性が、自由と平等の価値観を創出できる、唯一の方法ではないだろうか。
其の為には、中心に位置する人物の働きが、無であり空であって、しかも重力を有していなければならない。
中心に在るべき物が、何処かの一部へ、引き寄せられてはならないのだ。
其の働きの、具体的な姿が「ブッタ」であり、「スメラの命」であり、「ラーの王」である。
其れ等中心の、本来の働きは無であり・空であるので、世襲制の様な柵・しがらみは、発生しないのが本当の姿であろう。
中心の働きが、世襲制として決定していれば、怠慢に成るので、力が存続せず、円の中心のエネルギーが失われ、調和を保つことが出来ず、単なる権力の坐としてしか、機能しなくなるのだ。
人間の、権力が中心と成れば、宇宙の働きの力は注がれないし、調和も無くなり、エネルギーも発生しない。
其処に有るのは、人間界のしがらみ・業だけである。
丸い形の屋久島の中心には、宮殿も無いし、神社や寺も工場も無い。
有るのは、「石楠花・しゃくなげ」や「屋久笹」に覆われた、花崗岩の山頂だけである。
其の、島の中心の山頂に立てば、自分が中心であり、意識的に一番高い所に位置している。
しかし、其処には、政治や経済も、宗教や哲学・イデオロギー等、何も無いので、自分は全くの ○ の人間である。
一番中心の、高い所に立つが、何も無い空の状態である。
その状態こそが、本来の人間が、何者であるかを知る、最上の方法ではないだろうか。
自分は、何者でもなく、神に生かされている理・ことを実感出来る、唯一の場として、昔から、屋久島の奥岳は神の坐とされて来たのだ。
昔の人々が、山頂を、神の場として拝して来た理由が、理解出来ると言うものだ。
私も、この丸い島に生まれ育つたからこそ、現在の自分の意識があるのだと思う。
上も下も無く、右も左も無い思考の舞台は、丸い形の屋久島で育ったからこそ、生じたものであろう。
雲に包まれ、稀にしか姿を現さない島の奥岳こそ、永遠の思考の対象と言えるだろう。
360度、全体を見渡す事が出来る、屋久島の御岳の場こそ、円を自覚出来る場所と言える。
東から、丸い太陽が昇って天空を巡り、反対側の西の海に沈んで行き、東の海には、満月が昇って来る。
其れを、眺める静かな山頂こそ、穢れ無き、唯一の社(やしろ)と言えるだろう。
夜明けの太陽の光りが、一番先に御岳に当たる。
其の朝の光りの中に、竹の葉を食む屋久鹿の姿が有る。
全てが、調和している世界を、感じる事が出来る、屋久島に産まれ育った私こそ、果報者と呼べる唯一の者ではないだろうか。
平成16年6月22日
礒邉自適
2003/9/15
帰島感想 何かが変しい
15・9・15
先日、白谷雲水峡に五名の客人を案内し、屋久杉の切株に腰を下ろし静かに休んでいると、島外から屋久島に来て、ガイド業をしている人が、私を咎めて「切り株の中に 入ってはいけない」と云う。
私は、切り株の中に入っている分けでもないし、苔を痛めている分けでもないので、そのまま静かに座り続けていた。
すると、その人はザックを下ろし、ザック中から腕章を取り出して、「私は こんなものも持っている 監視員だ」と云う。
白谷雲水峡の中には、切り株の中に入れる杉は何本もあり、中には、わざわざ「潜り杉」と言って、杉の切り株の中を、潜る様に歩道も出来ている。
それなのに、静かに歩道の横の切り株に、腰を掛けているだけで、注意を受けるとは、どう言う事だろうか。
私は屋久島に産れ、屋久島で育った。
木に登り、川で泳ぎ、海で魚や貝を捕って、自由に生きて居たのである。
其れが、切り株に腰を下ろしているだけで、余所者に注意を受けるとは、屋久島は、どんな事に成ってしまったのだろうか。
私は、雲水峡に出掛けるのは、友人達が来島した時だけなので、年に数回である。
島外から来て、ガイドを業としている人達の、自然に対する害よりは、はるかに少ない影響しか与えていないと意われる。
私は、気分が悪く成ったが、文句を言うのも大人気ないと意い、その場は黙って遣り過ごした。
其れから5日後、今度は屋久杉の工芸店に、屋久杉の箸を作る客を案内した。私は「予約をしている客人を 案内して来ました」と、受け付けの女性に告げると、「どうぞ」と言うので、店の中に五名で立っていた。
