2017/10/17
惟神の世界
29・10・17
私に指示をして来る「女神」や「男神」は、私が自分で何か始め様と考えると、其れを止めて来るし、反対に何もしないと決めて居ると、行動する様に仕向けて来る。
其の矛盾と言うか、神霊の遣り方・手法を能く考えて見ると、其れこそが「惟神道・かんながらみち」の世界の有り方を示しており、神に仕えると言うか、神道を歩く者は、自分の考えで物事を興したり、自分は何もしないと考えたりしては成らないと言う事であり、自然の流れに身を委ねて行かなくては成らないと言う理・ことなのであろう。
其れは、一般的に考えれば優柔不断な生き方であり、世間では無責任な人間であると言われそうな生き方でもある。
平成17年(2005)5月9日には「かんながらのみち」の題で次の様に書いて有る。
私は、「惟神の道」が、こんなに難しいモノとは想わなかった。
惟神の道とは、「見てもいけない。聞いてもいけない。教えてもいけない。」との世界である。そして、一切言挙げせずとある。
私は21年前、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受けて、それに身を徹して行動して来たが、未だ多くの人達に、その世界が理解される処までには、事が進んではいないのである。
其れは、何故なのであろうか。
私が、此処まで来て感じる事は、それこそが惟神の道で、人々には明確には見えなくとも、神霊の計画は着実に進行しているとの事であろう。
全体的に見れば、私の知る範囲では、全て問題なく進んでいる。
其れと反対に、問題ばかりだと思う時は、私自身の自我が働いている時である。
自分の自我を止めて、座禅や瞑想をしていれば、全てが調和して、神霊の意・おもいが、上手く進んでいる事が理解出来る。
その、全てが上手く進んでいる事を自覚出来ることが、仏陀であり、道(タオ)の実践者であると言えるのだろう。
そして、其れが、親鸞上人の晩年の境地である「自然法爾・じねんほうに」だろう。「自然法爾」とは、「人為を加えず、一切の存在は自から真理に適っている事。また、人為を捨てて神仏に任せきること。」と、広辞苑には載っている。
それは、老子の道徳経の一説「自然無為(自然そのままで、作為がなければ自ずと化す)」と同じ世界である。
人間は、その言葉と、意味は知っていても、なかなか実行出来ない。
それは、人間が動物の一員であり、動く事が本能であるからだろう。
植物の様に、一箇所に止まる事が難儀なのである。
だからこそ、古人が、座禅や瞑想の方法を考え出したのであろう。
しかし、私が21年間「惟神の道」を実行して来て思うのは、座禅や瞑想にこだわる事自体が、また不自然な事であると謂うことである。
座禅や瞑想をして、意識的に一箇所に止まる事は、惟神の道を実行する事にはならないのである。
惟神の道とは、神霊の思頼を受けて、神霊に身を任す事であるので、無理に止まる事は、神の役に立たない事に成ってしまう。
「惟神道・かんながらのみち」とは、自分の自我意識を働かし、自分が行動する事を止めて、神霊の働きに身を任す事である。
惟神の道を、実行して行くのが難しいのは、その境目が判らないからである。
自分自身の意識で動いているのか、神霊の働きが、自分の無意識に入り込んで意識をプログラムしているのかの区別が、難しいのである。
道を、実行すればするほど、人間社会で生活している人々には、理解不可能と成って来る。
世間の人々が、理解不可能と成れば、神霊の意志を言葉に変えて伝えても、人々が受け付けなくなる。
人々の信頼を得ながら、神霊の働きに身を任せて行く、そのバランスの調整が一番大変である。
親鸞の言葉も、老子の「道徳経」も、釈迦の「法華経」も、彼らが晩年の心境を述べたものである。荘子も、「至人(逍遙遊)」道を修めて、その極致に達した人間の事を謂っているので、人間は確かな人生を歩めば、同じゴールに辿り着く様である。
彼らが、何歳の時に、その様な心境に達したのかは、判らないが、私も58歳に成って、ようやくその立場が、理解出来る様に成って来た。
彼等と、同じ立場を実行しようと意えば、もう若い人達に、自分の考えを無理に合わせる必要は、無い様である。
そろそろ、自分の名である「悠々自適」の暮らしが実行出来るのだろうか。
その様に成れば、惟神の道は、一番易しい理と成るのだがどうであろうか。
平成17年5月9日
此の文章を書いてから、すでに12年が経過しているが、それ程自分の意識が成長しているとは、感じない。
