2013/4/4
「天皇霊 其の四 神武天皇」
25・4・4
昨日は、神武天皇の祭典が行われるで、私のビジョンにも、其れに関係有る事柄が示されて来たので、「天皇霊 其の四 神武天皇」の文章を書く気に成った。
私は、1983年3月18日に土肥無庵師匠に捜し出されて、屋久島に無庵師匠の自宅を建設する事に、協力をする事に成った。
そして、翌年無庵師匠の自宅が完成し、無庵師匠は家族三人で3月5日に屋久島に引っ越して来た。
其の日から、私は、無庵師匠の家族と一緒に、マクロビオティックの食生活をする様に成った。
無庵師匠の謂うには、三ヶ月で人間の體の細胞は全部入れ替わるとの理・ことで、私は仕事を全て止めて、家族と離れ、一人に成ってマクロビオティックの生活をすれば、本来の私の使命・みことが出るとの事であった。
其の無庵師匠の言葉通り、丸三ヶ月後の6月4日(旧暦5月5日)に、私は神の世界に入る事に成ったのである。
其の6月4日は、私の母親の64歳の誕生日であったので、生命の秘密と言うか、天の仕組みに驚きを覚えた。
其の日は、安房川の川辺に有る自分の自宅の前の河原にて、無庵師匠が見守る中、禊祓いを行ったのである。そして、4311体の精霊の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受ける事に成った。
そして、其の結果、無庵師匠に向かって最初に私の口を突いて出て来た、神のお告げが「残り16年半」「失敗は許されない チャンスは一度だけ」「アンテナが二つ要る」であった。
其れから、私の役割は「新しい事象の特異点」であり、別の言い方は「新しい神の座標軸」であると告げられたのである。
其の「16年半」との日付は、計算すると2000年12月4日である。
私は、其の年1984年11月半ばに、車に布団や炊事道具を積んで屋久島を出発し、全国への旅に出た。そして、鹿児島の市内を歩いて居ると、勝手に自分の足が向きを変えたので、私は自分の足が進む方に歩いて行った。
すると、本屋の中に入って行き、ある棚の前で足が停止し、今度は勝手に手が動いて一冊の本を棚から取り出して、ある頁を開いた。そして、其処に書いて有る文字に目が止まった。
其処には、神武天皇が南九州を出発して、大分県の宇佐で「宇佐彦」に出会い、其れから福岡の「岡田宮」で一年暮らし、次に広島の「安芸国埃宮」に7年間滞在し、次に岡山の吉備の「高島宮」で8年間滞在した後、奈良に向かって進んだと書いて有った。
其の神武天皇の足跡の日数を計算すると、「1+7+8=16」なので、奈良に入るまでを足すと、16年半に成る事が判ったので、私は16年半とは、神武天皇が南九州を出発してから、奈良で政治を始める迄の期間であると理解したのである。
其れに、奈良・大和で「神武天皇」と「長髄彦・ながすねひこ・登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)」が敵対して居る時に、天空が光輝いて、金色の鳶が降りて来て神武天皇の手にする弓に止まった事で、長髄彦が其の現象を神意だと考え、使いを立てて話し合いをすると、お互いが持つ三種の神器が同じ物であったので、神武天皇に国を譲る事を決めた日が、12月4日であるとの事なので、私が告げられた期日は、正に、神武天皇の動きと関係が有ったのである。
神武の兄弟は、大阪から生駒越えをして奈良に入る時に、ナガスネ族の先兵である「日下族」に矢を射られ、兄の「五瀬命」に当たったので、此れは太陽に向かって進軍したからだと言う事に成り、一度退却してから、太陽を背にして南から奈良に向かって進む事にしている。
其の途中、痛手を受けた五瀬命は大阪の泉で死亡したので、兄に代り「神武天皇・若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」が指揮を執って熊野から、奈良・大和に向かう事に成った。
神武天皇に縁・ゆかりの神社は、私が自分の足で回って調べている。
天照大神→ 天忍穂耳命→ 瓊瓊杵尊→ 日子穂穂手見命→ 鷀草葺不合尊→神武天皇=「姶良津姫」 → 長男 手研耳命 次男 岐須美美命
神武天皇=「媛蹈鞴五十鈴媛命」→長男 彦八井耳命→ 天彦命・天城彦命
=→次男 神八井命→ 健磐龍命→ 速瓶玉命 →阿蘇家
=→三男 神渟名川耳尊・綏靖天皇→ 現在の天皇家
・天忍穂耳尊を祭祀する神社
「英彦山神宮」http://moon.ap.teacup.com/20051112/438.html
・「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」を祭祀する神社。
「霧島神宮」http://moon.ap.teacup.com/20051112/495.html
・「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」の御陵
「新田神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/373.html
・「木花之佐久夜毘売命・このはなさくやひめ。木花開耶姫命」の神社
「都萬(つま)神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/491.html
「木花神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/484.html
・「山幸彦(日子穂穂手見命)」が「豊玉姫」と出会った場所
