2006/2/23
うぐいすの初鳴き
18・2・23
昨日の朝 今年初めての鶯の声を聞いた。
そして、愈々春なのだと感じて 庭の寒椿の花の写真を何枚か撮った。
其の中の一枚を、横にしたり・縦にしたり・反転させたり・拡大したり・縮小したり・傾けたりしていると、絵が変わる度に、感情が安定したり、イライラしたりするのに気付いた。
それで私は ハッ と活け花の神髄に、触れた様な気がした。
皆様も、此の写真を取り込んで実験して見てください。
面白いですよ。
自分の感情の仕組みや、視覚神経の監察にも役に立つかも・・・
其れに花を視る事と、異性を観る事の、脳のシステムは同じ処に在る様です。何しろ、花は植物の生殖器なのですから。
昨日の文章の、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」や「竹下夢二」の魂しいは、現実でも、私の心身を使って、実験を試みて居た様である。
一体 誰の意識が、パソコンに向かっているのか、判らなくなって来る。
今朝も、鶯が鳴いて居た。
今日も 雨でNHKの撮影は中止である。
平成18年2月23日
礒邉自適
2006/2/6
生命の進化
18・2・6
今朝は、何のメッセージもなく、個人的な夢も見なかった。
漸く、私も、自分の意思で、行動出来るのかも知れない。
其れは、私個人の本当の出発である。
私は17歳で父を失い、五人兄弟の長男なので、父親の代わりに一家の大黒柱と成って働いた。
そして10年が経ち、弟妹も一人立したので、27歳で結婚して、子供も三人産まれた。
処が、結婚10年目で無庵師匠に捜し出され、37歳で家族と離別し、神の世界に入る事に成り、其れから22年が経過した。
今度の事は、10年間・47歳では終わらなかったのである。
しかし、神の世界に入って10年目の有る日、文字の世界に目覚め、其れから、言葉の世界が私の意識を捉えて、離さなく成ったのである。
其れから12年が経過して、漸く、言葉の世界を卒業出来るのかも知れない。
其れまでは、自分でも理解の無いまま、言葉や文字を使っていたのである。
本当の言葉の世界が、どう言うものなのか、親も、学校も、社会も教えてくれなかったのである。
理由が解からないまま、使用する言葉が、自分の魂しいを曇らせていたのだ。
仏陀である「釈迦牟尼佛」の訓えは、其処に要点が有ったのに、其れを、誰も理解していなかったのである。
言葉ほど、人間の意識を左右する物は、他に無いのである。
其れは、何故かと言えば、人間の大脳こそ、言葉を使用する事で、発達して来た物だからである。
人間は、最早、言葉を除いては、思考が出来なく成っているのである。
だから、反対に、言葉に拠る思考を止めない限り、大脳の活動を、停止する事は出来ないのである。
釈迦は、其れを理解するのに六年の歳月を要している。
私の場合は、師が優秀だったので、頭を空にするのには、1984年の3月5日から、6月4日までの三ヶ月間(91日)だけで済んだ。
其の1984年6月4日(旧暦5月5日)に、釈迦やイエスの様に、自宅前の安房川で禊ぎ祓いの為の、沐浴を行った。
そして、頭が空に成った瞬間に、宇宙の振動波と同調を起こし、それに拠って時間の枠組みが解け、過去の情報が雪崩れ込んで来たのである。
そして、20年前、私が17歳の秋に、49歳で死んだ父親が先頭に立ち、4311人の聖霊を連れて来て、私の思考を取り上げ、「神霊の思頼・みたまのふゆ」を実行してしまったのである。
其れが漸く、昨日の文章で、一応の決着を見た様である。
其れは、聖霊と呼ばれている過去世の人達が、自分の意識を、開放出来た事を意味している。
言葉は、人間の脳に情報として取り込まれた瞬間に、固定化され、意識として納まり、其の人間に制約を与えてしまうのである。
其の制約を時々外して、脳を絶えず自由にして於こうとするのが、日本の神事である禊ぎ祓いの方法なのである。
其れは、日本人が「イザ凪・イザ波」の名を考え出したトキから、物の名が脳に固定化を起こす理・ことを、知っていたからである。
其のカルマから逃れ様として、聖徳太子は、釈迦牟尼佛の教えの中に埋没してしまったのだ。
其れが永い間、日本の「惟神の道」を暗いものにして来たのである。
私は、幸いにして、父親も無庵師匠も、其のカルマの罠に掛かっていなかったから、自由を維持し続けられたのだ。
私は、其の自由な精神があったればこそ、4311人分もの思考に負ける事なく、是まで自分の意識を保つ事が出来たのだ。
何故、4311人もの聖霊が、此の日本に集まる事に成ったのか。
其れは、「一休宗純禅師」や「西郷南州翁」など、言葉や文字の奴隷に成らないで生きた人達が、日本には何人も存在して居たので、其の結縁を繋ぎ留める事が出来たのである。
其れは、自分の「魂魄・こんぱく」を維持し、後の代・世に傳え残す事なのである。
「魂・コン」とは、たましいの「言い・こと」で、肉体の血筋とは関係が無く、師弟関係や学問等で磨いた、智恵の「魂・ボール・球しい」である。
一方「魄・パク」とは血筋・親子関係で、肉体を維持する為の世界を意味し、遺伝子の存続を意味している。
だから、魄とは健康な身体の事で、良い情報の遺伝子を残す事にある。
普通に「神」と謂えば、親子関係からは発生せず、力が強い者の魂しいが遺伝して行く事なのである。
