2005/8/2
食べ物の変化
17・8・2
私は、パソコンに向かう様に成って、二ヶ月が経過した。
寝る以外は、慣れないパソコンの前に殆ど座って居る。
そして感じた事は、朝から、甘い物を欲しがる様に成って居る事だ。
私は、東京に暫く住んで居る時に、東京の人は、何故お茶時でもないのに、朝からコーヒーを飲み、菓子類を食べるのだろうと、不思議に想っていた。
しかし今は、自分が、其の様な生活に成り掛けている。
此れは、どうした事だろう。
私が想い当るのは、頭ばかりを使うので、脳が甘い物(炭水化物)を欲しがっているとの事だ。
よくテレビドラマで、夜中まで受験勉強をしている子供に、母親が甘いお八つを持って行って、食べさせる場面がある。
私は其れを見ていて、寝る前に、歯を磨かなければならないのに、どうして甘い物を子供に食べさせるのだろうと意っていた。
しかし、其れは、身体の要求に応えるモノ・現象だったのだ。
「炭水化物」は炭素・水素・酸素の産元素から成り、一般式CnHzmOmの形の分子式をもつ化合物。すなわち水素と酸素との割合が水の組成と同じ。植物では炭酸同化作用によって生産される。糖類・澱粉セルロースなど、動植物体の構成物質・エネルギー源として重要な物質が多い。含水炭素。
(広辞苑より)
私は、科学の事はよく解らないが、脳や身体が疲れた時、糖分が必要だとの事は聞いて知っている。
其れは、糖分が、水と同じ様な世界の物質なので、身体の中で早く分解して、エネルギーに換わるからだろう。
私達が、農作業をしていた時は、午後三時の休憩時間が、お八つの時間だった。其の時間帯が、一番疲れが出る頃である。
だから、昔から「お八つ(八つ時・午後3時・に食べることから)」と、呼ばれる様になっている。
私も、農作業をしていた頃は、其の習慣に合って居たのである。
其れが、今では、都会型の生活をして居る事になる。
夜中でも、目が醒めたら事務所に出て来て、パソコンに向かって居た。
其れは、神霊がとり憑いて居た所為もある。
6月6日より一大事の様に、物事が動いた。
それは、神界や霊界の事なので、一般の人には、全然解らない世界である。
私は、随分不摂生をしたので、髪の毛も随分抜けた。
垂仁天皇の時も、神霊が騒ぎ出し、天皇は夜も眠れなく成り、兄妹の「豊鋤入姫命・とよすきいりびめのみこと」に天照神を、「渟名城入姫命」に「本大国魂大神・やまとおおくにたまのおおかみ」を宮邸から外に持ち出させている。
その豊鋤入姫命から、「倭姫命・やまとひめ」に託された天照大神が、伊勢の磯部の村に辿り着いて、現在の伊勢神宮と成っている。
『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。
倭大国魂は「渟名城入姫命」に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。
ウィキペディア辞典 現在記載
そして、後から食べ物の神である外宮の「豊受神」が祀られる様に成っている。よくよく、天照と磯部・石部は縁が深い様である。
何故、「天照坐皇大御神・あまてらしますすめおおみかみ」と、石部(石工・石屋)が関係有るのかはさて置いて、本題に戻ろう。
人間は、糖尿病と言う病気にも成る。
糖分を無闇に取り過ぎる生活は、不自然な生活をして居る証でもある。
私もいい加減で、このパターンから抜け出さなければ成らない。
黒砂糖なら、多くのミネラルが含まれているが、白砂糖で出来た菓子やケーキには、ミネラル分は少なく炭水化物だけである。
私の食べて居る甘い物は、地元の蓬団子である。
蓬団子は、蓬の葉と、黒砂糖と、もち米の粉が材料で、サルトリイバラの葉で包み、蒸した物である。
私は子供の頃より、この団子が大好物であつた。
其れで、なんとかミネラル不足を防いでいるのだろう。
都会の人達の生活や、習慣が、理解出来たからと言って、私が、其の様にする事は無いだろう。
平成17年8月2日
礒邉自適
2005/5/14
私の行為
17・5・14
私が現在、一番時間を費やしている行為は、神からのメッセージを、書き留めて行く事である。
日記は、21年前から適当に記しているが、文章に書き始めたのは平成11年の暮れからで、インターネットで発信を始めたのは、13年の正月からの分である。
だから、11年と12年度分は、ファイルに保存した儘と成っている。
「塵も積もれば山と成る」の諺の通りで、随分と文章も溜まって来た。
ホームページに載せている分も、パソコンが重くなって来たので、ボツボツ13年度分も、外さなければ成らないかも知れない。
私は、文章と日記の他にも、人々との出会い等をアルバム化して来たので、アルバムも60冊近くに成っている。
それは、21年前、神の世界に入った時に、「写真に記録せよ」と神に告げられたからである。
写真は便利なもので、一枚の写真を見ると、場所、人の顔、話した事、其処に有る物等、多くの情報が瞬時に蘇って来る。
脳のシステムが、如何なっているのかは、私には能く分からないが、「一見は 百聞の如かず」で、映像の力は、脳に大きな影響を与えている。
