2017/6/2
藤山幸盛小父の思い出
29・6・2
私は、中学を卒業して其の儘実家の農業の手伝いを始めた。
処が、17歳の秋に、父親が49歳で突然病気で死亡し、長男である私が其の儘一家の主と成った。
そして、19歳から肉用牛である黒毛和牛の多頭飼育を始め、30頭を超えた所で黒毛和牛の値段が暴落し、私は農家としては、屋久島一番の借金を抱え込む事に成った。
そして、其の儘ではどうにも成らないので、昭和43年の秋に鹿児島県立市来農芸高等学校に学んで居た、弟の正也(当時16歳)に電報を打って帰島させ、休学の手続きをして家業を手伝って貰う事にし、私は、何とか生き残る為の道を探す為に、彼方此方と動き始めた。
其の時に、船行集落に住む「藤山幸盛」氏に出会うと、其の幸盛氏(屋久島では通称 幸盛おじ)が「お前の親父には 試された事が有る」と謂うのである。
私が、其の事に興味を示すと、其の経緯を話してくれた。
或る日、幸盛小父が私の実家を訪ねると、私の父親が「藤山君 焼酎を飲むか」と謂うので、「飲む」と答えると、丼を持って押入れの戸を開け、中から甕を出して、其の丼にドボドボと焼酎を注ぎ始めたので、幸盛小父は、「礒邉さんは頭があまり良くないな。丼から次に、何に移すのだろうか。」と思って居ると、其の丼の儘、幸盛小父の前に持って来て置いたとの事である。
幸盛小父は、「此のまま飲むのか」と訊ねると、「そうだ」と謂うので、両手で持ち上げると、自分の顔が、丼の水面に映って見えたとの事である。
其れで、躊躇したが、「礒邉さんは 自分の事を試しているのだな」と思ったので、其の儘一気に飲み干すと、私の父親は、其の様子を気に入ったとの事であった。
其の事で、私は幸盛小父に親しみを覚えたので、自分の現状を話し始めた。
すると、幸盛小父は、次の様な事を話し始めた。
或る所に、毎日焼酎ばかり飲んで居る人が居て、飲んだ焼酎瓶を床下に積み上げていたら、或る時一升瓶が値上がりして、金持ちに成ったとの話であり、其れは、「人生は 何がどう成るのかは、後に成って見なければ 判らない。」との比喩を示すモノであった。
其れに、馬小屋から馬を引き出して、私を馬に乗せて「姿勢を正して 胸を張れ」と謂って、手綱を引いて馬を歩かせてくれたので、私は堂々と周りを眺める目線を、覚える事にも成った。
私は、其の幸盛小父の話と指導で、眠れなかった日々が穏やかに成り、救われた様な気持ちを感じたのである。
其の幸盛小父は、とても風変わりな生き方をして居たので、一般的には「幸盛ボッケ」と呼ばれていた。
其れは、停留所に馬を連れて立って居り、木炭バスが到着すると、馬と一緒にバスに乗ろうとして断られたり、無免許でオートバイを運転して居て警察官に止められ、交通違反だと謂われると、「自分は乗ってはいない」と謂い、警察官がエンジンに触って「熱いじゃないか」と謂うと、「エンジンを掛けたまま押していた」と謂い、警察官の勤務時間が過ぎる五時まで、押し問答が続いて、警察官が諦めて帰ってしまったとの事などである。
其れ以外にも、多くの逸話が残っており、私は数年間付き合いをして居たので、その幸盛小父の生き方や仕草に付いて身近で観察できたので、其の幸盛小父の人と成りに付いては理解できている。
幸盛小父は、元気な時は夏に、田代海岸の川の側の林の木に、竹を渡してテントを張り、川の流れにビールを冷やしていて、腹が空いたら、海に潜って魚や伊勢海老やトコブシ貝を捕って来て、流木を集めて火を熾し、焼いて食べる生活をして居た人物である。
そして、自分でベニヤ板を組み合わせた箱舟を作って、近く磯の入り江に繋いでおり、夕方から小さな船外機で、1時間程掛けて安房の川沿いに有る酒場に出かける事が有り、私は誘われて、箱舟の中に流れ込んで来る海水を、バケツで汲みながら、お供をした事も有る。
其れに、或る日の昼間に、一人で幸盛小父の自宅を訪ねると、幸盛小父は家中の畳を剥いで、一部屋に全て積み上げて、其の上に座ってビールを飲んで居り、横には、何ダースものビール瓶が入ったケースが置かれていた。
周囲の様子を見渡すと、家中の障子や襖が外され、押入れの布団や棚の衣類など全ての物が床の上に出されており、天井板も全て外して下に降ろしているので、其の家の様子は、建てたばかりの柱と壁だけの家の様に、成っているのである。
私は、其の様子を見て「幸盛小父 どうしたのか」と訊ねると、「女房に腹が立ったので 追い出してから 此の様にした。」と謂うのである。
私は、其の幸盛小父に「後片付けが 大変ではないか」と謂って、其の日は退散した。
其れから、後日再び訪ねて見ると、奥さんが庭にて一人で、天井板に水を掛けながら、一枚一枚束子で漉すって洗って居り、家の中を覗くと、家の中は綺麗に掃除されて元通りに成っていた。
其の様な正確の幸盛小父は、年取ってから牧野地区の山手に有る果樹園を購入して、其処に小さな木造の家を建てて一人で生活を始め、池を造って鯉を飼い、魚屋から廃棄する頭や骨・腸などの魚屑を貰って来て、池の上に渡した網の上に置いて、其れに蠅が卵を産み付けて、蛆が水面に落ちるのを鯉が待っている様子を、眺めたりして居た。
其の幸盛小父の家には、悩みを抱えた人達や、酒を抱えた人達が度々遊びに来て居たので、私の様に救われた人々や、機知・アイデアを授けて貰った人達が多く居たであろう事が、予想できる。
私は、屋久島を出る前に、其の幸盛小父には「葬式代を先に渡して措く」と謂って、三万円を手渡して旅に出たので、其れが幸盛小父との最後の接触と成った。
今日は、以前の事を調べていると、明日6月3日の日付の文章が有った。
2004/6/3・・私達人間が、自分を認識するシステムは、どうなっているのだろうか。
それを一口で謂うなら、親の姿を見て育ち、その摺り込みが土台に成って、その基本からのズレ具合で、自分の意識を積み上げて来ていると謂えるだろう。
自分の基礎的な部分は、親の行動が本と成っているので、私達は、他人から自分の親を否定(侮辱)されると、無性に腹が立って来るのである。
親ばかりか、自分が信じて学んだ師や教師の否定も、自分が侮辱を受けた様に感じてしまう。
其れは、自分の価値認識が、他人の姿を借りているからである。
人間が、学ぶと言う事は、他人の姿、其れも、自分に都合の良い方を選んで、摺り込み続けると言う事になる。
だから、「まなぶ」とは、「まねぶ・まねる」から変化した言葉というのも、頷ける。
私達の自己認識とは、人真似の上に成り立っているのだ。だから、最大の問題は、自分が信じて真似た相手が、道や法から外れていると、自分も道や法から外れてしまう事になる。そう成らない為にも、自分が真似る相手の真実性を、チェックし続けなければならない。