「神」の漢字は「示+申」の組み合わせで、字義は「祭壇を設け カミの情報を受け取る」との意味である。
其れは、先祖の霊でもあり、そうでない場合もある。
日本の天皇家は、先祖の霊(御祖神・みおやかみ)に重きを置き、佛教では釈迦牟尼佛からの魂しいの「繋がり・結縁(けちえん)」に重きを置くのである。
私の場合は、其のどちらでもない。
私は唯、自分を生きているだけなので、何かに拘っている分けではないのである。
私の父親は、私が「第二反抗期」の真最中に亡くなったし、無庵師匠が私を「救世主だ」と云っても、其れを信じた分けでもない。
私は、自分の遺伝子に忠実に生きているだけである。
神霊が、何かを云って来ても、彼等の願いは聞いて適えては遣るが、自分がそうする分けでもないし、他人が何か云っても、良いことなら真似をするが、其の人の遣る通りにする分けでもない。
詰まり、私は、自分自身を生きて居るのである。
其の生き方が、全ての霊魂を浄化してしまうのである。
私は、伊勢神宮の神の頼み事は聞いてやっているが、此方から、伊勢の神様に何かを頼んだ事などは無い。私は、自分で出来る事しか遣らない。
私が、例え、他人に頼む事が何か有っても、其れは自分の事の為ではなく、誰かの為である。
私は、他人に頭を下げなければ成らない事は、最初から始めはしない。
其れは、家族が居ないし、生活の為に、仕事にも就く事もしてはいないからである。
こうして、毎日パソコンに向かって文章を書き込んではいるが、出来なく成ったら止めるだけである。
弟子が一人も居無いのだから、何時止めても、誰にも迷惑は掛からないのである。
何かの制約が有れば、こんな事も書けないし、云えないのである。
今朝、自分の頭で考えた理・ことは、生命の進化は、こうして起きたと言う理・ことである。
何の制約も受けない自由な「いのち」が、環境の変化で、自分の遺伝情報を違う方へ、「インプット」してしまうのである。
正常な身体の中に、突然癌細胞が発生するのも、遺伝子には自由が与えられているからなのだ。
其れが、昨日の「無秩序の中の製合性」なのである。
現在、問題に成っている鳥ウイルスも、ウイルスが、自分を取り巻く環境が変われば、自分の情報を組み替えて、宿主を換えて行く事の、証明の一つである。
自然の中の生物は、環境の中でどう生きたら良いか、周囲の状況を判断しながら、自分を変化させて生き伸びているのだ。
現在の、我われの肉体も、同じ様にして、是まで生き延びて来たのである。
其処には、神霊等は存在しないで、自分の「意・おもい」だけしかない。
其の純粋な意いだけが、自分の進化を図っているのである。
釈迦牟尼佛の教えも「頼れるのは 此の己の身体だけ 一切の他のモノに依存しては成らない。」である。
仏像を飾ったり、読経をしたりして居るのは、釈迦牟尼佛の訓えを護っていない証拠でもある。
お釈迦さん自身は、頭髪も長いまま丸めて、頭の上で結んでいるので、坊主頭ではない。
中国の老子も、「賢そうにして居る御仁は 悟りが無い。 道・タオから 外れている。」と謂っている。
老子は、更に「道から外れたら 神霊も力を発揮出来ない。」とも謂っている。其の、老子の謂う「道・タオ」こそ「いのち・遺伝子」の流れの事である。
私の身体に依り憑いた霊魂も、皆 其の理・コトを悟ったのだろうか。
要は、全ての原因は遺伝子なのである。
遺伝子の、配列システムの存在こそが総てであり、其の遺伝子の情報が「神・縁」と呼ばれるモノなのである。
其の遺伝子、其の物を伝えるのが「性・セックス」であり、情報を傳え残すのが「学習・まなび」である。
人類は、漸くパソコンの開発に拠って、記憶作業から開放され、明日に向かって旅立てるのである。
其れは、人類の新しい進化の第一歩である。
旧約聖書には「神は 自分に似せて 粘土でアダムを造った。」と有る。
粘土とは、珪素とアルミの化合物で赤茶色である。
誰が、其れに最初気付いたのかは知らないが、生命の誕生を、的確に把握している。
其れに気付けたのは、未だ其の御仁が、文字や言葉に、大脳が汚染されていなかったからだろう。
今では、科学の世界でもミネラルを含む粘土の海で、雷の電気の刺激因り、生命が誕生した理が常識と成って来ている。
生命は皆、共通の遺伝情報を有しており、同じ電磁波のチャンネルで結ばれているのである。
先日の「愈・まさる」とは、余計なモノを取り除いて遣る人の意味だった。
現在の社会から、不必要な「情報・モノ(本・映像)」を取り除けば、本当に必要な物は、一割くらいしか残らないのではないだろうか。
そう成れば、子供達の学問も楽に成るし、若者の迷いも無く成るだろう。
外向きに、情報整理をする事が少なく成れば、内向きに思考が働き掛け易く成る。そうなれば、自分の記憶の糸にも、触れ易く成るのである。
其処に、目覚めと、進化の扉が隠されているのだ。
もう、神社や、寺院や教会に、お願いに行くのは時代遅れである。
私は、全国の神社の霊魂の願いを聞いて来た。
もう、其の神社の霊魂も、新しい世界の住人、いや住霊と成っている筈である。
そうでなければ、私が、自由に成る分けがないからである。
平成18年2月6日
礒邉自適
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