其れは「惟神道・かんながらみち」と言う世界がそう言うモノであり、不変のモノはそれ程変化が無いと言う理の証拠なのかも知れない。
其れを考えると、惟神道とは正に個人的な世界のモノであって、他人には全く影響を与えないモノ・世界なのであろうか。
平成29年10月17日
礒邉自適
2016/10/3
老子の凄さ
28・10・3
私は今日、改めて老子の凄さに付いて実感を強めた。
其れは、私が37歳から今日まで、32年間に亘り神霊界に対して活動を続けて来たが、本日老子の謂う「自然無為」の世界に、立ち返らなければ成らない事が示されて来たからである。
昭和19年6月10日に、千葉県成田市台方の麻賀多神社の境内に在る「天之日津久神社・あめのひつくかみやしろ」の祠の前で、岡本天命に降り始めた「日月神示・天津日嗣神事」には、「道院殿老祖様(老子の概念から生じたモノ)」だけを中に祀れ」との事が記されている。
其の理由を考えると、老子だけが他の教祖とは違い、弟子を一人も採用していないし、教団の様な物も形成していないので、カルマ・業が何も無いと言う事にあるのではないだろうか。
其れでも、老子の教えが、今日まで2500年もの間、傳えられ続け、人気が有るのは、老子は王様の図書館に勤務しており、漢字に付いて熟知していたので、出国の途中函谷関(かんこくかん)の関守である「尹喜」に請われて、自分の考えを「道徳経」5000字に纏めて残す事が出来たのである。
他の、釈迦牟尼佛の仏教経典や、イエスの「新約聖書」は、本人が書き残した物ではなく、他の人間が本人の説法を言い伝えた物が、書き留められた物であるので、本人の真意が何処まで傳えられている物であるのかは、定かなではないのである。
だから、老子以外の宗教経典は、勝手に書き換えられているので、無制限に分派・分裂して行き、本来の教えが何処に有ったのかは、判らなく成ってしまっているのである。
其れに比べて、老子の道徳経が原文が其の儘残っているので、道教の様な宗教が派生しても、原文が読まれる事で、本筋が明確に成り、インチキな宗教が拡大する事が無い。
だからこそ、「日月神示・天津日嗣神事」では、「道院殿老祖様」の存在・御霊だけを中に祭り、他の神霊は、外に祀れと告げられて来ているのであろう。
其の老子は、私が1984年6月4日に此の神の世界に行ってから、姿を見せた事が有る。
2003/9/27・・私が、メッセージを受け始めた最初の頃、映って来た場面に、人類の「宗親・もとおや」らしき霊が現れた事がある。
其れは、山中に在る昔風の古い家屋に、座敷と土間があり、その土間に輪切りの丸太の椅子が有って、三名の男性が座っている。
其の三名は、インディアン風の男性と、白人と、黒人の代表みたいに見えた。
其の三名が静かに座っていると、中国人風の男性が遣って来て、履物を脱いで座敷に上がり、無言で座った。
すると、それを待っていた三名が、土間の椅子に腰掛けたまま話を始めた。
話の内容は、自分達の子孫を、どれだけの割合で残すかの相談だった。
そして、三名の話し合いが終わると、座敷に座っていた男性は、又無言で立ち上がり、履物を履いて静かに帰って行った。
現れた男性は、四名とも魂のレベルが高く、完成された人格なのは、誰の目にも明らかな程、調っていて矍鑠・かくしゃくたる人物達であった。
その様子は、映画でも見た事が無いし、小説の世界でも描写されていない光景である。
私が、何故、その様な場面を見せられたのかは分からなかったが、今朝「宗動」との文字が映されて来たので、18年も前の映像を思い出してしまった。
「宗霊・みたまおや」が、動き出す事が、人類にとって、吉い事なのか、悪い事なのかは、私には判断出来ないが、人類全体の未来にとっては、喜びの方に向かうのであろう。
しかし、整理される余分な血筋は、どの様に反応するのだろうか。
野鼠・のねずみは、仲間が繁殖し過ぎると、一部の仲間を種として残し、残りは集団自殺をして、食糧難から全部が死滅する事を回避するという。
現代社会の人類の状況を考えると、異常発生した野鼠と、同じ状態だとも言える。
第三次世界大戦が起こり、若し、核が全部使用される事に成れば、集団自殺をする事に成る。
私が、18年前に見せられた映像は、其の場面だった。
「人間が 此のままの状況で進めば その様にさせるしかない」との、神の意志だったのである。
その事で、人間に核を創らせたのも、神の意志である事が解った。
野鼠の行動の背景にも、神の意志が働いているのである。
