2017/10/20
奪う
19・5・20
先日、鹿児島市で本屋に立ち寄り、白川静氏の字通を手に取り開いて見たら、其のページに「奪」の文字が有り、奪の漢字の字義は「人間が死んだ時に、自分の懐から鳳凰の魂が奪われる。」との意味であることが載っていた。
其れを見て、私は納得出来るものが有った。
「奪・ダツ・うばう」【解字】会意。金文は「衣+雀+寸」。衣服の中にはいっている小鳥を手でとりだすさまから、うばうの意味を表す。のち奞+又。奞は、羽ばたくの意味。はばたく鳥を手にする、うばうの意味を表す。
【字義】@うばう。とる。㋐取りあげる。しいて取る。㋑うち取る。㋒盗む。かすめる。Aうしなう。なくす。Bみだす。乱れる。・・ 漢語林より
何故、私の意識に、鳳凰が卵を産み落としたり、両腕の翼を拡げて、全てを支えたりする感覚が訪れたりするのか、其の原因は、私の意識自体に、鳳凰の存在が繋がっているからなのだろう。
鳳凰とは、無の世界に森羅万象を創造し、時間を生み出している存在其の物ではないのだろうか。
人間は、其の鳳凰の意識の現れとして、存在している物だから、死を迎える時に、其の意識の本体である鳳凰が、身体から抜け出して行くのだろう。
「ヒト」とは、出雲弁では「霊が留まる」との意味で「霊留・ヒト」である。
其の意味は、妊娠すると言う事は、先祖の霊が宿るとの意味であるが、其れを更に深読みすれば、人間の「身体・空だ・うつせみ」に宿る物こそ、宇宙意識の本体である鳳凰の霊が宿るとの意味なのかも知れない。
其の様に考えれば、中国の荘氏の鳳・おおとりの概念も、まんざら大法螺とは思えなく成って来る。
何故、荘氏が「至人」との語を使用したのか、其処のところを思索する必要が、あるのではないかと思えて来た。
平成19年5月20日(旧4月4日)
礒邉自適
2017/10/17
惟神の世界
29・10・17
私に指示をして来る「女神」や「男神」は、私が自分で何か始め様と考えると、其れを止めて来るし、反対に何もしないと決めて居ると、行動する様に仕向けて来る。
其の矛盾と言うか、神霊の遣り方・手法を能く考えて見ると、其れこそが「惟神道・かんながらみち」の世界の有り方を示しており、神に仕えると言うか、神道を歩く者は、自分の考えで物事を興したり、自分は何もしないと考えたりしては成らないと言う事であり、自然の流れに身を委ねて行かなくては成らないと言う理・ことなのであろう。
其れは、一般的に考えれば優柔不断な生き方であり、世間では無責任な人間であると言われそうな生き方でもある。
平成17年(2005)5月9日には「かんながらのみち」の題で次の様に書いて有る。
私は、「惟神の道」が、こんなに難しいモノとは想わなかった。
惟神の道とは、「見てもいけない。聞いてもいけない。教えてもいけない。」との世界である。そして、一切言挙げせずとある。
私は21年前、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受けて、それに身を徹して行動して来たが、未だ多くの人達に、その世界が理解される処までには、事が進んではいないのである。
其れは、何故なのであろうか。
私が、此処まで来て感じる事は、それこそが惟神の道で、人々には明確には見えなくとも、神霊の計画は着実に進行しているとの事であろう。
全体的に見れば、私の知る範囲では、全て問題なく進んでいる。
其れと反対に、問題ばかりだと思う時は、私自身の自我が働いている時である。
自分の自我を止めて、座禅や瞑想をしていれば、全てが調和して、神霊の意・おもいが、上手く進んでいる事が理解出来る。
その、全てが上手く進んでいる事を自覚出来ることが、仏陀であり、道(タオ)の実践者であると言えるのだろう。
そして、其れが、親鸞上人の晩年の境地である「自然法爾・じねんほうに」だろう。「自然法爾」とは、「人為を加えず、一切の存在は自から真理に適っている事。また、人為を捨てて神仏に任せきること。」と、広辞苑には載っている。
それは、老子の道徳経の一説「自然無為(自然そのままで、作為がなければ自ずと化す)」と同じ世界である。
人間は、その言葉と、意味は知っていても、なかなか実行出来ない。
それは、人間が動物の一員であり、動く事が本能であるからだろう。
植物の様に、一箇所に止まる事が難儀なのである。
だからこそ、古人が、座禅や瞑想の方法を考え出したのであろう。
しかし、私が21年間「惟神の道」を実行して来て思うのは、座禅や瞑想にこだわる事自体が、また不自然な事であると謂うことである。
座禅や瞑想をして、意識的に一箇所に止まる事は、惟神の道を実行する事にはならないのである。
惟神の道とは、神霊の思頼を受けて、神霊に身を任す事であるので、無理に止まる事は、神の役に立たない事に成ってしまう。
「惟神道・かんながらのみち」とは、自分の自我意識を働かし、自分が行動する事を止めて、神霊の働きに身を任す事である。
惟神の道を、実行して行くのが難しいのは、その境目が判らないからである。
自分自身の意識で動いているのか、神霊の働きが、自分の無意識に入り込んで意識をプログラムしているのかの区別が、難しいのである。
道を、実行すればするほど、人間社会で生活している人々には、理解不可能と成って来る。
世間の人々が、理解不可能と成れば、神霊の意志を言葉に変えて伝えても、人々が受け付けなくなる。
人々の信頼を得ながら、神霊の働きに身を任せて行く、そのバランスの調整が一番大変である。
親鸞の言葉も、老子の「道徳経」も、釈迦の「法華経」も、彼らが晩年の心境を述べたものである。荘子も、「至人(逍遙遊)」道を修めて、その極致に達した人間の事を謂っているので、人間は確かな人生を歩めば、同じゴールに辿り着く様である。
彼らが、何歳の時に、その様な心境に達したのかは、判らないが、私も58歳に成って、ようやくその立場が、理解出来る様に成って来た。
彼等と、同じ立場を実行しようと意えば、もう若い人達に、自分の考えを無理に合わせる必要は、無い様である。
そろそろ、自分の名である「悠々自適」の暮らしが実行出来るのだろうか。
その様に成れば、惟神の道は、一番易しい理と成るのだがどうであろうか。
平成17年5月9日
此の文章を書いてから、すでに12年が経過しているが、それ程自分の意識が成長しているとは、感じない。
其れは「惟神道・かんながらみち」と言う世界がそう言うモノであり、不変のモノはそれ程変化が無いと言う理の証拠なのかも知れない。
其れを考えると、惟神道とは正に個人的な世界のモノであって、他人には全く影響を与えないモノ・世界なのであろうか。
平成29年10月17日
礒邉自適
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