2017/1/13
季節と食べ物の関係
29・1・13
今朝のメッセージの映像には、「季節」と「食物」と「人間の躰」の関係性に付いて、示されて来た。
其れは、昨日のメッセージの映像に映し出されて来た、水瓶の中に浸されていた陶磁器の食器の世界と関係が有り、様々な食べ物と、人間の関係性が示されて来ているのであろう。
そして、其の食べ物の存在は、水の世界の中に存在すると言う理と関係が有りそうである。
今朝のメッセージは、昨日の「鏡開き」の文章と関係が有り、私に、新たな世界を切り開けと言う事が示されて来ている様である。
其れは、是まで傳えられて来ている「身土不二・しんどふじ」や「医食同源・いしょくどうげん」等の概念を、超えて行く世界と言うか、段階であると謂えるだろう。
今朝のメッセージと言うか、私の脳意識のチャンネルの変化は、昨日の文章に次の様に書いた事と関係が有り、自分の意識の中に、新たな「階段・階層・段階・神(はたらき)名」の「踏み段・梯子」が、創られて来た事に成るのではないだろうか。
・・其の「羽毛を生やした蛇」の存在は、現在化石の発掘で明らかに成って来ている、鳥の先祖が1億2500万年頃に存在した「羽毛恐竜」であるとの事で、現実の物と成って来ており、我々の脳裏に潜んでいる潜在意識の中の飛翔するモノの正体が何であるかも、想像が付く様に成って来た。
其れは、タイムトラベルで時空間を旅しなくても、我々のDNA・遺伝子の記憶の中に、其の時空を旅するセンサーが存在して、チャンネルを合わす事が出来れば、何時でも自由に「ククルカン・ケツァルコアトル」の意識と接触が出来ると言う事であり、其の世界をジオラマとして展示している物が「時間の操縦士」の姿なのであろう。・・・
1億数千万年前に登場した、数々の「羽毛恐竜」の存在に付いては、寒さに対応する為に、皮膚の鱗を羽毛として進化させた物であり、体温を冷やさない事で血流を維持し、其れに拠って活発に動く事が出来るので、他の動物・獲物を捕獲出来たと言う理・ことである。
其れは、動かない植物を餌とする菜食恐竜とは、躰の仕組みや行動様式が異なる事を意味し、其の差こそが、動物が食べ物を得る為に、自分の肉体改造を続けて来た事を示しており、其の生命の仕組みの延長線上に、我々人類も存在する事に成る。
我々人類は、羽毛(衣類)が必要の無い熱帯地方(アフリカ中央部)で、6500万年前に類人猿から分離して、寒冷地に移動しても火で暖をとり、洞穴や小屋に住んで、衣服を着る様に成ったので、体毛を必要としなく成って来ている。
だが、植物は移動が出来ず、体温調整が自分では出来ないし、他の防御が不可能なので、熱帯地方の「無年輪植物・常緑樹」以外は、動物の冬眠と同じく、冬期は落葉して眠りに入る事で身を護っている。
其れ等の動植物の存在・はたらきは、全て源は同じなので、脳を持つ動物と同じ様に、植物にも意思が有ると言う理・ことに成る。
其の世界こそが、「生命・いのち」と呼べる世界であり、其の世界を創り出しているのが40億年±2億年前に誕生した、原始生物の「DNA・遺伝子」の存在である。
其れを考えると、生命・いのちの源・意識の源は、40億年前に誕生した事に成り、我々の生命年齢は40億歳であると言う理・ことに成る。
其れは、1億2400万年前に登場した「羽毛を持つ蛇(ククルカン・ケツァルコアトル)」の意識は近年の物であると言う事に成り、我々は自分の命の始まりのスパン(span)を、広く考えなければ成らないと言う事に成る。
そして、其の考察の基準に「食べ物」と「肉体細胞」の関係性を、置かなければ成らないのである。
其れは、キリスト教・イスラム教の原点・参考本とされる、旧約聖書に記されている「神は初めに 男を自分に似せて創り、次に男の肋骨から女を創った」との非科学的な言葉を、消去しなければ成らないと言う事でもある。
科学が無い古代社会では、人間に理解できない世界は、「神」とされて来ている。
其の神の世界は、「夢」の世界と直結しており、誰かの夢に映し出されて来た世界を、神の世界として伝播して来たのが、宗教の世界である。
(其の解決の為にも 夢を生み出す食生活・環境を 自分自身で管理する事が重要である)
そして、其の概念や価値観が社会体制の中に取り込まれ、強力な政治体制(権力)が生まれて、人間を戦争や、無明の世界(迷信)に、引っ張り込んで来たのである。
其れを誰かが、何処かで改めない限り、現在の無明の世界は晴れないと言う事であり、無益な戦争も無くなる事はないのである。
