2015/4/3
天御中主は御祖神
27・4・3
本日4月3は、日本国の歴史の基と成っている、神武天皇の大祭日である。
昨日のメッセージの映像では、私が「天御中主神」であるとされる人物と一緒に、何処かに向かわなければ成らない場面が映し出されて来たが、今朝のメッセージでは、其の人物が、私の先祖霊と言うか、「御祖神・みおやかみ」である理・ことが解かって来た。
其れは、今朝の映像では、私が、黒人のペアーが暮らしている、森の中に居る場面が、映し出されて来たからである。
其処には、言葉も未だ無く、勿論「暦・カレンダー」も無いので、其のペアーの名前は判らず、年齢も判らないのである。
そして、食べ物は、女性の方が集めて来た、木の実を煮た物であった。
そして、夕方には、男性の方が狩から帰って来て、二人で焚火に向かい合って座って居た。
次の映像には、原住民の暮らす土地に、先進国の援助でコンクリート製のトイレが建てられているのが映し出されて来た。
しかし、其れは、トイレの建物だけで、水道が引かれていないし、トイレットペーパも用意されていないので、子供達がトイレの穴以外に、排便をするので、全室が足の踏み場が無くなっており、壁には、排泄物を拭った手形が澤山着いていた。
次の映像は、私が誰かと二人で、海岸で釣りをして居ると、相方の方は釣りが初めてらしく、竿の扱いが出来ず、糸が絡んで、巧く釣りをする事が出来ないのである。
そして、私が大きな魚を釣り上げて、岸に置くと、其の魚は、行き成り猫科の動物に変身してしまった。
だが、其の猫科の動物は、行き成り身体の仕組みが、鰭から、足に変わってしまったので、四足を動かす歩く事が出来ずに、固まって居た。
今朝のメッセージの映像は、人間の進化の歴史の事だけではなく、動物が海から陸に上がって来た事までが、含まれており、生命の紀元や進化の事まで、広く、深く、考えなければ成らない様である。
今朝のメッセージの映像から、私が感じた事は、言葉や日付が無い時代には、歴史が認識できないし、神の存在に名前を与える事が出来ないので、神の存在も無かったと言う事である。
其の様に考えると、神が誕生したのは、人間に言葉が発生した時代からであり、人間の大脳が発達して、言葉が出来る迄は「神」は存在しなかった事に成る。
そして、人間の意識に、神が存在する様に成ったのは、神話が生まれてからと言う事に成るのだ。
其の証拠に、人間と99%が同じ遺伝子を持つチンパンジーには、言葉が無いので、神も存在してはいない。
其れを考えると、神が存在する様に成ったのは、最長650万年前からであると言う事になり、それ以前には神は存在しないので、「創造神」は存在しない事になる。
人類の誕生に付いては、ウィキペディアフリー辞典に、次の様に記載されている。
・656万年前±26万年 - ヒト族とゴリラ族が分岐したとされている。
・487万年前±23万年 - ヒト亜族とチンパンジー亜族が分岐した。
猿人の出現。直立二足歩行の開始。
・370〜100万年前 - アウストラロピテクス(猿人)
最初の人類とされる。一定の道具使用した。
・約250万〜180万年前 - この頃、石器の使用がはじまった。
エレクトス原人が出現する(250万年前)。
・約50万年前 - 北京原人。
・約40万年前 - マンモスは、北東シベリアで誕生したとされている。
・約23万年前 - ネアンデルタール人の出現。
・約20万〜19万年前 - ホモ・サピエンス(現在のヒト)の出現。16±4万年前のミトコンドリア・イブの存在。
・約15万年前 - マンモスがヨーロッパに現れた。
・約12万5千年前 - 初期のヒト属による火の利用
・約10万年前 - 現代人(ホモ・サピエンス)がアフリカを出て世界各地に拡がった(アフリカ単一起源説を裏付けるもの。)
・7万年前±1万3000年にヨーロッパ人と日本人の共通祖先が分岐。
・約5万年前 - クロマニョン人。
・約3万年前 - ネアンデルタール人がこの頃絶滅。
ウィキペディアフリー辞典 現在記載
【言語の起源】
ヒトにおける言語の起源は広範に議論される話題である。それにもかかわらず、究極的な起源やその年代についての合意は得られていない。経験的な証拠では限界があり、多くの学者はこの話題を全体として真剣な研究の対象にそぐわないものとみなし続けている。大学の授業でこの話題を議論のテーマとすることがある。1866年に、パリ言語学協会はこの主題を禁止するまでに至った。この禁止令は西洋世界の大部分を通じて影響力を保っている[1]。今日、言語が最初に起こったのはどのように、なぜ、いつ、どこでなのかに関して数多くの仮説が存在する[2]。チャールズ・ダーウィンの自然選択による進化の理論がこの話題に対する空想を励起した100年前よりも今日の方が合意に至るのは困難である[3]。しかしながら、1990年代初頭以降、「科学の最難問」を考え始めるのに新しい方法でとりくむ言語学者、考古学者、心理学者、人類学者その他の専門家の数が増加している[4]。
アプローチ[編集]
言語の起源に対するアプローチは、何を基本的な前提にしているかによって分類することができる。「連続性理論」は、言語は複雑なので何もない所から急に完全な形で言語が現れるのを想像することはできないという考えに基づいている。言語は、私たちの祖先の霊長類の間で言語に先立つ前-言語的体系から発展してきたに違いない、とされる。「不連続性理論」は、逆の考え、つまり、言語は他に類のない特徴なのでヒト以外の動物の特徴と比較することはできないし、そのため人間の進化の過程で全く突然に表れたに違いない、という考えに基づいている。もう一つの異なる理論は、言語が概して一般的に符号化された生来の能力であると大抵みなしている前二者と違い、言語を主に文化的な、つまり、社会的な交流を通じて習得される体系だとみなす[5]。
ノーム・チョムスキーは不連続性理論の卓越した唱道者だが、この問題に関して彼は同僚たちの中で孤立している。約十万年前に言語機能(心―脳の構成要素)が「瞬間的に」「完全」もしくは「ほぼ完全」な形で出現するような進化の一度きりの突然変異が霊長類の一個体に起こった、と彼は主張している。・・・
ウィキペディアフリー辞典 現在記載
此の説明にも有る様に、人類の言語は10万年前からのモノであると言うだけでも、孤立するとの事であるから、僅か10万年前でも、神は存在しなかった事に成るのである。
だとすれば、私に起きた不思議・奇怪な現象は、一体何なのであろうか。
私に、理解出来て来ている事は、我々人類の大脳その物が「宇宙の進化」其の物であり、我々人間の意識の進化と、宇宙意識の進化は、同体であると言う事である。
其の様に考えると、釈迦如来の謂う「真に信じられるのは、此の自分の肉体だけである。」との言や、「過去・現在・未来に 私が存在する。」との言いが、的を射ていると言うか、今朝の私と、同じ意識の次元に釈迦は居た事になる。
そして、其れは、日本の「御祖神・みおやかみ」の概念と同じであり、日本の天皇家の伝統が「御祖神」を対象として「新嘗祭」や「大嘗祭」の儀式を行う事が、的を射ている事に成るのだ。
今朝の映像では、私の相方が、現在の釣道具を扱えなかったのは、近代社会を生きた事が無い事を、示唆しているのであろう。
