2006/10/10
スピードの違い
18・10・10
今朝のメッセージの映像は、トップを進む者と、末端に居る者の格差を、どう埋めて行くかが、テーマとなっていた。
先を進む者は、段々と勢いが着いて、ドンドン先へ行ってしまう。
処が、とり残されている末端の者は、何も分からず、其の侭の場所に止まっている。
其れで、何が起きるかと言うと、末端の処で、エネルギーが水漏れして、全体に影響を与え、先端を行く者達も、最後には其の影響を受けて、スピードが落ちてしまう事である。
其れを避ける為には、末端の処を、何とかして、底上げしなければならない。
其れが、政治の本来の役目であろう。
頭脳優秀な者は、思考だけで、幾等でも先に進む事が出来る。
しかし、現場は物事が伴成っているので、簡単には先へ進めない。
其の、現場に居る者達を、どう先へ進めるかが、今後の課題となるのであろう。
今後の私の役割は、其の現場の底上げにあるとの事だろうか。
其れは、正しく政治家の仕事である。其の事を、精神的にやろうとすれば、宗教に成ってしまい、おかしな事に成ってしまう。
其れを、正しく行うには、教育的な要素で行わなければならない。
其れは、学校が無い時代には、村や部族単位で行われていた、慣習や風俗の世界だったのである。
其の世界は、先祖代々から伝わって来て、自分から、また子孫に伝えられて行くものである。
其の事を考えれば、学校教育や政治の在り様も、社会風習が一番大事である事が見えてくる。
子供の時より、其の風習や風俗・習慣に馴染んでいれば、特に、教育として無理やり押し付ける事もなく、自然に身体で覚えて行くのである。
日本には、日本の慣わしが有り、外国には外国の其々の慣わしが有る。
細かく言えば、日本には沖縄から北海道まで、季節の違いが有るので、国内でも慣習や風俗の違いがある。
其の、土地柄や風土に合わせて、生活習慣を築いて行く事が、伝統文化である。
人間が、人間として生きて行くには、其の事が一番大事であるのだ。
其れは、カルガモやチンパンジー等が、親の仕種を真似て、大人に成って行くのと共通している、命のシステムの基本部分なのである。
其の土台が揺るげば、アイデンティティが壊され、自己管理が出来なくなるのである。其れが、文化の意味なのである。
中国には「竹林の七賢人」の世界が有り、トップを進む人達のイメージが確立されている。
日本には、「大国主命」と智慧の神である「少彦名神」の、国造り物語が有る。
其れは、今では失われているとしても、嘗って存在した世界だから、再構築する事は可能なはずである。
今朝の映像は、先を進む者達と、とり残された人達の間を、私の意識は行ったり来たりしていた。
其れは、神々が、両方の世界のバランスを、採ろうとしているからだろう。
私は、いま出雲の地に居る。
今朝の映像は、国造りの原点と成っている、出雲の古代の神々が作用して来ての、現象なのではないだろうか。
先に進み過ぎる者達には、ブレーキが必要であり、後に取り残されている者達には、智慧を与えて、歩き出す事を学ばさなければ成らないのだ。
其れを、私に行えとの事だろうか。
今朝の処は、良く判らないので、取り敢えずは、文章にだけでも、残して措かなければならないだろう。
平成18年10月10日
礒邉自適
2006/10/10
是からの道
18・10・10
是から、人類が進むべき道は、如何に、地球の自然環境とマッチして行くかにある。其の理・コトを忘れて、人類の未来は無い。
何故かと言えば、人類は、此の地球環境の中で生まれて、進化して来た物であるからだ。
だから、環境が破壊され、バランスを失えば、滅び去るしか、他に道は無いのである。
特に、考えなければ成らないのは、自然破壊をしながら、神に祈っても、其れは人間の身勝手であって、神が喜ぶ世界ではないのである。
地球環境は、人間の為に有るのではなく、神・宇宙意識が進化する為の、現われなのであるから、人間のエゴが蔓延れば、神にとっては災いなのである。
其処のところを、良く考えて、今後の行動計画を、立てて行かなければならないのである。