其れを行う者が、現れる事を願うのが「メシヤ・キリスト・彌勒菩薩・マイトレーヤ」信仰と言うか、人類の待望感なのである。
だが、其れは、自分自身の意識改革でなければ成らないのである。
何故なら、「メシヤ・キリスト・彌勒菩薩・マイトレーヤ」が現実として登場しても、是までの様に、其の存在に追従して生きて行くと、何も解決出来ず、死後は再び無明(無間地獄)の世界に落ち込んでしまうからである。
其れが、釈迦牟尼佛の教えの真髄である「出家」と「覚醒」の世界であり、其れに必要であるとされている「精進」の世界が、今朝示されて来た「季節」と「食物」と「人間の躰」の関係性を悟る事なのである。
そして、其の三つの世界は、全て「水」の「存在(循環)」の中に存在する物なので、宗教の教祖である「釈迦、イエス、伊邪那美命」が水浴びをして、神の世界に入った事が、どう言う事であるかも、理解されて来る事になる。
今朝のメッセージの映像は、簡単な物であったので、文章の内容は、殆どが自分の顕在意識に拠る物であると言う事に成る。
其れは、昨日の女神の言葉に有った「貴方には 昔の事を思い出させる力が有ります。其れは 問題解決の糸口に成りますが、進歩を妨げる要因にも成るのです。ですから 昔の事を追及するよりも、新しい思考を生み出す事が大事なのです。・・・云々」との事が、現実の事として動き出すと言うか、開始された事に成るのではないだろうか。
其れは、私自身にも新しい認知力を導き出す事であり、人類全体にも、新しい時代の学問を開く事にも成るのであろう。
其の様に考えると、人類の総合無意識の世界に、新しいステップが生まれる事に成り、世界中の宗教で、階段状のモニュメントが建設されたり、絵画に天への梯子が描かれて来た事の原因が理解できる。
其れ等の一切の無明が祓われれば、人類の潜在意思・無意識の闇は晴れて、明るい未来・真実の神(はたらき)が、誰の眼(意識)にも顕かに成って来るであろう。
其れが、昨日の「鏡開き」の本当の意味であり、私の無意識に潜む女神の存在だけではなく、全天空の「神(はたらき)」が一斉に動き出すと言う事であり、「神仏」も「鬼神」も是から、忙しく成ると言う事であろう。
*生命史
2015/8/19「〆 括り」 http://green.ap.teacup.com/20060818/3569.html
2016/7/30「大関を超えた」 http://green.ap.teacup.com/20060818/3940.html
2015/10/14「転輪の管理」http://green.ap.teacup.com/20060818/3625.html
2015/10/4
「アカシックレコードのバージョン」http://green.ap.teacup.com/20060818/3615.html
*人類史・地球史
2015/7/28「生命の歴史本」http://green.ap.teacup.com/20060818/3547.html
2007/10/28「地球の割れ目」http://white.ap.teacup.com/miitu1223/988.html
2004/8/19「神の証明(四)」http://moon.ap.teacup.com/20061108/549.html
2016/6/21「夏至の日」http://green.ap.teacup.com/20060818/3893.html
2008/8/1「真人(まことびと)」http://star.ap.teacup.com/2007313/492.html
2016/10/12「未来への予兆」http://green.ap.teacup.com/20060818/4017.html
*水環境
2015/3/16「泉の女神」http://green.ap.teacup.com/20060818/3394.html
2009/3/16「神の内側へ」http://green.ap.teacup.com/20060818/1078.html
2013/11/1「自分自身を生きる」 http://green.ap.teacup.com/20060818/2857.html
2014/5/26「しあわせなくらし」http://green.ap.teacup.com/20060818/3080.html
2011/5/30「天津霊継」http://green.ap.teacup.com/20060818/1944.html
2013/3/17「道理が鈍い」http://green.ap.teacup.com/20060818/2625.html
