2007/5/24
私の選んだ真実
19・5・24
今日は、一日中、自宅で自由に過ごして、24年前とは違う、新たな意識の中に、自分を見出した。
其れは、自分が選んだ道が、正しかったと言う事である。
其の真実とは、宇宙は、元々虚無であるから、真実も偽りも存在せず、自分が選んだ事柄が現実化すれば、其れが、此の世の真実と成ると言う理・ことである。
此の様な結論は、現在残されている、イエスや釈迦の言葉には無いだろう。
しかし、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の名が有り、其の意味は「宇宙の真理の本体」とのことだから、昔、同じ考えに達した人間が居た事に成る。
宇宙には、真実だけが存在し、其れを感じられるのが、人間だと言う事だから、人間だけが、此の宇宙の真実を理解出来る立場に、在る事になる。
と言う事は、此の人間と言う生き物が、宇宙の真実の現われである事になるのだ。
其の事を、表現している言葉が「現人神」であり、其れが「スメラノミコト」と呼ばれ、其の意識が住む「人(霊留・ひと)」を、スメミマと名付けている。
其のスメミマの事を、インドでは「チャクラヴルティーン・転輪聖王」と名付けている。
何故、転輪聖王と呼ぶかと言うと、其の働きが、ある周期を持って、此の世に現われるからである。
其れは、宇宙の全てが、回転に拠って生じ、流転しているからである。
だから、宇宙には、直線で表わす時間は無く、時間が真っ直ぐ進んでいる様であっても、時間はある周期に拠って回転し、元の所に還って来るのである。
だから釈迦は、自分が悟ったのは、何代も前の事であると謂っているのだ。
そして、其の働きで生じた人(霊留・ひと)は、何時も、同じ意識に到達するのである。
何故なら、宇宙に真実と呼べるものは、其れしか無いからである。
其の他には、善も悪も無いし、高いも低いも無いのである。
此の宇宙は、唯森羅万象が流転しているだけで、何時の時代も真実だけが残されて行くのだ。
私が、何故、其の真実を感じているかと言うと、其れを感じられる、観音菩薩の意識に達しているからである。
其の意識には、唯一流転する現象が、其の侭映り出され、過ぎ去っているからである。
其の世界には、昨日の出来事は消え去り、毎朝、前日とは違う世界が、始まっているのだ。
本来の自由とは、其の様な時間の流れの中に、身を置く事なのである。
何故、ブッタは、蓮華台の上に座って居なければ成らないのか、其れは、自分の足で歩き始めれば、個人意識に嵌ってしまい、森羅万象の流れである、冥府の動きが、意識の目に映らなく成るからである。
宇宙は、ある周期で回転しながら、更に一回り大きな、回転の輪の軌道の中に嵌っているのである。
其の回転の中で、人間の意識も輪廻しているのだ。
だから、人間が、三次元の暮らしの中で考える個人的な事は、宇宙には、全く関係が無いのである。
関係が有るのは、宇宙の働きに同調している部分だけである。
其の同調している部分とは、三次元的な暮らしの部分ではなく、瞑想状態の意識で行なう行為だけなのである。
其れが、本来のサマデイ・三昧での活動なのである。
其処には、個人的な感情が、入り込む余地など無いのである。
其処は、真実だけが入り込める世界だから、自我意識を捨てた者だけが、チャンネル出来るのである。
其れは、物心が付かない前の、子供の心境の様な世界である。
其れは、全ての流れを受け入れ、其れを、其の侭流し去り、日々を新しく迎えて行く事である。
其の様な日々にこそ、真実が存在するのだ。
其の様な日々を送る者にこそ、聖霊がエネルギーを注ぎ込み、未来世界を創造する力を与えてくれるのである。
其の働きこそ、私達が神と呼んでいる力なのだ。
私は、其の働きに自分を任せて来たからこそ、今の私が在るのだ。
其れは、私が常に自分で選択・チョイスして来た事が、間違い無かった事の証明にも成るのだろう。
しかし、其の選択をした意識の本体を探れば、其れは、自分のものではなく、自分の中に住んでいる、何物かの影響である事は間違いない。
私は唯、其のモノの意識が活動する為に、此の肉体を管理し、運転して来ただけなのである。
