2019/6/22
おもいを凝らす
1・6・22
おもいを凝らす
唯 おもいを凝らす
夏至の午後 おもいを凝らす
此の おもいの果て・底・先に 何が在るのか
外は ときどき吹いて来る風に
草木の葉が 騒いでいる
だが 私の意識は 其の風音や
草木の葉のざわめきには 何も心が反応しない
何も起きない 何も求めない
此の 時の間には 空ではない 何かが
潜んでいる事は 確かである
だが 其れが 何なのかを
求める意識は 湧いては来ない
其処には 是まで 何かを求めて
彷徨って来た 私の心が有るはずなのだが
其れも 足を進める事なく 沈黙している
此の 沈黙の主人は 何物であるのか
静かに 激しく 意識を凝らしているのだが
何物も登場しない 此の沈黙のトキは
何を意味しているのであろうか。
今日は 太陽が一番近い日
此の沈黙は 太陽の存在が 其の儘
私の毛穴に 其のエネルギーを
チューニングしているとの 事なのであろうか
令和1年6月22日 午後3時43分
礒邉自適
2006/3/31
福岡緑進協会
18・3・31
今朝、7時10分発の高速船トッピーで、西川氏と下関に向かって出発した。
鹿児島からは、新幹線に乗り博多で乗り換えなので、博多駅前に在る「財団法人 福岡緑進協会」の事務所に、白土宏氏を訪ねた。
事務所には、息子の「雅一君」も熊本から偶々出て来ており、頭山満翁の御曾孫に当られる柴田様(右側)も遊びに来て居られ、二時間程話しを聞いた。
白土宏代表(左側)は「日本の国土は美しい。」「美しい環境でなければ 英雄は生まれない。」と話されたので、今回は、其の言葉を頂く事にした。
柴田氏は、私のHPを覗いて居てくだされて、「自適さん もう少し易しく説かないと 民衆は付いて来られないのではないですか。」と、アドバイスを頂いた。
私が「西郷さんが 霊夢に現われ『始めようか。』と言って来たのですが。」と言うと、少し驚いていた。
平成18年3月31日
礒邉自適
2005/8/17
言葉の探求
17・8・17
7月9日のNHKのニュースで、中山文部大臣が「子供達の読解力が落ちて来ているので、漢字や言葉の教育に力を入れたい。算数も、理科も、全て言葉の理解が出来なければ、成績が上がらないので・・・。」と云って居た。
其れは、当然の事である。
人間は、言葉を使用して、脳が考えているのだから、言葉の意味が正しく処理されていないと、物事が理解出来る分けがない。
答案用紙に、何が書いて有るのかの意味が、汲み取れない者に、答が出せる分けが無いのだ。
言葉の土台が出来るのは三歳頃である。
其の頃、目や肌に触れる物や、耳に聞こえる音などの情報で、脳の基盤が出来るのである。
其の時分から、狭い部屋の中に居て、紙に書かれた絵や、文字ばかりを見て居たのでは、脳の舞台が小さな物に成り、言葉の世界の領域も狭い物と成って、理解力が貧しいものとなるのだ。
都会で生まれ育った人達が、私に「自適さんの言っていることが 解からない。」と言う。
私は、日本語で話して居るのに、何故、其の様に言うのかと、不思議に想っていた。
其れは、私の脳の中の景色は、自然が一杯なのに対して、都会に生まれ育った人達は、頭の中に、私と同じ景色が無いので、私がイメージしている事が、相手の脳のスクリーンに映らないのである。
其れだと、4000年も前に、自然の中で生活して居た人達が考え出した漢字が、理解出来る分けが無い。
都会の人には、漢字の文字も、只の記号でしかなく、アルファベットと同じで、意味が含まれて居ないのである。
漢字は、全部、写真で写せる物や、人の姿の象形である。
物や景色が、脳内に無い人は、文字が持っている意味を、汲み取る事が出来ないのである。
其れは、熱帯地方生まれの、雪を見た事が無い人に、雪の話をしても、其の白さや冷たさは、解からないのと同じだし、砂糖を食べた事が無い人に、砂糖の甘さを教える事の難しさと、同じである。