2013/7/28「生活風習の切り換え」http://green.ap.teacup.com/20060818/2761.html
2015/6/23「尊厳」http://green.ap.teacup.com/20060818/3507.html
2013/7/31「日本人の心」http://green.ap.teacup.com/20060818/2764.html
2015/4/14「祭り事のレベルアップ」http://green.ap.teacup.com/20060818/3427.html
平成29年1月13日
礒邉自適
2010/2/14
生きる
22・2・14・5・45
現在・いまの時刻は、午前5時45分である。
昨夜は、何のメッセージも無く6時間ほどぐっすりと眠った。
其れに、頭からは、神様の事も、仕事の事も全て消えている。
しかし、其れは、思考が全部消えているのではなく、全てが、上手く進んでいるからこその、安心感の中に在る状態なのである。
こんな意識状態を、私は是まで、実感した記憶が無い。
是こそが、「安心立命・あんじんりゅうみょう」の、言葉の意味なのではないだろうか。
何故、是まで、此の様な気持ちを、私が体験した事が無いかと謂うと、小学校4年生の頃に、父親が胃潰瘍で洗面器に大量の血を吐いて、其れを見た私が、父親を護らなければ成らないと、意ってしまったからであろう。
其の父親が、私が17歳の秋に亡くなって、長男である私は、四人の弟妹を母親と共に、守らなければ成らなくなったのである。
そして、37歳の時(1983・3・18)に「無庵師匠」に捜し出されて、翌年の6月4日(旧暦5月5日)に神の世界に入って、今度は、地球を守らなければ成らなくなってしまったのである。
其れから、25年8ヶ月が過ぎて、ようやく私には「何かを 守らなければ成らない」と言う「カルマ・業」が、外れたのかも知れない。
其の原因・理由を考えると、次の様な事が挙げられる。
・昨日、一日中ホテルの部屋に籠もって、今回の催しに付いての内容を全てアップしたので、遣らなければ成らない事が頭に無い事。
・「アルクトゥルス隊長」に出会って、未来への道が開いた事。
・「AKさん」に出会って、「讜逓聖・とうていせい」の動きが、現実に成る事が見えて来た事。
・屋久島の村造りを「小林竜也君」に任せた事。
・気持ちを緩める切掛けに成ったのは、昨日のメッセージで「三日後に 御焚き上げ」との言葉があり、其れをAKさんが引き受けて下さった事。
・昨日スーリアさん、松山さんと電話で話して、お互いに普通の気持ちの状態で、未来社会創造に向かって行ける事。
・私の意識の錨・いかりと成る、「自適塾」のHPを、屋久島で藤田さんが管理していてくれる事。
・1番重要な事は、自分の七人の子供や、身内に心配事が無い事、などが考えられる。
其れに、本日、那須のAKさんの所に行くのにも、大学の先生が、ホテルの前の駅まで迎えに来て下さるので、今朝、現実的に何の不安も無い。
「2・11 新大和発進」http://green.ap.teacup.com/20060818/1439.html
此の状態・様子は、白山菊理姫の本体である「白山権現」の白龍が、私の左手に地球を預けた事が、25年掛かって解決の目処が着いて、其の責任の荷が、私の肩から下りた事にも、成るのではないだろうか。
今朝は、何もメッセージが無いので、其の理由を探っていると、脳内のシナプスの様子が、イメージに捉えられて来た。
其れは、人間の意識はシナプスの枝から生まれており、其のシナプスの枝に芽生える芽は、三ヶ月で生まれ変わるので、絶えず、新しい刺激・情報を求めていると言う理・ことである。
処が、今朝は、其のシナプスの餌と成る、新しい刺激・情報が届かないので、私の潜在意識は、其のシナプスの焦り自体を、観てしまったのである。
其の、私の潜在意識こそが「観自在菩薩」や「観世音菩薩」の存在なのではないだろうか。
其れは、生命の基礎である、根底のシステムなのであろう。
其れを、我々人類は「生命・いのち」と、名付けているのではないだろうか。
漢字の「生・セイ・ショウ」は、地上に種子から芽生えて、生命力に満ち溢れて生えている、若い木の姿の象形文字である。
其れは、植物の地上部の姿であり、土の中で水分や栄養を集めている、根の部分は捉えられていない。
今朝、私が潜在意識で捉えていた世界は、其の地上の「生」の部分ではなく、地下部の毛細根の最先端の動きと言うか、働きの様な現場である。
