2006/3/31
福岡緑進協会
18・3・31
今朝、7時10分発の高速船トッピーで、西川氏と下関に向かって出発した。
鹿児島からは、新幹線に乗り博多で乗り換えなので、博多駅前に在る「財団法人 福岡緑進協会」の事務所に、白土宏氏を訪ねた。
事務所には、息子の「雅一君」も熊本から偶々出て来ており、頭山満翁の御曾孫に当られる柴田様(右側)も遊びに来て居られ、二時間程話しを聞いた。
白土宏代表(左側)は「日本の国土は美しい。」「美しい環境でなければ 英雄は生まれない。」と話されたので、今回は、其の言葉を頂く事にした。
柴田氏は、私のHPを覗いて居てくだされて、「自適さん もう少し易しく説かないと 民衆は付いて来られないのではないですか。」と、アドバイスを頂いた。
私が「西郷さんが 霊夢に現われ『始めようか。』と言って来たのですが。」と言うと、少し驚いていた。
平成18年3月31日
礒邉自適
2006/3/25
漸く此処まで来た
18・3・25
漸く、此処まで辿り着いた。
始めは、どう成るかと想ったが、何とか、一応の決着を見たようである。
最後に、辿り着いた処は、23年前と同じ処で、神も宗教も、何も無い世界である。
在るのは 唯一屋久島の自然と ボンヤリと眠気をさそう日々だけである。
此の22年間は、一体、何だったのだろうか。
是だけの、歳月を過ごして来て、残った物は、22年間の思い出と其のアルバム、其れにビデオテープとDVD、其れと、此処6年間書き留めた文章である。
其れ等が残っていなければ、私の意識は、何処かに彷徨い出してしまうかもしれない。
此の、何も無いトキの感覚が、人々を不安に駆り立て、宗教の世界へ落とし込めてしまうのだろう。
幸いにして、私の父や無庵師匠は、一切宗教と言う世界を持たなかった。
其の所為で、私も同じ様に、宗教の罠に嵌る事はなかった。
しかし、不思議なものである。
こうして、屋久島に住んでいるのに、パソコン一台で、社会・世界に繋がり、物事が進展し始めている。23年前の私と、今の私は、確かに、同じ自適と言う人間ではあるのだが、遣っている事も、云っている事も全く違ってしまっている。
是を、何と説明して良いものだろうか。
一体、人間とは何なのだろうか。
23年前の私と、現在の私を、果たして、同じ人間と呼んで良いのだろうか。
現在・いまの私を知っている者は、昔の私を想像出来ないし、昔の私を知って居る者は、私が今の様に成るなどとは、夢にも想えなかったであろう。
是が、人間革命と言えるのだろうか。
現在の私は、23年前とは、比較に成らない程の物事を知っているし、全国に多くの知り合いが出来た。
23年前の私の世界は、屋久島が中心で、何人かの知り合いが、各地に存在した。
しかし、現在の私の意識は、日本が中心であり、地球全体をどうするかを考えている。それは、私の意識の舞台が、拡大している事を意味している。
いまはこうして、静かな世界に居るが、27日からは中央出版の前田社長が来島するので、意識は又、現実の世界に嵌って行く。
其の間、僅かだけだが、自分自身の「意・こころ」が戻って来ている。
仕事が何も無い、家族も無い、此の何も・無し・無し・無しの世界は、不思議なものである。愛や慈悲が何も必要ないし、生への執着も無い。
其れに、死に行く先の心配も、後に残す残念も無い。生きていても良いし、今直ぐ死んでも、一向に構わない。
実に、無責任ではあるが、気楽な世界である。
誰かが「安心立命」とか言っているが、そんなものも無い。
唯 在るのは、老子や良寛和尚の謂う「愚人」の私である。
私もようやく、愚人の仲間入りが出来るのだろうか。
そうさせてくれるのかどうかは分からないが、今は、そんな気分の己が此処に存在している。
此の、何も無い時間が、人間にとって、一番大事なトキなのではないだろうか。
私は子供の頃から、よく「ボー 」としていて、授業時間にも、先生に怒られたりしていた。
しかし、そんな私を、両親が放って措いてくれたので、今の自分が在るのだろう。其の意味では、両親には、感謝しなければ成らない。
是からも、此の「ボー 」として居る自分を、大事にして行こうと想う。
平成18年3月25日
礒邉自適
2006/3/24
表裏一体
18・3・24
「シンメトリー・symmetry」と言って、人間の左右対称のバランスを説明する言葉が有って、其の理を否定する者はいない。
「心身」との言葉も有って、心が有る事も、皆が漠然としてではあるが、認めている。
だから、もうすこし意識の世界が、裏表に成っている事も、認めるべきである。其れを、社会的に認めて、公の場で研究しない限り、偽宗教家に騙される被害者は、あとを絶たない。
私は23年間、此の、目には見えない世界を、肯定して生きて来た。
其れは、お金や、花が、空間から生じたり消えたりしたりする事や、急に、別な世界が其処に現われたりする事を、体験したからである。