其の、自分の身体の中に住む意識こそ、聖霊か御祖神(みおやかみ)なのであろう。
其の事を、人類は、昔から知って居たからこそ、宗教の世界が生まれたのである。そして「霊留・ひと」との概念も生まれたのだ。
何故、私が、此の次元まで到達出来たのか、其れは、私の中に住む選択者が優秀だったからであろう。
其の選択者こそ、仏陀の背後に存在するエラブ・蛇・コブラの意識なのである。其の、エラブがえらんだ道こそ、私の人生其のものなのだ。
私は、最早、自分の意識が一回りして、自分の踵に噛み付き、歩けなく成る事はないだろう。
何故なら、私は、自分の意識の正体を見詰める事が出来、利口に成る林檎の実を吐き出したからである。
もう私は是から、自分の意識で、物事を要求する事は無いだろう。
其れが、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の本来の姿なのだから。
平成19年5月24日
礒邉自適
2007/5/24
何故トップが桜澤だったのか
19・5・24
私に、24年前4311体の「神霊の思頼(みたまのふゆ)」が起きた時、何故一番先に姿を現した霊靈が、マクロビオティックを世界に拡げた「桜澤如一」だったのか、其の理由が何となく理解出来て来た。
其れは、桜澤如一の理念が、新しい社会を構成する上で、基本に成る事だからである。
いま、日本国内でも憲法問題に関心が集まりつつあるが、人類全体にも、新しい価値観が必要である事が見えて来ている。
其の問題を解決するには、人間の意識が、原点の処に返らなければ成らないことは、理性を持っている人間であれば、誰もが気付いていることであろう。
其の原点は、人間の浅はかな哲学や、主義主張や、宗教の価値観では辿り着けない所に有る。
何故かと云えば、其れ等は、全て人間の大脳が考え出した世界であり、根本的な生命の真理に、触れてはいないからである。
生命の本質に触れるのには、人間の脳が考え出す理屈を、超えなければならないのである。
超えると言うか、其れ等を捨てなければ、本質を見極める事が出来ないのだ。
其の、生命の本質に近付いて行ったのが、桜澤如一なのである。
桜澤如一が提唱し取り組んだ世界は、「マクロビオティック・正食」と名付けているが、其れは、石塚左玄が始めた食養の世界を、世界に拡げる為に桜澤如一が名付けた呼び名であり、其の概念はギリシャ時代から有るが、もっと前に遡れば、インドの釈迦牟尼佛の訓えの基本にも成っているものである。
人間の本能は、一番は食欲に有り、二番が性欲である。
そして、他の欲望は、其れに付随するもので、腹が空けば、他は消え去るものだから、大した事ではないのである。
だから、生命の存続は、性欲より前に、食べる事が有るのだ。
生命の存在理由を悟る為には、命の源・みなもとである食欲の世界を、理解しなければ成らないのである。
だから、人間の根本意識を確かめるには、食欲の世界を解明すれば、自から其の分けが解明されて来ることに成る。
其れが、マクロビオティックと名付けられている世界なのである。
其の世界が理解されれば、戦争などの争い事を真剣にやって居る者は、馬鹿者であることが見えて来る。
だからこそ、桜澤如一は「湯川秀樹」達と手を結び、平和な世界政府を創ろうとしたのである。
私が、1984年6月4日(旧暦5月5日)に、無庵師匠の指導の下で、安房川の岸辺で禊ぎ祓いをし、4311体の聖霊に満たされ、最初に姿を現したのが桜澤如一で、次が出口王仁三郎で、次が宮本武蔵であった。
そして、絶えず、私の意識の中から離れないのが、新しき世界政府と、子供達の教育であった。
其れは、彼らの想頼・ふゆが平和な人類社会建設と、子供達の教育にあったからであろう。
其の意識は、今でも、私の気持ちの中に強く残っていて、私に影響を与え続けている。
私は、桜澤如一の著書は数冊持っているが、今回の旅の途中、鹿児島の本屋で新潮新書出版の「世界が認めた和食の知恵(マクロビオティック物語)」持田鋼一郎著を買って来て居たので、昨日其れを読んだ。
そして、マクロビオティックの一連の流れが見えて来た。