其れを考えると、其の様な意味を表す漢字が無いので、4000年前の中国でも、其の理・ことに気付いた人が、居なかった事に成る。
其れは、現在の様な、電子顕微鏡で見るミクロの世界が無かったからである。
其の原因を考えると、私の意識には電子顕微鏡で解明された、ミクロの毛細根の絵が取り込まれている事に成る。
其れを考えると、私の意識は、近代科学の発達の影響を、受けている事に成る。
だとすれば、私の今朝の思考は、近代文明の成果に拠って、生まれている事に成るのだ。
是こそが、新しい概念と成るのではないだろうか。
何故なら、其の様なモノ・現象の捉え方は、養老孟司先生や中澤新一氏の著書を読んでも、無さそうだからである。
昨日は、テレビを点けたまま写真の整理をしていると、「養老孟司先生」と「宮崎駿監督」が対談しており、子供の育て方に付いて話していた。
私は、其の二人の話を聞いて居て、二人の話しには、落とし穴が有る様な気がした。
何故なら、本人・二人の子供の頃には、其の様な人工物は無く、ただ大自然の中で遊んでいたからである。
私が25年前、此の世界に入った時に、一番困った事は、潜在意識に浮かび上って来る生命の記憶と、子供の頃に読んだ本の内容や、映画の場面の記憶との、分類だったのである。
其処の区別が着かないと、現状には復活できないで、精神病院行きに成ってしまうのである。
其れを防ぐ為に、私は屋久島の山懐で生まれ育ち、また神様が、父親の精神構造に、「見猿・言は猿・聞か猿」の三猿を植え込んで、私に父親が「勉強しろ」と云わせない様に、図ったのであろう。
今朝の文章は、私の是までの情報量から生み出している、顕在意識の文章である。だから、是は、神のメッセージではない。
此の文章を、「神霊の思頼(みたまのふゆ)」や「約束を護る」のブログに、載せる分けには行かないだろう。
だとすれば、「自適随筆」のブログの方に、アップしなければ成らないと言う事に成る。
「自適随筆」http://moon.ap.teacup.com/20061108/
「生命」http://star.ap.teacup.com/2006413/
今朝の私の意識状態が、今後も続くのであれば、確かに、昨日のメッセージで告げられて来た「三日後 御焚き上げ」は、25年8ヶ月続いて来た「神霊の思頼(みたまのふゆ)」の、霊魂の御焚き上げの儀式と成る。
其れが、麻を燃やして行なわれるとの事は、日本の古神道の儀式が「大麻・たいま」で行なわれていた事が、復活する事にも成るのである。
是は、私に、新たな負担が掛かって来そうな気に成り、始めの「安心立命・あんじんりゅうみょう」の気持ちは、何処かに行ってしまった様である。
今朝、私が自覚した脳内のシナプスの動きは、潜在意識と顕在意識の中間なのか、其れとも、其の両方が統合されてのモノ・現象なのかが良く判らない。
どうやら、御焚き上げが済んでも、私のシナプスの動きは休みそうもない。
何故なら、其の働きこそが、生命がいきている証であり、宇宙の最先端の姿だからである。
そして、其の働きこそが、創造力の源泉なのである。
本日、訪ねる先は那須に在る「うるおいの里」である。
今朝の私の意識は、既に、其の「うるおいの里」に到着している様である。
肉体の方も、早く 後を追い掛けなければ成らない。
平成22年2月14日7時38分
礒邉自適
2008/12/15
智慧は女性の世界
20・12・15
今日は、般若心経の事を調べていて、鎌倉新書のHPに行き当たり、其の中に般若心経に付いて、下記の説明が有った。
この文章からすると、「智慧」とは女性のモノである事になる。
・・・「智慧」はインドの言葉では女性名詞であり、「智慧」によって仏が生まれるということから、『大般若経』では「般若波羅蜜多は諸仏の母」と書かれ、後に密教の時代になると、「般若仏母」と呼ばれる女性の仏であると考えられるようになりました。『般若心経』にも「智慧」を女神のように考えていたという側面がすでにある程度あったのかもしれません。
当時のインドはヘレニズム文化圏の東端にあり、ギリシャ、イラン(ペルシャ)系の王朝が次々と支配し、その文化の影響を受けていました。仏像が生まれたのはギリシャ彫刻の影響ですし、救いや光の性質を持ったたくさんの仏・菩薩が生まれたのはイランの神々の影響です。当時のヘレニズム文化圏では宗教を超えて霊的な「智慧の女神」に対する信仰が広がっていましたので、『般若心経』にもその影響があったのではないでしょうか? ギリシャの智慧の女神ソフィアの影響を受けて、イランでは河の女神アナーヒターが智慧の女神となりました。アナーヒターは観音菩薩の誕生にも影響を与えたと言われています。・・・