すると、女性が「中に入ってくれ」と云うので、箸を作る工房の中に入った。中に入ると、余分な椅子が無いので、工房の柵に尻を乗せていると、行き成り文句を云われてしまった。
私は、気分が悪くなったので、箸が出来上がったら連絡をする様に伝えて、外に出ようとすると、その箸作りの若い男性は、入口まで追い掛けて来て、「四人の予約なのに 何で 中に入って来るか」「座る所でもないのに 何で座るか」と、厳しい顔をして食って掛かって来る。
私は、「何を言っているの。受け付けの女性が 中に入れと言うから 入っただけで、座る椅子が無いから 柵の縁に腰を乗せていただけだ。
あんた 商売人らしくないね。」と云って、外に出た。
椅子が無いのに、中に入れと言う女性も女性だが、客を案内した人間に、文句を言う男性も男性である。
若い人達の、思い遣りの無さには呆れてしまう。
島内生れの人達には、そんな物言いは無いだろう。
例え、気は利かなくても、客に向って、そんな物言いはしない筈である。
私の友人で、農業を行っている人が、自分のポンカン園の近くに、島外の人間が別荘を建てて住んで居て、ポンカンの木の剪定した枝を燃やしていると、ジョギングをしながら「煙たい」と文句を言い、防風林をチェーンソーで切っていると、「煩い うるさい」と、何度も大声でドナルと言う。
其れも作業をしているのが、友人の父親で、80歳近い老人に対してである。島の樹園地の中に、後から遣って来て、別荘を建て、地元の人の作業に文句を言うとは、どう言う神経をしているのだろうか。
都会から、屋久島の自然に憧れて引っ越して来るのは、一向にかまわないと想うが、何百年も島に暮らしている人達に、後から入って来た人達が、我儘を言うのは、どうかと想う。
東京に行った時、本当の江戸っ子の人達は、「田舎の人達が 東京に出て来て 我がまま放題だ」と、気分を悪くしている事を聞いた。
田舎から、東京に出た人達の子供達が、今度は、屋久島に入って来て、我がまま放題を遣っている。
其れ等の事を見ていると、中国や朝鮮の人達が、日本人にどのような感情を持ったか、アメリカ大陸の原住民や、オーストラリアとニュージーランドの原住民達が、西洋人に対して、どの様な感情を抱いたかが、よく理解出来る様な気がする。
屋久島の人達に、余所者に対する不満が、段々と蓄積して来ている。
余所者は、島に親戚も居ないので、遣りたい放題に遣れるし、失敗したら島を出て行けば良い。
処が、島に住んでいる人達は、屋久島以外に住む事は出来ないし、親戚への配慮もしなければならないので、無謀な事は出来ないのだ。
島の人口が増える事は、悪い事ではないが、島外の人達が島に入り込み、仕事を取る事で、島の子供達は仕事が無く、益々、島外に職を求めて出て行ってしまう。
その悪循環で、島の人間性が失われつつある様だ。
後10年か20年経てば、島の人間性は、どうなるのであろうか。
栗生や永田など、屋久島の外れの方は、ジイさんやバアさんだけが、村の中を歩いている。
其れ等の人々が、島から消えた時、島の魂が、消え去ってしまいそうな気がする。
昔の、島の静けさが、恋しく成って来ている自分が在る。
余所者と書くと、島の人間の我儘の様だが、島外者と書くと、旅行客まで入ってしまうので、余所者と書いた。
勿論、変な人達は、島外移住者の一部である事も解かっているし、島の人間の中にも、変な人達が居るのは知ってもいる。
私は、島に帰り一年が過ぎ、屋久島の人達が、島外者の数が増す事で、集落の運営が遣り難く成っている事も聞いている。
其れを、他人事の様に聞いていたが、此処数日の事件で、自分もやはり、島内の人間である事の実感が湧いて来た。
私達の小さい頃は、各集落は言葉のアクセントも違い、風習の違いも見られた。それらの集落の個性も、島外者の移入で、揉み消されようとしている。
地球全体も、グローバル化の波に晒され、民族の個性が失われようとしているが、屋久島も同じく、都会の波に洗われて、各集落の個性が失われつつある様だ。
島の人間が、急激に入れ替わってしまえば、島の文化も消えてしまうだろう。伝統文化が消えてしまえば、島の人達の魂しいも、変ったものと成ってしまう。
