2017/6/2
藤山幸盛小父の思い出
29・6・2
私は、中学を卒業して其の儘実家の農業の手伝いを始めた。
処が、17歳の秋に、父親が49歳で突然病気で死亡し、長男である私が其の儘一家の主と成った。
そして、19歳から肉用牛である黒毛和牛の多頭飼育を始め、30頭を超えた所で黒毛和牛の値段が暴落し、私は農家としては、屋久島一番の借金を抱え込む事に成った。
そして、其の儘ではどうにも成らないので、昭和43年の秋に鹿児島県立市来農芸高等学校に学んで居た、弟の正也(当時16歳)に電報を打って帰島させ、休学の手続きをして家業を手伝って貰う事にし、私は、何とか生き残る為の道を探す為に、彼方此方と動き始めた。
其の時に、船行集落に住む「藤山幸盛」氏に出会うと、其の幸盛氏(屋久島では通称 幸盛おじ)が「お前の親父には 試された事が有る」と謂うのである。
私が、其の事に興味を示すと、其の経緯を話してくれた。
或る日、幸盛小父が私の実家を訪ねると、私の父親が「藤山君 焼酎を飲むか」と謂うので、「飲む」と答えると、丼を持って押入れの戸を開け、中から甕を出して、其の丼にドボドボと焼酎を注ぎ始めたので、幸盛小父は、「礒邉さんは頭があまり良くないな。丼から次に、何に移すのだろうか。」と思って居ると、其の丼の儘、幸盛小父の前に持って来て置いたとの事である。
幸盛小父は、「此のまま飲むのか」と訊ねると、「そうだ」と謂うので、両手で持ち上げると、自分の顔が、丼の水面に映って見えたとの事である。
其れで、躊躇したが、「礒邉さんは 自分の事を試しているのだな」と思ったので、其の儘一気に飲み干すと、私の父親は、其の様子を気に入ったとの事であった。
其の事で、私は幸盛小父に親しみを覚えたので、自分の現状を話し始めた。
すると、幸盛小父は、次の様な事を話し始めた。
或る所に、毎日焼酎ばかり飲んで居る人が居て、飲んだ焼酎瓶を床下に積み上げていたら、或る時一升瓶が値上がりして、金持ちに成ったとの話であり、其れは、「人生は 何がどう成るのかは、後に成って見なければ 判らない。」との比喩を示すモノであった。
其れに、馬小屋から馬を引き出して、私を馬に乗せて「姿勢を正して 胸を張れ」と謂って、手綱を引いて馬を歩かせてくれたので、私は堂々と周りを眺める目線を、覚える事にも成った。
私は、其の幸盛小父の話と指導で、眠れなかった日々が穏やかに成り、救われた様な気持ちを感じたのである。
其の幸盛小父は、とても風変わりな生き方をして居たので、一般的には「幸盛ボッケ」と呼ばれていた。
其れは、停留所に馬を連れて立って居り、木炭バスが到着すると、馬と一緒にバスに乗ろうとして断られたり、無免許でオートバイを運転して居て警察官に止められ、交通違反だと謂われると、「自分は乗ってはいない」と謂い、警察官がエンジンに触って「熱いじゃないか」と謂うと、「エンジンを掛けたまま押していた」と謂い、警察官の勤務時間が過ぎる五時まで、押し問答が続いて、警察官が諦めて帰ってしまったとの事などである。
其れ以外にも、多くの逸話が残っており、私は数年間付き合いをして居たので、その幸盛小父の生き方や仕草に付いて身近で観察できたので、其の幸盛小父の人と成りに付いては理解できている。
幸盛小父は、元気な時は夏に、田代海岸の川の側の林の木に、竹を渡してテントを張り、川の流れにビールを冷やしていて、腹が空いたら、海に潜って魚や伊勢海老やトコブシ貝を捕って来て、流木を集めて火を熾し、焼いて食べる生活をして居た人物である。
そして、自分でベニヤ板を組み合わせた箱舟を作って、近く磯の入り江に繋いでおり、夕方から小さな船外機で、1時間程掛けて安房の川沿いに有る酒場に出かける事が有り、私は誘われて、箱舟の中に流れ込んで来る海水を、バケツで汲みながら、お供をした事も有る。
其れに、或る日の昼間に、一人で幸盛小父の自宅を訪ねると、幸盛小父は家中の畳を剥いで、一部屋に全て積み上げて、其の上に座ってビールを飲んで居り、横には、何ダースものビール瓶が入ったケースが置かれていた。
周囲の様子を見渡すと、家中の障子や襖が外され、押入れの布団や棚の衣類など全ての物が床の上に出されており、天井板も全て外して下に降ろしているので、其の家の様子は、建てたばかりの柱と壁だけの家の様に、成っているのである。
私は、其の様子を見て「幸盛小父 どうしたのか」と訊ねると、「女房に腹が立ったので 追い出してから 此の様にした。」と謂うのである。