そして、私が、海から釣り上げた魚が、行き成り「猫科(四足の動物)」に変身して、分けが判らずたじろいで居たのは、生物が海に誕生して、陸に上がって生活する様に成った、進化の過程が、抜かれているからなのであろう。
それに、先進国が行進国に、新しい文化を寄贈・援助しても、其の扱い方法を訓練する事や、インフラの整備までを行わなければ、有難迷惑である事や、子供の教育や躾けがなければ、人間は正しい行動が出来ない理・ことを示唆しており、文化は一朝一夕では伝承出来ないと言う事であろう。
今朝のメッセージで、私に明らかに成って来た理・ことは、私の現在・いまの意識は、私の68歳の人生だけの物ではなく、私の父親と祖父、其れに母方の祖母を通して、遥か古代のアフリカまで遡って続いており、其の「656万年前±26万年」の先には、6500万年前に起きた巨大隕石衝突に因って、地球環境が劇的に変わって恐竜が絶滅し、哺乳類が台頭して来た時代まで遡るのである。
そして、其の先には、海原で「DNA・遺伝子」が複雑に絡み始めた、「スサノオ・苆の尾・穂」の世界が存在するのである。
・40億年前(±2億年) - この頃、原始生命が誕生したと考えられている。 → 生命の起源
・38億年前(±3億年) - 真正細菌(バクテリア)と古細菌(アーキア)の出現。 → 共通祖先。
・32億年前 - 光合成をする生物が現れる。藍藻(シアノバクテリア)。
・27億年前 - シアノバクテリアが大量発生。
この頃のシアノバクテリアの化石が大量に見つかっている。酸素の供給量が増加。
・21億年前(±6億年) - ミトコンドリア、葉緑体、中心体等に相当する生物と共生した真核生物の出現。・・・
*古生代(約5億7000万〜約2億5000万年前)
・約5億3000万年前 - バージェス動物群、バージェス頁岩
三葉虫などの生物が現れる。
・4億2000年万前 - 植物の上陸。・・・
・3億年前 - 爬虫類の出現。
*中生代(約2億5000万〜約6500万年前)
・2億5000万年前 - 爬虫類から進化した恐竜の出現。中生代の三畳紀、ジュラ紀、白亜紀を通して恐竜が繁栄。・・・
・1億年前 恐竜の全盛時代
・6550万年前 - 生物の大量絶滅(白亜紀末)。この頃、恐竜が絶滅。アンモナイトも絶滅。
隕石の落下による環境の激変を原因とする説が有力と考えられている
*新生代(約6500万年前 - 現代)[編集]
・約6550万年前 - 霊長類の出現。
ウィキペディアフリー辞典 現在記載
更に人間の意識は、釈迦や老子が謂う様に、潜在意識で宇宙誕生まで辿り着く事が出来るので、地球誕生の50億年を超えて、138億年先の「玄(くらい)闇宇宙」まで辿り着くのである。
だから「創造主」とは、自分の内側に存在する理・ことに成るのである。
其の証拠に、誰かが「造化三神」である「天御中主神」の名前と、「高御産日神・たかみむすびのかみ」「神産巣日神・かみむすびのかみ」を、創り出したのである。
其れが、何時の時代の誰であるのかは、記録が無いので判らないが、其の様な言葉が使える時代である事は間違いないので、数千年前の事なのであろう。
だから、人類誕生の地であるアフリカの黒人・原住民の所にまで返ってしまえば、造化三神などは存在しないし、其処に存在するのは、自分と周囲の環境だけなのである。
だから、近代社会から、神の名前が消えてしまえば、宗教は存在しないし、残るのは子孫の肉体に依り憑いて来る、先祖の霊魂だけなのである。
そして、依り憑いた子孫の能力が高ければ、先祖の霊魂も認識が高まって霊格が上がって行き、立派な「御祖神・みおやかみ」と成れるのである。
そして、人類の根源と言うか、最初の「イブ・母親・源始祖」の所に帰り着いた者が、「天御中主神」の名である宇宙意識の立場で、森羅万象の流転に影響を与える事が出来るのである。
其の存在こそが、イエスキリストが「天の父」と呼んだモノ・存在なのであろう。
其の様に考えると、「日高雲平氏」が霊夢を見て、私の存在が大文字の「Father・ファーザー」であると、知らされた事の意味も理解されてくる。
・・今日は、梅雨の晴れ間で天気が良いので、梅雨の間の湿気を全部戸外に追い出そうと想い、朝7時に家中の戸を開けていると、隣に住む安房区の区長さんが遣って来て、「自適さん、お早うございます。今日は、初めて不思議な夢を視た。」と云う。私が「え、どんな夢だったのですか。」と応えると、「隣の家に『Father・ファーザー』が居る」と告げられ、其のファーザーの頭文字は大文字であった。」との事である。私はそれを聞いて、愈々神の作戦が始まるのだと感じた。・・・
「ファーザー(Father)」http://wave.ap.teacup.com/20060106/139.html
今朝のメッセージの内容は、此処まで書き進めれば、本日が神武天皇祭の日であり、私が「1984年6月4日(旧暦5月5日)母親の64歳の誕生日」に此の世界に入った時に、「残り16年半しかない」と告げられた事が、神武天皇の東征の年月と同じであった事の理由も、解けてくる。
2013/4/4・・無庵師匠の謂うには、三ヶ月で人間の體の細胞は全部入れ替わるとの理・ことで、私は仕事を全て止めて、家族と離れ、一人に成ってマクロビオティックの生活をすれば、本来の私の使命・みことが出るとの事であった。
其の無庵師匠の言葉通り、丸三ヶ月後の6月4日(旧暦5月5日)に、私は神の世界に入る事に成ったのである。
其の6月4日は、私の母親の64歳の誕生日であったので、生命の秘密と言うか、天の仕組みに驚きを覚えた。
其の日は、安房川の川辺に有る自分の自宅の前の河原にて、無庵師匠が見守る中、禊祓いを行ったのである。そして、4311体の精霊の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受ける事に成った。
そして、其の結果、無庵師匠に向かって最初に私の口を突いて出て来た、神のお告げが「残り16年半」「失敗は許されない チャンスは一度だけ」「アンテナが二つ要る」であった。
其れから、私の役割は「新しい事象の特異点」であり、別の言い方は「新しい神の座標軸」であると告げられたのである。・・・
「天皇霊 神武天皇」http://moon.ap.teacup.com/20061108/567.html
其れに、私を捜し出して此の神の世界に送り込んだ土肥無庵の出身地は、「御祖神・みおやかみ」が祭神である「妙見宮」が存在する北九州市小倉であり、其の土肥無庵は、17歳の時にオートバイで崖から落ちて、頭蓋骨折で意識不明の状態の時に、意識が妙見宮の階段を上って行くと、真っ白い神様が現れて、「お前は未だ役目が有るから帰れ」と告げられて、意識が奇跡的に回復したとの事である。
其れ等の事も、今朝は全て繋がって来た。
「究極のデザイン世界」http://green.ap.teacup.com/20060818/3323.html
平成27年4月3日
礒邉自適
2007/7/8
ツベルクリン反応
19・7・8
今日は、何も無くなった頭に「ツベルクリン反応」との言葉が出て来た。
其の言葉は、以前にも出て来た事が有ったのだが、其の時は、其の事に付いて何も検索せず、其の侭にして居たので、頭の何処かに、ゴミとして残っていたのかも知れない。
今、広辞苑で「ツベルクリン反応」調べて見ると、