私は、人々との出会いを、日記の代わりとして写真に撮り、アルバム化して来た。
そして、毎日の様に受けるメッセージも、忘れない間に文章化してしまい、書いた後は全く忘れている。
だから、私の脳は、何時も白紙の状態である。
私は、写真と文章を、上手く利用している事に成る。
それが、習慣と成っているので、毎日禊ぎ祓いをしているのと、同じ事に成るのではないだろうか。
キリスト-イエスも「今日の事を 精一杯為したら、全ての事を忘れて眠りなさい。明日為す事は 明日の朝 遣って来る。」と説いている。
私の行為は、毎日、自分の頭を空白にする事にある様だ。
毎日、脳を空白にする事で、新しき、神からのメッセージが届く様に成っているらしい。
私には、現在家族も無いので、妻や子供の心配をする必要も無いし、仕事も何もしていないので、気を使う事も無い。
だからこそ、頭を空白にしていられるのである。
私が、この様に生きて居られるのは、私を、支えてくださっている方々が在るからであり、又その様に状況を創り出している、神の働きが在るからなのだ。
その様な、立場と、背景が私に齎しているもの、其れが、神の意志を言葉に換え、文章化する事であろう。
私の行っている事に、どんな意味が有るのだろうか。
今の処、教団を造ったりして、宗教を起こす事ではない様である。
寧ろ、余計な宗教を無くす事が、目的の様である。
宗教は、人々の迷いを餌として、拡大して行く物である。
だから、宗教を無くすには、体制の餌と成っている迷い人を、少なくして行かなければならない。
その為には、情報を整理して、余計な概念を、消去して行かなければならないのだ。
人類が、言葉を使用する様に成って、文字や絵画を発明し、一日も休まず、多くの文化・文明を創り出して来た。
其れ等の創出物が、人間の思考のキャパシティーを、遥かに超えてしまったのである。
人類は、実際の生活に必要な情報の他に、思想・哲学・宗教等を創り出し、その情報に振り回され、消化不足を起こしてしまっているのである。
私が無庵師匠に捜し出され、先ず遣らされた事が、其れ等一切の情報を、頭から取り去る事であった。
全ての情報が、頭から消え去るまでが、一番大事な修行だったのである。
最初の数ヶ月は、無庵師匠が私の脳の情報を、全部吸い出す事から始まった。
自分の事だけに限り、話して行くと、ある時、話す事が何も無くなり、頭が真っ白に成ったのである。
それからは、自分の脳裏に浮かぶ事柄の原因を探り、答えを見つける事で、一切のカルマを解いて行ったのである。
自分の存在理由を、全て解いて行けば、最後に、宇宙誕生の時点まで記憶が返ってしまう。
宇宙誕生の瞬間まで、記憶が戻ってしまうと、この宇宙全体が、自分と同体である事に気付くのである。
それが「覚醒(さとり)」で、森羅万象の原因が、自分に有るのだと理解されるのである。
その立場に立てば、現在の人類が使用している言葉や物の、不要なものが、全部見えて来るのである。
その不要な物事を、整理するのが佛陀の仕事なのだ。
佛陀とは、過去の世界に生きた人達が創出した、概念の不要なものを解いて(ほどいて)行くのである。
その為には、理に合わない神話や伝説を取り去って、迷信を無くして行かなければならない。
昔の人達が、迷信から創り出した情報の世界が、今でも、霊界の意識の内に滞って、人々の意識に悪影響を与えている。
私達が、今の世を生きるには、霊界の情報までも、整理しなければならないのである。
私の行っている行為は、その一環なのであろう。
過去の、不必要な情報を整理して、空白が生まれてこそ、新しき未来の情報が組み込めるのである。
その新しき未来情報を、組み込む事が「神むすび」である。
「宗教」との単語は、明治時代に出来たもので、英語の「リリジョン・religion」の訳であり「神と再び結ばれる。」との意味から、来ているとの事である。
神と結ばれるには、禊ぎ祓いをして、脳裏を空にし、新しい情報を受け取らなければならないのである。
それが、日本の神むすびの世界である。
神と結ばれるには、先ず禊ぎ祓いをして、自分が佛(解脱者)に成らなければならないのだ。
私の書き続けている文章は、その切掛けと成るものである。
21年間掛かって、ようやく霊界の情報が解け、新しい神の意いが、この世に降り始めるのだろうか。
そうであれば、ようやくリリジョンの言葉が、皆に理解される時節が、巡って来たと言えるのだが、どうであろうか。
私の行為が、新しい段階に入れば、人々の知れる処と成るのかも知れない。
もう少しの、辛抱の様である。
平成17年5月14日
礒邉自適
2005/5/10
島での暮らし
17・5・10
昨日は、旧暦4月2日の大潮なので、朝から電話サービスの177番で天気の様子を聞いてみた。
すると、北西の風で波の高さは1m〜1.5mだとの事。
自適塾の事務所は、島の南東側に位置するので、北西の風だと風下になり、波高が1mだと、海は「べた凪」である。
事務所の有る高平地区の海岸には、私が毎年、トコロテンを作る天草が生えている所が有る。