私は、其の幸盛小父に「後片付けが 大変ではないか」と謂って、其の日は退散した。
其れから、後日再び訪ねて見ると、奥さんが庭にて一人で、天井板に水を掛けながら、一枚一枚束子で漉すって洗って居り、家の中を覗くと、家の中は綺麗に掃除されて元通りに成っていた。
其の様な正確の幸盛小父は、年取ってから牧野地区の山手に有る果樹園を購入して、其処に小さな木造の家を建てて一人で生活を始め、池を造って鯉を飼い、魚屋から廃棄する頭や骨・腸などの魚屑を貰って来て、池の上に渡した網の上に置いて、其れに蠅が卵を産み付けて、蛆が水面に落ちるのを鯉が待っている様子を、眺めたりして居た。
其の幸盛小父の家には、悩みを抱えた人達や、酒を抱えた人達が度々遊びに来て居たので、私の様に救われた人々や、機知・アイデアを授けて貰った人達が多く居たであろう事が、予想できる。
私は、屋久島を出る前に、其の幸盛小父には「葬式代を先に渡して措く」と謂って、三万円を手渡して旅に出たので、其れが幸盛小父との最後の接触と成った。
今日は、以前の事を調べていると、明日6月3日の日付の文章が有った。
2004/6/3・・私達人間が、自分を認識するシステムは、どうなっているのだろうか。
それを一口で謂うなら、親の姿を見て育ち、その摺り込みが土台に成って、その基本からのズレ具合で、自分の意識を積み上げて来ていると謂えるだろう。
自分の基礎的な部分は、親の行動が本と成っているので、私達は、他人から自分の親を否定(侮辱)されると、無性に腹が立って来るのである。
親ばかりか、自分が信じて学んだ師や教師の否定も、自分が侮辱を受けた様に感じてしまう。
其れは、自分の価値認識が、他人の姿を借りているからである。
人間が、学ぶと言う事は、他人の姿、其れも、自分に都合の良い方を選んで、摺り込み続けると言う事になる。
だから、「まなぶ」とは、「まねぶ・まねる」から変化した言葉というのも、頷ける。
私達の自己認識とは、人真似の上に成り立っているのだ。だから、最大の問題は、自分が信じて真似た相手が、道や法から外れていると、自分も道や法から外れてしまう事になる。そう成らない為にも、自分が真似る相手の真実性を、チェックし続けなければならない。
世界中には、多くの宗教が存在するが、それも皆、最初の処に、人間の誰かの存在がある。仏教は、インドの「釈迦」に由来するし、カトリックは「イエスキリスト」に由来している。
現代人は、数千年前の彼等の、知識や行動を拠り所として生活し、自己認識の「ずれ」を起こさない様に、努力して来た。
その点、私自身の事を振り返って見ると、無宗派の家庭に育った私には、父や母の姿の他には、何も対象人物が居ない。
両親が、単独で山野に生活を始めたので、祖父母の影響も皆無である。
私の自己認識は、父母の姿や行動が規範と成って、組み込まれていると考えられる。宗教・哲学・思想が、他人を通してではなく、父親の生き方のフィルターを通して、感知されて来ているのである。
私の意識は、屋久島の自然の中で生活する父親の姿を、写し取って出来あがっているのだ。特に父親が、私の17歳の秋に、49歳で亡くなってしまったので、老化して行く父親の姿は、私の記憶の中には残されていない。
私には、働き盛りの父親の姿しか、意識に組み込まれていないので、画面が、静止画像と成っているのである。私の意識は、父親が亡くなった事で固定化され、土台が、揺れや移動を起こさないのだろう。
背景の自然も昔に近いし、私は生まれ育ってから、故郷の移動も無いので、無意識の土台となっている映像も、安定していると言える。
57歳のいま、自分の意識を探っても、57歳の自分は無く、自分より若くしてこの世を去った、父親の姿を見詰めていた、子供の頃の自分しか、私の意識の内側には残っていない。
私は、高校にも大学にも進学していないので、学園生活の思い出も無いし、地元の小学校と中学に通っただけなので、学校自体も、故郷の景色の中に納まっている。・・・
「自己認識」http://moon.ap.teacup.com/20061108/491.html
此の文章の内容は、全く記憶には無いので、文章を書き残すと言う事は、自分の魂しいの訓練と言うか、魂磨きに無くては成らない物であると言う事に成りそうである。
其れは、老子だけが晩年に、自分の考えを5000字にて「道徳経」に残せた事と関係が有り、死後、誰にも世話を掛けていないし、迷惑も掛けてはいない事の理由でもあるのだろう。
平成29年6月2日
礒邉自適
1 | 《前のページ | 次のページ》