「枚聞(ひらきき)神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/350.html
・「天津日高彦穂々出見尊」と「豊玉比売命」を祭祀する。
「鹿児島神宮」http://moon.ap.teacup.com/20051112/476.html
・「天津日高日子穂穂手見命」の陵墓
鹿児島溝辺「高屋山上陵」http://moon.ap.teacup.com/20051112/497.html
・神武天皇の父親である「日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊」誕生地
「鵜戸神宮神宮」http://moon.ap.teacup.com/20051112/481.html
・神武天皇誕生地 鷀草葺不合尊の生活地
佐野原神社「佐野原聖地」http://moon.ap.teacup.com/20051112/488.html
・鷀草葺不合尊の御陵
鹿児島「吾平山山稜」http://moon.ap.teacup.com/20051112/477.html
・神武天皇の母親である「玉依姫」を祀る神社
宮崎県日南市「宮浦神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/482.html
・神武天皇の兄弟が出港した港
「立磐神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/492.html
・神武天皇が 「宇佐彦」に出会った場所
「宇佐神宮」http://moon.ap.teacup.com/20051112/494.html
・神武天皇と「媛蹈韛五十鈴媛命 」を祭祀する神宮と御陵
「橿原神宮」http://moon.ap.teacup.com/20051112/502.html
・神武天皇を祭祀する神社
「狭野神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/496.html
・神武天皇の妻である「姶良津姫」と子供を祭祀する神社
鹿屋市神野町 大川内神社http://moon.ap.teacup.com/20051112/478.html
・神武天皇と「媛蹈韛五十鈴媛命」の子供「 彦八井耳命・ヒコヤイミミノミコト」を祭祀する神社
「草部吉見神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/498.html
・彦八井耳命の長男「天彦命」と妻「天姫命」を祭祀する神社。
「三郎神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/499.html
・神八井命の息子「健磐龍命」を祭祀する神社
阿蘇神社http://moon.ap.teacup.com/20051112/500.html
・健磐龍命の息子「速瓶玉命」を祭祀する神社
「国造神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/501.html
・・・阿蘇地方には、神武天皇の第二夫人「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) - 大物主の女」の長男「日子八井命(ひこやいのみこと)・彦八井耳命)」と、其の日子八井命の長男「天彦命・天城彦命」が日の宮幣立神宮の祭神であり、其の日子八井命は、高森町の草部吉見神社に祀られており、近くには其の日子八井命の御陵も有る。
それと、現在の天皇家は第二夫人の三男「神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと・神沼河耳命・綏靖天皇)の子孫であるが、二男「神八井命・かみやいのみこと」の御子の「健磐龍命・たけいわたつのみこと」は阿蘇一宮である「阿蘇神社」の御祭神と成っており、其の息子「速瓶玉命・はやみかたまのみこと」は「国造神社」の御祭神と成っている。
其れに、高森町に有る「草部吉見神社」の祭神の娘は、建磐龍彦の妻に成っており、国造速瓶玉命の母親である。其の阿蘇の神々の歴史を考えると、阿蘇から再び、新しい「政・まつりごと」のイベントが始まるとの事ではないだろうか。・・・
「永遠のダルマ」http://green.ap.teacup.com/20060818/1318.html
「神武天皇(じんむてんのう)」、庚午年1月1日 - 神武天皇76年[1]3月11日)は、日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇(古事記、日本書紀による)。
日本書紀によると、天皇在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日 - 神武天皇76年3月11日とされる。
『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)と称される。
神武天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したときに付されたとされる。
天皇が即位した月日は明治期に新暦に換算され、2月11日とされた。これにより、2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた。紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた。
