2006/9/18
インストラクター
18・9・18
今日は台風一過で、朝から秋空で、空気も涼しく気持ちが良い。
何時の間にか、ツクツクボウシの声も聴こえなくなり、事務所の周囲には、昨日の風に煽られた木々の枝の上に、紫色の葛の花や、カラス瓜の白い花が咲いている。
気付かない間に、季節は廻り秋に成ってしまっている。
おまけに、本日は、私の好きな日付で「(9+9)9(9+9)=9×5=45」の数の日である。
平家が、源氏に負けて「安徳天皇」は失脚したが、其の時の天皇の家紋は、中心から、三方に菊の花が横向きに開いており、其の菊一輪の花びらの数が9で、三方合わすと「3×9=27」の数になっていたのである。
現在の天皇家の家紋は、比叡山の開祖「伝教大師最澄」の家の家紋で、後醍醐天皇の息子が、足利尊氏と戦う時に、御旗に借りたまま、変換していない物である。
其のマークは「十六菊花紋」と呼ばれているが、シュメール文化の太陽マークだから、本来の菊花紋ではないのである。
本来の日本の王家の紋は、3×9の27の数霊の家紋だったのである。
其の家紋は、今でも生き延びた一族に、伝えられて残されている。
しかし、そんな事も、今に成れば、殆んど関係が無い。
何故なら、2666年遡って、新しい御代が構築されようとしているからである。
今朝の映像は、私の所に、団塊の世代程の男性が四〜五名合宿に来ており、学びが終り、帰る場面だった。
私は、部屋の中に居たのだが、玄関の方で、私を呼ぶ声がするので、玄関に出て行くと、全員帰りの身支度を済ませて、出発する処である。
そして、私に「お金を払うので 幾らですか」と云うので、私が戸惑っていると、皆で値段を決め、割り勘で払う事に成り、皆でお金を出し始めた。
処が、其れはお金には違いないのだが、現在使用されている紙幣ではなく、何かの伝票の様な物で、国が発行している物ではないのである。
其れは、現在実験的に使われている地域通貨の様な物で、其れが既に、世界共通の貨幣として流通しているらしいのだ。
彼らは、世界中を旅している人達のようである。
私は、気持ち良く、其れを受け取って皆を送り出した。
そして暫らくすると、人の気配がするので庭の方を見ると、やはり50代の女性が五名泊り込みの支度をして、私の所に訪れる場面だった。
どうやら、私は、是から、子供の相手をするのではなく、子育てが終わった中年の人達の、人生の締め括りの相手をさせられるようである。
其の映像から、今朝の題は「インストラクター」とした。
考えて見れば、私が、最初に作った名刺は「ライフ・スタイル・コンサルタント」「礒邉自適」と言うものである。
私は、何もする心算が無いので、始めの頃は、名刺も持っていなかった。
処が、皆が「他人に 自適さんのことを説明するのに 肩書きも無いし 仕事も持っていないので 自適さんとはどんな人ですかと 尋ねられても 説明の仕様が無いので 何か肩書きを作ってくれませんか」と云うので、仕方なく作った名刺が「ライフ・スタイル・コンサルタント」だったのである。
私の存在は、今では、アニミズムのシャーマン的に捉えられているのだろうが、私の最初の気持ちと云うか、考えは、人々の生活風習の建て直しに有ったのである。
何故なら、宗教や価値観も、其の生活風習の極一部だからである。
其れが、何時の間にか、生活習慣の指導から、霊界通信者みたいなものに成ってしまっている。
しかし、其の役割もようやく終りを向え、始めの頃の「ライフ・スタイル・コンサルタント」の働きに、返るのではないだろうか。
其れも、私が以前の様に、全国を旅するのではなく、世界中から、私の所に、短期的に五名以内で遣って来るのである。
日本には、懐石料理の世界が有るが、器は五客分で一組に成っている。
其れは、日本料理の神髄は、五人分を作るのが、精一杯だからであろう。
現在、ホテルでパーテイに出る料理の様な物は、朝から準備出来る標準的な物で、誰にでも当たり障りの無い食物と、味付けである。
其れは、日本の茶道から始まった懐石料理とは、根本的な処から違うのである。
私の考えている料理の世界は、ホテルのパーテイ料理や、旅館の宴会料理の世界ではない。
私の料理の世界は、魂しいを養うべきモノであるから、自然と人間を、直接結び付けるものである。
其れを、別の言葉で言えば「身土不二」であり、席を共にする者は「一期一会」の間柄と成るものである。
其の世界こそ、いま世界中の人々が、日本に求めている次元なのである。
もう、スピルバーグやジョージ・ルーカスの映画の世界は、終わったのである。次に流行するのは、日本の風土の中で鍛え上げられて来た文化なのだ。
其れこそが、彼らユダヤの民が求めている、「石屋・メイスン・石上(いそのかみ)・物部」の世界なのである。