屋久島に生えている天草は、本州の天草とは種類が異なる様で、生えている場所も、一番波の荒い所だ。
屋久島の天草は、波の穏やかな場所には、一本も生えていない。
生えている所は、四六時中波が走り抜ける通りで、屋久島の天草は海水に何時も揉まれていないと、生きられない様子である。
激しく波が打ち付けても、平気で生きている天草だから、人間の手で毟り採るのも大変である。
長さも、手の平と指で、ようやく捉える程度だから10p程の長さしかない。その天草を、干潮時の前後二時間程の間に、採らなければならないのである。
昨日は、干潮が13時48分だったので、11時には海に行き、其の天草を採り始めた。
約三時間の間に、磯の宝貝や、耳貝等を採りながら、天草も網袋で五袋採って終了した。
昨日は、今までに無い程、穏やかな海で、いつもは、波で何回かは流されるのに、昨日だけは、ゆっくり腰を降ろした侭で収穫する事出来た。
早速、事務所に帰って水洗いをしてからザルに拡げて、天日に晒す事にした。収穫したばかりの天草は、赤紫の色をしているが、天日に晒していると茶色に乾いて来て、そのまま外に干していると、屋久島の強い雨で叩かれて、白く晒されてくる。
二週間程外に広げて措いて、天草が白くなって来たら、乾いた時に、硬い台の上に天草を置いて、棒で叩いて、石づきの部分や、天草に付いている石灰分を砕いて取り除く。
そうして袋に入れて、使用するまで保存して措くのである。
一般的には、梅雨前の、大潮の時に海に行って天草を採って来て、梅雨の間に屋根の上や、竹ザルの上に広げて干して措く。
そうして梅雨が終って、乾いたら、臼で挽いて石着きを落し、お盆用のトコロテンとして使用するのである。
私達事務所のスタッフは、時間が有るので、昨年、収穫して貯蔵していた天草を、前日の夕方から水に漬けておき、5月5日の休日に、朝から庭のカマドに大きな鍋を乗せて、鍋一杯に水と天草を入れて、薪を燃して煮始めた。
鍋に、蓋をすると噴き溢れるので、蓋をせず水を加えながら、三時間程煮続けるのである。
そして、中の汁が黄色くなってトロミが出て来たら、その汁を掬って、布で漉して、他の容器に移して固まらすと、トコロテンの出来上がりである。
一回の天草で、三度程繰り返し煮出しが出来る。
私達は、午後まで掛かって、三度煮汁を採って、沢山のトコロテンが出来上がった。
事務局長の西川氏は、そのトコロテンを、夕方、車で友人や知人に配って廻った。
すると帰って来た時には、車の中には野菜や「柏餅(よもぎダンゴ)」に、「灰汁巻・あくまき(糯米を木灰の灰汁に一晩漬けておき 孟宗竹の皮に入れて包んで縛り、蒸籠で蒸した物・鹿児島特産)」。それに、鰹・かつお等が積まれており、トコロテンが、他の食料に換わって帰って来た。
私達は、それを見て「ヤッター 今後は この作戦で行こう」と、想わぬ収穫に喜んで、騒ぎながらの夕食と成った。
私の磯物採りや、イセエビや魚捕りも、皆の役に立っているが、今回のトコロテン配達作戦は、思いがけない反響となったので、今後も、本格的に実行しようとの事に成り、私の天草採りは、皆の応援を受ける事と成ったのである。
トコロテンは、大きな鍋で、長時間煮なければならないので、ガス等で煮るとコストの高いものと成る。
時間と燃料代が掛かるので、暇と、薪と、道具が無ければならない。
私達のメンバーには、其れ等の条件が皆揃っており、自適塾には、最適の遊びと成る。
その遊びが、昔の、島の暮らし向きの復活と成り、物々交換の風習が取り戻せれば、こんな楽しい事は無い。
今日も、昨日に続き、海は凪の様である。
今日も又、12時前より大手を振って、海に出掛けられそうである。
平成17年5月10日
礒邉自適
2005/5/3
新しいきまり
17・5・3
本日5月3日は憲法記念日で、私の息子「嵩靖」の誕生日でもある。
憲法に付いて、広辞苑で調べてみると、
@ 古くはケンボウ)おきて。基本となるきまり。国法。
A(Constitution)国家存立の基本的条件を定めた根本法、国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めた基礎法で、通常他の法律・命令を以って変更することを許さない国の最高法規とされる。と 載っている。
憲法とは、簡単に一言で言うなら、人間が決めた一番上のきまり、と言う事に成る。
しかし、それは所詮、人間が決めたきまりで、宇宙の法則とは関係が無い。
釈迦牟尼仏や、老子や、イエスキリストは、人間の決めた「きまり」を外れた処で、生きている。
人間が、自分達の決めた「きまり」を守っているからと言って、神が喜ぶわけでは無いのだ。
中国の老子は、「道を外れたら 神霊でも 力を発揮出来ない」と謂っている。道とは、宇宙の法則の事なのだ。
だからと言って、人間社会に「憲法」や「法律」が、無くても良いかと言うと、そうではない。
「きまり」の無い社会は、成り立って行かないであろう。
その大事な憲法記念日に、何のメッセージが有るかと想っていたら、二つの場面が映って来た。
