2007/3/30
相対的世界
19・3・30
私は、今月3月15日に島に帰ってからは、是までと違い、自宅に一人で生活する様に成ったので、環境が変った所為か、新たな認識が起きて来ている。
其れは、話し相手も居ないし、テレビも無いので、三次元的な人間社会から切り離れているので、思考の邪魔と成る雑念が、生じないからであろう。
誰も客が来ないので、何時に寝ようが、起きようが、全く関係が無いし、自分で炊事洗濯が出来るので、誰の世話をも必要としないので、気遣いも要らない。
其れに、何も自分で行っていないので、自分から作為をしたり、考えたりして、他人に電話を掛ける必要も無いのである。
だから、今は、全くの自由と言う事に成るであろう。
そんな生活の中で、考える事は、自分の存在と、意識の仕組みに付いてである。
此処数日、其の事を考えて居て、認識されて来た事は、此の宇宙は、完璧であると言う理・ことである。
だからこそ、私がこうして存在しているのである。
若し、宇宙が完璧でないとすれば、今の私が存在する分けがないし、私の現在の意識も、有る分けがないのである。
私がこうして、何の仕事もしないのに、何故生活にも困らないで、毎日好き勝手に暮らして行けるのか。
其れは、多くの人の善意に、支えられているからである。
良く考えて見れば、此の状況を造り出し、維持管理をしている其の働きこそ、神と呼ばれている存在である。
宇宙には、確かに、大きな意志が存在して、此の現象世界を支えているのだ。
其のように、此の世界が完璧であると考えれば、自分の為に、あらゆる現象が存在している事に成るのである。
其の点を、しっかり認識すれば、此の世界には、悪と言うものは無く、全てが善・神意識で成り立っている理・ことに成る。
そう考えれば、親鸞の謂う「南無阿弥陀佛」の概念も納得が出来る。
私は、他人には云えない、苦しい心境の人生を送って来たが、其の苦しみに耐えて生きて来たからこそ、今の認識力が備わったのである。
そして、其の結果としての私の考えは、此の世界は、全て相対的に成っていて、其の相対する物の関係性で、思考や認識が生じていると言うことである。
其の、一番のシステムが「道・タオ」のマークで象徴されている様に、雌雄・陰陽の関係性である。
其れを、端的に謂えば、雄は、雌の存在を対象として存続が出来ているし、雌は、雄の存在が無ければ、本来の働きを維持できないと言う理・ことである。
其の仕組みは、草木や昆虫まで、あらゆる生命の中に、組み込まれているものである。
だからこそ釈迦は、其の世界を皆に説明し、其の教えが現代まで「仏・ブッダ」の訓えとして、伝え続けられているのである。
其の世界に、もう一歩踏み込んで行けば、善悪など此の世には存在せず、あらゆるものが調和して、唯一の「今と言う此の瞬間」を、現象化させているのである。
其の様に考えれば、人間が善い答えを導く為に、反対の世界が今、現象化されている事に成るのだ。
若し、社会が良い状態であれば、私の存在は、必要無い事に成り、私の人生は不必要なものであるし、私の両親が屋久島に渡って来て、島で私を育てる必要もなかったのである。
更に、其の元を探れば、第二次世界大戦が起きて日本が負けなければ、私の両親が満州の北京から、鹿児島市谷山町の実家に引き上げて来る事にも成らないし、屋久島に来て住む事も無かったのである。
其れを考えると、第二次世界大戦も必要であった事に成るし、其れが無ければ、此の様な、私の文章を書く事も、起きなかったのである。
其れ等の事柄を考えれば、此の私の認識は、何かに対して、起きて来ている事に成るのである。
其の、私の意識の対象こそ、人間には見えない宇宙の働きである。
私は、其の目に見えない存在対象の為に、こうして働かされているのである。
私がこうして、毎日文章を書いて居られるのも、パソコンとITが有り、毎日読んでくださる方達が、世界に300名近く居るからである。
其れ等の対象が無ければ、私には、文章を書く行為が生まれはしないのである。
パソコンが有って、打てば、文字が現われるからこそ、文章を書く事が出来、其の事に拠って思考が先に進み、言葉が次々に、大脳に生まれて来る。
此の秘密こそが、弘法大師空海の謂う「真言・マントラ」の世界なのでる。
そして、其の原因と成るものこそ、其の理を悟った人が書いた理趣経である。
此の文章が生じるのは、私の脳に、言葉の言語ソフトが有るからであり、其の言葉の背景・業には、是までの私の体験の現場映像が、画像として添付されているのである。
其の、私の体験画像から、今の現象世界に合った言葉が導かれる時、此の三次元世界に「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の力が、及んで来るのだ。
其れが、密教の世界であり、弘法大師空海が求めた本当の世界なのである。
弘法大師空海は「阿字の子は あじの地に還る」と謂って、日本の地が大日如来の体であると考えている。
其の考えからも解るように、人間の認識と、神の意識の間には、日本国の大地や、あらゆる物が必要なのである。