世界中には、多くの宗教が存在するが、それも皆、最初の処に、人間の誰かの存在がある。仏教は、インドの「釈迦」に由来するし、カトリックは「イエスキリスト」に由来している。
現代人は、数千年前の彼等の、知識や行動を拠り所として生活し、自己認識の「ずれ」を起こさない様に、努力して来た。
その点、私自身の事を振り返って見ると、無宗派の家庭に育った私には、父や母の姿の他には、何も対象人物が居ない。
両親が、単独で山野に生活を始めたので、祖父母の影響も皆無である。
私の自己認識は、父母の姿や行動が規範と成って、組み込まれていると考えられる。宗教・哲学・思想が、他人を通してではなく、父親の生き方のフィルターを通して、感知されて来ているのである。
私の意識は、屋久島の自然の中で生活する父親の姿を、写し取って出来あがっているのだ。特に父親が、私の17歳の秋に、49歳で亡くなってしまったので、老化して行く父親の姿は、私の記憶の中には残されていない。
私には、働き盛りの父親の姿しか、意識に組み込まれていないので、画面が、静止画像と成っているのである。私の意識は、父親が亡くなった事で固定化され、土台が、揺れや移動を起こさないのだろう。
背景の自然も昔に近いし、私は生まれ育ってから、故郷の移動も無いので、無意識の土台となっている映像も、安定していると言える。
57歳のいま、自分の意識を探っても、57歳の自分は無く、自分より若くしてこの世を去った、父親の姿を見詰めていた、子供の頃の自分しか、私の意識の内側には残っていない。
私は、高校にも大学にも進学していないので、学園生活の思い出も無いし、地元の小学校と中学に通っただけなので、学校自体も、故郷の景色の中に納まっている。・・・
「自己認識」http://moon.ap.teacup.com/20061108/491.html
此の文章の内容は、全く記憶には無いので、文章を書き残すと言う事は、自分の魂しいの訓練と言うか、魂磨きに無くては成らない物であると言う事に成りそうである。
其れは、老子だけが晩年に、自分の考えを5000字にて「道徳経」に残せた事と関係が有り、死後、誰にも世話を掛けていないし、迷惑も掛けてはいない事の理由でもあるのだろう。
平成29年6月2日
礒邉自適
2015/4/21
帰命の次元
27・4・21
昨日は、メッセージの文章を書いて、2009年11月分の文章を10日分行ってから、作業を止めて生姜風呂に入浴した。
そして、風呂の中で寛いで居ると、何故、私が、森の中で安らぐと気持ちが良いのかが、理解されて来た。
其れは、森の中に座って居ると、人類が650万年前に、アフリカの中央部で森から草原に出た、直前の次元に、人間の記憶が還れるからである。
其れは、チンパンジーと99%が同じ「DNA・遺伝子」の記憶が、環境と一体化する為であり、其れは神社で額づいて、榊の枝で頭上を祓う儀式の意味に通じており、人間の人間らしさが消去されて、生命の原点に意識がチャンネルし、記憶が復帰するからなのである。
そして、其の次元では、チャンネルが湿気・潤いのある森の植物や大地と同調するので、DNA・遺伝子の記憶が、40億年前の生命の起源まで辿り着き、岩を溶かしてDNAの鎖を繋いだ所まで返れば、其の岩の構成物質の周波数から、宇宙の始まりであるビッグバン現象の、光の源まで、記憶が蘇って来るのである。
其れが、「アカシックレコード・宇宙の記憶盤」と呼ばれて来た物の、存在なのであろう。
だからこそ、釈迦牟尼は「真に頼れる物は 此の自分の肉体だけである」と謂っており、イエスキリストは「貴方達は『どこから来たかと』訊ねられたら、光の元から来たと答えなさい。『神は何物かと』訊ねられたら、此の大自然その物と 答えなさい。」と、謂っているのである。
だからこそ、「神社」や「寺院」は木々が茂り、磐座・いわくらが有って、清水が流れる山岳地帯に造られるし、男性の修行は其の様な環境の場・グランドで行われて来たのである。
今朝のメッセージの内容は、私に31年前に起きた現象が、何であったかの説明が出来る・解答を得た事で、虹の螺旋構造の円錐体が完成し、頂点が出来上がった事で、底辺の84000の法門が開かれ、「煩悩即菩提・ぼんのうそくぼだい」の世界が、開幕した事が示されて来た様である。
平成27年4月21日
礒邉自適
2008/7/3
人間の深層心理
20・7・3
本日7月3日は、私の日本国中の家離・たびが2日に終って、新しい人脈に接触し、新しい世界を歩き始めた記念すべき大事な日である。其れは1985年の事だから、其の日から既に23年が経過している事に成る。
其の日の朝、宿泊していた京都府網野町の温泉料理旅館「木津館」のご主人「井上昌一氏」に、曹洞宗の寺である龍献寺の「安井桂造禅師」を紹介され、其の安井桂造氏から、亀岡市に有る西光寺の「田中真海禅師」や、大月の「森山大行禅師」や、伊豆の「村上光照禅師」を紹介された。そして、亀岡の田中真海氏から、次々に鎖を辿る様に新しい人脈が繋がって、私の今日が在るのである。
何故、最後に泊まった宿が木津館でなければ成らなかったのか。其処に、不思議な神の世界の神秘が隠されていたのである。其の木津館では、「押田神父」等のグループである9月会議が開かれていたのである。
そして、私が新しく人間社会・世間に侵入する入り口は、禅宗の道からと成ったのである。其の入り口が異っていれば、現在の私の世界は違ったものに成っていたであろう。
日本では、曹洞宗が一番「釈迦仏陀」の悟りの世界を継いでいるものであるし、中国の「老子」の世界にも近いのであろう。だから、私の意識体とも、スムーズに溶け込んだのではないだろうか。
私は、田中禅師と縁が結ばれ、曹洞宗で禅に親しんだ事で、私には「待つ」と言う一番大事な精神構造が出来上がったのである。
其れが出来ていなければ、昨夜、宇宙の霊的な圧力が掛かって来て眠れない時に、24年前の様に耐え切れなくなって、夜中に外を徘徊する事に成っていたかもしれないのである。
其れは、一度始まってしまえば、なかなか止められない世界である。
其の事は、松尾芭蕉や種田山頭火の行動心理を見れば、良く解かる事である。
其れは「歌・言葉」を通して、神霊の世界に触れ会う事は出来るが、王・皇帝と成って立ち止まり、国造りをして、民の生活を護る事は出来ないのである。
今朝、其の事を考えて居て、イメージに浮かんで来た事は、王の立場は視線を真っ直ぐにして世間を視る事である。