其れは、今年1月6日に「準備が出来た」と公表しなさいと、メッセージに受けた事にも関連しており、今回、日本から始まる世界救世の神のプログラムの芯柱が、マクロビオティックに有ると言う事である。
其れは、イエスやマホメットを動かした、神霊達の想願・ふゆと共通しているのだろう。
マクロビオティックの考えでは、人間は食べた物のお化けで、食べ物に因り性質や人相や考えも作られ、人生も左右されるとの理・ことである。
私も、24年間マクロビオティックの世界に触れて来て、其の理論の正しさに付いては確信を得ている。
神霊界の方針が決定して、其の方向に、神のプログラムが進んでいるのであれば、私も其れに従って行くしか、他に道は無いだろう。
是から先は、霊界の動きに意識を向けてばかり居るのではなく、改めて、自分の身体に取り込む食べ物と、自分の意識の繋がりを、見詰めて行かなければ成らないのではないだろうか。
其の方向性の中に、新しき道が見えて来るのかも知れない。
平成19年5月24日
礒邉自適
2007/5/23
私の人生
19・5・23
今朝のメッセージは、私が、是から送る人生の場面が、次々に映って来て、○丸の中に秘が書かれていて、其れ等の事は「丸秘」にする様に指示が有った。
是まで、私は自分の事や、起きて来る事を、殆んど全部、あからさまにして来た。
しかし、是からは、公表して良い事と、いけない事を、区別する必要が有るらしい。
其れは、私し個人の生き方と、他の人の生き方は、其々違うので、他の人の人生に影響を与える事を、公表するのを、慎んで行かなければ成らないらしいのである。
其の意味を、良く考えれば、此処までの私の人生の軌跡は、他の人の精神的な旅の手掛かりに成っても、此処から先の事は、私し個人の、生き方に成るので、其れを公表する事は、他人の人生の、妨げに成るとの事なのであろう。
其れが、私の師や、老子の訓えの神髄なのではないだろうか。
私は、昨日、屋久町立神山小学校の五年生の教室で、子供達に、漢字の意味に付いて話して来た。
其れは、漢字が自然物を絵柄として出来ている事を知って貰う為と、30日と31日の野外教室で、初対面の緊張を失くす為である。
しかし、今朝の状況からすると、其の目的とは異なる、何かが、私の意識の背景に起きたのではないだろうか。
私は、二十歳以前から、お年寄りの居る隠居を訪ねて、色々な話を聞くのが好きだった。
其れが、今では、私が、其の老人の立場に成って来ているのである。
其の事を考えると、子供達の目に、自分がどの様に映るのかを、考慮して行かなければ成らないのだ。
私は、現在・いま毎日パソコンに触れて居るので、自分の過去の写真を目にする機会が多い。
其れで、現在の自分の姿を見ると、確かに、肉体は老いに向かっている様子が実感出来る。其れは、近代兵器であるカメラやビデオのお陰様である。
現代では、いとも簡単に此の事が出来るが、昔の人は、鏡さえ自由に手に入れられなかったのだから、自分の存在を、さぞや、確かめ難かったであろうと想われる。
しかし、其の事が難しかったからこそ、神社で一番大事な物として、鏡を備える様に成ったのだろう。
其の様に考えれば、如何に、自分の現況を確かめる事が、大事であるのかが理解されてくる。
其れは、自分自身の存在を自覚・確認する事だから、他人の仕種に、自分の姿を反映して見てはいけないのだ。
其の意味に於いて、古代社会に「惟神・かんながら」の概念が、生まれたのではないだろうか。
其の様に考えて行けば、今朝のメッセージで示されて来た事が、大事であることが良く理解出来る。
私が、成れない文章を書き始めて、既に七年程に成る。
其れを大きく分ければ、私の頭の整理と、霊界の、鎮魂の役割を果たすものと成っている。
其の両方が済んだのであれば、私は、新しき次元へと、進んで行かなければ成らないのではないだろうか。
其の方向性として、道は二つ有る。
其の一つは、人間社会・世間にドップリ浸かって、現実世界で生きて行く事である。
そしてもう一つは、仙人か、シャーマンの様に、自然の中に住み、孤独な世界で、自分の意識を更に深めて行く事である。
其の、二つの道の、どちらを選択すれば良いのか、今の処は、自分では決められない。