其の事を考えれば、いま此の日本国に有る物は、全て、認識の対象として必要な物ばかりである事に、成るのである。
私の認識作業に必要な物は、全ていま、私の周りに環境として、立ち現れて来ているのである。
そう考えれば、私は何等要求する必要も無いし、自分から作為を起こして、行動を始める必要も無いのである。
寧ろ、自分勝手に、自我意識で行動を始めれば、神が、既に組んであるプログラムに差し障りが起きて、神の動きの妨げと成り、未来創造のブレーキと成るだろう。
私はこうして、毎日「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の現われ身として、其の瞬間を認識し、言語化して行けば良いのだろう。
今日もこうして、文字を打って言葉を紡いだので、事象が一歩先に進んだかも知れない。
平成19年3月30日
礒邉自適
2007/3/16
龍の鳴き声
19・3・16
今日は、龍の鳴き声は「引き声」である事が理解出来た。
其れは、昨夜ホテル「縄文の郷・まんてん」に、前田氏と宿泊し、露天風呂で、湯圧のマッサージ器から発生する、渦巻きの引き音を耳にしたからであろう。
私が、23年前に悟ったのも、やはり無庵師匠の家の風呂場で、排水管に、お湯が吸い込まれる時の音を耳にした時である。
其の共通点は、水が渦巻きに吸い込まれる時に、発生する音である事だ。
聖書に有る様に、此の地球で、神の意識に目覚める時に、必要なのは、水の存在である。
聖書には、水でパプテスマを施す事が載っているが、此の世界は「水と霊」の力に拠って、存在しているとも書いてある。
其れは、科学的にも立証出来る理である。
水の無き所には、いのち有る生命は存在しない。
始めに、アダムが誕生したのも、粘土の海である。
粘土は、アルミと珪素の化合物である。
其の、アルミと「珪素・シリコン」が溶け合っている水溜まりに、雷が落ちて、其の電圧に拠り、最初のDNA・蛋白質の鎖が、合成された理・ことに成っている。
そして、其の分子構造が、緻密に成った処で、「イブ(カルシウムを持つ物)」が発生したとされている。
私は、23年前に、無庵師匠の力で安房川の川原で禊ぎをし、全てのカルマ・業(全ての背景)から自由に成り、覚醒する事が出来たので、宇宙の始まりを見る事が出来たのである。
其の宇宙の始まりも、世界中の遺跡で見られる、二重の螺旋構造である。
其れは、無重力の宇宙空間で、水素原子の渦巻きに因る、光エネルギーへの転換の様子を、自分の根源として観る事である。
水の元である、水素原子の粒子が質量を増し、黄泉と名付けられているある濃度に達すると、揺らぎを起こし、其れが渦巻きと成って、朝顔の花の形の様に中心が窪んで行く。
そして、これ以上小さく成れない限界点・特異点に達すると、光のエネルギーに転換し、真闇の宇宙空間に飛んで行くのである。
しかし、其の光も、エネルギーを消耗すると、元の粒子と成って、再び宇宙空間に飛散して行くのである。
其の、粒子が渦巻きと成って、深い穴に吸い込まれて行く時の音が、龍の鳴き声なのである。
だから、其の龍の鳴き声が、此の宇宙を創造しているとも言えるのである。
其れを、人間が目にする為に、描かれた絵が「時空・トキ」の球を、手に鷲掴みして居る龍神の姿なのである。
だから、其れを、簡単に言葉にすれば、時間を司る龍王が、此の宇宙を手に抱えて、旅をしていると言う事に成るのだ。
だからこそ、龍と水の存在は、切っても切れない間柄なのである。
今朝、私が、其の理を認識したのは、屋久島の真東の地である。
中国の、四方神の、東の神は水であり、青龍であり、智慧を司る働きである。
今朝、目覚めたホテルの温泉水は、其の地下から、直接汲み上げているものである。
其の、水の掘削の時、水の霊の祟りも発生している。
其れは、現代人が余りにも、宇宙の原理原則に無頓着であるからなのであろう。
しかし、其の祟りも、私がこうして認識した事で、消滅したのかも知れない。
私達人類の本当の役割は、宇宙の創造神の存在を、認識する事である。
我々の存在は、宇宙の意識が、自分自身を認識する為に、現象化している物である。
其の人間が、其の役割を忘れて、自己の欲望ばかりに暴走すれば、人間に与えられた役割は、果たされない事に成り、人間の存在は宇宙意識にとって、不必要な物と成ってしまうのだ。
龍神が、苦しい想いをしながら、水素原子の粒子を吸い込み、光エネルギーに転換して、此の宇宙の存在・トキを生産しているのに、其の働きに感謝する人間が一人も居なく成れば、龍神はやる気を失って、力尽きるのではないだろうか。
其の、龍神の想いを一身に受けて、動いて来たのが、私の24年間の月日である。
其の結末として、今回、阿蘇の日宮幣立神宮で「九代龍王水神」の幟を掲げた事は、大きな意味が有ったのではないだろうか。
是で、宇宙のバランスが少しでは調和する事に成れば、私も、肩の荷が軽く成ると言うものである。
平成19年3月16日
礒邉自適
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