反対に、仏陀の様に瞑想をして霊的世界に触れる者は、目線を下げたり、目を瞑ったりして、下向きに目線を下げて、世間を見ない様にするのである。
其の様に、三次元に接する者と、四次元である絶対世界に意識を向ける者は、視線が異なることが分る。
其れに、今朝気付いた理は、生物の意識の方向が、動物型の生殖機能は後ろに付いているので後ろ向きに成っており、植物は花が生殖機能なので上向きと成っていることである。
其の理・ことを考えると、人間の女性が化粧をするのは、下半身に向いている意識を、鏡を見て化粧をしたりする事で、上に上げ様としている行動なのかもしれない。
其の様に考えると、人間の深層心理の一部が見えて来る様な気がする。其れに、男女がキスをする行為も、下半身に有る意識を、上に移動する為の行為なのではないだろうか。
そして、其れ等の本能から逃げる行為が、出家をしたりして異性から離れる事なのかもしれない。
確かに、目で異性を見たり、異性の声を耳にしたりすれば、下半身に有る本能が刺激されて、意識が反応するのは確かな事である。
其れは、其れが大事な本能であり、其れが無ければ遺伝子の存在が途絶えるのだから、大事なことであり罪ではないのである。
だから、出家をしたり、山に籠ったりする事は、本能との戦いと言えるだろう。
其の本能に気付き、生命のシステム、法・ダルマに目覚める事は、悟りではあるが、其れを逆に考えると、悟りの状態は、完璧な自我意識と言えるものでもある。
其の様に考えれば、佛教は大きな矛盾を抱えている事に成る。
そして弁財天の働きは、物を管理し必要な者に物質を与える立場だから、遺伝子の存続の為に、子供を生み育てる女性に物を与える事は、当然の理と言えるのだ。
だから、男性は其の女性の為に、弁財天の使いとして、女性に物を与える役割を果たしているのであろう。
其の様に考えると、此の世界は、女性や雌の為に、全てのシステムが組み込まれている事になる。其れが、此の地球の大自然の真理なのだ。
だから、古代の人達は其れを知っていたからこそ、此の目に見える世界を「色・シキ」の漢字で現したのであろう。
「色」の漢字は、前屈みに成った女性の後ろから、男性が乗っかってセックスをして居る象形文字である。其の漢字の意味からも、古代の人達にはセックスは罪ではなく、神聖な行為として考えられていたのであろう。
だから、現代社会の様に性に対して歪んだ考えは無かったと想われる。しかしそう謂っても、現代社会の其れは、とても神聖な行為とは言えない事は確かである。
せめて、弁財天が喜んで物を与えてくれる様な、社会体制を整えて行かなければ成らないだろう。其の為には、真実を求める人々が手を取り合い、理想郷を創らなければならないのだ。そうする事に拠って、神々も人間の生活を支えてくれるのである。
そして、我々人間は、全ての生命の陰陽のバランスが調和する様に、是から取り組んで行かなければ成らないだろう。
其の為には、本気に成って、新しいシステムを立ち上げなければ成らないのだ。其れが、是からの私の社会貢献と言う事に成るのではないだろうか。
其れが、立派に成人した息子の姿を見た、私の社会への感謝の気持ちである。
私は是から、王の立場で目線を真っ直ぐにしなければならないのか、其れとも少し俯いて三日月の目で瞑想し、慈悲の心で静かに座っていなければ成らないのか、其の方向性は今日の処は未だ判らない。
平成20年7月3日
礒邉自適
2007/9/19
殻を脱ぎ捨てる
19・9・19
今朝のメッセージで、私の意識も新たな展開が必要になって来たような気がする。其れは、肉体が老化しても、永遠の御霊が宿っていれば、意識は、純粋な若者の様に、物事を考えられると言うことである。
其れが、中国で考えられている「老小」との言葉の世界ではないだろうか。
老小とは、老人の中に、少年の心が同居している様子を意味し、普通の生活では、子供の様に自由に遊んでいる老人が、大事な時には、何百年も生きている仙人みたいな顔や、仕種に、変わる事を言い表している。
其れは、確かな見識の有る良寛さんが、「大愚良寛」と、自分の事を卑下しながら、子供と鞠つきをしている姿に似ている。
其れは、頓智で有名な、一休さんの遊び心にも、通じるものなのかも知れない。
今朝の霊夢は、私自身の意識が何処までで、霊界人の霊魂が何処まで働いているのか、それに、人間の意識の上に、宇宙の意識がどれだけ関わっているのかの、区別が着かないものであった。
区別が着かないのは、人間霊の意識の他に、光りの世界や、水の有る世界が映し出されて来るので、其の演出を、誰が行なっているのかが、定かに成らないからである。
今日感じた事は、其の説明が、言葉で上手く表現出来ないと言うことである。
聖書の言葉には「父と子と精霊の御名」と有るが、其れは、イエスキリストが、自分が子で、父が天の神で、他に多くの精霊・御霊が存在して働いていると説明している事にある。
其の、イエスの謂う天の父とは、本当に男としての父なのであろうか。
其れだと、ゴッドも、エホバも、アラーも、皆、男性神に成ってしまう。
果たして、「宇宙神・サムシンググレート」が、男性神と言えるのであろうか。
今朝、私が、ビジョンの中で体験した世界は、永遠の魂しいが、人間の肉体を乗り物として取り替えながら、認識作業を続けていた。
そして、其れが、私の意識だったのである。
其れは冥界の出来事であって、目を開けて、此の世の景色を見れば、窓の外には屋久島の景色が有り、虫の声と潮騒の音がしているのである。
しかし、私が23年前に体験した世界では、此の現実の世界が変容して、不思議な事が何度も起きた。
其れは、「色即是空・空即是色」の言葉を、確かな真実として、実感出来るもの・現象だったのである。
その現象を起こしたモノが、精霊の力なのか、宇宙の意識なのかの区別は、私には出来ないでいる。
其の時の不思議は、私の個人意識が其れを求めるのではなく、私に其の様な世界が在る事を、認識させるものであった。
其の現象は、私が、神と霊魂の存在に対して、疑いが消えてからは、起きなく成ったのである。
しかし、此の三次元の現実世界で、物質現象としては起きなく成っても、此の三次元の裏側に、其の力が働いていて、此の世を管理している事は、日増しに強く感じられる様に成って来ている。
其の現象の一部として、私へのメッセージも有るのだろう。
今朝は、広島の谷君より電話が有り、昨日9月18日は、多くの人が、「クォンタム・リーヴ(次元上昇)」が有ると、騒いでいた日であった事を伝えて来た。
私は、其の言葉を初めて耳にしたのだが、其れを聞いて、私の意識も、其れに合っていた事が判った。