─引用終了─
鎌倉新書HP http://www.e-sogi.com/arekore/kyo1.html
確かに、現在私の意識を支えているのは、男性の御霊ではなく、女性の御霊の様である。
中国の、老子の道徳経の言葉には「雄の立場を知った上で 雄の立場に身を置け」と有る。
確かに、私は、自分の母親の姿を見ていると、母親は、人間として最高の智慧を有している様な気がする。
其れは、人間だけではなく、自然の中で生きる野生の動物が、子育てをする姿を観ていると、其の智慧の凄さには驚きを覚えるからである。
人間以外の動物には、学校も無いし、言葉や文字も無い。
其れなのに、生きる智慧を完璧に継続しているのである。
特に、昆虫等は卵で放置され、孵化した時には親も居ないし、教育も受ける事も無いのに、勝手に生長して、また子孫を残して行くのである。
其の事を考えると、生命のDNA・遺伝子のシステムは、完璧だと言える。
其れは、我々が、言葉や文字を使って積み上げている知識とは、別のモノである。
其の、動物や昆虫の生き方を見ると、人間社会の在り様は、実に、不必要な物が多過ぎると考えられる。
現在の社会情勢を見ると、とても、人類に智慧が有るとは想えない。
老子は、庶民に教育を行うと、賢しらが増えて、世の中は、駄目に成ると謂っているし、インドの釈迦牟尼佛も、言葉や文字を捨てなければ、悟れないと謂っている。
其の、世界で最も偉大な二人が、そう謂っているのに、現代社会の教育は、其れとは反対方向に、進んでいっているのである。
其の問題を、どう解決したら良いのであろうか。
文化の伝達には、二つの道が有る。
其の一つは、文字が無く、教育制度が無くても、生活の現場を通して伝えられて行く、人間の生き方・仕草そのモノの世界である。
そして、もう一つが、文字と、其の文字が持つ概念に従って、民族や国境を越えて、他の民族や国にまで、広がって行く情報の世界である。
現在の世の中は、二つ目の文字に拠る情報に拠って、他の文化が自分の部族・町・国に入り込み、其れに影響を受けて、自分の民族のアイデンティティが失われて行く事が、顕著に成って来ている。
我々の暮らす、此の日本国も、他国から持ち込まれた文化に拠って、変質を余儀なくされ、我が国の「価値観・生活風習」は、本来の在り方を失いつつある。
しかし、そう成っても、母親が子供を産み育てる事の、基本的な処は護られて行くのであろう。
其の母親が、守り続けて行く文化が、本来の不変なる智慧に当たるのではないだろうか。
其の様に考えると、男性が言葉を発明し、左脳・言語脳を発達させて、築いて来た文化は、二番目の文化であり、主導権を握った統率者の意識に拠って変化するので、不変の物ではないと言う理・ことに、成るのではないだろうか。
其の様に考えると、伝統を守りながら、子育てに成功した「嫗・おうな」の意見を、取り入れて行く事が、未来社会の創造には、一番重要な事であると言うことに成る。
そして、其れこそが、是から2000年間続くと云われている「水瓶座・アクエリアス」の時代に、最も相応しい、行動であると言う理・ことに成るのではないだろうか。
平成20年12月15日
礒邉自適
2008/11/5
水の性質
20・11・5
水の事に付いて、深く考えると、様々な事が見えて来る。
其れは、此の日本で一番雨の多い屋久島で、生まれ育った私だから、感じる事なのかも知れない。
私の水に関する感覚は、子供の頃から、肉体を通して感じて来た水の世界と、37歳から、神の世界に入って掴んで来た水の世界の違いである。
そして今、また別の水の世界を感じつつある。
其れは、科学的に水の世界を捉える事である。
今日感じた事は、人間は頭でモノを考えるが、其れは脳に、血液が酸素を運んでいるからであると言う理・ことだ。
血液には、ヘモグロビン・鉄が存在して肺胞から、酸素を取り込んで、全身の細胞に送っている。
其の身体の細胞で、一番酸素を消費しているのが脳である。
だから、脳が酸欠に成ると、人間の生命エネルギーは、一気に低下するのである。
日本の諺には「目から鼻へ抜ける」と有る。
其れは、辞典によると、目と鼻は、もっとも近い所に有る事から、頭の回転が早いさま、利口で物事を理解するのがすばやい事を言うらしい。
しかし、目と鼻の位置が近ければ、頭の回転が速いかと言うとそうではない。
其れは、蓄膿症の人が、記憶力が低いと言われている原因と反対で、鼻の空気の通りが良いと、脳に行く血液が良く冷却されて、脳がオーバーヒートしないからではないだろうか。