其の様な、不思議現象が起きなければ、私も、他の人々と同じく、神の存在を、今の様には信じなかったであろう。
私は、其の、神の世界を信じて20年以上を過ごして来た。
そして、其の間、念い続けて来た事が、ようやく人々と共通意識として、認識できる処まで事態が進んで来た。
だから、私は、此処らでもう一歩、前進しなければ成らないだろう。
と言うのは、「神・宇宙」の意思は、先へ進むことで、存在する事が出来るからである。
宇宙は、全てが、振動することで成り立ち、存在をしているのである。
と言うことは、先に進むこと自体が、存在を継続出来る理を、意味しているので、振動を止めるわけには行かないのである。
もし振動が止まれば、此の宇宙は瞬時に消滅し、永遠の闇に帰すだけだからである。
そして、其の宇宙の振動の存在を支えているのが、私達生命の存在自体なのである。
私達生命が存在しなければ、宇宙の存在も無意味なものとなり、存在自体の振動も停止するのである。
其の振動に、古代の人々が与えた名が「イザナミ(波)」である。
そして、其の継続性の名が「イザナギ(凪)」なのだ。
私達の存在は、其の「ナミ性」と「ナギ性」の二つの働きで存在し、生を継続させているのだ。
其の働きを認識できるのは、脳の仕組みが有るからである。
其の脳の在り様も、シンメトリーに成っている。
しかし脳は、左右対称に成っていて、其の働きは同じでも、左右が反作用を起こすことによって、一つの働きを完成さしているのだ。
其の働きを、例を挙げて説明するなら、人間の両手両足が有る。
手は、同じ仕組みで出来ているが、其れは、鏡に映る映像と同じく、スッカリ反対に出来ている。
足も同じだから、靴を左右反対に履くことは出来ない。
足は、反対向きに出来ているから、交互に出す事で、先に進む事が出来るし、手は物を掴んだり、子供を抱き上げたり出来るのである。
其れと同じ様に、脳の動きも出来ている。
簡単に言えば、左脳が出す電気信号で右脳が反応し、右脳が出す信号で左脳が反応して、情報を創出しているのだ。
其れは、自分の脳内だけではなく、男女間の脳でも行われている。
脳は、肉体全体の情報を管理するセンターである。
だから、女性の体の脳は雌用に出来ているし、男性の体の脳は雄用に出来ている。
其れが、両方相俟って、進化の道を歩いているのである。
男女の脳の違いが、二つで一つの働きを、醸し出しているのだ。
そして更に、此の世の人間と、霊界の人間の意識も、左右対称に成っている様である。
私に、何かを告げて来る、霊界より上の神の声は女性だが、田記さんに告げて来る神の声は男性である。
其れは、受身と働身の関係が、霊界と人間の間にも、次元を超えて存在する事を証明している。
其の世界を、もっと突き詰めて行けば、木の葉の表裏の関係にまで行き着く。其れは、太陽の方に向かい光りを受ける表側と、其の表側の支えに成り温度調整を図っている、毛が澤山生えた裏側の世界である。
其の、裏の存在がなければ、表も存在出来ないのである。
つまり、其れが表裏一体の世界で、片方だけの存在は、在りえないのである。
其の、木の葉の表裏一体の関係世界が、我われ地球の生き物と、宇宙の関係にも言える。
更に、宇宙の物質存在と、暗い宇宙空間の関係性にも、同じ関係見出すことが出来る。
木の葉の表裏は、自分の為に反対側を必要としているのではなく、相手側の存在を支える為に、自主的に存在を始めているのである。
おそらく、雌花と雄花の関係も、同じ様な関係から、発生したものと考えられる。
動物の存在システムも、元の処は植物と同じだから、感情を外してしまえば、同じ次元で動いていると考えられる。
其れが、人間の無意識にも存在して、我々の行動を支えているのだろう。
其れは、死後の世界からも、同じシステムで、働き掛けて来るのだ。
女性は、霊界からの働きを受け入れ、男性は、霊界に良き働き掛けを起こそうとする。
其のシステムが、上手く調和した時に、此の世界は安定するのである。
此処のところ、其の原点の働きが、明確に認識されて来ており、私は、此の様な文章を書く事に成ってしまった。
上手く説明は出来ないが、是が、宇宙の陰陽のシステムを理解する為の、参考と成れば幸せである。
其れに、此の文章は、久振りに、顕在意識だけで考えて書いた物だから、私自身の文章であると言える物である。
平成18年3月24日
礒邉自適
2006/3/18
かよみ・日読み
18・3・18
今朝のメッセージは、内容がハッキリ二つに別れていた。
一つは、私の是からの、社会的な活動に付いてである。
もう一つは、カレンダーに付いてである。
しかし、此の二つの事は、全くの無縁ではない。
何故なら、社会活動をするのには、カレンダーがなければ、日程を組めないからである。
今朝の映像は、初めに、私は養殖場の池の掃除を一人で行って居た。