【ツベルクリン・はんのう】 皮膚または粘膜の1部にツベルクリンの少量を吸収させ、その部に起こる反応(発赤・腫脹・浮腫など)を見て結核感染の有無を判定する検査法。現在ではマントーの皮内注射法を最も多く用いる。と載っている。
其の事が、神の世界と、どの様な関係が有るのだろうか。
其れは、単純に考えれば、神の世界に触れた事が有るか無いかを、検査するとの意味合いであろうか。
そうであれば、一度、神の世界に触れて感染した事が有る者は、何かの局面で、再び其の反応が現れ、神との接触が、回復するとの意味に受け取れる。
其れは、キリスト教で言う処の、洗礼を受ける事に繋がる、行為に当たるのかも知れない。
反対に「朱に染まれば赤く成る」との諺に有る様に、一度、悪い仲間に入ってしまえば、其れから抜け出して居ても、何時か又機会が有れば、其の癖が出てしまう事の意味にも、受け取れるものである。
聖書のイエスキリストの言葉には、「若し 右の手があなたを躓(つまづ)かせるなら、切って捨ててしまいなさい」と有る。マタイの福音書26章34節
其れは、悪い行いが、直ぐに伝染する理・ことを、訓えているものだろう。
其の意味から考えれば、私が、此の神の世界に入って居ても、もとの世界(世間)に帰れば、直ぐに「旧の木阿弥・もとのもくあみ」に成ってしまう事を、意味しているのではないだろうか。
だからこそ、社会に復帰する前に、「隹・ふるとりを殺してしまえ」と、告げて来ているのではないだろうか。
其れと、別な意味で考えれば、人間の記憶と、時間の関係性を、示して来ているのかも知れない。
私の文章には、タイムトンネルが有ると書いたり、宇宙には時間が無いと書いたりしている。其れは、矛盾の有る書き方である。
其の事にも、ツベルクリン反応は、理解の糸口に成るのではないだろうか。
時間の説明には、アカシック・レコードと呼ばれている概念が、使えるのではないだろうか。
「アカシック・レコード」とは、宇宙に記憶されている情報の意味で、人間の目に見えるレコード盤の事ではない。
宇宙には、昨日と呼べる時間は無く、瞬時に事象は変化しているので、過去と呼べる世界は無いのである。
しかし、其の記憶は、何処かで、何等かの方法で、記憶されていると言う事である。
だから、過去の世界に帰る事は出来ないが、記録されている情報の中には、侵入出来ると言う事である。
其の事を、例え話で説明すると、歌手の「美空ひばり」は既に死んでしまっているので、其の肉体は此の世に存在はしていない。
しかし、美空ひばりの歌う姿が記憶されているDVDを機械に入れれば、テレビ画面に、昔の姿のまま現れて来るのと同じである。
其れは、DVDの渦巻きの回転の中に、歌を唄う美空ひばりが、磁気情報として記憶されているからである。
だから、タイム・トンネルを潜ると言う事は、自分の身体は、今の世界に在る侭で、脳の磁気を針として、記憶の渦の中に侵入して、過去の磁気情報を読み取って来ると言う事である。
其れが、宇宙の螺旋構造と、時間の関係性だと考えられる。
つまりタイム・トンネルを潜ると言う事は、DVDの磁気情報の螺旋の中に侵入して行く事と、同じなのではないだろうか。
其れが、宇宙の記憶としては、花崗岩の石英の周波数の中に、記憶されていると言う事である。
だから、此の世に存在する生命体は、巻貝だけではなく、全て、螺旋の軌道を辿りながら成長を続けるのである。
其れは、反対に考えれば、螺旋軌道を描きながらでないと、時間の記憶(情報)に侵入出来ない理・ことを示している。
レオナル・ド・ダヴィンチも、其の神秘に触れていたので、渦巻きの基本である黄金比率に、興味を抱いて居たのではないだろうか。
其の生命の記憶情報と、ツベルクリン反応には、密接な関係が有るのではないだろうか。
其れは、ツベルクリンを皮膚の中に侵入させても、直ぐに反応は現われないで、数日の時間を必要とする事である。
其れは、毒を使った時に、身体のシステムが停止し、死んでしまう事とは異なっている。
其れは、身体の中で、時計が回るか、回らないかの差であろう。
時計が回る事が出来れば、過去の情報と接触が起きるのである。
しかし、死んでしまった体では、時計の針が回る事は出来ないのである。
だから、人間の意識も、肉体が死んでしまえば、過去の情報にアクセスする事は出来ないが、体が生きて居れば、脳の磁気情報システムで、遺伝子の記憶を利用して、宇宙の情報を読み取って来る事が出来るのである。
其れが、生命が存在する為の、基本的なシステムなのではないだろうか。
其の理を人間の概念として、新しい価値観を創造して行けば、未来は確かなものと成るのではないだろうか。
其の為には、意識の向きを、未来に向ける事から、反対の、過去方向に向けなければ成らないのである。其の手法が瞑想なのである。
其れが、相対世界から、絶対世界に意識の向きを変える事である。
しかし、心の準備が出来ていない、突然の事故で起きる臨死体験では、自分の先祖霊に接触が起きても、宇宙の記憶には、アクセスする事は出来ないのである。
其の為にこそ、悟る為には、正しい手法が必要なのである。
現在・いまでは、昔の様に、結核が、死因の大きな原因ではなくなっているので、昔の様にツベルクリン反応は、実地されてはいない。
しかし、其れは、単なる肉体的な事であって、大事な意識の方は、幼児期から受験地獄に追い込まれ、実際には、人生に余り役には立たない、過去の情報だけを詰め込まれている。
其れは、神の世界に対しては、余りにも、陰性の人間だけを育てている事になる。其の内に、神の世界に対して、陽性反応が出る人間は、居なく成るのではないだろうか。
それかと言って、正しくない宗教に浮腫・被れる事は、正しい陽性反応とは言えないのである。
其の為に、私に、人類に、正しい神の細菌情報(時間の虫)を伝染させろとの事だろうか。
しかし、近頃の風向きは、24年前とは随分と変わり、神の細菌情報(虫)に感染している人間が、増加して来ている様である。
其の状況を考えれば、私は直接菌をばら撒くより、ツベルクリン反応を施して、其の結果を診るだけで良いのかも知れない。
こんな処で、残っていた意識のゴミは皆、外れただろうか。
隹・ふるとりが全部死んで、古い情報が消えれば、其の灰の中から新しい鳳・おおとりが孵化して来るのではないだろうか。
其れは、映画の「エラゴン」で、既に物語化されているので、此の三次元に現実化するのは、以外に早いのではないだろうか。
ツベルクリン反応の起きる、細胞の仕組みを「虫の知らせ」の一種と考えれば、「疳の虫」も治まりを示すのではないだろうか。
平成19年7月8日
礒邉自適
2007/7/2
全てが電気
19・7・2
私は23年前、無庵師匠の下で修行を続けて居る時に、様々な不思議な事が起こり始め、其の原因を師に訊ねると、「其れを 自適さんに 説明しようとすれば何ヶ月も掛かるので 説明できないが 全てが電気である」と教えられた。
其の時は、其れが何の事であるかは能く理解できなかったが、今では、其の事に付いて大体は理解出来ているし、其の説明も、私なりに出来ると想っている。
此の宇宙の、あらゆる物質は、原子の回転法則で生まれている。
其れは、一億分の一の目に見えない世界(ナノスペース)から、大きな太陽系や銀河まで、皆回転に因って生じており、其の回転には電気が伴っていると言う理・ことである。
つまり、原子の周りを電子が回転する事で、原子の周りに磁気が発生するのである。其れは、太陽の周囲を惑星が回転している事と、同じ仕組みなのである。