其れは、鼻詰まりの時に考えが冴えない事や、臭い感覚が無い時は、食べ物の味がしない事とも、関係が有るだろう。
詰まり、鼻腔の中の湿り具合と、空気の通り具合が、人間の意識に深く関係が有ると謂う事である。
だからこそ、瞑想や武道なのでも、呼吸が、一番大事にされるのではないだろうか。
其の働きには、全て水が関係しているのである。
血液は液体であり、脳細胞も殆どが水分である。
だから、其の水の量が減ったり、濁ったりすれば、当然働きが弱く成るであろう。
特に腎臓は、身体の有害物質を濾過する為に、1日に160リットルもの水を必要とするので、体内の水分が少なく成ると、命に危険が及ぶ事に成る。
また、水は、気化作用に拠って体温調節をするのに役立ち、水は同じ濃度になろうとする働きがあるので、体内の多くの細胞間でも、水の出入りが調整され、体全体が同じ浸透圧のバランスで保たれている。
其れに拠って、塩・ナトリウムのバランスが計られてもいる。
水は、人体の温度調節を図り、様々なミネラルや栄養を体全体に運び、更に、老廃物を集めて、体外に排出する役割も担っている。
其れ等の事を考えると、人間は、質の良い水を、不足なく手に入れる必要があるのだ。
宇宙は、水素原子に拠って全てが存在している。
そして、其の水の働きが最大限に生かされているのが、我々人類の存在であり、宇宙の進化の最前線に、人間は立たされているのである。
其の理・ことを、我々人類は、忘れて生きて行くわけには行かないのである。
平成20年11月5日
礒邉自適
2006/2/6
生命の進化
18・2・6
今朝は、何のメッセージもなく、個人的な夢も見なかった。
漸く、私も、自分の意思で、行動出来るのかも知れない。
其れは、私個人の本当の出発である。
私は17歳で父を失い、五人兄弟の長男なので、父親の代わりに一家の大黒柱と成って働いた。
そして10年が経ち、弟妹も一人立したので、27歳で結婚して、子供も三人産まれた。
処が、結婚10年目で無庵師匠に捜し出され、37歳で家族と離別し、神の世界に入る事に成り、其れから22年が経過した。
今度の事は、10年間・47歳では終わらなかったのである。
しかし、神の世界に入って10年目の有る日、文字の世界に目覚め、其れから、言葉の世界が私の意識を捉えて、離さなく成ったのである。
其れから12年が経過して、漸く、言葉の世界を卒業出来るのかも知れない。
其れまでは、自分でも理解の無いまま、言葉や文字を使っていたのである。
本当の言葉の世界が、どう言うものなのか、親も、学校も、社会も教えてくれなかったのである。
理由が解からないまま、使用する言葉が、自分の魂しいを曇らせていたのだ。
仏陀である「釈迦牟尼佛」の訓えは、其処に要点が有ったのに、其れを、誰も理解していなかったのである。
言葉ほど、人間の意識を左右する物は、他に無いのである。
其れは、何故かと言えば、人間の大脳こそ、言葉を使用する事で、発達して来た物だからである。
人間は、最早、言葉を除いては、思考が出来なく成っているのである。
だから、反対に、言葉に拠る思考を止めない限り、大脳の活動を、停止する事は出来ないのである。
釈迦は、其れを理解するのに六年の歳月を要している。
私の場合は、師が優秀だったので、頭を空にするのには、1984年の3月5日から、6月4日までの三ヶ月間(91日)だけで済んだ。
其の1984年6月4日(旧暦5月5日)に、釈迦やイエスの様に、自宅前の安房川で禊ぎ祓いの為の、沐浴を行った。
そして、頭が空に成った瞬間に、宇宙の振動波と同調を起こし、それに拠って時間の枠組みが解け、過去の情報が雪崩れ込んで来たのである。
そして、20年前、私が17歳の秋に、49歳で死んだ父親が先頭に立ち、4311人の聖霊を連れて来て、私の思考を取り上げ、「神霊の思頼・みたまのふゆ」を実行してしまったのである。
其れが漸く、昨日の文章で、一応の決着を見た様である。
其れは、聖霊と呼ばれている過去世の人達が、自分の意識を、開放出来た事を意味している。
言葉は、人間の脳に情報として取り込まれた瞬間に、固定化され、意識として納まり、其の人間に制約を与えてしまうのである。
其の制約を時々外して、脳を絶えず自由にして於こうとするのが、日本の神事である禊ぎ祓いの方法なのである。
其れは、日本人が「イザ凪・イザ波」の名を考え出したトキから、物の名が脳に固定化を起こす理・ことを、知っていたからである。
其のカルマから逃れ様として、聖徳太子は、釈迦牟尼佛の教えの中に埋没してしまったのだ。
