2006/1/31
牝牛の鳴き声
18・1・31
今朝は、朝から、近所に飼われている牛舎の牝牛が、盛んに鳴いている声が聞こえていた。
其れは、牝牛が発情して、雄牛を呼んでいる声なのである。
だが、幾ら鳴いても、雄牛は町営の牧場の牛舎の中に、人口受精用の種牛が一頭だけ居るだけだから遣っては来ない。
それでも、生理上、雄牛を呼ぶ為に鳴かなければ成らないのだ。
現在は、人間に飼われている牛は、全部人口受精なので、本当に雄と交尾をして子供を産んでいる牝牛は居無い。
もう随分と、その遣り方で世代交代をしているので、其の内に交尾をするという遺伝子が、消えてしまうのではないかと、少し心配にも成って来る。
人間とは、自分の都合で、可哀想な事をするものである。
そんな事を想って居て、次の様なことを考えてしまった。
其れは、雄の存在は、雌が自分の内側で周期的に起きて来る、命の炎のエネルギーに煩わしく成り、其れを半減させる為に、自分の「いのち・DNA」の一部を切り離し、雄を造り出して、分離したのではないかと言う理である。
そうすれば、自分がバタバタしなくても、必要な時にだけ、鳴き声や、匂いの合図を送れば良いし、能力アップを図るには、暫らく雄同士を戦わせれば、強いいのち・DNAの方が勝ち残る事に成る。
他にも、餌は運んで来るし、巣造りは遣ってくれるし、中には子育てまで代ってくれる物までいる。
総てが、雌に取って都合の良い事ばかりである。
是は、雄が考え出した事ではなく、間違い無く、雌の方が考え出したシステムである。
現在は、其の牛や豚の雄の遣る役割を、人間が、全部代って遣っているのである。
人間の雄は、自分が人間の雄としての役割を果たしながら、家畜の雄の役割まで担ってしまっているのだ。
現在・いま、アメリカの牛肉が輸入出来ないのは、広い牧場に、雌牛と雄牛を一緒に放牧しているので、子牛の両親がどれで、誕生日がいつなのかも把握出来ないので、戸籍が作成できない事にも、原因が有るのだろう。
其の点、日本は、総ての牛が種付け日もハッキリしているし、誕生日も血統書も明確に成っている。
人間にとってみれば、都合の良い日本のシステムも、牛側にとってみれば、最悪の状態なのかも知れない。
其の点、大陸の牧場の牝牛は、発情するのを雄牛が傍で待っているので、雄を呼ぶ為に鳴く必要も無いだろう。
今朝は、アメリカやオーストラリアの人達では、考えそうも無いコトを考えてしまった。
それは、私が農家育ちで、自分でも、牛を数十頭飼っていたので、そんな理屈を考えてしまうのである。
其れが、私の意識の特徴であると云えば、謂えるのかもしれない。
平成18年1月31日
礒邉自適
2006/1/27
此の 世界は 何のか
18・1・27
私は若い時から、大きな柱の立っている神殿の管理をしている夢を、時々見て居た。其の様な神殿は、屋久島には無いし、他で、私が見た事も無い建物である。
どうして、そんな夢を見るのだろうかと、長年不思議に思って居た。
しかし此処のところに来て、ようやく其の原因が解かって来た。
其れは、近頃云われている「人間には前世が有り、其の魂しいが生まれ変わって来る」と言う説が有るので、其の事が現実として、私の身に、現われて来ている様な気がして来たからである。
私は22年前、無庵師匠の指導の下、生活を一変させた。
そして、まるで異次元の様な世界を生きて来た。
其の原因の始まりは、天皇家の「大嘗祭」の儀式で起きる事が、私に起きて、杖を持たされた事である。
其れから、不思議な事が、次々に起こり出し、今日に至っている。
そして近頃、「虎」の意識が、自分の意識に住んでいることも実感されるし、自分の身体には、深い所に「蛇」の記憶が在る事も、理解出来て来た。
其れは、何故、約4200年前のエジプトの「王・ファラオ」の力と威厳の象徴が、スフィンクスなのかも納得出来て来たし、3800年前頃、太陽神シャマシュからハンムラピが、ハンムラピ法典を授かる場面が、何故、玄武岩に彫刻されているのかも、納得がいくようにも成って来た。
古代では、私に起きた様々な事は当たり前の事であり、現在の様な貨幣経済が起きる迄は、神々の現われ方が、政治の中心だったのである。
現在の国家の政治は、予算の取り扱いが、一番の懸案事項であるが、4000〜5000年前までは、神の代理であるファラオの言葉が、一番大事であつたのだ。
ハンムラピが太陽神から受け取るモノは、文字ではなく一本の杖である。
其の杖を受け取る時、言葉は、目に見えない世界で、直接脳にダビングされて来る。
杖は、其の象徴的な物にしか過ぎないのだ。
太陽神の、言葉を受け取ると言う事は、其の背景に、スフィンクスの力が付与されている事にもなるのである。
5000年前に、物や形に現された意味を探ると、私に起きた、此の22年間の出来事は、全くの現実世界であった事に気付く。
其れは、現代社会では、映画か劇画の世界であって、現実の世界ではない。
私だけが、誰にも理解されない侭、其れを現実として、取り組んで来たである。
其の世界が、存在する事を知って居て、答えを待って居た無庵師匠は、もう此の世の人ではない。
私が、確かに体験し、現実として捉えた世界は、其の世界を体験した者にしか、理解出来ないのである。
第18王朝・3600年前のツタンカーメンの黄金のマスクには、スフィンクスの装いに、額には聖蛇まで付いている。