其れは、我々が日常使っている電気が、コイルの回転に拠って摩擦電流を発生さす事から生まれているのと、同じ様なモノ・現象と言えるだろう。
全ての存在物は、原子と電子の回転に拠って生じている物だから、物が磁気を帯びているのは当然の事である。
其れは、鉱物や植物だけではなく、動物の一種である我々人間の肉体も、同じ仕組みで出来ている物なのである。
我々の手足が動くのも、脳から指示されて流れる、電気信号に拠るものであるし、其の脳も、電気で動いているのである。
人間にとって、一番大事な器官と言われている心臓さえ、心電図で表される事で明白な様に、電気で動いている。
そして、人間の生死の判断は、脳波の停止に拠って決められているが、其の脳波も電気信号の産物である。
だから、生命現象も、皆電気現象で成り立っていると言えるのだ。
其れは、動物だけではなく、植物からも、磁気信号が発せられている事が分かっているので、植物も電気エネルギーを使って生きている事は明らかである。
私は23年前、其の電気の世界に侵入して行ったのである。
其れは、地球自体に発生している磁気(マイナス電気)周波数(チャンネル)と、自分の周波数を同調させる事である。
其れは、通称「アース」と呼ばれているもので、電気機器から地面に流されるマイナス電気(粒子)と同じ物である。
我々、此の地球に生きる生物は、全て、其の大地から流れているアース電気と交流しながら、生きているのである。
だから、裸足で地面に立つ事は、身体にも良いと言われているのだ。
其の理・ことを、頭に置いて考えれば、大地と生物は、アース電気によって、互いに繋がっている事に成る。
其の事で、昔から一番大事にされて来たのが、水晶や花崗岩の、石英タイプの炭素系の磁気周波数である。
其れは、古代の宗教遺跡や、伝説を調べれば、明らかな事である。
イスラエル・ユダヤの石工の伝承でも、「メイソンの秘儀とは 石の上に立つ 兵士の謎を解く鍵とは 生ける力のダイナムを 正しく応用することであると知るとき 彼は結社の神秘を学び取り ルシフエルの力は彼のものと成る」と伝えられている。
其れは、宇宙の回転する渦巻きの力・エネルギーは、花崗岩の磁気信号とチャンネルし、自分の生体電気をコントロール出来る者が、此の宇宙を、管理出来る理を伝えている。
其れは、昔から、其の様な力を持っていた者が、存在していた事を意味している。
現実に、其の様な力を手にした者が居たからこそ、この様な言い伝えが残されたのである。
其の事が23年前、如実に、私の身体を通じて、現実として起きたのである。
其れは、無庵師匠の身体を流れる磁気情報を土台として、私が更に、チャンネルを深めて行って、可能にした世界である。
無庵師匠は、其の世界の極意を、自分のモノとして居たので、私を更なる深みへと、進める事が出来たのである。
其れは、空海と恵果和尚との間で行なわれた、儀式の内容と、同じ様な世界である。
其の様な世界が存在するからこそ、「役行者」の様な人間も誕生したのである。
其れは、現在行なわれている山岳信仰のレベルではないのである。
実力有る「師・先達」と、全てを投げ打って、命懸けで其れに取り組む「弟子」との間に、起きる現象なのである。
其れは、宇宙の時間(サイクル・時節)とも関連しているので、何時でも、何処でも、起きる現象ではない。
其れは、宇宙の大きな回転に拠って、周期的に起きて来るモノ・現象だから、たかだか100年くらいしか生きられない人間の自我意識だけでは、どうにも成らない世界なのである。
私も、其の様な世界が有る事は、何も知らなかったし、自分が、其の事に関わる事に成るなどとは、夢にも想っていなかったのである。
しかし、無庵師匠は、其の事を知っていて、私を捜し出し、其の扉を開けたのである。
そして、私が其のチャンネルと繋がって、先ず始まった事は、自分の時間を止めて、新しい意識の渦(時間軸・新しきレコード盤)を起こし、宇宙に新しき時計の針を回し始めた事であった。
其のレコード盤は、始めは小さなモノであったが、今では、あらゆる現象・モノを取り込んで大きく成り、古い時間(其れまでの質量)を吸い込んで、新しい御代を創造しつつある。
其れは、其の中に取り込まれている人間は、無意識の侭にそう成ってしまっている世界である。
其れが、メシアや、スメミマや、ブッダと呼ばれている人間だけが、出来る役割なのである。
其の役割の人間が、此の世に必要だからこそ、マヤ文化では「時間の操縦士」の石像が創られ、モチーフが彫刻されているのである。
其の時間の操縦士の臍から、上に伸びている生命の木には、頂に鶏が止まって居り、其の下の枝の両端には、「太陽」と「蜥蜴・とかげ」がぶら下げられている。
其れは、時間を管理する者は、太陽と蜥蜴の秘密を、解かなければ成らない事を意味している。
蜥蜴は、道・タオのシンボルでもあり、岩戸開きの鍵を持っているので、「戸影・とかげ」の呼び名でも伝えられている。
太陽は、エジプトの鏡を頭に抱く「イシス女神」と同じ存在を意味しており、鳥は舳先に立つ「時間の神(時・トキ・朱鷺)」である「エビス・恵比寿・Ebisu(イビス)」を、意味しているのだろう。
其れ等神々を動かす者は、複雑な宇宙のカラクリを、紐解いて行かなければ成らないのである。其れが、スフィンクスの謎解きの意味なのだ。
其の、カラクリの要点が明らかに成って来たので、昨年6月11日に「紀(トキ)の祭り」の儀式を行なうように、大山祇神からの指示が有ったのだろう。
そして、其の事に対する、私の理解も深まって来たので、今年の6月30日から、いよいよ事象へ変化が始まるのではないだろうか。
何故、其れが、旧暦の5月16日の満月でなければ成らないのか、其れは、水と稲作に関係が有るのだろう。
イネ科の植物が生え始めたのは、約6000万年前で、其の時期に恐竜が滅び、哺乳類が大きく登場して来ている。
我々は、其のイネ科の植物が繁殖し始めて来た事で、遺伝子を拡散する事が出来たのである。
しかし、其の記憶の中には、蜥蜴や鳥など、恐竜の子孫と同じ世界を、抱え込んでいるのである。
人間の思考は、全て、無い物ねだりで出来ている。
現在・いまを生きる為に、昔し失った記憶を、意識の対象として、探りながら現在を生きているのである。
其れが、人間の記憶の仕組みなのだ。
忘れた事を、思い出そうとするのが宗教の世界であり、雄が雌を求め、雌が雄を求める行動の基本と、成っているのである。
私の旅も、自分が失った記憶を、取り戻す為の旅なのである。
其れが、生命の存在の基本と成っているのだ。
だからこそ、釈迦の教えも「帰命頂礼」であり、英語の「リリジョン・religion」の意味も「再び 神と結ばれる」なのである。
其れを、男性は女性に求め、女性は男性に求めるのである。
其の無意識の中の世界が、古事記の「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」と「伊邪那美命・いざなみのみこと」の物語の基と成っているのである。
其の記憶を取り戻す為には、6000万年前の記憶だけでは駄目なのである。其れは、遺伝子誕生の38億年前を通り過ぎ、地球誕生の46億年を通り過ぎ、太陽誕生の50億年の遥か昔の、宇宙誕生138億年前にまで、遡らなければ成らないのでる。
其処に、最初の炭素系の記憶の素が有るのである。