既に、韓国には、漢字は無くハングル文字だし、本家本元の中国でも、漢字が略字化されていると聞く、もう日本だけが、漢字を其のまま、残せる国と成って来ているのだ。
今や、世界中に日本の漫画が流行り出していると聞くが、漢字も、元は漫画と同じ絵の組み合わせで出来ている。
解剖学者の養老孟司氏が、「脳は、物を見る事で出来上がっているので、本当は漢字が一番覚え易いのだ。」と、話していた。
漢字文化圏の人口は、世界の約四分の一も有るとの事なので、漢字を漫画として、世界に広める事は可能である。
人間の脳を、退化させない為にも、漢字の持つ力を、伝え続けなければならない。
携帯電話の画面に、漢字を打ち出して、其々の民族の言葉で、読み取れば良いのだ。
そう成る為にも、日本人が先ず、漢字の持つ意味を、正しく理解する努力をしなければならない。
日本が、世界に伝えられる物としては、最大の文化であろう。
「神道」とか言い出せば、反感を受けるだろうし、佛教にしても限界がある。
既に、世界中で漢字のデザインは取り入れられ、縁起物と成って来ているのだ。
東洋の叡智が生み出した、最大の財産が、漢字と日本の自然観である。
是を世界の財産としないで、他に何が有るだろうか。
形有る物は、必ず崩れるのである。
エジプトのピラミッドでさえ、何時かは風化して、砂に還ってしまうのだ。
しかし、言葉は変化しても、漢字は4000年も其の形を保って来た。
その意味では、世界一の文化遺産とも言える。
世界文化遺産に、真っ先に登録されるべき物こそ、漢字なのではないだろうか。
そうならない限り、老子を祭り事の中心に持って来ても、天津日嗣は完成しないだろう。
言葉が理解出来ない内は、愛や慈悲に満ちた世界が、完成する筈がない。
何故かと言えば、脳の中に、愛や慈悲の世界が、デザインされていないからである。
ジョン-レノンのイマジンこそ 人類に与えられた予言である。
「イメージしてごらん 地球には 国家など無いのだよ・・・・」
平成17年8月17日
礒邉自適
2003/11/28
松果体・観音
15・11・28
26日に、男性の力強い声で「我々は 是を 直線の配列と言う」と告げられて来た。
そして、作日のメッセージで、男性の働きが完了し、女性の働きに移る事が示されて来て、観音様の女性が現れたが、今朝はまた、男性の悪戯が止められ、女性が管理をする社会が映されて来た。
此処のところ三日間で、男性社会の価値観が終わり、女性の価値観に、社会が変化する事が知らされて来た。
「観音様」を佛教辞典で調べて見ると、「智慧によって 対象を照見する 作用を観という」と有り。
「観」は観察のことで、観の漢字は「鴻+見」の組み合せで、「鴻」は目の周囲が赤い「コウの鳥」の象形で、こうの鳥のように目を大きく開いてよく見るの意味を表す。と、載っている。 (漢語林)。
「観音」とは、観世音の異称だから、世の中を能く観る事である。
其れも、目に見える物だけではなく、姿形の無い働き迄も、能く見なければならないのだ。
観世音菩薩像は、男でもなく、女でもない姿で造られているのは、何故なのか。其れは、世界を観るのには、立場が男性か女性かのどちらかに、偏よってはならないからであろう。
真理を観るのには、中立(中庸)でなければならないのだ。
其れでは、中庸で観るにはどうしたら良いのだろうか。
其のヒントは、観世音菩薩像の額に有る。
観世音菩薩像の額には、第三の目が嵌められている。
其の、多くの仏像に印されている第三の目とは、覚醒の為の目であり、実際に人間の頭の其処に有る物は「松果体」と呼ばれている器官である。
其の「松果体」は珪素で出来ており、珪素は英語ではシリコンと呼ばれている。シリコンの純粋な結晶は、松毬状に形成されるそうだから、「松果体・しょうかたい」と名付けられたのも頷ける。
