2009/1/2
日高三郎
21・1・2
昨日、明確に成って来た事が有る。
其れは、安房で一番由緒有る血統の、日高雲平氏の叔父さんの霊魂に付いてである。
其の小父さんとは、日高雲平氏の祖父である「日高小三・ひだかこさん(昭和17年1月26日死亡)の次男「日高三朗・ひだかさぶろう」で、日高雲平氏の父親の「日高純生」の弟に当る。
其の日高三朗は、昭和3年12月5日に肋膜炎にて、若干18歳で亡く成っている。
私が1984年6月4日(旧暦5月5日)に、安房川の岸辺で禊ぎ祓いの儀式を行なって、神の世界に入った時に4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起き、新嘗祭の儀式の意味である握り飯を、弟「正也」に作らせた。
そして、其の握り飯を食べる仕種をした後、部屋に有った扇風機を手に持って自宅から外に出て、安房川に掛かる橋の中央まで行き、扇風機を欄干から川面の上に出すと、「命が帰る・命が帰る」と言う意味の様な言葉が、口から迸るのを体験した事が有る。
そして、自宅の事務所で、神に「地球の管理を頼む。残り16年半しか無い。チャンスは一度 失敗は許されない。」と告げられたのである。
其の16年半後の、新しい始まりの日を、1984年6月4日から暦で考えると、2000年12月5日に成ったのである。
其の為に、私は2000年の12月5日を期限として、全国の旅を続けたのである。
其の12月5日の命日に関係有る人物として、天智天皇の息子である「大友皇子・おおとものみこ(648〜672)」が、叔父の大海人皇子(天武天皇)に滅ぼされ、672年12月5日に自殺している。
私は是まで、此の霊界の大きな動きに其の事が有り、息子が自殺する事に成った事件に対する政(まつりごと)の在り方に、天智天皇が心を痛めて、政(まつりごと)の改革を私に頼んで来たモノ・現象だと考えて居たのである。
しかし、1984年6月4日の扇風機の事を考えると、日高三郎の霊魂が一番初めに、関わりが有った事に成る。
私が若い時に、年配の女性(小松婆さん)に聞いた話で「日高三郎が生きて居れば 屋久島も今とは違っていただろう。」との事が有る。
日高三郎は、夏休みに安房川に掛かる吊橋の欄干の上から、友人達と、水中に飛び込み遊びをして居て、体勢が悪く、水面に胸から落ちて胸を強打し、其れが原因で、肋膜炎と成って亡くなっているのである。
だから、日高三郎は、自分の存在を私に知らせる為に、扇風機を私に持たせて、安房川の橋の上に行かせ、欄干の上から川面に向かって、言葉を吐かせたのであろう。
飛び込みの直後に、亡く成って居れば、悩む時間は無いが、18歳の若さで数ヶ月を床の中で過ごせば、色々な心の葛藤に悩まされたはずである。
其の憶いが、安房川の水の流れに、潜んでいたのではないだろうか。
其の日高三郎の命日が判明したのは、昨年12月8日に日高町長の自宅に伺った時に、町長夫人が「12月5日が三郎さんの命日だった」と云ったからである。
現在の屋久島町の町長である「日高十七朗氏」は、日高純生の孫に当る人物である。
日高三郎の命日が、12月5日である事が判明したのは、12月8日で釈迦牟尼佛が「大悟・大覚」したとされている日である。
そして、今朝のメッセージは、其れに関して、釈迦の仏教に関係の有る「陀羅尼」である。
其れにしても、日高家一門が誰も知らない日高三郎の死因を、私が青年の頃一回耳にしただけで、覚えて居たのも不思議な事である。
平成21年1月2日
礒邉自適
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