昨日、私のビジョンの中で、8次元から9次元への扉が開けられたのも、宇宙の働きだった事になる。
私以外にも、多くの人がクォンタム・リーヴを体験したのであれば、其れは、私の自我意識とは関係なく、事が進んでいる事になる。
其の先端意識が、誰の頭脳を通過して、全体に影響を与えているのかは定かではないが、屋久島の花崗岩の山や、私の意識も、其れに関わりが有る事だけは間違いないだろう。
私は、宗教組織も持っていないし、弟子も、信者も、一人も居ないので、自分の意識の管理だけに、意識を集中出来ている。
だから、今朝の様な、幾つもの場面の映像を、言葉に置き換える事が出来るのである。
其の事を考えると、私は、其の為に生かされているような気がする。
何故、私が、此の様な状態に在るのか、其れは、私の肉体を器として、何者かが使用しているからであろう。
私が、毎日見ているビジョンは、其のモノが、私の脳を使っているからであろう。そして、其のモノが、私の肉体を使い、こうしてパソコンを打たせているのだ。
其の存在は、其の作業が終われば、私の肉体を脱ぎ捨てて、新たな肉体を捜しに行くのであろう。
其の霊魂が、私本人のものなのか、私の意識とは全く別のものなのかは、私自身には区別が着かない。
今日感じた事は、エジプトのピラミッドも、マヤの神殿も、私の中に存在している意識体と同じモノが、自分の意識を確立する為に、創出したモニュメントに過ぎないということである。
其れは、既に必要ではないから捨てられた物であるのだ。
其の意識体は、現在・いま世界中に拡大されているインターネットの中に、磁気信号として潜り込んでいるのである。
だから、インターネットとパソコンと、電波塔やアンテナは、皆、其の為の器と成っているのである。
当分は、其の殻は、脱ぎ捨てないのではないだろうか。
何故なら、其の世界は、いま成長段階であるからである。
そして、私の身体も、意識も、其の為に利用されているのである。
だから、24年間仕事を持っていないのに、こうして生かされているのである。
其の証拠は、私に、他の事はさせない様にしている事で、明らかである。
其れは、私の行動を自由にして措き、私の身体を100%自由に使う為である。
其の事に気付けば、少々馬鹿らしく成るが、七人もの子供を与えられ、其れを人質とされているのだから、其の子供達を救う為にも、此の作業を止める分けには行かないのである。
取り敢えずは、2012年12月23日までは、此のまま、其のヤドカリ虫(虫は龍の略字)を追い出す事なく、付き合って行くしかないのであろう。
この様に、パソコンに向かって、毎日文章を打っているのも、誰の意識なのか分かったものではないのだ。
其れが、「自我」と「所有」を離れて、自由に在るとの事ではないだろうか。
こうしていると、無言ではあるが、自分に、行為が伴っている事だけは、明らかである。
其の行為が、宇宙のシステム其のものと言えるのかも知れない。
其の、何者かに付けられた名が、「はたらき」の意味の、当て字の「神」である。「神様」とは、目に見えない働きに名付けられた名であり、目に見える物は一切神ではないのである。
だから、神を見る為には、色が着いていて視覚に捉えられたり、匂いがしたり、味がしたり、手で触れる物から逃れ、冥界を見る「瞑想」が必要なのである。其れが、六根清浄の意味なのである。
其れを、本当に実行しても、こうして毎日遣らされる事が有るのだから、一切を捨て去る事を、恐れては成らないのである。
私の果たしている役割は、全てを捨て去った人間が、何不自由無く暮らして行ける事を、皆に知らせる事の為にあるのかも知れない。
平成19年9月19日
礒邉自適
2007/9/15
観極める
19・9・15
昨日の、女神の言葉で「何も無い」と有ったが、其れは、外側には何もなく、一切が、自分の内側に起きている現象に過ぎないとの理・ことを、知らせるものであったらしい。
今朝のメッセージは、宇宙のシステムが、全部、人間の肉体の中に在り、其のシステムが人間の思考を管理し、人間社会の全てを、創造しているとの理・ことである。
其れは、エジプト文化の考えと同じものがある。
今朝のメッセージの映像は、人間の五体や、五臓六腑に、全ての宇宙の働きが秘められている事を、順を追って示して来ている。
「人体図」http://www.3bs.jp/index.htm
今朝の映像には、先ず裸の男女の胴体だけが出て来て、女性の身体は頭を右にして、お尻が左側に有り、其の屈んだ女性の後ろに、男性が乗掛かっている場面が映し出されて来た。
其れは、漢字の「色」の象形其のままの形である。
次に、漢字の、画数の少ない文字から、順番に大きな画数へと、横に沢山並んでいるのが映し出されて来た。
そして、「愛」は、「エロス」が根源エネルギーになっていて、「アガペ」は、神の側の意志である事が強く示された。
其れから、淡い紅色の服を着た女性が、下から上を見上げて、盛んに手振りをしながら、言・ものを云って、何かを、盛んに訴えて居る映像が現れた。
其の場面で、私の意識が、其れを上から眺めているのが、不思議に思われると、其れは、人間の身体の構造に関係している事が、理解されて来た。
其れは、女性の意識の本体が、肉体の下側の生殖器に在り、肉体の上位に有る脳・情報部に、生きる為の生存条件を早く整えろと、告げて来ているのである。其の様子を、脳の立場から見れば、女性が、下の方から訴えて居る様に見えるのである。
其の、上に存在する情報部の本体が、大脳の指令室なのであろう。
其れは、身体全体の情報管理を大脳が行なっていて、生殖器の情報も管理していると言う事になる。
其の脳意識・情報部が、情報整理の為に考えだしたのが、記号絵文字であり、其れが発達して来たのが、中国の漢字である。
だから、今朝は、其の漢字が、順番に並べられていたのである。
其の漢字は、全部男性が考え出したものであろう。
何故なら、女編の漢字が144も当用漢字に有り、中国では1000文字も有ると言う。
処が、男編の文字は無く、男が旁に使われている「甥」の文字くらいしか無い。
其れは、漢字は全部、男性が創った事を意味し、女編の文字が多いのは、男性が女性の動きを見て、創り出した事を意味している。
そして、其れは、「大脳」を進化させて来たのは、男性の方である事を意味している。だから、男性は理屈ぽいのである。
其の事を「男は頭で考え 女は子宮でモノを考える」と表現するのだろう。
其れは、男性の意識が、時間的に浅い事を意味し、女性の意識の方が、時間的に古く、本能的であり、根源的である事を意味している。