新しい未来社会とは、エントロピーの少ない社会である。
其れは、アメリカン‐ドリームとは、反対の処に位置している。
アメリカも「9・11事件」で、多くの人達が、現代社会の在り様に疑問を持ち始め、日本文化の禅を始める人や、自然の中にツリーハウスを造り、暮らし始める人が増えている。
其れは、私が、自分でも一番好んでいるライフ・スタイルである。
しかし、其れだけでは、何れまた、退屈が遣って来る。
其の時こそ、「自分が 何故存在するのか」との疑問が生じ、本当の自分探しの旅が始まるのである。
其の時こそ、本来の私の役割が果たされるのだ。
イエスキリストの言葉に、「一緒に食事をしなさい」と有るのは、正に「一期一会」の世界である。
そして、其れは、日本にも「同じ釜の飯を食う」の諺として残っている。
今朝の映像は、正に、私と同じ釜の飯を食う人が、次々に遣って来ると言う事であろう。
私は、是までの旅の中で、其れらしい事を遣りながら、修行を積んで来た。
だから、一応の器も揃えて有るし、包丁も各種が箱一杯に成っている。
其れは、場所と建物さえ有れば、明日からでも出来る事である。
其の場所が、屋久島なのかどうかは判らないが、自然の中に、其れに相応しい建物が有れば、簡単に始められる事である。
其の世界は、神社や寺院、其れに教会も必要ない世界である。
其の世界こそが、人間にとって基本的なもので、永遠不変のものなのである。
私の行く先は、手にする物が、杖か、包丁か、カメラ+パソコンなのか、未だハッキリしない。
取り敢えず、今日の役割は、是くらいで果たしているのではないだろうか。
平成18年9月18日
礒邉自適
2006/9/9
自分の中に住む白蛇
18・9・9
本日9月9日は「重陽の節句」である。
其れに、「ククリの日」で「白山権現菊理姫」にも関係が有る。
「ククリ」とは、神霊界と人間界が「結び合う・括り合う」との意味であろう。
昨日から、私の心身が変調を起して来て、具合が悪いと云うまでには至らないが、何だが落ち着かない。
其れは、大本教の出口王仁三郎の謂う、「9月8日の12の秘密」が、表世界に現われ始めたからであろうか。
私の神事の始まりは、出口王仁三郎に下駄を履かされた事が切掛けだが、其れより前に、霊夢の中で、「白龍」が私の身体にトグロを巻いて来て、私の左手の掌の上に、丸い地球を乗せ、管理する様に云い、私の頭を切り離して地球と重ねてしまい、私の胴体の上には、龍神が自分の頭を据えてしまったのである。
其れは、身体は自分の物だが、其の胴体には「白龍」が巻き付いており、頭は龍の頭と取替えられ、自分の頭は、地球として、自分の左手の掌上に乗っていると言う、説明し難い有様である。
其れは、不思議な感覚で、自分の頭が地球で、身体とは分離されており、自分の意識は、屋久島の岩山を通してでなければ、肉体に還れないのである。
私は、自分の意識に辿り着く為には、宇宙から地球に帰り、屋久島の花崗岩の岩を経由しなければ、手足の付いている肉体には、帰れないのである。
其れは、自分の意識が自分ではなく、何か得体の知れないモノと、掏り替っている事に成る。
今朝、明確に成って来たのは、其の得体の知れないモノとは「ククルカーン」なのである。
ククルカーンとは、アステカの神で、八段積んだ石のピラミットの階段から、地上に降りて来る、水を齎す大蛇である。
其の、八段の階段の段差に出来る隙間の三角部分が、蛇のトグロを巻く七つの空間なのである。
其れは、八段の又に住む「やまたのおろち・八又大蛇」なのである。
私の身体に巻き付いて来たのは、其の「ククルカーン・括る神様(くくるかんさあー)」だったのである。
私は、1985年3月5日に、初めての全国の旅の途中で、島根県の出雲大社に参詣した。
其の時、導かれる様にして、「大国主命」を祀る大社と、大きな拝殿の間に有る川筋の道を、山の方に向かって歩いて行った。
1kmくらい坂道を登って行くと、其処にあまり大きくない社が一つ存在する。
私は、其の社にお参りし、大社の参道の近くにある大島屋旅館に宿泊した。
すると、夜中に、其の山の社から、女のコケシみたいな物がピョッコン・ピョッコン・ピョッコンと下りて来て、宿に寝て居る私の布団まで遣って来た。
すると、其れに対応する様に、私の身体から直径30センチくらいで、長さ2mくらいの白い蛇の様な物が抜け出し、其のコケシに導かれ、大社の方に向かって進み始めた。
私の意識は、其の白い大蛇と一体に成って、空中を移動して行った。
其の、コケシと白い蛇の様な物は、大社の表側から社の壁を抜け、後ろに在る「須佐之男尊・すさのおのみこと」を祀る社に行き、更に、其の社も抜けて、後ろ側の岩板の土手に突き当った。
すると、其の途端、其の白い蛇の身体の様な物は、白い光りと成って爆発し、消え去ってしまったのである。