其れは、2600年前のブツダの世界にも、通じるモノがある。
此の世界は、場所や時間を越えて繋がっているのである。
日本の神社の入り口に有る「高麗獅子」は、エジプトのスフィンクスと同じ物であり、ネパールやインドの寺院の入り口に置かれている獅子も同じ物である。其れは皆、犬ではなく猫科のライオンである。
私の、鷹や鳶から始まった意識の旅は、蛇や龍を経過して、スフィンクスに迄辿り着いたのである。
其れが、是からどう進展するのかは、私にも未だ分からない。
其れが判る人は、其の世界の存在に気付いて、己の生き様を演出する者だけである。
私の役割は、森の中で静かに、タイガーの様に身を伏せているだけである。
其れは、宇宙の玄の響きに、己の脳をトランス体として、差し出している姿である。
昼は、縞模様が見えても、夜の暗闇の中では、何処に移動したのか分からない。其れが、杖を持たされた者の生き方である。
ようやく無庵師匠が、私に告げた、私の本性が、自分自身で自覚される時が来たのだ。
還暦まで、後残りは明日1日だけである。
明日は、旧暦の大晦日である。
私の御用納めの日が漸く来たのだ。
満59歳の誕生日は、旧暦の元旦に設定されていたのだ。
平成18年1月27日
礒邉自適
2006/1/10
皇紀2666年
18・1・10
本日1月10日は、近江遷都を西暦677年に行った、近江神宮の祭神である「天智天皇」の命日である。
今年は、日本の暦では皇紀2666年である。
学者の中には、「神武天皇」は架空の人物で、日本の歴史は西暦300年くらいから始まったものだ。
皇紀2600年とは、「中国の干支に因って創り出した 嘘の世界だ。」との意見も有る。
其れに付いては、証拠が何も無いので、私は何も謂う気は無い。
しかし、一昨日8日から、私の身体と、意識の中に始まった事は、その中国の干支の真実性を示す現象・モノと成って来ている。
やはり、西洋のイエスキリストを紀元とするローマ暦より、日本の神武天皇を紀元とする暦が、神霊界では採用されている様である。
昨日と、今朝のメッセージの内容は、私自身にも初めての事なので、映し出された映像を説明する為に、言葉に変換する事が、真に難しい。
其れは、私の知識の中に、古代の文献の情報が、インストールされていないからである。
其れに、無庵師匠が私にダビングしてくれたソフトの中にも、其れに類する事は無い様であるし、弘法大師空海が恵果和尚から受理したソフトにも、これ等の内容は無いのだろう。
聖徳太子が、夢殿で探って居た情報が、是だったのであろう。
今朝の映像の世界は、太陽の中心の意識が、私の意識の中核に、其の侭入り込んで、地球のあらゆる生き物を観ていた。
蟻よりも小さな虫が、引っくり返って、足や触角をバタバタ動かしている姿まで、アリアリと観察出来ているのである。
これほど、「天照・アマテラス」の意識が、一切を照らして、観ているとは想わなかった。
今朝の映像は、全部説明して行くのには、何ヶ月も掛かりそうである。
しかし其れでも、私が平気なのは、其れ等の総ての情報が、私の脳の回路を使って、三次元のパソコンの中に入力されているのが、解かっているからである。
平成18年1月8日は、昭和天皇の御霊が、私の心臓に飛び込んで来てから、丸17年が経過した日である。
其の日から、新しいスメラの道が開いたのだ。
皇紀2666年とは、666年のサイクルが四回転している事になる。
スメラの存在が、代替わりするのが2666年なのである。
其れは、インドの「釈迦牟尼佛」や中国の「老子」も、同じ時のサイクルの中で、立ち現われて来た宇宙の叡智の産物である理・ことになる。
前回、日本では紀元前666年に「神武天皇」・橿原宮が動かされ、後は西暦0年「垂仁天皇」纒向宮→ 西暦666年「天智天皇」近江宮→ 西暦1333年「後醍醐天皇」吉野宮→ そして今回、西暦2666年は、未だパソコンの中の宮である。
これ等の、過去の歴史から学ぶ事は、新しい世の中を創るとは、「基本の処に還る」との意味なのであると考えられる。
昭和天皇は、昭和64年1月7日の夜中に、私の心臓にいきなりドカンと飛び込んで来た。
そして、2月24日の大葬の日の未明、霊夢に現われ「我が身 既に遠く 良き代を 願い奉る。」と伝えて来た。其れから、18年目が始まっている。
日本の天皇は、本来は「天津日嗣・あまつひつぎ」の御霊を継承するモノである。其の「天皇・すめらみこと」の役割が、本来の働きを失えば、日本国の人民には未来は無い。
私は、特別な「三島由紀夫」のファンと言う訳でもないが、三島由紀夫の無念さが良く理解出来る。
「何故 天皇に詔(みことのり)をさせないのか」其れが、三島由紀夫の言い分である。
日本国の伝統では、「天皇・すめらのみこと」こそが「無我の境地」で、国民の事を想える立場にあるのだ。
其の天皇が、自分の想う事柄を、国民に伝えなければ、誰が其の代わりを務められるのか。
「あきめくら・(民・目を潰されためくらの意味)が多い国で、選挙で選ばれるには、其の国民のご機嫌を取らなければならない。
だから、今の選挙制度で選ばれた総理大臣では、スメラの働きは出来ないのだ。
今こそ、天皇の「詔・みことのり」を復活させなければならないのである。
平成18年1月10日
礒邉自適
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