だから、人間の本質や、生命の根源を知る為には、雌の立場に立って、物事を考えなければ成らないのだ。
其れは、人間の一番古い記憶が「蜥蜴・とかげ」の脳に有る事になる。
人間の脊髄の上に乗っている脳幹は、古皮質と言って「蛇」と同じ脳である。
其の古皮質が、自立神経をコントロールして、心臓や肺の動きを管理し、ホルモン分泌を促して、身体のバランスを司っているのである。
だから、中国の「タオ・道」のシンボルマークは、雌雄の蛇(蜥蜴)なのである。
其れに、エジプトのラーの神官が手にするヘルメスの杖にも、陰陽・雌雄の蛇が巻き付いている。
其れ等の事は、古代から、神の世界の入り口には「雌雄・陰陽」の蛇が、門番をしていると、考えられていたからであろう。
其の蛇こそ、人間の身体の中に潜んでいる、意識の元の「DNA・遺伝子」の二重螺旋構造の情報なのである。
其の、二重螺旋の記憶である情報が、全ての生命の道案内をしているのである。
だからこそ、「ヘルメスの杖」には、陰陽の蛇が巻き付いているのである。
其の杖の把手は鷹・隼である。
其のシンボルの杖は、マヤ文化では羽根の生えた蛇として、空間に飛び出してしまい、太陽の使いとされたのである。
其の蛇が、管理する物が、人間の心臓なのである。
マヤの人達には、心臓の心拍が時刻を刻むモノであり、其の心臓の生命力が、太陽と繋がっていると考えられたのである。
だから、マヤ文化の神は、時間を司る神とされ、トキを刻む生きた心臓が、太陽に捧げられたのである。
其れは、人間の古皮質が、蛇の脳と同じであり、自律神経を司っている理・ことを、無意識で感じとっていたからであろう。
だから、心臓は、時間を司っている物と考えて良いだろう。
其れは、2年間しか生きない鼠も、50年間生きる象も、心臓が一生の内、同じ回数の15億回しか脈を打たない事で証明されている。
人間が長生きなのは、鼠パターンではなく、象のパターンだからである。
そして「人生50年」との言葉が有っても、健康で長生き(緩やかな呼吸をする者)」は、120歳近くまで生きる者も居るのである。
だから、心臓の心拍数こそが、真実の生物の時間であり、生活に使っている時計は、本当の生命時間ではないのである。
しかし、人間が創った時計も、人間の心臓の心拍数60回を1分間とし、呼吸が自然で静かである時の12回を、1分間としているのである。
だから、人間が健康で、瞑想状態のときの時間は、心拍数が60で、呼吸が12回なのである。
其れを、確認する意味の漢字が「寺」で、寺は「止+寸」の組み合わせで、意味は「歩き出す前に 右手の脈を 左手の親指で 計る」である。
其れに、太陽の意味の日を付して、時間の「時」としたのである。
そして、「寺・てら」の漢字の意味は、其の様に、自分の心臓の脈と肺の呼吸の安定を計りながら、宇宙と共鳴して物事を考える人の書いた文章を、置く建物の意味である。
其の意味から、釈迦牟尼佛の教えを書いたお巻物・経典を置く建物の意味から、寺が、寺院のテラに使われる様になったのである。
因みに人間は、話し始めたり、歩き始めたりすると、心臓は、心拍数は上がり、呼吸も速く成る。
だから、長生きする人は「長い呼吸をする」の意味で、「長息・ながいき」なのである。
心臓は、単に、血液のポンプだけの役割を担っているのではなく、時間を刻んでいるのである。
そして肺は、ガス交換をしながら、宇宙空間の中に、自分の存在を確保しているのである。
だから、「生きる」とは「息をしている」との意味で、呼吸・ガス交換をしている事が、生きている意味で「呼吸・ガス交換」が止まった時が「死・枯れ」である。
だから、どんな生物も、ガス交換・呼吸をしている間が、生きて居ると言えるのである。
他にも、胃は、酸を分泌し食物を溶かす働きの他に「意識・イメージ」を生み出し、【12指腸】は、胆嚢から送られて来る胆汁・アルカリを分泌する働きの他に思索を促し、【肝臓】は、グリコーゲンの合成・貯蔵・分解、血糖分泌、血漿蛋白などの合成・解毒、胆汁生成と分泌などの、毒素分解の働きの他に、勇気を管理し、【腎臓】は、水分や窒素代謝産物の濾過分離排泄の働きの他に、生殖を管理しているのである。
他にも、様々の人体の働きが有る。
今朝のメッセージは、其れ等の働きを、これから見詰めて解読して行けとの事であろう。
昨日は、臍から生まれたブラフマンが、創造を司るビジョンが伝えられて来たが、今朝のメッセージは、新しき世界を創造する為には、生命の本質を把握する為に、人間社会の構築に目を向けるのではなく、自分の内側に意識を向けて行き、人間の本質・原質を見極めろとの事らしい。
是は、私にも、思い掛けない方向性である。
私は、世間の中に、出て行かされるのかと想って居たのだが、どうやらそうではなく、新しい人間社会を構築するのには、人間の本質を先ず見極めてから、地球全体の生き物の事を把握し、その調和を先ず計る事が、未来創造に繋がるとの事であろう。
そう成って来ると、釈迦牟尼佛の謂う「衆生一切我が子」との言葉を、もう一回考え直さなければ成らない事になる。
釈迦の意識の中で、九十九折に成って居た大蛇が、私の中でも、眠りから目を覚ましたのであろうか。
そうだとすれば、蛇は古語ではエラブで「選択・えらぶ」の意味であるから。其のエラブの働きが、自分の腸・はらわたの中を、右往左往し始めるのであろうか。
そして、一番下の「ムラダーラ・チャクラ」クンダリーニの雌蛇が、上の6つのチャクラに、早くしろと叫んで来ているのである。其れを観て居た私の意識は、其の何番目の意識なのであろうか。
参考 チャクラの図http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/a2a958285a835722069dfa000d3a935d
一番上の、第七チャクラは「百合・ヒャクエ・頭頂・サハスラーラで、第六がアジナー・チャクラで、第五番目の「ビシュダ・チャクラ」が咽仏の位置で、創造を意味しているらしい。
其れだと、咽仏が大きいのが男性の特徴で、大きく成るのは声変わりのトキだから、言葉に関係している事になる。
其れだと、言葉はマントラ・真言で、マントラの意味は「言葉を使って考える」のだから、咽の奥に有る声帯が、創造を司る器官であるとの事は、意味が合っている事になる。
今朝の、下から上を見上げて、何かを伝え様として居た女性の叫びは、言葉としては聞こえなかった。
其れは、女性は、言葉を司っていないとの意味ではないのだろうか。