アイヌの人や、アメリカインディアンの様に、完全に追い遣られ隔離されれば、文化は残る事もある。
屋久島は、沖縄や奄美とは、違った流れを迎えている。
沖縄の様に、独特の強い文化を持ち得ない屋久島は、何かの対策を、採る必要があるのではないだろうか。
せめて、屋久島に昔から伝わる「岳参り」の精神でも取り戻して、島の「山の神」でも忘れない様にしなければ、此の儘屋久島の文化は、済し崩しになってしまうのではないだろうか。
平成15年9月15日
礒邉自適
2003/8/15
水の島
15・8・15
今年のお盆は、三日とも連続雨である。
昨夜も、雨音の中に眠っている所為か、夢には、滝の水が流れ落ちるのが映って来た。
私の意識が「そうか 屋久島は 水の島なのだ」と思うと、「違う 地球が 丸ごと 水の世界なのだ」と、別の意識が現れて来た。
考えてみれば、屋久島に雨が多いのは、屋久島が、水を生産しているのではなく、大きな地球の水の循環システムの中で、丁度、屋久島が雨の降り易い条件下に、あると言う事である。
中国の南の方で、蒸発した水分が、屋久島の方に移動して来るし、台風の通り道でもある。
南の湿った空気も、九州本土に届く前に、屋久島の二千メートル級の山岳に捕まってしまう。
屋久島に、雨が降らなくなる時は、地球上の何所にも、雨が降らない時ではないかと想ってしまう程だ。
そんな屋久島に、生れ育った私だから、雨が嫌いと言うのではなく、「今日も又雨か」と、一人で呟く程度で、雨が降るのは当たり前の事として、受け取って来た。
私は、屋久島で産まれて56年経っているが、私の生れた頃は、未だ、ビニール製の雨合羽やゴム製の雨合羽も無いので、二ヶ月程、農作業が出来ない年もあったと、父親に聞いた事がある。
当時は、未だゴム合羽でも、手に入り難かったのであろう。
私達が農作業をしていた頃も、未だゴム合羽であり、着ると重くて、破れ易かった記憶がある。
やがて、ビニールの合羽が出来て、何と、軽くて働き易いものかと感じたが、冬に成るとゴワゴワして、バリバリと破れるので、あまり長持ちはしない物だった。
雨が降り続いても、牛馬の餌である草刈りに、毎日出て行かなければ成らない。晴耕雨読の様な、呑気な気分には成れない生活だった。
雨が降る、降らないに関係なく、草刈りには行かなければ成らないので、晴れた日と、雨の日の、区別をする心にも、成れなかったのである。
晴れたら晴れたで、晴れた時の農作業が待っている。
現在の様に、ハウスの中の作業でも有れば良いが、当時は、その様な物も無いので、雨の日は、雨に濡れながら出来る作業を行って、天気に成るのを待って、晴れの日しか出来ない作業を行うのである。
当時の農作業は、天気と切り離す事が出来なかったのだ。
私にとって天気とは、自分と一体のものであり、天気の事を外して、自分の存在を考える分けには、行かなかったのである。
其の習慣が、現在でも身に沁み着いていて、自分の思考が、天気に左右されるのだろう。
お日様は、当(照)るもので、心に沁みるのは「水」だとの漢字は、その事を能く表していると想う。
私達が、農業をしている頃は、縁側で日向ぼっこをする余裕などは、皆無だったのである。
晴れた日に、しなければ成らない事は沢山あった。
上天気の日に休む事は、罪人の様な感覚さえ生まれていた。
其の私も、現在では、ようやく上天気の日に、何もしないで家に居る事が、疾・やましくなくなったが、数年程前までは、晴れた日に何もしないで家に居ると、罪の意識に襲われていた。
私が雨を好きなのは、雨が降れば、休んでいても罪の意識が無く、気分が楽に成れるからかも知れない。
屋久島でも雨が降らないで、「砂糖きび」や「さつま芋」等が、枯れかかったりする事も有った。農業は、雨が降らなければ一番困るのである。
野菜の種子は、蒔く時期が外れると、収穫に影響が有る。
種子を蒔いた後、雨が降らないとやきもきする。
長雨よりは、旱魃の方が怖かった事も、雨にやさしさを感じる、原因と成っているのだろう。
屋久島は、大量の雨が急激に降るが、地形が、其れに合せて出来ているので、災害は少ない。だから、雨に対する憎しみは少ないのだろう。