「松果体」を広辞苑で調べると、「松果体」左右大脳半球の間、大三脳室の後部で、視床枕と中脳の上丘との間の陥凹部に有る、小さな松毬(まつかさ)状の内分泌管。メラトニンおよびセロトニンを分泌。メラトニンは生殖腺に抑制的に作用し、其の産生は光りに影響される。鳥では生物時計として働くとされる。
「松果腺」上生体。「メラトニン」脊椎動物の松果体で作られ分泌されるホルモン。外界の光周期情報を体内に伝えると考えられ、ヒトでは睡眠を促進する効果などがあるとされる。と、載っている。
これ等の事から考えられるのは、松果体は人だけではなく、鳥類でも生物時計として働き、外界の光周期情報を体内に取り込むのに、必要であることが分かる。
前記した、「観」の文字が、鳥が見るとの意味で作られているのも、意味が合ってくる。
コウノトリの仲間である「トキ(朱鷺・時)」は、エジプトでは時間を司る神とされている。
エジプトの、古代文化である太陽の船には、太陽神イシスを案内するのに、コウノトリの頭をした神「イビス」が舳先(ミヨシ・見良し)に立っている。
エジプトでも、中国でも、鳥が世界を観る神とされていたのだ。
其れが、現代科学で、ようやく認められる時が来た様である。
インドでは、2500年前に「お釈迦さん」が、第三の目を開眼する事に成功している。
日本の伝統を伝える天皇家でも、天皇を「スメラのミコト」と呼んでいた。「スメ」とは、第三の目のことであり、「スメラ」とは、其の目に目覚めた「ブッダ・王」の事である。
お釈迦さんが謂っている理・ことに、自分がブッダとして目覚めたのは、「今世ではなく 何世も前の事だ」と有る。
日本の、天皇家の「スメラのミコト」の伝統は、「天津霊継・あまつひつぎ」と言って、代々引き継がれて行くのが決まりとされているのだ。
その流れの一番の元を、カミ(上・源流・みなもと)として祀り、その代々の霊魂を「すめみおや(皇祖・素目見親)」と考えて来たのである。
26日に聞こえた「我々は これを 直線の配列という」との意味は、此の「スメラ(覚醒者・ブッダ)」の霊継ぎの理であろう。
私も、佛教の在家得度を受けて、一応釈迦仏陀の81代目の弟子と言う事になっている。
世界中に、何十万人の釈迦の弟子が居たとしても、自分と釈迦の関係は縦一列で、一直線に繋がっている事に成る。
釈迦は、覚醒して「衆生一切が我が子」と謂っているし、スメラの尊のセリフも「国民は 皆 吾が子」である。
釈迦も、スメラの王も、要は母性愛の立場に身を置く事の様である。
自分の子供に、戦いをする様に奨める母親は居ないだろう。
観世音菩薩とは、男性で在りながら、母性の立場に身を置く中庸の人間のことであり、其の中庸の立場から、世の中の裏表を見通して、衆生一切を導いて行く働きを言い表す名なのであろう。
松果体とは、渡り鳥が旅をして生まれ故郷に帰る様に、旅をする男性の性(サガ)が、生命の源である女性性の母体に、帰り着く為の器官であると言えるのではないだろうか。
原始母性の源へ還り、母の胸で安らかに眠りたい。
其れが、男の性の本音なのではないのか。其の目的の為に、観音の音(ね)が、永遠に鳴り響いているのだ。
平成15年11月28日
礒邉自適
1999/3/14
手に取る様に分る
11・3・14
私は、人類が、類人猿の時代を経ていなければ、現在の様な相対的作業は、起きていないだろうと、考える。
人間の手が、恐竜の様に小さく、鳥の様に羽根に成っていたのでは、手に物を持って弄くり回す事が出来ないから、大脳が発達しなかったであろうと考えられる。
「作・つくる」と言う漢字は、人類だけに通用する言葉である。
作の漢字は「人+乍」の組み合わせで、人が小枝を左手に持って、右手に刃物を持って削って居る様子の象形文字である。
手に持った物を、自分の意思に拠って変化させることが出来る。
其処から、人間の脳が飛躍的に進化して来たと考えられる。
其の事を考えると、「手に取る様に分る」と言う言葉が、手に取る様に解かるのである。
人間は、「あの手・この手を考える」とか、「あの手・この手を使う」とか謂う。