其処まで記憶を遡らなければ、ルシフエルの記憶は、元に戻らないのである。
ルシフエルの、記憶を取り戻す事が、「いのり・祷り・帰り」の意味なのである。其れが、ブッダや老子の意識なのである。
かりそめであっても、私は、其の「時間・トキ・神・働き」に接触出来たのである。
こんな私の話でも、古い伝記に目を通せば、これ等の事は、古代では極当たり前の概念であったことは、直ぐに理解できる。
其れが、現在の世の中そう成っていないのは、トキ・時代の権力者が、自分の権力を維持したい為に、其の情報を隠蔽して来たからである。
其れが、2600年振りに、インターネツトで公にされ、民の眼を開く事と成るのである。
最早、どんな権力構造も成り立たない時代が、訪れるだろう。
其れは、神秘が、誰の眼にも明らかにされるので、もうインチキは効かなく成るからである。
夫々が、大地・ガイヤーと意識・チャンネルが通じれば、隠すべきモノが無くなり、全てがオープンに成るので、人々の心は、善悪の価値観を超えて、自由に成るのである。
其れが、エデンの園の意味なのである。
私は、其の世界に23年前に到達し、先達として、其の時間(事象)を広げて来たのだ。
もう其の結果が、公けの物と成り、私の存在も、必要ではない時節が到来するのではないだろうか。
私はもう、昼間からビールでも飲んで、縁側で風に吹かれながら、裸で昼寝でもして居れば良いのだ。
早速、エビスの黒でも冷蔵庫から出して、飛び魚の干し物でも、齧って見るとするか・・・・・。
平成19年7月2日
礒邉自適
2007/3/16
龍の鳴き声
19・3・16
今日は、龍の鳴き声は「引き声」である事が理解出来た。
其れは、昨夜ホテル「縄文の郷・まんてん」に、前田氏と宿泊し、露天風呂で、湯圧のマッサージ器から発生する、渦巻きの引き音を耳にしたからであろう。
私が、23年前に悟ったのも、やはり無庵師匠の家の風呂場で、排水管に、お湯が吸い込まれる時の音を耳にした時である。
其の共通点は、水が渦巻きに吸い込まれる時に、発生する音である事だ。
聖書に有る様に、此の地球で、神の意識に目覚める時に、必要なのは、水の存在である。
聖書には、水でパプテスマを施す事が載っているが、此の世界は「水と霊」の力に拠って、存在しているとも書いてある。
其れは、科学的にも立証出来る理である。
水の無き所には、いのち有る生命は存在しない。
始めに、アダムが誕生したのも、粘土の海である。
粘土は、アルミと珪素の化合物である。
其の、アルミと「珪素・シリコン」が溶け合っている水溜まりに、雷が落ちて、其の電圧に拠り、最初のDNA・蛋白質の鎖が、合成された理・ことに成っている。
そして、其の分子構造が、緻密に成った処で、「イブ(カルシウムを持つ物)」が発生したとされている。
私は、23年前に、無庵師匠の力で安房川の川原で禊ぎをし、全てのカルマ・業(全ての背景)から自由に成り、覚醒する事が出来たので、宇宙の始まりを見る事が出来たのである。
其の宇宙の始まりも、世界中の遺跡で見られる、二重の螺旋構造である。
其れは、無重力の宇宙空間で、水素原子の渦巻きに因る、光エネルギーへの転換の様子を、自分の根源として観る事である。
水の元である、水素原子の粒子が質量を増し、黄泉と名付けられているある濃度に達すると、揺らぎを起こし、其れが渦巻きと成って、朝顔の花の形の様に中心が窪んで行く。
そして、これ以上小さく成れない限界点・特異点に達すると、光のエネルギーに転換し、真闇の宇宙空間に飛んで行くのである。
しかし、其の光も、エネルギーを消耗すると、元の粒子と成って、再び宇宙空間に飛散して行くのである。
其の、粒子が渦巻きと成って、深い穴に吸い込まれて行く時の音が、龍の鳴き声なのである。
だから、其の龍の鳴き声が、此の宇宙を創造しているとも言えるのである。
其れを、人間が目にする為に、描かれた絵が「時空・トキ」の球を、手に鷲掴みして居る龍神の姿なのである。
だから、其れを、簡単に言葉にすれば、時間を司る龍王が、此の宇宙を手に抱えて、旅をしていると言う事に成るのだ。
だからこそ、龍と水の存在は、切っても切れない間柄なのである。
今朝、私が、其の理を認識したのは、屋久島の真東の地である。
中国の、四方神の、東の神は水であり、青龍であり、智慧を司る働きである。
今朝、目覚めたホテルの温泉水は、其の地下から、直接汲み上げているものである。
其の、水の掘削の時、水の霊の祟りも発生している。
其れは、現代人が余りにも、宇宙の原理原則に無頓着であるからなのであろう。
しかし、其の祟りも、私がこうして認識した事で、消滅したのかも知れない。
私達人類の本当の役割は、宇宙の創造神の存在を、認識する事である。
我々の存在は、宇宙の意識が、自分自身を認識する為に、現象化している物である。
其の人間が、其の役割を忘れて、自己の欲望ばかりに暴走すれば、人間に与えられた役割は、果たされない事に成り、人間の存在は宇宙意識にとって、不必要な物と成ってしまうのだ。
龍神が、苦しい想いをしながら、水素原子の粒子を吸い込み、光エネルギーに転換して、此の宇宙の存在・トキを生産しているのに、其の働きに感謝する人間が一人も居なく成れば、龍神はやる気を失って、力尽きるのではないだろうか。
其の、龍神の想いを一身に受けて、動いて来たのが、私の24年間の月日である。
其の結末として、今回、阿蘇の日宮幣立神宮で「九代龍王水神」の幟を掲げた事は、大きな意味が有ったのではないだろうか。
是で、宇宙のバランスが少しでは調和する事に成れば、私も、肩の荷が軽く成ると言うものである。
平成19年3月16日
礒邉自適
2006/9/9
自分の中に住む白蛇
18・9・9
本日9月9日は「重陽の節句」である。
其れに、「ククリの日」で「白山権現菊理姫」にも関係が有る。
「ククリ」とは、神霊界と人間界が「結び合う・括り合う」との意味であろう。
昨日から、私の心身が変調を起して来て、具合が悪いと云うまでには至らないが、何だが落ち着かない。
其れは、大本教の出口王仁三郎の謂う、「9月8日の12の秘密」が、表世界に現われ始めたからであろうか。
私の神事の始まりは、出口王仁三郎に下駄を履かされた事が切掛けだが、其れより前に、霊夢の中で、「白龍」が私の身体にトグロを巻いて来て、私の左手の掌の上に、丸い地球を乗せ、管理する様に云い、私の頭を切り離して地球と重ねてしまい、私の胴体の上には、龍神が自分の頭を据えてしまったのである。
其れは、身体は自分の物だが、其の胴体には「白龍」が巻き付いており、頭は龍の頭と取替えられ、自分の頭は、地球として、自分の左手の掌上に乗っていると言う、説明し難い有様である。
其れは、不思議な感覚で、自分の頭が地球で、身体とは分離されており、自分の意識は、屋久島の岩山を通してでなければ、肉体に還れないのである。
私は、自分の意識に辿り着く為には、宇宙から地球に帰り、屋久島の花崗岩の岩を経由しなければ、手足の付いている肉体には、帰れないのである。
其れは、自分の意識が自分ではなく、何か得体の知れないモノと、掏り替っている事に成る。
今朝、明確に成って来たのは、其の得体の知れないモノとは「ククルカーン」なのである。
ククルカーンとは、アステカの神で、八段積んだ石のピラミットの階段から、地上に降りて来る、水を齎す大蛇である。
其の、八段の階段の段差に出来る隙間の三角部分が、蛇のトグロを巻く七つの空間なのである。