流れとしては、現実世界で暮らす人達との、シンクロ現象が濃密に成って来ているので、全体としては、神のプログラムは順調に進んでいる事は、間違い無い様である。
其の流れに、私も入って良いのか、反対に、だからこそ私は、逆の立場に身を置かなければ成らないのかは、未だハッキリしないのである。
今日の処は、メッセージの場面ではなく、自分の今の心境を、伝えるだけに留めて措きたいと意う。
平成19年5月23日
礒邉自適
2007/5/21
前人未到の布石に向かって
19・5・21
本日21日は、空海の月命日である。
だからと言って、空海が現れた分けではないが、今朝のメッセージの文章を打ってから、朝食を摂り、新潮新書発行の持田鋼一郎著「世界が認めた和食の知恵(マクロビオティック物語)」を読んで居たら、眠く成って来たので、暫く布団に横に成った。
そして電話で起こされ、相手に対応した後、台所で洗い物をして居ると、頭に「前人未到」との言葉が出て来て、是から、誰も踏み込んだ事の無い世界に、私は布石を打って行かなければ成らない事が、イメージされて来た。
「前人未到」とは、@いまだかって誰も足を踏み入れていないこと。Aまだ誰もやっていないこと。と、広辞苑には載っている。
私は、そう告げられても、具体的に明確なイメージは浮かんで来ない。
どちらかと言えば、頭がボーとして居るだけで、休み時間の雰囲気のまま、トキを過ごしている感じである。
昨日で、是までの予定の仕事は終わり、残っているスケジュールは、明日22日と30日・31日の、屋久町立神山小学校五年生相手の、野外授業だけである。
だからと言って、他には、何も無いと言う事ではなく、私の言っている事に対して、ようやく他人が反応して行動を始めて居るので、ホッとして居る面も有るのである。
だから、私は、何もしないで良いと言う分けではなく、もう後戻り出来ない立場に、追い込まれている事にも成るのである。
其の流れに乗って、私が是から、何処に流れて行くのかは分らないが、此処の所、全国の何人かの女性に、「急げ」との神の指示が下りて来ているので、何かが、急速に始まるのは確かなのであろう。
しかし、私し自身には、特別急がなければ成らないと言う、感情やイメージは湧いて来ない。
だから、私自身の準備は既に出来ていて、其の流れに乗りさえすれば、自分の役割を果たせるとの事ではないだろうか。
今日は、其の流れの、ヒントらしき言葉が一言告げられて来た。
其れは「ぜんりん」との言葉である。
「ぜんりん」の言葉で、私の頭に浮かぶのは「全林」である。
全林とは「全国森林連合組合」の略であり、日本全国の森を護る森林組合を纏める連合組織の事である。
何故、其の組織の名が出て来たのかと言うと、是から人類が行なう一番大事な事が、国土や地球の森林を護る事だとの意味を、伝える為であろう。
地球環境は、酸素の生産ばかりではなく、陸上の生物も、海の生物も、皆森林が生産する有機質に支えられているのである。
地球に、大地が有り、其の大地に水が有っても、太陽の「光エネルギー・電磁波」を使って、地球の物質を無機から有機に変える、緑の葉の働きが無ければ、地球には、現在の生命は住む事が出来ないのである。
其の理・ことわりを、皆が自覚する事が、一番大事なのである。
其の理が、何故、是まで余り人間の意識に上らなかったと言えば、人間の自然破壊のテンポより、自然の復活力が大きかったからである。
しかし、其のバランスも、200年程前から、急速に悪く成って来ている。
其の間に、人間の数は十倍に成り、森林の面積は半分に成っている。
此のままの勢いで進めば、確実に、地球上の全生命は危機を迎えるであろう。
そう成らない為に、新しき人間の暮らし向きを、考え出さなければ成らないのである。
そして、其の流れの中で、人間の本来の魂しいを、取り戻して行かなければ成らないのだ。
現在の人間の魂しいは、文明の発達と共に、本来の処から、外れてしまっているのである。
現在の都市文化は、全く、自然の法則から遊離した処で成り立っており、人間の意識は錯覚の内にあるので、イザ大きな変動が起きれば、パニックに陥り、崩壊する事は、火を見るより明らかなことである。