一つは、29歳だと云う、優しそうで品の良さそうな男性が、私に相談が有ると云って現れた。
その男性は、独身で、母親と二人暮しであるとの事。
男性は家を継いだのだが、維持が大変で、結婚も出来ないとの事である。
私が、其の男性の家を見に行くと、何代も続いている家で、自宅は凄く大きな建物で、もう何10年も経っており、修理をしなければ成らないのだが、修理に何千万円も掛かりそうである。
広い屋敷には、大きさが神社程もある社が有り、その管理も、個人では無理の様である。
その男性は、家の管理が大変で、年取った母親の面倒も見なければ成らないので、結婚も出来ず、就職も出来ないらしい。
私は、どうしたら良いかと、相談を受けているのだが、答え様が無い処で、その場面は終った。
金を借りて、家や神社の修理をしても、金を返せる目途も立たないし、だからと言って、其の侭にしておいても、崩れてしまうだけである。
今日の霊夢で、理解出来る事は、人間は、必要以上の建物を建ててはいけないとの理であろう。
形ある物は、何れ、必ず壊れるのであるし、余計なものを残すと、後の者が管理に大変である。
もう一つの場面は、私がトラックの運転をしていて、町の中の通りを走っており、女性に道を訊ねる場面だった。
私は女性に、「京都へ行くには どう行ったら良いか」を訊いていた。
私の行く先は、都会に有るリサイクル店らしい。
私のトラックの荷台には、自分の冷蔵庫や、何枚かの額等が乗っていて、未だ空きが有るので、物を積み込めそうである。
私は屋久島に帰るのに、島に無い様な物を、リサイクル店で買って、車に積んで持ち帰る段取りをしている様であった。
今朝のメッセージは、必要以上の大きな建物は、資源的に考えても、維持管理を考えても無駄であるが、人間の生活に必要な物は、都会から田舎に、持ち帰っても良いとの事ではないだろうか。
田舎には、自然や資源は有るが、都会の様に、文化や技術が少ない。
都会の文化や文明は、地方に運んでも良いとの事であろう。
今朝のメッセージは、あまり、憲法や法律とは関係が無い様に想われる。
しかし、内容を能く考えると、憲法より、重要な意味が含まれている様に想える。
憲法には、必要以上に大きな建物を建築しては成らないとか、物品を大事にし、長期的に使用せよ、とかは決められていない。
しかし、現在の地球的状況を考えて見ると、其れ等の事が、一番重要な事の様に意える。
東京都庁の様に、大きな建物を建てても、空き部屋が沢山有る役所が、方々に有る。大きな施設を建てると、管理機器の維持も大変である。
また、生活に必要な物品も使い捨てが激しく、ゴミが大量に出て問題に成っている。
これ等の問題を考えると、憲法よりも重要な事がありそうだ。
地球や、人類の未来を考えると、大きな観点からの「きまり」が必要な段階に来ていると想われる。
私達は、今までとは違った角度から、人間社会の「きまり」を、創り出さなければならない時期に、来ているのではないだろうか。
自分の子孫の為にも、最低の義務は、果たして行かなければならないと想われる。
平成17年5月3日
礒邉自適
2005/5/3
新しき住い
17・5・3
私は、現在平内に住んでいる。
その家は、屋久島の「まつばんだ交通」の社長の持ち家で、朝日が昇る景色と、夕陽が沈む景色を眺められる、海岸の高台に有る。
私が、その家を始めて見たのは2003年1月3日である。
其の日、安房の自宅に居ると、まつばんだ交通社長「藤山幸彦氏」が遣って来て、話をしている間に、「平内に別荘を買ったので 見に行こう」と言うので、一緒に社長の車で見に行く事に成った。
そして、別荘に着いて部屋に入り、備えられていた台の上に有る蝋燭に火を灯し、線香を焚いて手を合わすと、いきなり「此処から佛が出る」と、言葉が告げられて来た。
私は、その事を、藤山氏に告げずに黙っていた。
其れは、私自身にも何の事か、その時点では判らなかったからである。
それが今年になって、2月27日に、久し振りに安房の自宅に帰っていると、藤山氏が遣って来て、話をしている間に「平内の家に住んでも良い」と言ってくださり、直ぐに車から鍵を持って来て渡してくれた。
そして、私は3月1日から、其の家を正式に借りる事に成ったのである。
私は、高平区の事務所近くの西川宅に、仕事上の都合で宿泊して居るので、週に一度ぐらいの割合で、洗濯等で自宅に帰る程度なので、殆ど、其の平内の家には帰っていない。
そんな中、4月14日に、何日か振りに自宅に帰り、自宅庭の花崗岩の上に祭られている神様の花瓶の水を替え、榊を挿して、拍手を打って手を合わせると、「準備が出来たら 始める」と、言葉が告げられて来た。
それは、屋久島での事が、少しずつは進んではいるが、全体的には未だ大きく展開されていないとの事であろう。
そして、今朝、その庭の神様に手を合わすと、「逞しくなったね」と言葉が来た。逞しく成ったね、とはどう言う意味であろうか。
最初に平内の家を訪ねてから、今日で、丁度2年と5ヶ月目である。
屋久島に帰って、丸3年が経過するが、私は3年間で、どれだけ変化したのであろうか。
18年振りに屋久島に帰って来て、する事も無いので、毎日静かに暮らしていた。