そして、池の水を排出して掃除をして居ると、池の中の魚が酸欠で死んでしまった。其れは、新しい水を入れるのが、遅れたからである。
次は、儀式の会場の準備をして居る場面で、其れも、私が一人で儀式に使う道具等を作っていて、儀式の開始に間に合わないのである。
次に、コンサート会場に居るのだが、其れも準備が出来ていないので、開かれない場面だった。
これ等の事は、私には、何でも自分でしようとする癖が有り、他人に相談しないので、大きな事が出来ない理・ことを示して来ている。
其れは、今迄は、自分の体験を積む事が大事だったので、それで良かったのだ。しかし、是からは、全体を動かして行かなければ成らないので、私が、自分一人で頑張っても、どうにも成らない理・ことを知らせて来ている。
それで、「何も 上手く行かないなあ」と思って居ると、日程表みたいな物が映って来た。
其の日程表みたいな物には、間隔を空けて、二件の項目が書かれていた。
上の段には、1月15日の日付で、何かの文字が書かれていて、下の段には3月18日の日付で、何かが書かれている。
私が、其の日付で思い当るのは、1月15日は成人式で、3月18日は、私が23年前に無庵師匠に捜し出された日付である。
其れは両方とも、私の人生にとって、一番意味の有った日付なのである。
其れは、人間の人生にとって、一番大事なのは、精神的な節目と成る儀式が、必要不可欠である理・ことを、告げて来ている。
奇しくも、気付いて見れば、本日が3月18日で、私が無庵師匠に捜し出された日であり、私の人生が180度転換する事と成った日なのだ。
あれから既に、23年も経ってしまったのである。
私は其の時、未だ36歳であった。
考えて見れば、予想だにしなかった人生を、歩かされている自分がある。
何故、自分が、この様な人生を歩く事に成ったのか、其の意味は未だ、未確定な処を抱えている。
何故、その様に感じるかと言うと、今朝の映像でも分かる様に、私の無意識は、未だ、自分の遣るべき事を、何も遣っていない感じを、持っているからである。
今朝は、最後に「か」の音霊が遣って来た。
そして「カレンダー」との言葉が有った。
それで、「か」の音霊を探っていると「2日・ふつか」や、「20日・はつか」のカの音が浮かび、更に「ひむか」の言葉も浮かんで来た。
そして、朝、パソコンに向かい「カレンダー」を、題にしようかと意っていると、「かよみ」との言葉が出て来たので、題は「かよみ」とする事にした。
「かよみ」とは「日読み」で、現在では訛って「こよみ・暦」と成っている。
「日読み」とは、太陽の運行を計りながら「政・まつりごと」を司る役目を意味し、日付を管理する者の名ともされている。
それは、暦を管理する者は、天地の運行と、自分の行動を、合わしていなければ成らない理を意味している。
だから日読みの役割は、王や皇帝よりも、大事な役目だったのである。
古代では、其の「日読み」の人に、王も意見を訊たり、儀式の日程を決めて貰っていたのだ。
日本では、「日知り」に「聖」の字を当てて、「ヒジリ・日しり」と言うのである。
ヒジリ・聖者とは、日月の運行だけではなく、神意の働きも把握していなければ成らないので、「日知り」とは「霊知り」でもあるのだ。
だから、日本語の数は「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここの・たり」で、宇宙が誕生する順番を、意味している。
中国の、漢字の数の「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」は、家の材料の柱を集めて来て、家を造り、村を造り、木に日付を刻みこむ順番を表わしている。
これ等の事から解かる理・ことは、王などの権力者より、実際に「政・まつりごと」に影響力を持っていたのは「日読み」だったのである。
日本の天皇家にも「卜部・安部家・吉田家」等の儀式を受け持つ部族が存在し、「物部・もののべ」は其の一切を取り仕切っていた血筋である。
昨日「地球管理局」と「虹のキャラバン」と有り、ハヤブサが意識一杯に現れたので「トキを運ぶハヤブサ」との、三つのブログを開設した。
何が始まるのかと想っていたら、今朝は、水や命の管理と、イベント・儀式の開催と、カレンダーの事が伝えられて来た。
取り敢えずは、此の三つのブログで、今後の動きを、表記して行かなければ成らない。私のしなければ成らない事は、増えるばかりである。
本当に人使いの荒い連中であるコトよ・・・・・
何の為に、悠々自適の名前を持って遣って来て、杖を持たされたのか訳が判らない。
「ひむか」とは、「日・霊に向かう」との意味であろう。
何故、神・天は女性の「日見巫女・ひみこ」を用意しないで、男性の私に、全部を押し付けて来るのだろうか。
平成18年3月18日
礒邉自適
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