人間自身が、生き方を変えれば、野鼠の様に種族を残す事が出来るのである。それは、一見薄情な様子に見受けられがちだが、全体的に長いスパンで見れば、理に適っていると言える。
野鼠が、皆で話し合って、行動に移るのではなく、全体の潜在意識の中に、其のプログラムが内蔵されているのである。
其の、内蔵されている力こそ、神が介入している世界であろう。
人間の存在は、数が多ければ良いと言う分けでもない。
人間は、神の意識に拠る物を、積み上げて行く、仕組みの一部なのだから、其の役目を果たさなくては、存在する意味が無いのだ。その役割を果たすには、数だけが多くても役に立たないのだ。
エジプトの死者の書には、「此の世には、一人の『霊止・ひと』の為に、何千人もの土を捏ねて作った、泥人形の魂の人間が存在する」と、載っている。
其れ等の、泥人形(土霊・どれい・奴隷)の魂の人達は、役目が終われば、土に還されてしまうのだ。
私の意識が、此処までに育つのに、どれ程の人達が働かされたのであろうか。当の本人達は、自分の意識があると意っているのだろうが、それは、神がその様に思わせて、人間を使用しているだけなのである。・・・
「宗動・血筋を別ける」 http://star.ap.teacup.com/170606/119.html
2008/10/10・・昨夜の、静寂の中の老子の意識は、全ての生命意識の「中心・センター」に位置していたのではないだろうか。
そうであれば、岡本天明の日月神示にある「老子だけを中に祭り 他の神は皆外に祭れ」との事が「成就・じょうじゅ」したのではないだろうか。
私が此の世界に入った時に、老子風の中国人を座長に、黒人、白人、インディアンの祖霊が集まり、其々の遺伝子系統を、どれだけ残すかの会議が、神界で行われるのを見せられている。
其の時の座長の意識に、私の意識は、昨夜達していたのではないだろうか。・・・
「輪廻(サイクル)」 http://green.ap.teacup.com/20060818/912.html
老子の言葉には、「道を外れれば 神霊も力を発揮する事ができない」と有る。
其の意味を考えると、自然無為の行き方を貫かなければ、天神(てんのはたらき)の役には立てないと言う事であり、御稜威 ・みいつの役割も出来ないと言う事である。
2014/4/4「老子だけを中に祀れ」 http://green.ap.teacup.com/20060818/3015.html
2008/3/15「道徳」http://green.ap.teacup.com/20060818/673.html
2009/5/23「老子道徳経47章」 http://green.ap.teacup.com/20060818/1152.html
2001/12/20「 我に三宝有り」 http://moon.ap.teacup.com/20061116/8.html
2013/4/23「天・地・人」 http://moon.ap.teacup.com/20061116/43.html
2008/4/14「帝釈天の網」http://moon.ap.teacup.com/20061116/18.html
2002/1/28「0の概念」http://star.ap.teacup.com/170606/386.html
2005/12/21「一・二・三」 http://star.ap.teacup.com/170606/694.html
2014/10/8「善良な人々の暮らし」http://green.ap.teacup.com/20060818/3222.html
2000/8/31「帰巣本能」http://moon.ap.teacup.com/20061108/272.html
2004/2/23「真澄の鏡」http://star.ap.teacup.com/170606/75.html
2013/3/8「創造主」http://green.ap.teacup.com/20060818/2616.html
2016/9/12「孤独者と組織の存在」http://green.ap.teacup.com/20060818/3986.html
2015/11/19「最高理会得人記文」http://green.ap.teacup.com/20060818/3664.html
2014/5/9「文章を書き残すと言う事」http://green.ap.teacup.com/20060818/3063.html