だから、どうにかして、人間の目を覚まさせようとの働きが、我々を今衝き動かしているのだろう。
私も、其の流れの一員として、こうして他人と違う動きを、させられているのだ。
此の流れは、決して、人間の暮らしを元に戻すと言うのではなく、新しい価値観の世界へと、導くものである。
其の、未来世界の創造こそ、是までの人間が、踏み込んだ事の無い世界なのである。
現代社会は、都市中心に人間の暮らしは動いているが、是からは、如何に自然の中で豊かに暮らし、環境と調和して行くかがテーマに成るだろう。
現代社会で暮らす人々は、ストレスに押し潰されようとして居るので、衣食住に執着にしたり、海外旅行等をして、ストレスの発散をしようとして、益々カルマ・業の中に嵌り込んでしまっている。
だからこそ、精神的な世界に、皆が興味を持ち、「癒し」の言葉が、流行しているのである。
其の流れを修正する為に、私に使命が与えられているのである。
私の目から見れば、現在の世の中は、不必要な物が余りにも多すぎる。
極端に言えば、半分くらいは必要ないのではないかと、思えてしまう程である。
人間は、何かを求めて動き出せば、益々、自分の本来の目的が不明瞭に成り、其の混迷を深めて行くのである。
其れを、止めろと言うのが、釈迦牟尼佛や、老子や、イエスキリストの訓えである。
老子は「人間は 自分を知ろうとして 動き回れば回る程 自分が分らなく成る」と謂っている。
現在の人間は、其の訓えの反対方向に、進んでいるのである。
しかし、其の全体的な流れの方向を、変えるだけの実力を持った御仁は、今のところ見受けられない。
今日のメッセージは、其の役割を、私に担えとの事だろうか。
しかし、其れが、どう言う世界であるのかは、私にも未だ、定かではないのである。
だからこそ、前人未到の世界であり、新しい場への布石なのである。
其れは、誰も、足を踏み入れた事が無い世界だから、過去のデーターを集めても、答えは見付からないのである。
誰も、足を踏み入れた事が無い世界に、是から私が、踏み込んで行かなければ成らないとの事は、24年前に無庵師匠に云われた事と同じことである。
いま考えると、無庵師匠が私に求めた世界が、いま私に、訪れているのかも知れない。
無庵師匠は、いまの私の姿を、24年前にイメージして居たのではないだろうか。
そうであれば、人間の意識は、個々の時間サイクルで、廻っているのではないだろうか。
其れが、時々、同じ時間帯で接触して、師弟の関係が成り立つのかも知れない。
其れは、師弟や、父子の関係が、意識的には、逆さに成っている事も考えらえる。
寧ろ、時間的に言えば、逆さに成っている事こそ、真実と言えるのではないだろうか。
其れは、未来を担う子や、弟子こそ、師の役割を、担っているのかも知れないのである。
その様に考えれば、私が是から布石する事は、子供達の中に、師を探し出す事である。
先日のメッセージの映像には、七歳の女の子である「ネオちゃん」や、ラマ僧の男の子が現れた。
其れは、既に、新しい神の子等が、地上に現れて居る事を、知らせて来たものではないだろうか。
明日は、午後から屋久町立神山小学校の五年生に、漢字や言葉の意味を教えに行く事に成っている。
其れは、もう、私の布石は、始まっているとの事なのかも知れない。
私が、師に授けられた事を、是からは、未来を担う子供達に、伝えて行かなければ成らないのではないだろうか。
そうする事で、本来の「エデュケーション・education・教育」の在り方が、見えて来るのではないだろうか。
今日は、天気も良く、風も無いので、海は穏やかだが、台風2号の影響で瀬波が有り、其の潮騒の音が、私の子守歌に成って、此の眠気を誘っているのではないだろうか。
こうして、パソコンに向かって、頭に浮かぶ言葉を打って居る、私の意識の本体も、誰なのか不明のままである。
此の、薄らぼんやりの意識こそ、本来の、シャーマニズムの世界なのかも知れない。
平成19年5月21日
礒邉自適
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