其れは、八段の又に住む「やまたのおろち・八又大蛇」なのである。
私の身体に巻き付いて来たのは、其の「ククルカーン・括る神様(くくるかんさあー)」だったのである。
私は、1985年3月5日に、初めての全国の旅の途中で、島根県の出雲大社に参詣した。
其の時、導かれる様にして、「大国主命」を祀る大社と、大きな拝殿の間に有る川筋の道を、山の方に向かって歩いて行った。
1kmくらい坂道を登って行くと、其処にあまり大きくない社が一つ存在する。
私は、其の社にお参りし、大社の参道の近くにある大島屋旅館に宿泊した。
すると、夜中に、其の山の社から、女のコケシみたいな物がピョッコン・ピョッコン・ピョッコンと下りて来て、宿に寝て居る私の布団まで遣って来た。
すると、其れに対応する様に、私の身体から直径30センチくらいで、長さ2mくらいの白い蛇の様な物が抜け出し、其のコケシに導かれ、大社の方に向かって進み始めた。
私の意識は、其の白い大蛇と一体に成って、空中を移動して行った。
其の、コケシと白い蛇の様な物は、大社の表側から社の壁を抜け、後ろに在る「須佐之男尊・すさのおのみこと」を祀る社に行き、更に、其の社も抜けて、後ろ側の岩板の土手に突き当った。
すると、其の途端、其の白い蛇の身体の様な物は、白い光りと成って爆発し、消え去ってしまったのである。
其の光りの現象の後、私の意識は又、宿の布団の中に在った。
其の映像を、今朝思えば、屋久島で私に入り込んだ白龍が、出雲大社の裏山に住む「コケシ神(シャクジ神?)」に導かれて、大社の裏山の磐座に還った事に成る。
出雲大社の裏山は、「弥山」と呼ばれて居るが、地元では、昔から蛇山と呼んでいるらしい。
其れは、奈良県の三輪神社の三輪山(三室山)と、同じ言い伝えを含んでいるものである。
どうやら、出雲も三輪も白山も、同じオロチが関係している様である。
「大穴持御子神社(三歳社)」http://wave.ap.teacup.com/894019/2137.html
其のオロチを信仰する、古代の「国津神・祇(くにつかみ)」から「櫛稲田姫」を奪って妻にしたのが、渡来系の「素戔鳴尊・櫛御気命」なのであろう。
私の体に、トグロを巻いて来た龍神は、七回トグロを巻いて、頭を其の上に出している、祖母山の水神と同じモノだったのであろう。
今朝のメッセージの映像は、歌舞伎役者の大物が出て来て、様々な顔をしたり、身体を動かしたりして、色々な動作を繰り返した。
其の役者の四方に、弟子らしき男性が現われると、其の舞台は水に覆われ、海中の舞台の様に成った。
其の水の中で、五名が歌舞伎を演じ始めた。
其の様子は、無重力の中で手足をバタつかせている様な感じである。
其の時、私の意識は、其の様子を見ながら、エラブ(海蛇)の意識に成って居て、水中を揺ら揺ら漂いながら、其の様子を眺めて居た。
そして、「大国主命」の名と、「瀬織津姫」の名が気に成っていた。
其れは、先日現われた般若男が「大国主命」で、お婆さんが「瀬織津姫」でコケシ神の様に想われるものである。
今朝、出雲の件を思い出したのは、日本の歌舞伎の始まりは、出雲のお国さんの河原芝居が基に成っているからである。
出雲の「お国さん」を動かした本体こそ、弥山のオロチだったのかも知れない。
今朝、私が感じた事は、昨日「臭」がテーマで鼻の働きだったが、今朝は五感「視・聴・嗅・味・触」の内、物に触れる「触」の世界が、現われて来た様である。
蛇は手足が無いので、臭いを嗅ぐ鼻の感覚の次は、身体が触れる物の感覚なのかも知れない。
其れは、食欲を離れた処の性衝動の、触れ合いの出来事に、関係があるのではないだろうか。
赤子が、母親の子宮の羊水の中から外に出て来て、水の肌触りから、イキナリ接触するのは母親の肌である。
羊水に浮かんで居た、柔らかい肌が、イキナリ硬い母の手に、抱き上げられるのである。
其の時に、感じた不安感がトラウマと成り、死ぬまで、意識を左右していると考えても、何等不思議な事ではない。
人間が、野生の猿と同じく、スキンシップを欲しがるのも、そこら辺りに原因が有るのではないだろうか。
蛇が、雌雄絡み合っている姿を、神の姿と重ね合わせて、憧れる人間の意識は、多分この「触」の世界に、要因が隠れているのかも知れないのである。
そう言えば、歌舞伎役者が水中で行なっていた仕種は、産まれたばかりの赤子が、産湯のタライの中で、手足をバタつかせている様子にソックリであった。
現在・いま、人気の有る歌舞伎役者の仕種と、タライの中の赤子の仕種を重ねて見れば、生命の基本原理は、赤子も大人も、あまり差が無いのではないかと想えて来る。
歌舞伎役者は、顔に隈を描き、特別に表情を引き立てているが、其の顔の表情の世界こそ、「想」を現すことにある。
私は今朝、事務所の横に在る汲み取り便所が汚れていたので、水で洗いながら掃除をした。
ホースで便器を洗っていると、勢い有るホースの水で、下の糞尿が攪拌され、臭いが立ち上って来た。
其の時、顔をしかめた私の顔は、歌舞伎役者に負けない程、良い演技をしていたかも知れない。
其の無意識の表情こそ、物と、人と、蛇が、括り合った瞬間ではないだろうか。
私の内に、存在するオロチの意識こそ、全ての生命の意識の源なのだろう。
万物の霊長とは、人間自身ではなく、人間の意識の中に住んで居て、時には答えが見付からず、手足をばたつかせ、身もだえしている「蛇・エラブ(選ぶ)」の事なのではないのだろうか。
何故、釈迦牟尼仏の背後の護り神が、七又頭のオロチなのか、其の答えも見えて来たようである。
「白蛇・白龍」が分離して働く時、七色に別れるのである。
其の時、プリズムの役割を果たすのが、神社に備えられている鏡や、イシス神の頭上の鏡なのだ。
「鏡・かがみ」の名が、「カカチ・蛇」と「カガミソ・カガミッチョ・蜥蜴」の同語であり、正月に七段重ねられる「カガミ餅」は、其のまま「ククルカーン」のトグロを巻いた姿なのである。
其の「括る働き」が、「白山菊理姫」で、「瀬織津姫」の別の姿なのだろう。
平成18年9月9日
礒邉自適
2006/8/6
野鳩の鳴き声
18・8・6
今日は、広島市で、被爆61周年の慰霊の儀式が行なわれる日だが、今朝は平和の象徴とされている鳩が、6時前から宿舎の横の林に来て、鳴き始めた。
最初は、夢の中で、神の声かと意ったが、目を開いて三次元である事を確かめても、其の声は、同じ鳴き声である。
其の声は「立派に成ったね 立派に成ったね」と、聞こえるのである。
其の声は、30分くらい聞こえていて、太陽の光りが強く成って来たら、止まった。
平和のシンボルが、鳩に成っているのも、意味が有るのかもしれない。
今朝は、其の現象で、22年前、神の世界に入った時の事を思い出した。
其の日の朝は、矢本岳の実家に泊まって居て、朝寝室の窓に鳥が来て、翼で窓ガラスを叩く音で眼が覚めた。
すると、其の鳥は、屋敷の横に立っている高い木の頂に止まって、鳴き始めたのである。其れは、「時告鳥・ホトトギス」の鳴き声である。
私は、其の声が、私を呼んでいる様に感じて、寝床から起きて外に出た。
早朝の其の野外には、余計な物事は未だ一切起きていない。
フト、上空を見ると、一羽の鷹・たかが家の上を、円を描いて回転している。
其の鷹を視ていると、右の翼の羽が一本抜けて落ちて来た。
そして、私が、其の羽を拾うと、其の鷹は、山の方に向かった。