2016/6/11「三つの重要事」http://green.ap.teacup.com/20060818/3882.html
2016/3/27「王魂」http://green.ap.teacup.com/20060818/3799.html
2002/2/22「聖徳太子の命日」http://moon.ap.teacup.com/20061108/160.html
2012/12/11「48時間」http://green.ap.teacup.com/20060818/2528.html
2006/8/28「 三つの窓」http://white.ap.teacup.com/miitu1223/467.html
2016/3/8「色と道の概念」http://green.ap.teacup.com/20060818/3780.html
2016/7/27「概念を変えられるか」http://green.ap.teacup.com/20060818/3937.html
2016/5/23「天津日嗣のスメラのミコト」http://green.ap.teacup.com/20060818/3861.html
2012/2/5「悟り・覚醒・生活」http://moon.ap.teacup.com/20061108/530.html
2002/2/27「転輪聖王への道」http://moon.ap.teacup.com/20061108/162.html
2001/1/5「偶像崇拝がなぜいけないと言われているか」
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2009/8/16「心臓のカルマ」http://green.ap.teacup.com/20060818/1242.html
2008/9/28「素人が私を愛している」http://moon.ap.teacup.com/26660606/70.html
2003/10/5「祭神」http://wave.ap.teacup.com/20060106/59.html
2009/7/12「足を捨てた蛇」http://star.ap.teacup.com/20071015/24.html
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平成28年10月3日
礒邉自適
2015/11/21
君とは御祖神の霊留
27・11・21
本日11月21日は、私が1986年11月21日に「第一回スピリチュアルタイム」を開催した日であり、私が1987年11月21日に二度目の結婚した故「井上佳子」の誕生日であり、2001年11月21日に現在一緒に生活している「伊丹由香」と初めて出会った日でもある。
私は、其の1986年以後も数度、「スピリチュアルタイム」及び「御陵威クラブ」の集いを各地で行っても来た。
今日は、メッセージの文章を書いてブログにアップした後、ふと【「君・クン・きみ」とは「御祖神・みおやかみ」の霊魂が宿った「霊留・ひと」の事である。】と想った。
そして、其の理・ことを理解する私の意識の存在は、私が世界自然遺産に登録される様な自然豊かな屋久島で産まれ、優秀な両親に育てられ、36歳まで三次元世界である人間社会で様々な体験を積まされ、37歳から土肥無庵の指導で四次元世界である神の世界に飛び込んで、此処まで31年間天神(てんのはたらき)に導かれて来て、出来上がって来たモノである理・ことが解かる。
其の様に考えると、其の背景に存在する世界こそが、是まで全世界で人類が探し求めて来たと言うか、畏敬の念を持って信じて来た、天神の実在であるのだ。
其して、私は、人類の最大の課題である「自分・自らの分け」を解いた事になり、自分の天命・使命・役割を無事に果たした事にも成るのであろう。
私は現在68歳であり、残り14カ月で70歳となる。
是からの残りの人生で、何を認識できるのかは判らないが、減少する脳細胞と戦いながら、意識の熟成に務めて行かなければ成らないのであろう。
其の為には、猶更の研鑽が必要なのであろう。
其処にこそ、食養の世界や運動の必要性が有るのだ。
そして、其の事こそが「壽命」の言葉の意味であり、此の三次元世界だけではなく、全宇宙のシステムや働きに従うと言うか、貢献すると言う事に成るのである。
平成27年11月21日
礒邉自適
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