「紀元節(きげんせつ)」は、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位日として定めた祝日。1873年(明治6年)に、2月11日と定められた。かつての祝祭日の中の四大節の一つ。
8世紀初めに編まれた日本書紀によれば、神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰朔」であり、日付は正月朔日、すなわち1月1日となる。
しかし、明治5年(1872年)11月15日、明治政府は神武天皇の即位をもって「紀元」と定め(明治5年太政官布告第342号)、同日には「第一月廿九日」(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344号)。この1月29日とは、1873年(明治6年)の旧暦1月1日をそのまま新暦に置き換えた日付である。折柄、明治5年12月3日をもって1873年(明治6年)1月1日とし、新暦が施行されることになっていた。
1873年(明治6年)1月29日、神武天皇即位日を祝って、神武天皇御陵遙拝式が各地で行われた。同年3月7日には、神武天皇即位日を「紀元節」と称することを定めた(明治6年太政官布告第91号)。なお、同年1月には、神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日)を祝日とする布告を出している。・・・
・・・この規定の影響などもあって、紀元節は旧暦1月1日、すなわち旧正月を祝う祝日との誤解が国民のあいだに広まった。国民のこの反応を見て政府は、紀元節は神武天皇即位日を祝う祝日であるという理解が広まらないのではないかと考えた。また、1月29日では、孝明天皇の命日(1867年1月30日、孝明天皇祭)と前後するため、不都合でもあった。
そこで、政府は、1873年(明治6年)10月14日、新たに神武天皇即位日を定め直し、2月11日を紀元節とした(明治6年太政官布告第344号)。
〜引用終了〜 ウィキペディア辞典
此の説明に拠ると、紀元節とは、神武天皇の即位日として定めた祝日で、明治6年までは旧暦の元旦であったが、新暦に切り替えた時が旧暦1月1日が新暦(グレゴリオ暦)の1月29日であり、其の日は、孝明天皇祭の1月30日と前後する為に、2月11日にずらしたとの事の様である。だから2月11日の紀元節は、余り意味深いものではない様である。
しかし、私に25年前に起きた「神霊の思頼・みたまのふゆ」には、深い因縁が有る様だ。私の誕生日は1月29日であるし、私が、初めて神の世界で受けた言葉は「お前に人類の未来を託す。失敗は許されない、チャンスは一度。」「残り16年半」と言うモノであった。其の期限は「2000年12月4日」で、新しい御世が始まるであろう12月5日は天智天皇の息子である「大友皇子(明治以後39弘文天皇)」が即位した天智天皇10年(672年)12月5日である。
其れに、12月4日は千葉県成田市台方の麻賀多神社の境内に在る「天之日津久神社・あめのひつくかみやしろ」の前で、6月10日・時の記念日から、「日月神示・天津日嗣神事」が始まった岡本天命の誕生日の日付でもある。
16年半とは、神武天皇の兄弟が、塩土爺のお告げで南九州を出発し、奈良にて政(まつりごと)を始める事に成った期間と同じ16年半である。神武天皇には「奈良にて国を治めろ」との事であったのだが、私には地球を治めろとの事であったのである。
私は、其の時は、其れ等の事は、何がどうなのかが殆んど理解出来なかったのだが、旅を続ける事で大凡の事は理解出来てきている。
私は、25年前に、神に「地球を治めろ」と告げられた事に対して、様々な活動を続けて来た。其の1つに「瑞穂の国造り」がある。其れは、現在取り沙汰されている、遷都や、道州制にも繋がるモノ・行動である。
今朝のメッセージは、其の件を再検討しなければ成らないとの事なのかも知れない。
「瑞穂の国造り」HPhttp://jite-jyu.main.jp/furento/mo/morinoki-site/morinoki-hp.html
「瑞穂の国造り 国民会議」http://moon.ap.teacup.com/199966/14.html
・・・其れと、一昨日から「94年4月3日」の日付が何度も頭に浮かんで来るので、今朝「自適 1994年4月3日」で検索して見ると、其の日に阿蘇の「日の宮幣立神宮」で13名が参加して「神武天皇祈願祭」を行っている事が判った。
其の参加者の中には、天波博文氏と長崎県生月島に住み「あご出汁ラーメン」の店を開いている「伊福規氏」の姿も有る。
「いのちの祭り」http://green.ap.teacup.com/20060818/2017.html
・・昨日は、午前11時に、中古車センターで車のキーと、カーナビのデスクを受け取って、谷山町から吹上町を通って佐賀の唐津に向かって走り、7時に目的地である中村家に着いた。
途中、葦北で、国道3号線から高速道路に向かう為に、東経130度30分の線上を横切ると、左手の人差し指にカモ・(神の電気信号)が来た。私が、其の時間を時計で確認すると「4時3分」であった。「4・3」は、神武天皇祭の4月3日の日付と同じ数字である。・・・
「切り替え時の整理」https://green.ap.teacup.com/20060818/1474.html
平成25年4月4日
礒邉自適
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