其の光りの現象の後、私の意識は又、宿の布団の中に在った。
其の映像を、今朝思えば、屋久島で私に入り込んだ白龍が、出雲大社の裏山に住む「コケシ神(シャクジ神?)」に導かれて、大社の裏山の磐座に還った事に成る。
出雲大社の裏山は、「弥山」と呼ばれて居るが、地元では、昔から蛇山と呼んでいるらしい。
其れは、奈良県の三輪神社の三輪山(三室山)と、同じ言い伝えを含んでいるものである。
どうやら、出雲も三輪も白山も、同じオロチが関係している様である。
「大穴持御子神社(三歳社)」http://wave.ap.teacup.com/894019/2137.html
其のオロチを信仰する、古代の「国津神・祇(くにつかみ)」から「櫛稲田姫」を奪って妻にしたのが、渡来系の「素戔鳴尊・櫛御気命」なのであろう。
私の体に、トグロを巻いて来た龍神は、七回トグロを巻いて、頭を其の上に出している、祖母山の水神と同じモノだったのであろう。
今朝のメッセージの映像は、歌舞伎役者の大物が出て来て、様々な顔をしたり、身体を動かしたりして、色々な動作を繰り返した。
其の役者の四方に、弟子らしき男性が現われると、其の舞台は水に覆われ、海中の舞台の様に成った。
其の水の中で、五名が歌舞伎を演じ始めた。
其の様子は、無重力の中で手足をバタつかせている様な感じである。
其の時、私の意識は、其の様子を見ながら、エラブ(海蛇)の意識に成って居て、水中を揺ら揺ら漂いながら、其の様子を眺めて居た。
そして、「大国主命」の名と、「瀬織津姫」の名が気に成っていた。
其れは、先日現われた般若男が「大国主命」で、お婆さんが「瀬織津姫」でコケシ神の様に想われるものである。
今朝、出雲の件を思い出したのは、日本の歌舞伎の始まりは、出雲のお国さんの河原芝居が基に成っているからである。
出雲の「お国さん」を動かした本体こそ、弥山のオロチだったのかも知れない。
今朝、私が感じた事は、昨日「臭」がテーマで鼻の働きだったが、今朝は五感「視・聴・嗅・味・触」の内、物に触れる「触」の世界が、現われて来た様である。
蛇は手足が無いので、臭いを嗅ぐ鼻の感覚の次は、身体が触れる物の感覚なのかも知れない。
其れは、食欲を離れた処の性衝動の、触れ合いの出来事に、関係があるのではないだろうか。
赤子が、母親の子宮の羊水の中から外に出て来て、水の肌触りから、イキナリ接触するのは母親の肌である。
羊水に浮かんで居た、柔らかい肌が、イキナリ硬い母の手に、抱き上げられるのである。
其の時に、感じた不安感がトラウマと成り、死ぬまで、意識を左右していると考えても、何等不思議な事ではない。
人間が、野生の猿と同じく、スキンシップを欲しがるのも、そこら辺りに原因が有るのではないだろうか。
蛇が、雌雄絡み合っている姿を、神の姿と重ね合わせて、憧れる人間の意識は、多分この「触」の世界に、要因が隠れているのかも知れないのである。
そう言えば、歌舞伎役者が水中で行なっていた仕種は、産まれたばかりの赤子が、産湯のタライの中で、手足をバタつかせている様子にソックリであった。
現在・いま、人気の有る歌舞伎役者の仕種と、タライの中の赤子の仕種を重ねて見れば、生命の基本原理は、赤子も大人も、あまり差が無いのではないかと想えて来る。
歌舞伎役者は、顔に隈を描き、特別に表情を引き立てているが、其の顔の表情の世界こそ、「想」を現すことにある。
私は今朝、事務所の横に在る汲み取り便所が汚れていたので、水で洗いながら掃除をした。
ホースで便器を洗っていると、勢い有るホースの水で、下の糞尿が攪拌され、臭いが立ち上って来た。
其の時、顔をしかめた私の顔は、歌舞伎役者に負けない程、良い演技をしていたかも知れない。
其の無意識の表情こそ、物と、人と、蛇が、括り合った瞬間ではないだろうか。
私の内に、存在するオロチの意識こそ、全ての生命の意識の源なのだろう。
万物の霊長とは、人間自身ではなく、人間の意識の中に住んで居て、時には答えが見付からず、手足をばたつかせ、身もだえしている「蛇・エラブ(選ぶ)」の事なのではないのだろうか。
何故、釈迦牟尼仏の背後の護り神が、七又頭のオロチなのか、其の答えも見えて来たようである。
「白蛇・白龍」が分離して働く時、七色に別れるのである。
其の時、プリズムの役割を果たすのが、神社に備えられている鏡や、イシス神の頭上の鏡なのだ。
「鏡・かがみ」の名が、「カカチ・蛇」と「カガミソ・カガミッチョ・蜥蜴」の同語であり、正月に七段重ねられる「カガミ餅」は、其のまま「ククルカーン」のトグロを巻いた姿なのである。
其の「括る働き」が、「白山菊理姫」で、「瀬織津姫」の別の姿なのだろう。
平成18年9月9日
礒邉自適
1 | 《前のページ | 次のページ》