そうであれば、言葉は雄が雌を口説いたり、縄張りを主張したりする為に、鳴き声・言葉を開発して来た事になる。
其の為に、声帯が変化して、咽仏が大きく発達して来たのではないだろうか。
そうであれば、今朝の女性は、早く新しい「言葉・マントラ・真言」の世界を創れと、上のチャクラに、声無き声で叫んでいた事に成るのだ。
だとすれば、是から私の意識には、様々な人体の器官から、御呼びが掛かって来るのかも知れない。
そうであれば、私の是からの活動は、五感や六識、其れに体内の五臓六腑の働きなどの、解明に向かうのかも知れない。
そうなれば、現在の世相のスローフードや、食育の関係者の興味を、引く事に成るのではないだろうか。
平成19年9月15日
礒邉自適
2007/9/3
三本足の烏と創造性
19・9・3
今日は、風も無く、海も穏やかで、自宅から見下ろす太平洋の広い海には、「縄張り追い込み式の 飛び魚漁」を行なっている二艘の船が、ロープを数キロm張ったり、網に誘い込んだ飛び魚を、船に掬い上げたりしている様子が遠くに見えている。
私は、今朝のメッセージを打った後、食事を済ませてから、其の穏やかで、夏の太陽の光が満ちている、岡の上に有る一軒屋の建物の部屋で、瞑想を始めた。
すると、私が男性であり、其の男性の本能が何なのかが、自覚されて来た。
其れは、男性の「性・セックス」は、創造性を司っていると謂うコトである。
何故、インドで「リンガ(男根)」が神とされているのか、其れは、男性の性が創造性にあるからなのだ。
そして、其の性のエネルギーは、太陽光線と直接繋がっており、共鳴しているのである。
其の証明として、太陽の光が満ちている夏に、蝉はセックスの為だけに、一週間程地上に出てくるのである。
其の、蝉と同じ生命のプログラムが、人間の生命プログラムの中にも、組み込まれているのである。
私が現在、何故こうして「独身・ひとりみ」でなければ成らないのか、其れは、其の性・セックスのエネルギーを、全部、未来創造の為に、振り向けなければ成らないからなのである。
私に、若くて美しいパートナーが居たり、子供が居たりすれば、其の男性エネルギーは、全て、其方に向けなければ成らなくなる。
だから、神はこうして、私を他人の訪れない、一軒屋に住まわしているのだろう。
私が今日、瞑想をして居て気付いた事は、太陽には、神の使いとして、三本足の烏が住んで居ると考えられ、密教の護符にも三本足の烏の絵が書かれたり、神社に三本足の鳥居が建てられたりしている。
其れは、男性の創造性が生み出した、人間の脳の創作物であり、現実には存在しない物である。
男性が、本格的に瞑想状態に入って行けば、二本足で立ち上がって歩く、「人・ヒト」としての自分自身の中に、もう一つ創造性のエネルギーが、立ち現れて来るのである。
其れは、脳に在るプログラムではなく、情報を蓄えた精子を生産する為の、情報とエネルギーが、脳に影響を与えるからなのである。
其れは、ペニスの形や、勃起のシステムが、マツタケや椎茸等のキノコが、菌(精子)をばら撒く為に、立ち上がって傘を広げるのと同じシステムが、人間の身体に存在している理を、明らかにしている。
私がこうして、パソコンに向かって、自分の思考を文字にし、情報としてインターネットで発信する行為は、植物が、自分の花粉を風に乗せて、撒き散らす所作と同じ行為なのである。
其の様に考えれば、動物だけではなく、植物も全部・みな人間と同じ、男根の持つシステムを有しており、其れが生命の基本であり、其れこそが「いのち」其のモノであると謂うコトに成る。
だからこそ、インドでは、神は「リンガ・男根」に在ると考えたのであろう。
「太陽神スーリヤ寺院」http://chaichai.campur.com/architecture/konarak01.html
しかし、其れは「男根・リンガ」其の物に在るのではなく「遺伝子・DNA」の中にプログラムされている情報の中に、存在しているモノなのだから、リンガをシンボルとして立てて、其れをいくら拝んでも、何にも成らないのである。
だから、「男根・リンガ」の形を祈りの対象としても、何にも成らないし、其の様にしている者は、ただの迷信者であると言えるのである。
私は、書くまいと想って居たのだが、此処まで書いてしまえば、発表した方が、未来の旅人の為に成ると考えるので、書く事にする。
其れは、作詞家の阿久悠さんが亡くなった時に、私のペニスの先にビリビリとカモ(神の電気信号)が流れて来た。
それで、私は、歌謡曲を生み出すエネルギーは、ペニスに関係が有る事が解ったのである。
其の「カモ・(神の電気信号)」がペニスの先に来る体験は、私にとって初めての反応である。
昭和天皇が亡くなった、1月7日の夜半、寝ている私の心臓に、ドカーンと凄い衝撃が来て、私は飛び起きた事がある。
天皇の役割は、「心・たましい」に関係が有るので、心臓に回収されたのであろう。
(回収とは 宇宙の源に帰る為の 通り道に成っている通路を 通り抜ける意味である)
其れ以前に、佐賀県唐津の人間国宝の「中里無庵氏」が亡くなった時は、私が師匠の家で「無庵作」の小皿を左手に持って食事をして居る時に、其の皿を通して無庵さんの「魂・エネルギー・情報」が、手から身体に、回収された事が有る。
其れに、東京都知事をしていた美濃部さんが亡く成った時は、頭に回収された。其れは、美濃部氏の血筋は、頭脳優秀な家系なので、頭脳に回収されたのであろう。
其れに、有名な大分県別府の長松寺の禅宗の山田老師が亡くなった時は、臍の辺り(丹田)に回収された事がある。
其れは、禅宗の修行が、丹田に気を溜める事に有るからだろう。
其の様な出来事を、書き連ねて行けば、ブログの字数制限の規制に引っ掛かってしまうから(紙面の都合?)、此処らで止める事にするが、要するに、恋だの、愛だのとの、感情や言葉を生み出す元は、男根(セックスエネルギー)に在ると言う事である。
今日、私が瞑想で感じた大事な「理・こと」は、英語の「ラブ・love」はギリシャ語の「エロス・性愛」と「アガペー・神の愛」の両面を意味していて、其れはエロスとアガペーが、木の葉の表裏の関係に在ると言うことである。
其れは、木の葉の仕組みだけではなく、人間の精神も、其の両方の感情を秘めていると言う理・ことである。
其れが、どちらが強く、表面に現れて来るかで、人格が違ってくるのである。
しかし、其のエネルギーは、どちらも木の葉と同じで、太陽光線の力・エネルギーで、育てられているものなのである。
其の、目に見えない太陽光線の働き・影響を、天照皇大神の働きとして、鶏や、鳳凰や、三本足の烏に例えたのである。