其れが永い間、日本の「惟神の道」を暗いものにして来たのである。
私は、幸いにして、父親も無庵師匠も、其のカルマの罠に掛かっていなかったから、自由を維持し続けられたのだ。
私は、其の自由な精神があったればこそ、4311人分もの思考に負ける事なく、是まで自分の意識を保つ事が出来たのだ。
何故、4311人もの聖霊が、此の日本に集まる事に成ったのか。
其れは、「一休宗純禅師」や「西郷南州翁」など、言葉や文字の奴隷に成らないで生きた人達が、日本には何人も存在して居たので、其の結縁を繋ぎ留める事が出来たのである。
其れは、自分の「魂魄・こんぱく」を維持し、後の代・世に傳え残す事なのである。
「魂・コン」とは、たましいの「言い・こと」で、肉体の血筋とは関係が無く、師弟関係や学問等で磨いた、智恵の「魂・ボール・球しい」である。
一方「魄・パク」とは血筋・親子関係で、肉体を維持する為の世界を意味し、遺伝子の存続を意味している。
だから、魄とは健康な身体の事で、良い情報の遺伝子を残す事にある。
普通に「神」と謂えば、親子関係からは発生せず、力が強い者の魂しいが遺伝して行く事なのである。
「神」の漢字は「示+申」の組み合わせで、字義は「祭壇を設け カミの情報を受け取る」との意味である。
其れは、先祖の霊でもあり、そうでない場合もある。
日本の天皇家は、先祖の霊(御祖神・みおやかみ)に重きを置き、佛教では釈迦牟尼佛からの魂しいの「繋がり・結縁(けちえん)」に重きを置くのである。
私の場合は、其のどちらでもない。
私は唯、自分を生きているだけなので、何かに拘っている分けではないのである。
私の父親は、私が「第二反抗期」の真最中に亡くなったし、無庵師匠が私を「救世主だ」と云っても、其れを信じた分けでもない。
私は、自分の遺伝子に忠実に生きているだけである。
神霊が、何かを云って来ても、彼等の願いは聞いて適えては遣るが、自分がそうする分けでもないし、他人が何か云っても、良いことなら真似をするが、其の人の遣る通りにする分けでもない。
詰まり、私は、自分自身を生きて居るのである。
其の生き方が、全ての霊魂を浄化してしまうのである。
私は、伊勢神宮の神の頼み事は聞いてやっているが、此方から、伊勢の神様に何かを頼んだ事などは無い。私は、自分で出来る事しか遣らない。
私が、例え、他人に頼む事が何か有っても、其れは自分の事の為ではなく、誰かの為である。
私は、他人に頭を下げなければ成らない事は、最初から始めはしない。
其れは、家族が居ないし、生活の為に、仕事にも就く事もしてはいないからである。
こうして、毎日パソコンに向かって文章を書き込んではいるが、出来なく成ったら止めるだけである。
弟子が一人も居無いのだから、何時止めても、誰にも迷惑は掛からないのである。
何かの制約が有れば、こんな事も書けないし、云えないのである。
今朝、自分の頭で考えた理・ことは、生命の進化は、こうして起きたと言う理・ことである。
何の制約も受けない自由な「いのち」が、環境の変化で、自分の遺伝情報を違う方へ、「インプット」してしまうのである。
正常な身体の中に、突然癌細胞が発生するのも、遺伝子には自由が与えられているからなのだ。
其れが、昨日の「無秩序の中の製合性」なのである。
現在、問題に成っている鳥ウイルスも、ウイルスが、自分を取り巻く環境が変われば、自分の情報を組み替えて、宿主を換えて行く事の、証明の一つである。
自然の中の生物は、環境の中でどう生きたら良いか、周囲の状況を判断しながら、自分を変化させて生き伸びているのだ。
現在の、我われの肉体も、同じ様にして、是まで生き延びて来たのである。
其処には、神霊等は存在しないで、自分の「意・おもい」だけしかない。
其の純粋な意いだけが、自分の進化を図っているのである。
釈迦牟尼佛の教えも「頼れるのは 此の己の身体だけ 一切の他のモノに依存しては成らない。」である。
仏像を飾ったり、読経をしたりして居るのは、釈迦牟尼佛の訓えを護っていない証拠でもある。
お釈迦さん自身は、頭髪も長いまま丸めて、頭の上で結んでいるので、坊主頭ではない。
中国の老子も、「賢そうにして居る御仁は 悟りが無い。 道・タオから 外れている。」と謂っている。
老子は、更に「道から外れたら 神霊も力を発揮出来ない。」とも謂っている。其の、老子の謂う「道・タオ」こそ「いのち・遺伝子」の流れの事である。
私の身体に依り憑いた霊魂も、皆 其の理・コトを悟ったのだろうか。
要は、全ての原因は遺伝子なのである。