一年目が過ぎた7月14日に、名古屋の前田氏と出会って、高等学校設立の件に関わる事に成り、現実社会に取り組み始めた。
私は、知らず知らずに、現実的な事に染まって来たのだろう。
私は36歳まで、屋久島で社長業をしていたので、不動産の事から、人脈の事まで、学校設立に関する動きを始めるのには、時間は掛からなかった。
其れは、直ぐに、21年前の社長業の技が取り戻せたからである。
屋久島に帰った3年前の私と、21年前まで社長をしていた時分の私に比べても、現在・いまの私が、逞しく成っているとの事であろうか。
「逞」の漢字を漢語林で調べると、「之+呈」で、逞しいの音符の「呈・テイ」は、剥き出しの意味。自分の意志を剥き出しに物事を進める意味から、たくましくするの意味を表す。と 載っている。
私は、神のメッセージに従いながら、21年間生きて来た心算で居たので、自分の意志を剥き出しに、物事を進めているのだと解釈するのには、少し抵抗が有る。
ならばと意い、日本語での「たくまし・い」を広辞苑で調べると次の様に載っている。
@ 存分に満ち満ちている。豪勢である。
A 存分に力強く、ガッシリしている。
B 勢いや意志が力強くさかんである。
@の存分に満ち満ちている。Bの勢いや意志が強くさかんである。の意味を採ると、素直に頷ける処が有る。
「自分の内に 神の意志が存分に満ち満ちている。そのお陰で 勢いや意志が強くなり、さかんである。」と受け取れば、神に手を合わせる事と、一致して来るではないか。
「準備が出来て」(2005.4.14)、「佛が出る」「(2003.3.1)のであれば、」「私も逞しく」(2005.5.3)役割を果たせるのではないだろうか。
自適塾広報役のひびお氏は、4月29日より7と4の数字が夢に出始めて、昨日2日には、ハッキリ7月4日と月日として示されて来たと言う。
私の周囲に起きて来ている件は、丁度2年前の日記に、記した事と符号して来る。
2年前の2003年7月4日の日記には、私が神よりスピーカーを渡されたと書いてある。
佛・ブッダとは、真理を衆生に説く役割の者の名である。
私が、スピーカーを持たされると言う事は、私が、真理を人々に伝えるとの事であろうか。
2003年7月1日には、安房の区長さんに、私が「ファーザー(天帝)」であるとのメッセージが来ている。
私自身に、その様な意識は無くても、周囲の人達に、その様なメッセージが降りる事は、私一人の、妄想や思い込みではないだろう。
インドの釈迦牟尼仏が予言した様に、無明の世に真理を説く役割の者「マイトレイヤ・弥勒菩薩・有情の佛)」が降臨して、私の舌を借りるのであろうか。
いずれにしても、「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受け取った私だから、成行きに任せて行くしかないだろう。
17年5月3日
礒邉自適
2003/9/28
隠れ上手
15・9・28
今年は、春から、屋久島を取り囲む堆積層の海岸を、殆んど磯物捕りをしながら回った。
未だ点々と、足を踏み入れていない場所も残ってはいるが、大体の処は、屋久島全体が、頭の中に景色として納まったと想う。
屋久島が、どの様に形成されているかを調べたのは、地質学者の他は、私くらいのものかも知れない。
内陸部や、海の魚の研究は、ガイド業の人達が、仕事にプラスに成るので行われているが、島全体の地質を調べても、他の人には余り得には成らないだろう。
私は子供の頃から、海に遊びに行って、岩の姿形を見ながら「どうして こんな色や 形に成っているのか」と、疑問に想っていた。
其の疑問が、更に膨らむ事に成ったのは、20年前(36歳)に無庵師匠に捜し出され、37歳から神の修業に入った時である。
仕事を一切止め、家族は妻の実家に帰り、無庵師匠の下(もと)で、精進潔斎を進めて行ったら、私の意識は、石や岩に吸い込まれる様に、採り込まれて行ったのである。
岩に補足された意識は、屋久島で半年間修業をし、続いて、全国を一年程廻る事と成った。
モーゼ・イエス・マホメット等、世界の宗教の祖に成った人が、皆、岩山に導かれている。
日本でも、役の行者・空海・王仁三郎等、岩山で修業をしているし、それは現在でも修験道として伝わっている。
私が、神の修業に入って、岩や岩山に依り憑かれたのも、当然の事と言える様である。
過去の彼等は、修業が済むと、人間社会に対して、活動を始める事に成り、どうして自分が岩の世界に導かれる事に成ったかの、研究は行っていない。
私の行動は、彼等の疑問をも、解決する事にも繋がっているのかも知れない。
私が、今年の春から、屋久島の岩の様子を調べ始めて、解った事の副産物に、「イソモン・穴ご・耳外の一種」の生態が有る。
イソモンは、磯物捕りの一番の目的相手の貝なので、磯物捕りと言えばイソモンが主体であり、序(つい)でに捕れるウマンコ(宝貝)、ニシンコ(螺貝)類を沢山捕っても、それらは外道なので、自慢には成らない。
イソモンは、アワビやトコブシと同じ耳貝科で、人間の耳の形に似ているので耳貝と呼ばれる一種である。