私は、何気なく其の後に付いて、山の方に向かったのである。
不思議な事に、其の鷹は、私が毎日、山に向かう癖が付くまで、数日間、毎日迎えに遣って来た。
其の鷹が、同一の鷹である事は、飛んで居る翼の羽が一本抜けているので、直ぐに判別出来たのである。
其の日から、毎日山中に入り込んで、人間に接触しないので、人間社会の煩わしさから遠退いて行ったのである。
其れから、私は、人間社会を、遠目で客観的に視る様に成ったのである。
だから、中国の古典に載っている「宇宙の 事象が転換する時は 禽鳥類が其の氣を先ず受けて 其の禽鳥類から 人間に中継して来る」との事が、現実の事として起きたのである。
其の現象は、2666年前の神武天皇の時にも起きて、其の地は、現在でも「鳥見」として、奈良市の近くに有る。
一昨日、4日のメッセージにも、大きな白い鳥が一羽、ゆっくり右回転で、私の方に向かって飛んで来る映像が映って来た。
そして、今朝は、野鳩が庭の木に来て、「立派に 成ったね」と鳴き続けるのである。
どうやら、屋久島から2666年振りに、新しい意識が目覚めるらしい。
其れは、人間だけの世界ではなく、森羅万象総ての氣が、転換すると謂う事である。
今朝の映像には、薄いピンク色のアルバムが一冊現れて、「いのちのアルバム」と有り「生命の絆」と言う副題も示されて来た。
其れで、私が理解出来た事は、私が意識するかしないに関わらず、私の脳を使って、新しいプログラムが展開されていると言うことである。
其れは、私が、映像を解釈しようとすると止まるが、其の侭、何も意識しないで素通りさせれば、其の侭、宇宙のプログラムが滞り無く、三次元に流れ込んで行くと謂う事である。
其れが、島根県松江市に有る「熊野大社」の祭神である「神祖熊野大神櫛御氣命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」の働きなのだ。
そして、其れが、本来の「みいつ・御陵威」の働きの理・ことなのである。
だから、私は、中国の王様に鍼を打つ清水先生に捜し出されて、皇帝の働きが出来る治療を受けさせられたのである。(1995年8月〜9月)
総てが、此の日の為に、準備されて来た事だったのである。
22年前、屋久島での修行が終わり、飛行機で鹿児島に出て行くと、鹿児島空港の上に、一羽の鷹が来て回転して居た。
私が、其の鷹の存在に気付いた事が分かると、其の鷹は、霧島の山の方に向かって飛んで行った。
私は、其の鷹の飛んで行った方に向かい、霧島神宮に参拝したのである。
昨日は、久し振りに、霧島の知り合いからメールが有った。
其れは、「太陽に兆しが見えた」との事であった。
私の、守護霊の中の本霊は「「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」である。
宇摩志麻遅命の御陵が有る、島根県太田市の「物部神社」の神紋は、「日負い鶴」である。其れは、太陽を背にする大鳥である。
一昨日の大きな白鳥は、其の日背負い鶴か、「日本健命・ヤマトタケル」の霊体だったのかも知れない。
今朝の映像には、パソコン作業が出来る女性達が、霧島の建物に10名程集まって、私の仕事の手伝いを始める様子が映されて来た。
どうやら、私はノート型パソコンを一台手にして、世界中を回り、其の女性達に、原稿を送らなければ成らない様である。
そして、「命・いのち」の写真を撮りまくり、「生命の絆」を映像と言葉で、表現して行かなければ成らない様である。
其れが、薄いピンク色のアルバムの意味なのである。
ピンク色は、「弁財天・サラスヴァティー」の子供達の色である。
私は、水の子達の姿を、撮り続けて行かなければならないのだ。
一昨日のメッセージには、大分県犬飼町で「大野川」を守る運動をしている友人の「幸野敏治氏」の姿が映り、「是は 総ての変革である」との言葉が有り、新しきHPのトップページが映されて来た。
昨日は、其のトップページのデザインが出来上がったのである。
幸野敏治氏の姿と「是からの総ての改革」が、何故関係が有るのか。
其れは、幸野敏治氏が大野川を守る運動を長年行なっているからである。
大野川は、大分県・宮崎県・熊本県に支流を持ち、水源が三県に跨っているのである。
幸野敏治氏は、其の支流に住む人々を集めて、水を守る運動を続けて来た方である。
「大野川ネットワーキング」 http://www.pref.oita.jp/10400/viento/vol08/tokusyuu/02.htm
其の、大野川の支流の一つである祖母山山系は、「豊玉姫」を祭る山であり、七回半木に巻きつく「大蛇・ククルカーン・括る神様」の本でもある。
水を守る運動をして居る幸野敏治氏は、大山祇神にとって、一番大事な人間なのだ。
其の幸野敏治氏の働きを表に出し、其の働きを世界中に拡げて行くのが、是からの私の役割であるようだ。
今日は、また一つ新しいHP「いのちのアルバム(生命の絆)」のトップページをデザインしなければならない。
私の、HPとブログの数は40を超えて来た。
其れを、一人一人に分けて管理して貰うには、40名のスタッフが必要に成って来る。
其の40名が、一箇所に集まる必要が無いのが、I T社会の良い処である。
是から先、物事がどう展開するのかは、未だ判らないが、此処のところ神霊界の働きの奥深さが、日に日に実感できて来ている自分が在る。
其の自分自身が、何者で在るのかは、益々不可解に成っては来ているが。
今日は、広島の犠牲者の追悼が行なわれる日である。
私は22年前、初めて、車に炊事道具の鍋釜や布団を積んで旅に出て、三日目の朝、目覚めたのが、広島の平和公園の入り口の広場であった。
私の旅は、昼夜を問わず、眠く成るまで走り続け、眠く成った処で広場を捜し、其の場で、車中に布団を広げて眠って居たのである。
全てを、霊の動きに任せて、ハンドルを切って居たのである。
其の同じ手が、今はパソコンのキイボードを叩いている。
是から先、何を打たされるのかは分からないが、止まる迄は続けるしかない。
今日は、原爆で亡く成った人達だけではなく、戦争の犠牲に成った方々の追悼の為にも、新しく出来た磐境で祈りでもして見ようかな。
少しでも、霊界の供養が出来て、世界が安らぐのであれば。
平成18年8月6日
礒邉自適
2006/6/15
屋久島の神の働きが見えて来た
18・6・15
今日、前の文章を整理していて、屋久島安房出身の「泊如竹翁」に関するものが出て来た。
其れを手直しして居て、此の一連の流れは、全て泊如竹の策略なのが見えて来た。
私が神掛りに成った時、一番に始めた事が、近くに有る泊如竹の廟の掃除や、縁の本仏寺との関わりだった。
今回の大山祇神の祭りも、大山邦博氏に、三年前に泊如竹の霊が憑依して始まったものである。
今回の流れは、既に三年前に始まっていたのだ。
泊如竹の誕生日が1月17日で、阪神大震災も、ロサンゼルスの地震も、湾岸戦争も1月17日である。自適塾の電話が着いたのも1月17日である。
どうやら、屋久島の山の神を動かしているのは 泊如竹の霊魂の様である。
平成18年6月15日
礒邉自適
「頼む」 15・2・17
昨夜は一晩中、小さな文字が全面に書かれている物が、続けて出て来た。
文字が小さ過ぎて、量が無限なので、読む気にも成れなかった。
最初の内は、興味が有ったので、一部分だけ目を近付けて見てみた。
