2008/7/3
人間の深層心理
20・7・3
本日7月3日は、私の日本国中の家離・たびが2日に終って、新しい人脈に接触し、新しい世界を歩き始めた記念すべき大事な日である。其れは1985年の事だから、其の日から既に23年が経過している事に成る。
其の日の朝、宿泊していた京都府網野町の温泉料理旅館「木津館」のご主人「井上昌一氏」に、曹洞宗の寺である龍献寺の「安井桂造禅師」を紹介され、其の安井桂造氏から、亀岡市に有る西光寺の「田中真海禅師」や、大月の「森山大行禅師」や、伊豆の「村上光照禅師」を紹介された。そして、亀岡の田中真海氏から、次々に鎖を辿る様に新しい人脈が繋がって、私の今日が在るのである。
何故、最後に泊まった宿が木津館でなければ成らなかったのか。其処に、不思議な神の世界の神秘が隠されていたのである。其の木津館では、「押田神父」等のグループである9月会議が開かれていたのである。
そして、私が新しく人間社会・世間に侵入する入り口は、禅宗の道からと成ったのである。其の入り口が異っていれば、現在の私の世界は違ったものに成っていたであろう。
日本では、曹洞宗が一番「釈迦仏陀」の悟りの世界を継いでいるものであるし、中国の「老子」の世界にも近いのであろう。だから、私の意識体とも、スムーズに溶け込んだのではないだろうか。
私は、田中禅師と縁が結ばれ、曹洞宗で禅に親しんだ事で、私には「待つ」と言う一番大事な精神構造が出来上がったのである。
其れが出来ていなければ、昨夜、宇宙の霊的な圧力が掛かって来て眠れない時に、24年前の様に耐え切れなくなって、夜中に外を徘徊する事に成っていたかもしれないのである。
其れは、一度始まってしまえば、なかなか止められない世界である。
其の事は、松尾芭蕉や種田山頭火の行動心理を見れば、良く解かる事である。
其れは「歌・言葉」を通して、神霊の世界に触れ会う事は出来るが、王・皇帝と成って立ち止まり、国造りをして、民の生活を護る事は出来ないのである。
今朝、其の事を考えて居て、イメージに浮かんで来た事は、王の立場は視線を真っ直ぐにして世間を視る事である。
反対に、仏陀の様に瞑想をして霊的世界に触れる者は、目線を下げたり、目を瞑ったりして、下向きに目線を下げて、世間を見ない様にするのである。
其の様に、三次元に接する者と、四次元である絶対世界に意識を向ける者は、視線が異なることが分る。
其れに、今朝気付いた理は、生物の意識の方向が、動物型の生殖機能は後ろに付いているので後ろ向きに成っており、植物は花が生殖機能なので上向きと成っていることである。
其の理・ことを考えると、人間の女性が化粧をするのは、下半身に向いている意識を、鏡を見て化粧をしたりする事で、上に上げ様としている行動なのかもしれない。
其の様に考えると、人間の深層心理の一部が見えて来る様な気がする。其れに、男女がキスをする行為も、下半身に有る意識を、上に移動する為の行為なのではないだろうか。
そして、其れ等の本能から逃げる行為が、出家をしたりして異性から離れる事なのかもしれない。
確かに、目で異性を見たり、異性の声を耳にしたりすれば、下半身に有る本能が刺激されて、意識が反応するのは確かな事である。
其れは、其れが大事な本能であり、其れが無ければ遺伝子の存在が途絶えるのだから、大事なことであり罪ではないのである。
だから、出家をしたり、山に籠ったりする事は、本能との戦いと言えるだろう。
其の本能に気付き、生命のシステム、法・ダルマに目覚める事は、悟りではあるが、其れを逆に考えると、悟りの状態は、完璧な自我意識と言えるものでもある。
其の様に考えれば、佛教は大きな矛盾を抱えている事に成る。
そして弁財天の働きは、物を管理し必要な者に物質を与える立場だから、遺伝子の存続の為に、子供を生み育てる女性に物を与える事は、当然の理と言えるのだ。
だから、男性は其の女性の為に、弁財天の使いとして、女性に物を与える役割を果たしているのであろう。
其の様に考えると、此の世界は、女性や雌の為に、全てのシステムが組み込まれている事になる。其れが、此の地球の大自然の真理なのだ。
だから、古代の人達は其れを知っていたからこそ、此の目に見える世界を「色・シキ」の漢字で現したのであろう。
「色」の漢字は、前屈みに成った女性の後ろから、男性が乗っかってセックスをして居る象形文字である。其の漢字の意味からも、古代の人達にはセックスは罪ではなく、神聖な行為として考えられていたのであろう。
だから、現代社会の様に性に対して歪んだ考えは無かったと想われる。しかしそう謂っても、現代社会の其れは、とても神聖な行為とは言えない事は確かである。
せめて、弁財天が喜んで物を与えてくれる様な、社会体制を整えて行かなければ成らないだろう。其の為には、真実を求める人々が手を取り合い、理想郷を創らなければならないのだ。そうする事に拠って、神々も人間の生活を支えてくれるのである。
そして、我々人間は、全ての生命の陰陽のバランスが調和する様に、是から取り組んで行かなければ成らないだろう。
其の為には、本気に成って、新しいシステムを立ち上げなければ成らないのだ。其れが、是からの私の社会貢献と言う事に成るのではないだろうか。
其れが、立派に成人した息子の姿を見た、私の社会への感謝の気持ちである。
私は是から、王の立場で目線を真っ直ぐにしなければならないのか、其れとも少し俯いて三日月の目で瞑想し、慈悲の心で静かに座っていなければ成らないのか、其の方向性は今日の処は未だ判らない。
平成20年7月3日
礒邉自適
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