イソモンはニシンコ・ウマンコと同様の呼び名はアナンコである。
耳貝は、平貝で殻が片側しかないので、岩に張り付いていないと、天敵から身を護れない。
石鯛や瘤鯛・蛸等から身を守る為に、しっかりと岩にへばり着いていなければ成らないのである。
其の為に、岩の割れ目の隙間や、穴の中に身を隠している。
潮が満ちて来て、海水が上昇している時に、穴から這い出て、岩苔を食べて生きている。
人間がイソモン捕りをするのは、大潮で海水面が下がって、岩場が干し上がっている時である。
イソモン捕りが出来る時間は、干潮の二時間前から、潮が満ち始めて一時間ぐいの、計三時間ぐらいの間である。
満ち潮に成ると、海水が岩場に打ち寄せて来るので、潮が満ち始めると、長くはやっていられない。
イソモンが居る場所は、堆積岩の堆積層の隙間や、海胆(ウニ)が刺を使って自分で空けた住家の、空家を借りたりしている。
場所によると、珊瑚礁の隆起した部分の、隙間や穴にも住んでいる。
私が、イソモン捕りを続けていて気付いた事は、「隠れ上手」のイソモンが生き残り、子孫を増やして来ているとの理・ことである。
岩の平らな所に着いて居たのでは、潮が満ちて来れば、直ぐに堅い歯を持つ「石鯛」等に食われてしまう。
そして、見つかり易い場所の穴に住んでいるのは、人間に見付かって食われてしまう。
だから、現在生き残っているイソモンは、隠れ上手な遺伝子を、受け継いでいる仲間と言う事が出来る。
イソモン捕りは、素人と玄人の差がハッキリしている。
上手な人が、何kgも採るっているのに、下手な人は、数個しか採っていない。
イソモンが、どんな場所に、どの様に隠れているかの情報が無ければ、見付け出す事が出来ないのだ。
その様な情報は、数回、他人の話を聞くとか、本を読んだからでは、とても得られるものではない。
何十回も現場に行き、実際に隠れているイソモンを発見して、情報を積み上げてこそ、可能と成るのである。
とにかく隠れる事を、必死で磨いて来たイソモンとの、知恵競(くら)べである。
人間が勝ってしまえば、イソモンは居なくなるし、人間が負けてしまえば、イソモンを食べる事が出来なくなる。
其の知恵競べは、今後も続けられるであろう。
私は、一度捕った場所には、二度と行かない様にしている。
隠れ上手なイソモンが、生き残って、子孫を増やしてくれる事を願うからである。
堆積岩の磯は、潮が引くと岩一面に開けられた穴に、海胆・うにが全部住んでいる。
屋久島の海胆は、卵巣が小さく中身が少ないので、島の人は捕って食べないので、岩場中海胆だらけである。
其の海胆が、死んで居なくなった穴に、イソモンが這入り込んで住んでいる。だから海胆千個位に、イソモン一個位の割合であろうか。
私は、イソモンが増え易い様に、イソモンを一個捕ったら、海胆を五個位は潰して、空き家を増やしている。
イソモンが、一個でも住んでいる所は、岩苔も豊富で、イソモンが住み着くのに、環境が適しているからである。
見付け易い所に、イソモンが増えれば、隠れ上手のイソモン迄を、探し出す事は少なくなるかも知れない。
私が、本日本当に書きたい事は、イソモンの事ではなく、隠れ上手の遺伝子の理・ことである。
私が、座右の書としている「道徳経」は、中国の老子が書き残した書物である。老子は、国を出る時に、自分の考えを、5000字にして残して置かなければ、後世に其の存在を知られる事が無かったのである。
私の師も、「自適さん、名前を世に出さなければ生きて行けない人は、二流の人間だからね。一流の人は、名前を出さないでも生きて行ける人だよ。」と教えてくれた。
だから、私も、師の教えを守る為に、師の名前や住所を、明らかにする事は出来ない。
私が、大事にしている本に『「虹と水晶」(チベットの密教の瞑想修行)ナムカイ・ノルブ著、永沢哲訳、法蔵館発行』がある。
この本に出て来る、主人公のチベット人も、隠れ上手な人間の一人である。
チベットの精神世界でも、ダライ・ラマの様に、現象世界を維持する為に、現れ上手な人と、真実の神の世界を支える隠れ上手の人の、両輪が存在する様である。
日本でも、天皇家は、表を現す為の現れ上手の役目であり、それを陰で支える神主の役割がある。
今では神主も、現象界の世界に肩を並べている様なので、私の言う隠れ上手の人とは言えないだろう。
私は、18年間全国を回って、隠れ上手な人達を、何人も探し出したが、其の殆どの人達が、年老いて亡くなってしまった。
その人達の子供さんや、孫も隠れ上手の道を止めて、出世してしまい、隠れ役を止めてしまっている。
此のままでは、隠れ上手の血筋は、消えてなくなってしまいそうである。
隠れ上手で生きようと意っていても、生活がし難いし、力が強まると、テレビやマスメディアに乗ってしまい、隠れ人とは言えなくなる。
日本では、もう岩山にひっそりと暮らす、仙人らしき杖を突いた老人の姿は、見られなくなった。
昔の成功者とは、社会で成功した者が、山中で静かに余生を過ごし、大事なことの相談相手と成っていく事であったのである。