其の為には、人間の都合だけを考えるのではなく、人間を含む全生命のバランスと調和を、図る必要がある。
其れも、早急に取り組む必要が有り、短期的な場当たり対策ではなく、長期的なビジョンが必要である。
しかし、其の長期的なビジョンは、未だ製作されてはおらず、現実的な動きとは成っていない。
希望が有るのは、世界各地で、地球環境復活の為に、様々な取り組みが行われている事である。
其れ等の動きを、どうしたら、全体的な物として定着させ、拡げる事が出来るかを、皆で、検討しなければならない時期を迎えているのである。
其れに付いて、問題なのは、経済発展一本槍の現代社会の活動は、まだまだ自然破壊に邁進しており、其の矛先を、納める気配が無い事である。
此の侭の状態で進めば、近い内に、自然からのしっぺ返しが有る事は、間違いないだろう。
そう成ってからでは、人間社会はパニックに陥り、建て直しが難しく成ってくる。
其れを避ける為には、出来るだけ早く、人材の繋がりを図り、具体的な対策を採る必要がある。
其の為には、早く、中心的な働きをする場を、立ち上げなければならない。
其の作業を、何処の誰が、何時始めるのであろうか。
其れが、いま一番の課題である。
平成18年10月10月
礒邉自適
2006/10/9
自然との共生
18・10・9
今朝のメッセージの映像には、人間が削り取った山の修復を、どうするかがテーマとして映し出されて来た。
山は、昔から神の住まいであり、敬う事の対象だったのである。
それが現代では、何の恐れも無く削り取ったり、穴を開けたりしている。
其れは、地球に意思が有るとすれば、痛みを伴っている事だろう。
何故、私に其の様なイメージが映されて来るのか。
其の要因は、出雲には「須佐之男尊・すさのおのみこと」と、須佐之男尊の次男「五十猛命・いそたけるのみこと」や、娘二人「大屋津姫命・おおやつひめ」「都麻津姫命・つまつひめ」が全国に公孫樹などの樹木を植林して、環境保全に勤めた事の情報が、自然環境の中に記憶されているからではないだろうか。
私が、出雲の地に縁が出来たのも、やはり須佐之男尊と五十猛神の霊魂の為せる業・わざであった。
私が、京都の大徳寺の近くに住んでいた1996年8月23日には、安部忠宏氏の住む雲南市下佐世の「下佐世神社」に生えている須佐之男尊が植えた木が霊夢に現れ、9月11日には安部忠宏氏が生まれた横田町の五十猛神が祭神の「伊我多氣神社」の境内に生えている御神木が霊夢に現れた。
其の二本の御神木の事は、見た事も、聞いた事も無い神社の御神木で、其の年の11月に安部忠宏氏に出雲を案内されている時に、実在する事が初めて判った物である。
何故、其の様な現象が起きたのか。
其の出来事こそ、霊魂が不滅である証拠と成るものである。
だから、樹木に神霊が宿ると考えられ、神籬・ひもろぎとして、神社に樹木が植えられ杜・もりが造られたのである。
日本の天皇陛下が、何故自分の手で植林をするのか。
其れは、2700年にも亘り、須佐之男尊と五十猛命の行為が、伝え続けられているからである。
昨日は、午後タタラに使う砂鉄が採取されていた、かんな流しの地を訪れた。だから、其の昔の映像が、映されて来たのかも知れない。
何れにしても、是から、人間が未来社会を構築して行く為には、須佐之男尊と五十猛命の霊魂の存在を、無視する事は出来ないであろう。
11日には、和歌山の五十猛命の終焉の地と伝えられている「伊太祁曽神社」に参詣して、宮司さんと話す予定である。
其の前触れとしての、今朝のメッセージではないのだろうか。
此の処のメッセージから考えられる事は、人間が、新たな心構えで生きて行けば、神々は、其れを支援する方向が見えて来ている。
其の流れに、どれだけの人々が組みするかは分からないが、人類の未来に、幾ばくかの希望の光が燈っていることは、間違い無いだろう。
私も、其の灯りを心の糧として、今後も進んで行かなければならないのだ。
平成18年10月9日
礒邉自適
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