其れは、人間の魂しいの深い所に根差した、潜在意識が呼び起されて、言葉と成っていると考えられる。
私達は、永い時間の中で、動物を狩り、手に着いた血を洞窟の岩壁に塗り着けた時から、絵を描き始め、其れを文字にまで書き進めて来た。
焚火で焦げた、棒の先の炭の部分を、石で削って先を尖らせ、槍として使用を始めた。
其れ等の事が、相対的な認識作業の元と成って、科学・化学や、文明・文化を発展させて来たのである。
現在では、余りにも発展した相対世界に振り回されて、言葉も意味を失って、人間は心の落ち着く場を失ってしまった。
満足するとは、「足が満ちる」の意味で、反対の定義が「不足」で、不満を覚える事である。
足が満ちるとは、人間は歩く事で、本来の姿・自然の中に生活していた時代の本当の働き、自然に順応していた形態に還った時に感じる、気持ちの状態であろう。
人間は、金や財産が増えても、其れには際限が無い理・ことは、良く解かっている。
人間は、小川の有る林の道や、森の中を歩き、歩き疲れてベンチに座り、自分の動きを休めて、自然をゆっくりと親しく見詰めた時、其処に本当の充足が有る。
「足りる」とは、歩いた時に脳が感じる、過去の状況の再現に他ならない。
人間は、歩く事に拠って、體にカルシウムが生産される。
カルシウムが生産されると言う事は、其の前に電気の発生が有る。
手を振りながら、足を動かして行くと、生体電気が発電されるのである。
海の魚が、泳ぎ続けなければ死んでしまう様に、動物は動いてこその動物である。
植物の様に、太陽から直接エネルギーの充電が出来ないので、仕組みが違って来ているのである。
動物でも、鳥の様に羽根を太陽光線に当てて、太陽エネルギーを直接取り込むシステムを残している物も居る。
人間は、未だビタミンDは鳥の様に、皮膚で取り込んではいる。
其れも、オゾン層が破壊される事で、危なくは成って来ているが。
動物の脳は、抹消神経の集束である。
東洋人と、西洋人の考え方の差は、何処から生じたのであろうか。
私が考えるには、素足で生活する東洋人と、赤子の時から靴を履いて生活する西洋人とで、絶対的と相対的に分かれたモノと考えられる。
東洋は、素足で生活し、靴を履かない部屋の中でも素足である。
西洋は、ベッドの上以外は、何時も靴を履いている。
西洋人の脳は、両足の抹消神経が、働かなく成っているのではないかと考える。
詰まり、「足りる」と言う感覚・感情を失ってしまって、両手だけの動きをするので、前頭葉だけの認識作用に陥っているので、相対的弁証法に突き進んでしまったのではないかと、考えられるのである。
つまり、足の抹消神経の方が、手の抹消神経より先に発達した物であるから、精神を安定させる為には、手を使って知識を組み上げて来た、前頭葉の抹消神経を休ませる事が、必要なのである。
其れが「手を休める」の言霊であって、其の為に、仙人は杖を、茶人は手に扇子を持つ事で、手に安心感を与え、手が触手を伸ばさない様な手段を採っている。
禅宗では、「法海浄印」と言って、一番心が安定する方法だと言っている。
此処まで、述べてしまうと「手に取って分る」と言う世界も、休まなければ成らない。
モーゼの謂う「せめて 7日間に1日だけでも 休息して 神と共に在りなさい」とか、老子の謂う「自然無為」の世界である。
其れは、手と足の四束の触手の動きを止めて、神経を大自然の働きに任せて、永遠の記憶・いのちの海に、自分の脳を泳がせろと言う事になるのかも知れない。
出雲地方に傳えられている神話に、櫛稲田姫の両親である「手なずち・足なずち」の名が存在する。
「須佐之男尊・すさのおのみこと」が、根の国(島根)に辿り着いて出会った、人の名が、言霊の記憶の海を泳ぎ渡る「鍵・キー」なのではないだろうか。
平成11年3月14日
出雲学びの家
礒邉自適
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