「出世する」とは、人間社会に出て行き、成功する事の意味だし、「立派」とは、人間社会の中で、自分流の派を立てて維持を続けられる事の意味を言い表しているので、出世とか、立派の言葉は、隠れ上手な生き方とは、道が異なっている。
現代社会は、出世とか、立派な生き方が、優れていると考えられているので、自分の能力も考えないで、無理矢理出世しようとするので、後に引けなくなり、失敗すると、自殺したりする羽目に陥る。
今の様な状況が、此のまま続けば、人間個人だけでなく、社会全体がヒステリー症状に陥り、人間の精神は、崩壊してしまうのではないだろうか。
その前兆として、学生の登校拒否や、大人の職場放棄が、起きて来ているのであろう。
其れ等の人々は、隠れる事が好きなのではなく、現れ出る事が苦手で、自分を守る為に、閉じ籠りに成っているのである。
其れらの人々を救うのには、出世とか立派に成るとかの、言葉の概念とは異なる、他の言葉を、創り出さなければならないのではないだろうか。
現在の学校教育は、出世する為だけが目標と成っている。
社会の表に立つ事だけが、教育として行われており、弁論大会は有っても、他人の話しを静かに聴き取る、訓練の授業は行われていない。
つまり、社会の表側に立つ人だけに、都合の良い教育内容であり、人々の支えと成る、陰の力に成る人の、自信に繋がる教育が、置き去りにされているのである。
此のまま進めば、隠れ上手の人達の血筋は消えて無くなり、目立ちたがり屋だけの血筋ばかりが、力を得て増えて行く事に成る。
日本の伝統で言えば、「天照界」だけが強くなり、「月調界」が弱くなって行く事である。
現在の日本は、明治の改革で、天照大神だけが表に出され、他の「月調命」や、「須佐之男尊」は祭神から外されて来た。
明治5年に、明治天皇を伊勢神宮に参拝させ、外国にまで天照信仰を広げ様としたのである。
日本には、表ばかりではなく、月調の世界として、隠れ上手の生き方が、片面で大事とされていたのである。
その世界を現す言葉として、「あの人は 奥床しい」との単語が、存在したのである。
奥床しいとは、「奥」の意であり、現れ部分ではなく、「奥を行く」の意味である。
人間社会の喧騒から身を隠し、人間の本質の処に静かに身を定め、社会全体を視定める目が、必要とされる時ではないだろうか。
以前は、出家と言って、山中の寺に身を置き、家庭も持たず、隠れ上手の人間に成る世界も有った。
現在では、寺に入寺しても、寺の中での出世競走や、立派に成らなければとの葛藤がある。だから、本当の意味での隠れ上手とは成れない。
中国の老子の言葉にも、「退いて先をとる」とか、「谷に身を置け」とか、人間が自分に打ち勝って、強く生きるには、如何に隠れ身に成るかを諭す言がある。
イソモンが、如何に隠れるかを、考え続けて生き続けて来た様に、人間も、如何に、社会風情に流されないで生きて行けるかを、考え続けていかなければ成らないのではないだろうか。
其の想いが、断ち切れた時に、社会全体は、糸の切れた凧の様に、根本を失って、当て所なく彷徨う事に成るのではないか。
私は、其の様な事を想いながら、穴の奥で、住み家の色と同化した、イソモンの姿を探し続けている。
十月からは、昼間の潮は引かなくなるし、風も水も冷たく成って来る。
もう来年の春の大潮まで、イソモノは、人間に捜し出される事も無いので、安心して暮らせるだろう。
イソモノだって、天敵や人間が居なく成れば、進化が進まないのではと、勝手な理屈を考えながら、今年のイソモン捕りの物語は、終りを迎えた様である。
平成15年9月28日
礒邉自適
2003/7/3
現場には物を通した言葉が有る
15・7・3
私の人生は、机にしがみ付いて哲学書を読んだ分けでもなく、指導者を求めて誰かに付いて、弟子の修業をしたわけでもない。
私の父親も、私に、是と言った教えを、残してくれた覚えもないのだが、何となく、此の様な事を考える人間にまで育った。
私の父には、暴力は無かったし、「勉強をしろ」とかの、言葉に因る強要も覚えが無い。
其れなのに、文章を書いたりする処までに育って来ている。
勿論、私の文章は、文筆家の様に、言葉や文字が、正確で練れた物ではない事は、自覚しているが、ろくに勉強もしていない私が、言葉を繋げる事が出来るのは、自分でも不思議な事である。
確かに、私も中学校までは学校に通って学んだし、親や社会から、言葉遣いも習い、或る程度は本も読んでいる。
しかし、自分を良く観察して見ると、私の思考は、自分の体験の映像を説明する為に、其れに合った様な言葉を捜して、繋ぎ合わせている様な感じなのだ。
此処数年、書いている文章も、半分以上が、夢で視た映像を、何とか言葉に変換して、整理をし、忘れてしまおうとするものである。
私の書いているものは、小説の様に、人間が頭で考え出した、架空の創造物ではないのだ。
私の書いているものが、夢の説明なら、夢も人間の頭の産物だから、やはり頭が生み出したものだと、他人に云われれば、一言も無いが、意識的に創作活動として取り組んでいないので、私の作品と言うわけではないのである。