すると、其の部分は女性の個人情報で、誕生日や、それ迄の人生の事が全て記されている。
其の内容は、現在、病院で看護婦として働いているが、大型ダンプカーの運転手に成りたい夢を持っている事まで、載っており、未来で何月何日に免許を取得したとまで、載っているのである。
其れは、現在、生きて働いている人が、未来に転生して、夢を叶える事までが、記されているのである。
私は、其の文字の記されている物が、人類の「三世(過去・現在・未来)」のデータベースである事が分かった。
そして、疲れた頭で朝起きたら、男性の声で「たのむ」と一言有った。
其の声の主が、誰だろうかと考えて見たら、本日2月17日は、旧暦の1月17日で、屋久島安房生れの「泊 如竹聖人」の誕生日であり、午後5時半より「泊如竹廟」で、生誕祭が催される事を思い出した。
泊 如竹は元亀元年(1570)1月17日 船大工「泊 太次右衛門」と「初亀」の長男として安房に生れ、5歳で本仏寺に入寺、「日章」の名で法華の京都本能寺に上京して仏教を学び、後に薩摩藩に招かれ、老後は屋久島に帰り郷土の為に尽して、1655年5月25日に85歳で亡くなっている。
だから、今日は、433回目の記念すべき日という事に成る。
今朝「頼む」と言って来たのが、其の「泊 如竹翁」であれば、私に、何を頼みたいのかは、理解できる様な気がする。
今朝の夢は、アカシックレコードと言われている、宇宙の記憶盤のデータベースが映って来たのだろう。
人間一人の個人データでも、三世に渡れば、莫大な量であろうし、現在は60億人居る人類全部のデータとなれば、想像を絶する量となる。
しかし、現在のコンピューターの発達を見れば、どの様なものかは、想像出来ない事ではない。
其の泊如竹は、琉球王に招かれて沖縄に渡り、王の図書館に案内されて蔵書を見せられた時、外に出てから「私の図書は 皆頭の中に有る」と、云ったとの逸話がある。
泊如竹は、人間の脳が、どれだけの知識を蓄えられるかを、知っていたらしい。
そして、如竹は、自分の文章は、あまり残してはいないらしい。
若しかしたら、如竹はアカシックレコードの存在に気付いていて、書物が無くても、知識は宇宙に蓄えられる事を知っており、自分が、何かの文章を残す事は、無意味であると考えていたのかも知れない。
其れに、余計な情報を残す事は 後世の人達に、無駄なエネルギーを使わせる事に成ると、考えていたのではないだろうか。
如竹は、猛烈に学問をして、釈迦仏陀の法華教だけでは物足りなくなり、本能寺を出て「儒学」の道に進んでいる。
若しかしたら、老子の学問に迄で進んだのかも知れない。そうであれば、自分の考え等を残す事は、余計な事であり、自分の念いは永遠だから、霊界から、未来に影響を与えようと、考えたのではないだろうか。
私に、18年前起きた事と、私の執らされた行動から判断すれば、如竹の関与の可能性は高い。
昨日は、日蓮聖人の誕生祭でもあった。法華宗は、日蓮が立宗した宗派である。
法華経は、釈迦仏陀が弟子の「舎利弗(しゃりほつ)」に、説法した内容を伝えるものである。だから法華経は、釈迦の言葉が文字に成って、伝えられた物である事に成る。
言葉が文字に変った時、人間の意識は文字に囚われて、もう意識は自由ではなくなり、釈迦の教えから外れてしまう。だからこそ、偉大な釈迦は、その欠点を補う為に、弟子の「摩訶迦葉」に無言の教えを渡したのである。
泊 如竹は、其の事の意味まで理解したので、自分の文字を、残さなかったのではないだろうか。
五歳で出家する事に成った如竹は、小さい時から、私と同じ体験をしていたのではないだろうか。
それを見抜いた行者も凄いが、釈迦や老子の心境にまで達した如竹も、偉大な存在と言えるだろう。
泊如竹の、産湯を汲んだであろう、安房川の川岸に、私の両親が上陸した時に、一番喜んだのは如竹かも知れない。
そうであれば、私の子供の時からの行動にも、納得いくものがある。
そして、今日「頼む」と言って来たのが、当の如竹であれば、三世に繋がる情報の整理を、委託して来たのではないだろうか。
私が20歳代の時に、数年間居候していた家は、如竹の母親である「初亀さん」の実家であり、如竹の産湯を使った跡の、石碑が有った屋敷でもある。
私が、自分で買う事に成り、現在住んでいる家も、其の居候をしていた家の女主人が、お世話してくれた物件である。
私の、自宅前の安房川の岸辺には、昔の桟橋跡が残っている。
其の桟橋は、56年前の夏に、私の両親が上陸した場所であり、多分、如竹も五歳で此の場所から出発し、数十年後、また此の場所に、帰って来たのではないだろうか。
私の自宅の裏山には、現在でも、如竹が五歳で、頭髪に剃刀を入れた「本佛寺」が建っている。
私の日常は、泊 如竹の一生を写した、鏡の舞台で、繰り返されているのかも知れない。
自分の一生が、自分だけの一生ではなく、永遠に繰り返されている、ブッダの業(カーマ)として、存在しているのではないだろうか。
インドの釈迦は、自分の念い・波動は死後500年残り、教えはその後1000年残り、言葉だけは其の後1000年残ると言ったと伝えられている。
そして、合計2500年経過すれば、衆生は皆、無明に陥ると言ったとの事である。
現在社会は、正に、其の2500年後の、無明の時代と言えるだろう。
その無明の時代に、人類のデータベースを見せられ、「頼む」と云われれば、私も、何らかの対策を採る必要があるだろう。
私は18年前、1984年6月4日(旧暦5月5日)自宅前の川岸にて禊を行い、4311体もの「神霊の思頼(みたまのふゆ)」が起きて、人類の未来を頼まれる事に成った。
その禊の場所が、56年前の昭和21年8月3日、母親が上陸し、荷物が陸上げされるのを待って、座っていた砂場である。
其の母親の胎内では、私は三ヶ月目の細胞分裂を繰り返していたのである。
三ヶ月目の細胞に、安房川の水神アナコンダは、どの様な影響を与えたのであろうか。
安房川の清い水の流れは、私や泊如竹に、何のエネルギーを与えたのであろうか。
インドの「ガンジス川(ガンガー)」の流れと、同じ記憶が、秘められているのであろうか。
今朝、夢に現れた小さな文字は、日本語の文字盤ばかりであった。
他のページを捲って見れば、世界中の文字が記されている事だろう。
記憶をしている材料や、場所が、何処に存在するのか分からない。
水なのか岩なのか、又は樹木なのかも私には分からない。
若しかしたら、生物の体内の遺伝子のゲノム其のものが、アカシックレコードのマイクロチップなのかも知れない。
仏教でも、神道でも、精進が基本の処にある。
自分の体内細胞こそ、永遠のインターネットであれば、自分の身こそ大事にしなければならないだろう。
一人の人間の肉体は、60兆の細胞で組み上がっており、一個の細胞の中に30億個の遺伝子情報が有るとの事。其の、臣大コンピューターと、大自然の働きの間には、境界が無いのだろう。其の関係性を、釈迦は 「法・ダルマ」と名付けたのではないだろうか。
私の意識も、自分のゲノムを通して、成佛しているのかも知れない。
※ゲノム{Genom ドイツ語}【配偶子または生物体を構成する細胞に含まれる染色体の一組。または其の中のDNAの総体。其の構成は生物の種に固有。】
平成15年2月17日
礒邉自適
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