「参考HP」http://katori.adam.ne.jp/karasu/karasu-3/kodainosakata.htm
其れは、エジプトの「ラー・太陽」の神官が手に持つ、ヘルメスの杖の握りの部分の鷹や、マヤ文化の「ククルカン」の羽根を持つ蛇などとして、物の形に創造され、伝え残されて来たのである。
「ヘルメスの杖」http://moon.ap.teacup.com/20060615/8.html
何故、ヘルメスの杖が、空を飛ぶ鷹と、地を這う蛇の組み合わせなのか。
其れは、蛇の雌雄が交尾の為に絡みつく姿が、「エロス・性」の象徴とされ、空から地上を見据える鷹の目が、人間界を見下ろす神の意志と、喩えられたからであろう。
私には「ラブ」の言葉は、「ラビ」と関係が有る様に想われて来た。
ラビは、ヘブライ語で「我が主人」の意で、ユダヤ教の教師の敬称である。
其れは、エジプトの「ラーの神官」に繋がる言葉ではないのだろうか。
「ラビ」も「ラーの神官」も職業としては、同じものである。
エジプトの【ラー・Ra】は、古代エジプトの太陽神。鷹をかたどった頭に日輪を戴く形で表現。テーベの守護神アモンと同化してアモン-ラーと呼ばれ広く崇敬された。 広辞苑より
鷹の頭に日輪を戴くイメージは、島根県太田市に有る「物部神社」の神紋「日輪を背負う鶴」と、同じイメージである。
「物部神社」http://www7.ocn.ne.jp/~mononobe/
其れに、「ラー・ラァ」は太陽だが、「ア・阿」は「大日如来・マハーヴァイローチャナ」を意味し、アステカの神も、暦の鏡板では太陽の顔で現され、長く出した舌の真ん中には、カゴメのマークが着いており、音はアである。
其れに、比較的新しい宗教のイスラムの神の名も「アラー」で「ア」と「ラ」の組み合わせである。
日本の神社の、鳥居門の入り口に当たる、右側に置かれた獅子も、口を開けた「ア像」である。(左の出口は「ン像」)
其の様に考えて行けば、テーベの神の「アモン」も「あ門」の「ラー・神」である事になり、アの音が太陽の門を開く「鍵・キー」である事になる。
其れは、アーの音が、三本足の烏を呼び出す言葉であるとの意味に、受け取っても良いのではないだろうか。
「大日如来・マハーヴァイローチャナ」」信仰では、「マントラ・真言」が一番大事であり、其のマントラで一番重要なのが「阿・ア」であり、其の梵語のアの文字を観想する事で、太陽の神に「繋がれる・結ばれる・ヨーガする」と考えられているのである。
「アは存在そのもの」http://wave.ap.teacup.com/applet/20060106/222/trackback
其の「繋がれるモノ、結ばれるモノ」が、創造の神である、羽根を持つ存在なのである。
其の、太陽に繋がる為の木が、杖であり、「男根・リンガ」なのである。
そして、其の建てられた物を這い登るのが、雌雄の「蛇・エラブ」なのである。
其の、柱に巻きつく事に、最初失敗して、手足の無いヒルコを生んでしまったのが、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」と「伊邪那美命・いざなみのみこと」の夫婦なのである。
そして、神の手足の役割をする為に、地上に降ろされているのが「霊留・ひと」である。
其れが、ヒルコの様に手足が無ければ、神の役に立つ事は出来ない。
何故、手足の無い子が生まれたのか、其の原因は、天の柱を左回り廻った「伊邪那美・女・雌」が、先に言葉を発したからである。
其の原因が解ってから、今度は「伊邪那岐・男・雄」から声を掛けて、次々と島(此の世)を生み出している。
其れは、男性の方が声を出して、創造の原因を作り出した事を意味している。だから日本の神話でも、天の柱としての男根が、必要とされているのである。
此の様に考えて行くと、世界の宗教は、全部同じ概念から発生している事に成る。其の原因は、全て、男性の「カルマ・業」から創造された「もの・現象」だからであろう。
何故、人間の精神にとって、「男根・リンガ」や、杖や、鳥居や、神柱や、トーテムポール等が必要なのか。其れは、男性のセックスの中に、何かに絡み着いて、伸びて行かなければ成らないモノが、存在するからであろう。
前の文章「山門が開いた」http://star.ap.teacup.com/170606/913.html
昨日のメッセージには、硬い煎餅が出て来たのに、今朝のメッセージには、湿気て垂れ下がった、素麺が現れて来た。
其の、イメージの発露の原因も、硬く立たなければ成らないと言う、セックスの潜在意識に因るものなのかも知れない。
此の様に文章を打っていると、どうやら此の意識は、オーストリアの精神医学者であるフロイト(1856〜1939)のものではないだろうかと想えてくる。
彼が死んだのが1939年であれば、今日の日付をヨーロッパ式に打てば、3日9月19年で今日の日付と符号している。
どうやら、今日は、フロイトの神霊の思頼(みたまのふゆ)に引っ掛かっている様である。
最後に、今日気になった事は「パ・ピ・プ・ペ・ポ」が破裂音で、「バ・ビ・ブ・ベ・ボ」は振動音・波動音であると言う事である。
「ラブ」と「ラビ」は、「ラ」に「バビブベボ」の波動音が附けられたものである。
其の様に考えれば、太陽の意識に関わる者は、太陽の光線(波動性と粒子性)の波動と、共鳴出来る者でなければ成らない事になる。
其れが行なえる者を、日本語では「すめらのみこと」と呼び、其の働き(波動調整・トランス)を「御稜威・みいつ」と呼んだのであろう。
だから、其の人間は三本目の足として、創造の杖を持たせられるのである。
其の、杖を持つ者の意味で、漢字の「君(右手+杖+言葉)の組み合わせ」や「教(家+両手+子供+杖)の組み合わせ」が創られているのである。
其れは、どちらもラビを意味しているのだ。
其の、杖を手に持って歩き出す人間が、「マイトレーヤ(有情・情け有る者)」と言う事に成るのである。
平成19年9月3日5時17日
「5月17日」世界電気通信の日
礒邉自適
2007/8/19
ダイヤの目
19・8・19
今日は、瞑想をして居ると、午後2時20分頃、光の中に紅い色の大イカの頭の映像が現われて来て、「ダイヤの目」との言葉が告げられて来た。
其れは、烏賊の目が、ダイヤの目であると言う事であろうか。
「烏賊・いか」は、確かに、目がとても能く見える生き物で、左右の眼球が、其々別々に動くので、何時も360度の景色が見えているらしい。
そして、ダイヤとは、ダイヤモンドの事で、漢字では「金剛石」と書く。