私の書いている文章は、自分の毎日の日記の様なものだから、他人に読んで貰う為とか、これで生活をしようとかの目的も無い。
強いて言うなら、霊界人達の鎮魂の為にと成るだろうか。
私の文章には、自分が見た事も、聞いた事も無い語が有るが、その事が、霊界人が係っている事の、証拠と成るのではないだろうか。
私は、農家に生れ、小さい時から、両親と畑で過ごして来た。
畑仕事では、必要以外の言葉はいらないので、一日中畑に居ても、「お茶にしようか」とか「もう止めて帰ろうか」とか、限られた言葉しか交わされない。
世間話も無いし、映画や音楽の話題も無い。
グルメの話とかは、夢にも出て来ない。
服も、盆と正月に、弟妹が一着ずつ、通学用の服を買って貰うだけだったので、ファッションとも無関係である。
其の様な環境で、私は育ったのに、どうして一人前の人間に育ったのだろうか。
改めて、その事を考えると、家には、馬・牛・山羊・豚・鶏・犬・猫等が居たので、牛馬や山羊に食べさせる草刈をしたり、豚の餌にする薩摩芋を刻む行為をする時に、「牛の草を取りに行かなければ」とか「豚の餌を刻まなければ」とか、声には出さないが、行為自体を、言葉で判断していたので、其れ等の日常が、言葉を組み立てる事に繋がったのかも知れない。
良質の草を刈って来て、牛馬が美味しそうに食べるのを見れば、「そんなに美味しいか」との気持ちが、言葉に拠って生じて来る。
誰かに、此の行動には、こんな言葉が使用されるべきであるとか、教えられた分けでもないのに、いつの間にか、数多くの言葉を、現場の中から、汲み取っているのである。
私の頭には、方程式の様な、専門用語は何も残っていない。
頭が覚えられないのである。
私の頭の中には、現場の映像が無いものは、記憶され難いらしい。
樹木の名前も、生活に利用した物は、名前を覚えているが、生活に直接関係の無い物は、覚えていないし、聞いても直ぐ忘れてしまう。
鳥の名前も、自分が飼っていた小鳥や、罠を仕掛けて捕まえて食べた鳥の名前は、今でも忘れないで覚えている。
是等の事を考えると、私の思考は、現場主義型と言えるのではないだろうか。
其れは、都会生れの子供達が、パイナップルが、木に実っていると想っているのとは、反対の処に在る。
しかし、其の私には、テレビ放送の「TBS」とかの、会社の名前を聞かれても分からない。都会は、私の現場ではないのだ。
屋久島の、自然の中に生れ育った私は、都会の建物は、ゴミ箱の様に思えるのだ。
其れが、何故かと考えると、自然は、人間が手を加えなければ、美しい緑の自然に還って行くが、都会の建物は数10年すれば、醜い廃棄物と成ってしまう物であるからであろう。
都会で生まれ育った子供達と、自然の中で育った子供達には、言葉の持つ背景が違うのだ。
自然の中で生まれ育った私達には、遊びと言えば、自然の海・川・山が思い浮かび上がって来るが、都会の子供達の遊び場としては、異なった情景が浮かぶだろう。
人間が生きると言う事は、自分が置かれた現場から、どの様な言葉を汲み取って行くかに、掛かっているのではないだろうか。
屋久島に帰って、改めて、島の暮らしを考えるとき、都会の人間が考えた「文化(言葉)」が、島の文化を破壊して、僕等が育った現場は、消滅し掛けている様である。
田畑は荒れ放題で、何処の家にも牛馬も居ないし、鶏さえ飼っている家は、捜して歩かなければ、目にも付かない状況である。
島で育った言葉を、使う人が居なくなった時、島の自然と共に、存在した魂が消えてしまい、島の自然と人間の鎖が、切れてしまうのではないだろうか。
人間の「心(魂・意識)」が、言葉に拠って出来るものであるなら、現場を失った子供達には、島の言葉が無くなり、其れに伴って、島の魂も、失われてしまうのではないだろうか。
今日、政府も、現場教育の大切さを打ち出しては来ているが、都会で生れ育った人達が、机にしがみ付いて幾等考えても、現場が建物の外にまで、脹みでる事は無いのではないだろうか。
磯物捕りを、一週間続けた私の身は、机に座ってペンを握っていても、沈んだり浮かんだりする感覚が、時おり襲って来る。
現場とは、自分の身を其処に置いて、全身全霊で取り組んだ時に、はじめて自分の物と成って来る、ものなのではないだろうか。
今日は、波の揺れを感じる自分を、不思議に想いながら、ソファーに座っていて、言葉が如何なるものなのか、少し解った気に成って来た。
釈迦牟尼仏が、臨終の時に、謂い残した言葉に、「一生 修業を怠らず 続けなさい」と有る。
人間は、場が変れば、直ぐに思考も変ってしまう。其れは、便利でもあるし不便でもある。
佛教には、何時も変らぬ心を保つ為に「精進・しょうじん」との言葉もある。
自分の身を置く現場を、何処にするか、もう一度、真剣に考えて見なければ成らないようだ。
日本には、古くから「言霊幸合う国・ことたまさきあうくに」と言う言葉が有る。
昔の人は、現場にこそ、言葉が生じる力が有る理を、知っていたのではないだろうか。
自然の中にこそ、人間を、幸せにする言葉が存在するのだと、世界に示す時節に至っているのではないだろうか。
平成15年7月3日
礒邉自適