遺伝子の、配列システムの存在こそが総てであり、其の遺伝子の情報が「神・縁」と呼ばれるモノなのである。
其の遺伝子、其の物を伝えるのが「性・セックス」であり、情報を傳え残すのが「学習・まなび」である。
人類は、漸くパソコンの開発に拠って、記憶作業から開放され、明日に向かって旅立てるのである。
其れは、人類の新しい進化の第一歩である。
旧約聖書には「神は 自分に似せて 粘土でアダムを造った。」と有る。
粘土とは、珪素とアルミの化合物で赤茶色である。
誰が、其れに最初気付いたのかは知らないが、生命の誕生を、的確に把握している。
其れに気付けたのは、未だ其の御仁が、文字や言葉に、大脳が汚染されていなかったからだろう。
今では、科学の世界でもミネラルを含む粘土の海で、雷の電気の刺激因り、生命が誕生した理が常識と成って来ている。
生命は皆、共通の遺伝情報を有しており、同じ電磁波のチャンネルで結ばれているのである。
先日の「愈・まさる」とは、余計なモノを取り除いて遣る人の意味だった。
現在の社会から、不必要な「情報・モノ(本・映像)」を取り除けば、本当に必要な物は、一割くらいしか残らないのではないだろうか。
そう成れば、子供達の学問も楽に成るし、若者の迷いも無く成るだろう。
外向きに、情報整理をする事が少なく成れば、内向きに思考が働き掛け易く成る。そうなれば、自分の記憶の糸にも、触れ易く成るのである。
其処に、目覚めと、進化の扉が隠されているのだ。
もう、神社や、寺院や教会に、お願いに行くのは時代遅れである。
私は、全国の神社の霊魂の願いを聞いて来た。
もう、其の神社の霊魂も、新しい世界の住人、いや住霊と成っている筈である。
そうでなければ、私が、自由に成る分けがないからである。
平成18年2月6日
礒邉自適
2006/1/31
牝牛の鳴き声
18・1・31
今朝は、朝から、近所に飼われている牛舎の牝牛が、盛んに鳴いている声が聞こえていた。
其れは、牝牛が発情して、雄牛を呼んでいる声なのである。
だが、幾ら鳴いても、雄牛は町営の牧場の牛舎の中に、人口受精用の種牛が一頭だけ居るだけだから遣っては来ない。
それでも、生理上、雄牛を呼ぶ為に鳴かなければ成らないのだ。
現在は、人間に飼われている牛は、全部人口受精なので、本当に雄と交尾をして子供を産んでいる牝牛は居無い。
もう随分と、その遣り方で世代交代をしているので、其の内に交尾をするという遺伝子が、消えてしまうのではないかと、少し心配にも成って来る。
人間とは、自分の都合で、可哀想な事をするものである。
そんな事を想って居て、次の様なことを考えてしまった。
其れは、雄の存在は、雌が自分の内側で周期的に起きて来る、命の炎のエネルギーに煩わしく成り、其れを半減させる為に、自分の「いのち・DNA」の一部を切り離し、雄を造り出して、分離したのではないかと言う理である。
そうすれば、自分がバタバタしなくても、必要な時にだけ、鳴き声や、匂いの合図を送れば良いし、能力アップを図るには、暫らく雄同士を戦わせれば、強いいのち・DNAの方が勝ち残る事に成る。
他にも、餌は運んで来るし、巣造りは遣ってくれるし、中には子育てまで代ってくれる物までいる。
総てが、雌に取って都合の良い事ばかりである。
是は、雄が考え出した事ではなく、間違い無く、雌の方が考え出したシステムである。
現在は、其の牛や豚の雄の遣る役割を、人間が、全部代って遣っているのである。
人間の雄は、自分が人間の雄としての役割を果たしながら、家畜の雄の役割まで担ってしまっているのだ。
現在・いま、アメリカの牛肉が輸入出来ないのは、広い牧場に、雌牛と雄牛を一緒に放牧しているので、子牛の両親がどれで、誕生日がいつなのかも把握出来ないので、戸籍が作成できない事にも、原因が有るのだろう。
其の点、日本は、総ての牛が種付け日もハッキリしているし、誕生日も血統書も明確に成っている。
人間にとってみれば、都合の良い日本のシステムも、牛側にとってみれば、最悪の状態なのかも知れない。
其の点、大陸の牧場の牝牛は、発情するのを雄牛が傍で待っているので、雄を呼ぶ為に鳴く必要も無いだろう。
今朝は、アメリカやオーストラリアの人達では、考えそうも無いコトを考えてしまった。
それは、私が農家育ちで、自分でも、牛を数十頭飼っていたので、そんな理屈を考えてしまうのである。
其れが、私の意識の特徴であると云えば、謂えるのかもしれない。
平成18年1月31日
礒邉自適
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