金剛とは、ダイヤモンドであり金属のなかで最も硬いもの。転じて、極めて堅固でどんなものにもこわされないこと。金剛杵の略。と 載っている。
また「金剛」に関して、仏教の密教では、「金剛界」との言葉が有り、密教で説く両部・両界の一。大日如来を智慧の方面から明らかにした部門。大日如来の悟りの智慧は堅固で、一切の煩悩を破るからいう。と 載っている。
此の事から、「ダイヤの目」の言葉を考えると、「極めて堅固で どんなものにもこわされない目」と言う意味になる。
其の目は、日本の神の「いづのめ」で、エジプトの太陽神「ラー」の目に当たるのではないだろうか。
其れは、「大日如来・マハーヴァイローチャナ(宇宙の真理の本体)」を見詰める、意識の視線を意味しているのではないだろうか。
そして、其れが、大日如来の悟りの智慧を、意味するのではなかろうか。
此処まで書いた処で、「ただ 見詰めるだけでよい」との言葉が、頭に響いて来た。
其れは、上記の「ダイヤの目」の解釈が当たっている事を意味し、私は、是から何もしないで、此の世の流れを見詰めて居ればよい事になる。
其れは、「ブッダ」の意味の「覚醒者」が、森羅万象の流転を、静かに見詰めて居る姿・行為を意味しているのではないだろうか。
其の姿こそ、私の師が、23年前に私に告げた言葉である
ナニモナサザルナ ソノママデヨイ
自然無為
達人が平凡に生くることこそ
本科 なり
カンヨウ
必要 こそ道
無庵記
を、護る姿なのではないだろうか。
私はようやく、其の無庵師匠がイメージしていた世界に、辿り着いたのかも知れない。
そうであれば、今日、告げられて来た言葉は、今は亡き、霊界の無庵師匠からのメッセージなのではないだろうか。
私は、ようやく辿り着いた此の世界を、堅固に護って行かなければ成らないのであろう。其れが、本来の私の役割なのではないだろうか。
其の為に、是まで宇宙の意思が、私の意識を組み込む為に、どれだけの質量と時間を注ぎ込んで来たのであろうか。
其の事を考えると、幾分気が重く成って来るが、其れが、本来の私の役割であるなら、其の役目を果たして行かなければならない。
どうやら今日は、朝打った「高御倉に 上げる 施策」の文章が、功を発したのかも知れない。是で、全てが動き出すのではないだろうか。
私は、ただ大日如来や、阿弥陀仏の坐像の様に、静かに座って瞑目して居ればよいのだ。
其の瞼の裏には、森羅万象の流転が映り込んで来るのである。
其れは、23年前に、荒野で瞑想して居た時に、体験済みの事であるから、私にとっては気軽に出来る事である。
追記
夜、NHKの番組「ダーウインが来た」を観ていると、パプアの海の魚「鉄砲魚」の生態が放映されていて、其の番組中で、昨年12月に釣り上げられた、深海に生育する大王烏賊の姿も紹介され、18mの身体に直系30Cmの目が有り、眼球はバレーボール程も有って、深さ1000mの真っ暗な世界でも、能く目が見えているらしい。
其の眼は、スルメ烏賊の1000倍もの大きさが有りながら、細胞の緻密さはスルメ烏賊と同じ程であるので、とても性能が良いらしいのだ。
其の大王烏賊の目は、何故か、トランプのダイヤの形をしていたのである。
「イカの目」http://www.zen-ika.com/o-susume4.html
何故、夜に放送される番組で大王烏賊が出る事が、昼間、私の目蓋に映りこんで来るのだろうか。
其れは、前もって、何者かが全てを段取りしているからであろう。
其の何者かこそが、古代から、神の働き・存在と考えられて来たモノなのだ。
やはり、私の意識は、何者かにコントロールされているのである。
平成19年8月19日
礒邉自適
2007/8/10
太陽光線そのものに情報が
19・8・10
今日は、朝のメッセージを文章化してから、出雲の安部忠宏氏へFAXする「東経130度30分」のコースと、神社の名前、其れに連絡を取り合うべき人の情報を打つてから、昼飯を摂った後、眠くなって来たので、布団を敷いて横に成った。
高台に有る私の自宅は、戸を開けていると風が吹き抜けるので、とても涼しい。裸で、其の涼しい風に吹かれながら、夏の太陽の光に包まれて寝て居ると、突然、其の太陽の光に、情報が含まれている事が理解されて来た。
其の理解とは、「天照大神」と名付けられている世界は、太陽の光り其のモノが持っている、周波数の情報網の世界の事だと言うことである。
だから、太陽の光が届く世界には、太陽の意識が届いている事になる。
其れは、俗に言う昼の世界の事である。
そして、其の太陽の光線が届かない闇・夜の世界が、「調読命・つきよみのみこと」と呼ばれている世界なのだ。
だから、天照大神が岩戸に閉じ籠って、太陽の光線が無い世界が、調読界と言う事になる。
私は23年前、神の世界に入って荒野を彷徨った時は、昼間寝て居て、夜に成ったら闇の中を歩き廻って居た。
そして、夜の闇の中で、様々な情報を得る事が出来たのである。
其れが、調読命が働く、夜の世界なのである。
其れは、太陽光線の下で、視覚に拠って、物事を見て意識を組み込むのとは、別の世界である。
其の世界は、視覚に頼るのではなく、音の情報に耳を傾ける聴覚や、手足で触れて肌で感じる、触覚や、温度差の情報の世界である。
特に、闇の中に素っ裸でジーッとして居ると、自分の素肌の産毛を、空気がすり抜けて行く感覚を、能く体に感じる事が出来るし、深い山中に潜んで居れば、人間が発する人工的な音は一切無いので、人間が獣・毛物の一種である事が、自覚出来てくるのである。
其れに、深い瞑想に入って行くと、自分の肉体を構成している60兆個の細胞の持つ情報が、太陽の黒点から発生している磁気波動と、密接な関係性が有る事も、理解出来て来るのである。
其のイメージは、地球生命の遺伝情報は死を迎えた時に、太陽の黒点を通じて回収され、再び光のエネルギーとして再生され、太陽光線として、新たな生命を育てる為に、此の地球に降り注いで来るのである。
其の様なイメージを掴んだ人が、古代社会に居て、太陽の光の世界を「天照・あまてらす(遍く宇宙を照らす)」と名付けたのではないだろうか。
其の世界が、再び、人類に感じられる時節が廻って来たのかも知れない。
今日は、「太陽光線自体に 情報が含まれている」と言う、新たな認識を得る事が出来た。
其の概念が、すでに誰かに因って、言葉にされているのかどうかは分からないが、私にとっては、新しい認識が起きた事は意味深いと想う。
平成19年8月10日
礒邉自適
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