近年に成って、森林を皆伐して、土砂崩れが起き、災害を受けたりしているが、其れは、人間の自業自得であり、雨の所為ではないのである。
私は17歳の時、父親が亡くなって、農業を継ぐ事に成った。
そして、一年間、自分の責任で経営をして見ると、屋久島は雨が多いので、草を除去しても、しても、後からどんどん生えて来る。
持ち畑の、全部を取り終えない間に、もう最初に取った畑には、草が生えてしまっている。
私は、其れを見て、「嗚呼 私の人生は 草取り人生で 草に一生追われて 生きて行かなければならないのだ。」と、感じてしまった。
其れと、畑のPH(酸性度)を計る器具を借りて来て、PHを計り、度数に応じて石灰を撒いても、数日も経たない内に、大雨が降って、畑の土は、太平洋に赤茶色の帯となって、流れ出して行く。
私は、自分の行動と、投資したお金が一日にして、無駄に成るのを見てしまった。
其れ等の事から、草取りに追われない農業で、畑の土が流されない方法は無いものかと考え、草を生かす農業、土が流れない農業として、ポンカンと肉用牛の生産に切り替る事に決めて、20歳から資金を借りて経営の転換を図った。
其れは、技術的にも、内容的にも正解であったが、国の政策に疑問を持ち、25歳で農業から撤退する事にした。
多量に降る雨を、敵にするのではなく、味方にする方法を考えたのである。
今でも、その考え方は、間違ってはいなかったと思っている。
あの時、農業を止めていなければ、現在の様に水を好きに成り、水と戯れる私は無かったであろう。
農業をしている時は、水や雨の存在は、自分の対象側に有り、自分を水の内側に、持ち込む事は無かったであろう。
激しい雨音を聞けば、畑の農作物の事を、心配してしまう生活を続けていれば、現在の様に、雨音の中に、自分を浸し、心の中に、水が沁み込んで来るのを、楽しむ余裕は無いだろう。
自分の外側を流れる水は観察出来ても、自分の内側を流れている水や、他の動物や、植物の内側を循環している水にまでは、意識は伸びて行かなかったであろう。
子供の頃は、台風が通過する時に、素裸で外に飛び出し、強い風に吹き飛ばされながら、ヨロケル身に、雨粒が激しく突き刺さって来るのを、面白がって楽しんでいた。
夏休みに、暑い日差しの中、砂糖きびや薩摩芋の草取りを、汗と泥塗れに成りながら遣って、冷たい川に飛び込んで、身体を洗い流す時の、気持の良さは今でも忘れない。
毛穴で感じて来た、水の気持ち良さは、脳裏に沁み込んで、離れない様である。
四季の雨の中で、夏の雨は、人間の源点を蘇らせる力が、有るのではないだろうか。
水の世界に、深く入れば入るほど、自然生物のいのちが身近に成って来る。
深い森と、清い水に接していれば、小鳥や動物だけではなく、人間だって優しく成れる。
森がなければ、砂漠や草原に住む民族の様に、他国を攻め、収奪をする様になり、水が有っても、海に生活すれば、海賊にでも成りかねない。
私は、喧嘩や暴力は苦手である。
私は、小学校の頃から、親から借りて自分の畑を持ち、草花を栽培して、店に売って、自分の小遣いを稼いでいた。
草花を育てるのは、水の管理が一番である。
家に飼っていた、馬や牛にも、水を飲ませなければならない。
生き物と、水の関係は、学校で習わない内に、理解していたのだろう。
水を与えて、相手を大事にする事。
其れが、私に、知らず知らずに身に着いた、ライフワークなのかも知れない。
「魚心有れば 水心」の諺もある。
自分が、魚の心に成れば、天は気持ちの良い水の世界を、与えてくださるのではないだろうか。
雨天のお盆中、水と人間の係りだけを、観じて過ごして来た。
インドのお釈迦さんが謂ったと云う「全てを 水に還す」とは、此の理だったのかも知れない。
今日は、終戦記念日である。
日本の軍部の人達が、水の心を忘れ去っていた事に、戦争の原因が有ったのではないだろうか。
お盆に、台風も来ないのに降り続ける雨は、これ迄の人間の罪を、洗い流す慈雨なのかもしれないと思えて来た。
緑り豊かな、水の島に生れ育った事に、日々感謝の気持ちが湧いて来る。
まるで 自分が、水から 誕生した 精であるかの様に。
平成15年8月15日
礒邉自適